第8話・囚われの兄

 セティウスは暗い地下牢の鎖に繋がれていた。


―――――


 彼は捕縛されていた自分の館から逃げ出すと、着ていた貴族の衣装をすぐに売り払い、町人のなりをして下町に逃げ込んでいた。友人を頼る事も考えたが、相手に迷惑がかかってしまうし、たくさんの顔が思い浮かんでも、その中の誰が『絶対に自分を裏切らない』のか判断できなかったのだ。

 アシル皇子の命令ひとつで、恐らく妹の無実は棺の中に葬られたまま、日の目を見ることはないだろう。ここは、そういう国なのだ。同情はしても、皆、自分の身が一番可愛い。今までは、父がサジウス将軍よりやや上に立っていたのでかろうじて守られてきたある程度の正義。だが、父が死んだ今、枷の外れた将軍のする事が如何に理に適っていなくとも、アシル皇子がそれを止めなければ、どんどんおかしな事が横行するだろう。そしてアシルは止めない……将軍がアシルの側に立って取り入り、自分が何でも引き受けるから、殿下は何も考えなくていいのだ、それが君主というものだ、とでも言えば、その言葉に甘えるだろう。将来の義理の弟として傍近くにいた彼にはそれが解る。アシルは父の前では素直に忠言を聞き、父が望む立派な皇子を演じていたが、それは皇后が父を信頼し、宰相の言葉はよく聞くように、と言っていたからそうしていたに過ぎない。中身は虚栄心ばかりの男……だが主君。いずれ父の跡を継ぎ、皇家を盛り立てて国を安定させるのが自分の持って生まれた役目。だから彼は今まで、皇太子の取り巻きの貴族の遊び仲間のなかでいつも主導権をとって、信頼を勝ち得るよう努めてきた。しかし、妹の死により、妹だけでなく皇家への忠誠も失った。


『セティウス、今更何を言いに来たのだ、と問うているだろう! セレスティーナは死に際におまえに会いたがっていたようだったぞ。お父さま、お兄さま、と震え声で微かに呟いていた』

『……!! ならば何故、もう少しの暇を下さらなかったのですか!』

『知ったことか。遅れたおまえが悪い』


 あんな人間とは思わなかった。父が絶望するのも当然だ。ああ、父上、死を選ぶ前に何故言ってくれなかったのか。共に宮廷での地位など投げ捨て、田舎の館に一緒に引き籠っても良かった。近隣の娘を娶り、孫の顔でも眺めながら余生を暮らすうちに、いつか無念も紛れたかも知れないのに。

 国のことなんかもうどうでもいい、と年若いセティウスは自暴自棄気味に思った。父は自分に己の果たしてきた役目を受け継がせたかったのだろうが、最初の瞬間にそれは破れてしまった。勝負する前にサジウスの罠に落ち、負けてしまったのだ。父には申し訳ないが、もうどうしようもない……。


 こんな事を、下町の裏通りに座り込んでセティウスは悶々と考えていた。誰かに会うのが怖くて、じっと動かなかった。アルト皇子を訪ねる事も考えたが、かれの住んでいた父の所有する館は、将軍の手が入っているだろう。あの遺書はちゃんとかれに届いて、館で捕まった、なんて事はなかったろうか。セティウスが今、仕えられるあるじがいるとすれば、それはアルト皇子。しかし、今、あの、少年の日に共に遊んだ館がどうなったか、探りに動くことは出来ない……。


 セティウスがいたのは、奇遇にも、アルトの下町の隠れ家とそう遠くない場所だった。しかし遂にそこで会う事はなかった。

 飢えたセティウスが、食べ物を求めて動き始めた時、彼は既に汚れ疲れ果て、誰もそれが貴族の子息とは思わなかった。だから、暫くは手持ちの金で食いつなぎ、隠れている事が出来た。だがそれが尽きた時が運の尽きでもあった。彼は下町で働いて金を得るような、つても術も持っていなかった。

 やはりアルトの館へ様子を見に行かねば……もう将軍も兵を退いているだろう……そう考えて姿を現したが、空の館はまだ監視下にあった。アルトは逃れていたが、直前まで誰かが住んでいた気配のある館を不審に思ったサジウスは、見張りを置き続けていたのだ。体力が落ちていたセティウスは逃げられなかった。


 彼は、自分は裁判にかけられ、処刑されるのだろうと思った。彼が父親を殺害した証拠などないのだが、恐らく最初からサジウスの手の者であった侍女が証言した事で、あの時既にそういう空気になっていた。昔から勤めていた使用人たちは皆、そんな訳がないと猛抗議していたが、全員逮捕されてしまった。

 だが、予想に反して、サジウスは自邸へセティウスを連れ込み、最初は食事まで出してくれた。これはどうした事かと戸惑っていると、サジウスは優しく持ちかけてきた。真実に関しては口をつぐみ、父親の隠し財産の在り処を吐けば、国外逃亡させてやろうと。

 セティウスにはすぐに解った。将軍の言っているのは、父がアルト皇子に渡した資産の事で、用心深いアルト皇子はそれをあの館ではなく別の場所に隠しているのだと。

 だから彼は、知らない、と真実を述べた。勿論知っていても言うつもりもないし、仮に知っていて言ったところでサジウスが彼を生かす筈もないと判ってもいた。

 そうしたら、途端に館の地下牢に繋がれ、死なさぬように拷問、という毎日である。

 顔は歪み、指は折れ、目もよく見えない。あのまま下町で飢え死にしていればどれ程ましであったか、とかれは思ったが、そんな思考をする力も衰えてきて、時々、ここがどこで、何のために暴力を受けているのか忘れそうになった。


 時々サジウスはやって来て、拷問を眺めて楽しんでいた。長年の宿敵の嫡男を、好きなだけいたぶれる。残忍な嗜好を満たす為でもあったようだ。

 だがあまりにセティウスが口を割らないので、拷問係は、本当にこの男は何も知らないのでは、これ以上続けたらただ死んでしまうだけだろう、と言い出した。


「ふむ……ならば、余興で殺してしまうか。最早人相も判らなくなっているしな」


 近頃のサジウスは何故か機嫌が良い。是非、そうしてくれ、とセティウスは思った。見世物のように宴の座興として首を刎ねるつもりなのだろう。そういった事をしているらしい、と昔、父が苦々しく言っていたのを思い出した。もうこれで、あとひとつの苦痛で家族の所へ行ける。屈辱や悔しさを味わう気力はとうに失せていた。


「よし、今夜は休ませてやれ。明日だ、いいな」


 と言いおいてサジウスは去った。

 足枷はそのままだったが、手枷は外され、横になる事を許された。見張りも退屈そうにどこかへ行ってしまった。

 だが、それだけだ。足枷は外せないし、牢には無論鍵がかかっている。


(アルトさま……どうぞご無事で。あなたさまに、私の最期が伝わる日はないと思うが……)


 もう、この世への未練はそれしかない。あとは……


(あの少女……セレナと親しくしていた……)


 それは、少年の日の淡い想いでしかなかったけれど。家の都合で別な男と婚約させられたと聞いて、忘れるように努めたから。


(幸せに……)


 彼女……ミーリーンが自分を慕っていた事も、シェルリアのせいで婚約破棄になり、妹が自分と親友を結び付けようとかつて画策していたのも、彼は知らなかった。

 目を閉じ、涙が零れたその時。

 牢の鍵がかちゃりと音を立てて開いた。


「ああ……なんてお姿に」


 女の啜り泣く声が静かな空間に響いた。

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