第3話・寝所の檻

 サジウスの寝所は想像通り趣味の悪い落ち着かない部屋だった。黄金を壁に貼りつめ、なんの調和も感じない豪華なばかりの装飾品が並べたてられている。ふと、セレスティーナは顔を強張らせた。そのうちのいくつかに見覚えがあったからだ。取り潰されたフィエラ家の財産は国庫に納められたと聞いていたが、この男は密かに数点の美術品を我が物にしていたのだ。流石に堂々と客間には飾れぬのでこんな場所に……。あれはお父さまがお気に入りだった青磁の壺。それにあちらは……お母さまの肖像画!

 黄金色の壁から優しく微笑みかけてくる亡き母の前で、セレスティーナは胸が苦しくなるのを止めることが出来なかった。あの天使の様にこころきよらかだった母の前で、自分はなにをしようとしているのか。


(きっと私は、死んでもお母さまのところへ行けない……)


 父と兄と自分の復讐の為に、誇りを捨て、仇を討とうとしている自分は、あの、優しさと微笑みで造られたようなひとの傍にはそぐわない。それでも……やり遂げなければならない。自分は地の底に堕ちても、お父さまとお兄さまの為に、フィエラ家のために。そして、傲慢な将軍と腐った皇家に虐げられる民のために。

 兄のセティウスは未だに消息不明だ。何不自由なく暮らしていた貴族の子息が、こんなに長く自力で生きていける筈がない。当初は、誰か親しかった者が匿っているのだろうとサジウスが言って、宰相派だった貴族の家はほぼ全て調べが入ったが、見つからず、今では、貧民窟に逃げ込んで野垂れ死にしたのだろうと噂されている。けれど、セレスティーナもアルト皇子も、彼の生存を諦めてはいない。


「どうした。美人だろう。それはあの売女セレスティーナの母親だ。そなたにも似ているな」


 肖像画の前で立ち止まったセレスティーナに、上機嫌のサジウスが声をかける。


「皇女さまだったんだぞ。おれも若い頃には憧れた美女だった。だが、フィエラ公のやつにまんまと奪われて……ったく、最初から身分違いと諦めていたが、臣下との結婚が叶うのであれば、おれだってもっと……」


 酔いが回り、愚痴を吐くサジウスに軽蔑しか感じない。お母さまが、おまえのような男になびく可能性などあったものか。……ああ、でも自分は……。疎ましさに心の臓を掴まれる思いがする。この寝所から逃れる術はない。


「僭越ではありますが、面差しが似ているのであれば、わたくしを抱いてひととき、想いを遂げた夢を見て頂ければ……」

「そうだな……さあ、こっちへ来い」

「お待ちください……どうぞもう一杯お召し上がりになって」


 セレスティーナは酒杯を差し出す。サジウスはぐいと呑み干す。


「酒はもういい。おまえを味わいたい」


 盃を置きざまに強く腕を引かれ、あっとセレスティーナは声を洩らす。たくましく男くさい胸に彼女は有無を言わさず抱き取られていた。反射的に抗ったが、将軍の腕に抑え込まれ、寝台に組み敷かれる。彼女は僅かも身動きできず、ただ恐れと緊張に身を硬くするしかなかった。


「初々しいな。本当に処女のようだな」


 そう言って、サジウスは寝台に抱き寄せたセレスティーナの薄絹を剥ぎ取り、露わにした部分に触れようとする。セレスティーナは目を瞑り、ぎゅっと唇を噛んで神に祈った。


(ああ、どうか、どうか……お救いください)


 残酷な運命から彼女を救ってくれなかった神でも、祈らずにはいられない。父より年上でしかも品位の欠片もない、仇とおぼしき男に奪われるなんて……!

 涙がこぼれ出るのを止められなかったが、サジウスはセレスティーナの貌を見てはいなかった。酒臭い息を吐く分厚い唇が近づき、やめてと叫びたくなる。でも我慢する。我慢すると誓った。叫んだところでやめてくれる筈もない。


「……アリア……ああ……」

「…………」

「おまえ、良いぞ……」


……


…………


……………………


 呟きと共にゆっくりと、サジウスの手がだらりと垂れる。小うるさい鼾をかいて、俯せにセレスティーナに覆いかぶさったまま、将軍は眠った。


 ほっとセレスティーナは吐息をつき、男を見下ろした。アルト皇子がくれた薬、酒杯に混ぜた薬が、ぎりぎりで効いた。


『高価な麻薬だ……今からしようと思う事を、最高の形で夢に見せ、現に起きたと思い込ませる薬だ。希少なものだ。ひと月分しかない。その間にそなたは奴を手中に収めるのだ』


 サジウスはだらしのない笑みと涎をこぼしてアリアの名を呟いている。夢の中で自分が凌辱されているかと思うと吐き気がしたが、せめて現実を回避出来たことに、人心地付いたセレスティーナは神よりもアルト皇子に感謝を捧げた。

 いやらしい寝顔を見下ろしていると、いっそこのまま縊り殺せたらいいのに、と思うほどに憎しみが膨れ上がる。己と実家に破滅をもたらした元凶であるというのは、今のところ確実な証拠は持たない事ではあるが、今宵味わった屈辱と、両親の遺品を我が物にしている悔しさを思うと、既に殺意はこれまでと違い、より明確なものとしてセレスティーナの内に燃え上がった。憎い相手は、いま目の前に、赤子同然に無力に眠っている。

 だが、ここでこの男を殺しても宿願は半分しか果たせない。自分は拷問を受けて首を刎ねられる。たとえ身分を明かし、真実を告げても恐らく結果は同じ。将軍派は既にそこまで宮廷を牛耳っている。


(この男と心中する訳にはいかないわ。確たる証拠を引き出し、何もかもを奪い尽される屈辱を味合わせた後の死を与えなければ)


 セレスティーナは衣服の前を合わせてそっと寝台から滑り出る。広い室を横切るとそよ吹く風が舞い込むバルコニーへ出た。本当は男に触れられた肌を熱い湯で洗い流したい気持ちだったがそんな事が出来る筈がない。だったらせめて、清らかな夜風で穢れを洗い落としたい……そういう気分だった。

 今はまだ、彼女はこの館のあるじの一夜の慰みに過ぎない。だから歩き回って誰かに気づかれて訝しまれるような事があってはならない。着実に将軍に気に入られていけば、もっと自由を得られるだろう。今宵はこれでいい……ここまで来た。その気になれば相手の寝首を掻けるところまで。明日からはもっと……。


 そんな物思いに耽っていた時だった。ふと彼女は異様な音を耳にした。バシッ……バシッ……何かを叩くような音が、夜闇の向こうから微かに聞こえてくる。それに伴うくぐもった呻き声。誰かが、暴力を受けているのだ。粗相をした使用人が罰を受けているのだろうか? その時、


「おい、この扉は閉めておけと言っているだろう」


 遠くて小さくあやふやではあったが、そんな言葉が聞こえ、謝罪らしき言葉と共に、重い扉が閉まる音が響く。あとには、ただ夜を飾る虫の声ばかり。

 なんだったのだろう? とセレスティーナは不審には思ったが、この後ろ暗い男のことだから、反抗した使用人に不相応な仕置きでもさせていたのだろう、同情はするが、気の毒な囚われ人を救う力もゆとりもない、と己に言い聞かせ、暫し涼んだあとで、朝にまた媚びる為に、嫌々ながらも鼾をかく男の傍に戻って寝台で浅い眠りについたのだった。

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