第2話・闇への扉
セレスティーナは強力な染粉で肌の色と髪のいろを変え、卑しい娼婦とも蔑まれる踊り娘の仕草も話し方もすっかり身につけていた。露出した衣装も、目的の為と思えば恥ずかしくなくなった。ときに一座の仲間が男に身を売る事に、最初は眉を顰めたセレスティーナだったが、彼女たちには彼女たちなりの事情がある。身分もなく学ぶ機会もなく育った女たちの暮らしは厳しい。踊りや見世物の収入は安定したものではなく、美しく装う為には元手も要る。親や夫を早くに亡くせば、時にはそうせねば生きられないこともあるのだと知った。
しかし変えられないものもある。生来の誇り高さ。そして、父親譲りの凛とした碧いひとみ。
町の人々は、噂にはしてもセレスティーナの顔などせいぜい粗悪な似顔絵を知るくらい、別人になりすます事など訳もないが、彼女を直接知るひとにはそうはいかない。どんなに姿を変えても、その瞳を見れば、連想してしまう。いくらそれは死者と思いはしても、或いはなにか彼女に縁のある者ではないかと。
だからアルト皇子は言った。
『いっそそれを武器にするのだ。『売女セレスティーナ』は美女としては名高い。ゆえに、自分も知りはしないけれども容姿が似ているらしいと自ら言えば、ひとはおまえが単に、男好きの美姫の噂を利用しようとしている浅はかな者としか思わぬ上に、それが身元を隠したがっている本人だとは思わなくなる。既に棺に入れられた者なのだから、余計にな』
成る程その通りだった。セレスティーナの一座は将軍の館に足を踏み入れる前に、幾度か他の、彼女のかつての顔見知りだった貴族の宴に呼ばれたが、彼女がそう言えば、皆、『そう言われてみれば似ている、という程度ではあるが、美しい』と反応した。その表情で彼女は、相手が自分の死を悼んでくれているのかそうでないのかすぐに判断出来た。そして、それを決して忘れはしなかった。
サジウスはセレスティーナの瞳を覗き込んだ。疑い深く狡猾なその男の目には、確かに自力で権力をつかみとった者の持つ力強さがあった。セレスティーナは動揺を必死に抑え、誘うような目つきで将軍を見返した。
慎み深かった公爵令嬢は棺に眠っている。今ここにいるのは、闇に嗤う踊り娘……。
将軍は酒杯を手にしたまま、豪快に笑った。
「なかなかに気丈だな! このおれに見つめられても物怖じせぬとは、確かにそなたはあの娘に似ているところがあるようだ。だがあの娘は死んだ。硬く冷たい屍となり、棺に入れられ土に埋められるところをおれは傍で見ていたんだからな……もっとこっちへ来い。酌をしろ。そう、あの娘は言われている程、はすっぱな女ではなかった。おまえとは似ても似つかぬ気位の高さ。高慢ちきな令嬢が、そんな薄布一枚で人前で踊れる筈もない」
「かのおかたに貴族としての自尊心がおありになったとしても、わたくしにはそれはありません。ですが、貧民窟で育ちながらもわたくしは決して夢を諦めなかったのですわ。神はわたくしに美をお与え下さった。だからわたくしはそれを武器に、本当に力のあるかたのものになり、求めるものを得たいのですわ」
「求めるもの。なんだ、金か、宝石か」
ぐっと酒杯をあおってサジウスは尋ねた。セレスティーナは薄く笑った。
「いまはまだ、お教え出来ません……将軍さまがわたくしにそれを与えて下さる方とわかれば、お教え致しますわ」
はっと周囲の者に緊張が走る。セレスティーナにも、もしサジウスが怒ったら……と不安はあった。だがアルトは、サジウスは気の強い女が好みだから決して弱みを見せるな、と言った。それに、いまの言葉は本心でもある。本当にサジウスが黒幕なのか、証拠を掴んでからでなければ。
「言うたな、端女が。このおれが、おまえごときが求めるものを与えられぬとでも言うのか」
はたしてサジウスの赤ら顔には怒りの影が走る。しかしセレスティーナはもう動揺することなく、真剣な目でその睥睨を受け止めた。
「勿論、そんな事思ってもいませんわ。ただわたくしは……将軍様が本当にわたくしをお気に召して下さるまでは、と願をかけたのです。お許し下さいませ」
束の間、サジウスは値踏みするようにセレスティーナの顔と身体を見まわしていたが、すぐに怒色をほどき、豪快に笑った。
「なんだ、そういうことか、だったらおれを満足させてみせろ。寝所に来い。経験豊富なんだろうな。踊りとは別の特技でおれを気に入らせてみせろ」
この言葉に、セレスティーナははっと表情を硬くする。それは半分演技、半分真実……。その様子に、サジウスの好色な目に急速に興味のいろが膨らんだ。
「まさか、初めてだと言うのではあるまいな?」
「だ……大丈夫ですわ。知識はちゃんと。わたくし、将軍様にご満足頂けるように致します」
顔を赤らめながらセレスティーナは言う。この紅潮は演技する必要もなかった。仇と思う男に対して、自分は何を言い、何をしようとしているのか。己に対する怒りが、封印した筈の矜持が、その封を破りそうになる。だが、アルト皇子の、
『サジウスの前ではおまえは踊り娘のアリアだ。宿願を果たすまで、セレスティーナの心は捨てるのだ。決して忘れるな』
この言葉が辛うじて理性を保たせた。苦労を重ねてようやくこの男の前に立てたというのに、自ら台無しにする訳にはいかない!
サジウスの方では、勿論彼女が顔を赤らめたのを処女の恥じらいと受け取った。そうでなくとも構わないが、そうであれば、こんなに美しく若い娘のそれをいただくのは久方ぶりのことだ。彼は品位もなくにたりと笑い、酒臭い息を吹きかけた。
「心配するな、そうならそうで、ちゃんと優しくしてやる。だから口答えはするなよ。おれは普段は多少気が強くとも、寝所では従順で可愛い女が好きだ。おまえがそう振る舞えば、おまえの望みが叶う日も近づくだろう」
と、セレスティーナの露わな腰に触れながら言う。唾を吐きかけたいのを必死で堪えて彼女は、お優しいお言葉をありがとうございます、と言った。私の望みが叶う日……それはおまえの望みが叶わなくなる日だ、と呪詛のように心の中で呟きながら。
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