第8話・仮面の道化師

 いったいどうしてお父さまは亡くなったのか、という私の問いに対して、仮面の男アルトの語った「フィエラ公は自害された」という言葉に、私は我を失ってしまった。嘘よ嘘よと泣き叫ぶ私に彼は当身を食らわせて黙らせた。


 気づくと、粗末な寝台に寝かされていた。部屋は狭くて掃除も行き届いていないけれど、暖炉の火で温かい。傍にはテーブルと椅子がある。その椅子に、銀の仮面をつけた男が座っている。


「手荒にして悪かったな。だが、あんなところでぎゃーぎゃー騒いで、墓守にでも見つかれば、折角の苦労は水の泡になってしまう……」

「いいえ……わたくしこそ……まだ、言っていなかったわ……」

「何をだ?」

「助けて下さって、ありがとう……」

「…………おまえの為じゃない」


 私は依然として何がどうなっているのか判らないままの状態にいた。お父さまが亡くなった? 嘘よ! とまた泣き叫びたい衝動を必死で堪えるのが精いっぱい。でも今はどちらかというと心も頭も空っぽで……助かって嬉しいという気持ちも、絶望的な宣告で哀しいという気持ちも、別の誰かの感情のように、私の中にありはするものの、虚ろだった。ただ、ひとつだけ残っていたのは、私は私、セレスティーナ・フィエラだという事。フィエラ家の者は決して恩を忘れてはならない。小さい頃からのお父さまの教え。それが頭に浮かんだから、お礼を言ったまでだ。

 だけど、アルトは力なく笑って、


「この状況で、道化師なんかに向かってまず礼を言えるとは……さすがあの方の娘なんだな」

「あの方?」

「フィエラ公爵……おまえの父上は、本当に高潔な方だった。打ち捨てられ、さっさと死んでしまう事ばかりを周囲に期待されていたわたしを救い、密かに立派な教育まで施して下さった」


 ああそうか……とぼんやり思う。この人はお父さまに恩義を感じていて、お父さまの為に私を助けてくれたのね。『高潔な方だった』という過去形が胸に刺さる。俯くと、掛け布団を握り締めた手の甲に涙の粒が弾けた。


「ほんとうに……ほんとうにお父さまは亡くなってしまわれたの? 折角わたくしは生きながらえたのに……もう、会えないの……?」

「ああ……残念ながら本当だ。くそっ、わたしがどうにかして、この事を知らせておけば……だが、まさかこんな事になるとは思わず、公が前もって知ってしまえばどうしても態度に出てしまい、不審をかうのではと恐れて。嘆願に走り回っておられる公に接触するのも難しかった。でも今頃に、生き返ったおまえを館に連れて行けば、喜ばれるお顔が見られるなどと、浅はかに考えて……」


 アルトは仮面の上から、己の愚かさを呪うように両手で顔を覆う。


「あなたのせいじゃないわ……あの責任感の強いお父さまが、まさか何もかも投げ出しておしまいになるなんて思わないわ……」

「あの方の高潔さは、あの腐った宮廷で上に立って生き抜いてゆくには却ってあの方を苦しめた。しかし今まで、皇家への忠誠、文官の長としてこの国への責任感から、ただ無私と正義を貫いてこられたのだ。おまえは知るまい? あの方には敵も多かった。あの方に拠る穏健な文官派と、サジウス将軍の武硬派は常に対立し、国内の安定を第一に図る文官派と、他国へ侵略し、帝国の版図を広げたくて仕方のない武硬派は複雑な構図で水面下で争っていたのさ」

「……でも、ならば尚更お父さまは国の為に頑張ろうとなさった筈なのに」


 アルトは何故か、私の言葉に苛立ちの視線を放った。


「派閥を纏めるには、時には清濁併せて呑まねばならぬ。お身体も頑健ではなかったあの方の本当の望みは、おまえを嫁がせ、おまえの兄が任せるに足りる力量を持ち年齢を重ねれば跡目を早く譲り、自分は愛妻と慎ましく田舎で隠遁する事だった。だが、おまえの母上は亡くなり、その望みは永遠に叶わなくなった」

「何故。何故殿下の道化師に過ぎないあなたがお父さまの心の内を知っているの?!」


 敏腕な宰相と讃えられながらも、お父さまがそれをあまり喜ばれず、私邸ではお疲れのご様子をお見せになる事が多いのは判っていた。だけど、それは私とお兄さましか知らない事の筈。


「そんな事は今はどうでもいい。ただ、あの方は、国を、皇家を思う気持ちと、おまえの為だけに気を張り詰めておられたのだ。皇妃となるおまえの強い後ろ盾として在り続ける、それがあの方が地位を保とうとするたったひとつの個人的な動機だった。だが、現実はどうだった? あの方の長年の献身に対し、皇家が与えた報いは、異国から来た素性も怪しい男女の告発と、たったひとつの証言だけで、おまえに恥辱に塗れた死を与える事だった! アシル=クロードの気分一つで、おまえは衆目の前で苦悶して死んだのだ。おまえたちは結婚していた訳ではない。殺さずとも、婚約破棄して修道院に閉じ込めておくだけでも充分だったのだからな」

「…………」

「俺は物陰から見ていた。アシル=クロードはおまえに『その顔にも見飽きた、さっさと逝け』と言い放った。あの方の必死の助命嘆願にも耳を貸さず。あの方の目の前で、おまえは苦しみ抜いて死んだ。そしてその瞬間、おまえの無実を知らせる報が届いた……おまえの兄が、修道院長の嘘を告白させたのだ。あの方が絶望なさるのも当然だ。無実のおまえをあっさりと死なせた皇家への忠誠と、宝だったおまえを一度に失った」


 私は言葉を失った。お父さまの絶望が、痛い程に解る。涙があとからあとから零れて、私は寝台の上で膝を抱き、顔を埋めて泣いた。お父さま、お父さま……『常に公正であらねばならない。ひとがひとを裁くのは本当に重大なことなのだよ。皇妃となるおまえはそれを忘れてはいけないよ』優しい碧い目でいつもそう仰っていた。なのに、忠誠を尽くして仰いだ皇家は、その信念を叩き折った……。お父さまは、アシルが子どもの頃には家庭教師のような事もされていた。けれどその思いはアシルには全く根付いていなかったのだと、無力感に苛まれもなさったのだろう。

 アシルのように自分の感情でひとを裁く者が皇帝になれば、皇国の未来もない、と悲観されたのだろうか。


「公爵は、おまえと同じ毒を呷って亡くなった。わたしが公爵からの書置きを頂いたのは、おまえを掘り出しに行こうとしていた時。慌てて公爵邸に駆けつけたが、もう、兵が取り囲んでいて入り込む事も出来なかった」

「兵が? 皇家の兵が?」

「正確には、サジウス将軍の率いた皇家の兵が、だ。何故かは判らぬが、どうも、こうした事態が起こり得る事を想定して、騒ぎを待っていたような節がある。将軍は、遺言状が遺されていたにも関わらず、セティウスと公が争っていたという侍女の証言から……恐らく、自害を止めようとしていたのだろうが……セティウスが公爵を殺害したと断定した。おまえの館にはどうやら将軍の手の者が紛れ込んでいたようだ。遺言状は将軍の独断で、セティウスが父の手蹟を真似て作り上げた贋物として暖炉に投げ込まれたらしい……だが、息子に宛てたものと別にもう一通の遺言状が存在する。それには将軍も気づかなかった。セティウスが先に気づき、信頼できる者にこっそり託したのだ」

「もう一通……?」

「これだ」


 アルトが手にした書状を、私はひったくるようにつかみとり、震える手でそれを開けて読んだ。


『アルト=クロード様 わたくしは私事にてこれ以上あなたさまにお仕えする事が叶いません。あなたさまの輝かしき未来を願っております。これからのお役に立てず、先にこの世を去り、妻子のもとへ行く不忠をどうかお許し下さい。 エリウス・フィエラ』


 確かに、乱れてはいるけれど、見慣れたお父さまの手蹟だった。


「アルト……クロード? 不忠……?」


 私は想像出来なかった内容に何度も何度もその短い文面に目を滑らせた。


「あなたは……」

「この仮面の下の顔を見れば解るだろう」

「でも、あなたは酷い火傷でその仮面は癒着して外せないと……」

「ふん、そうでも言っておかないと、座興で醜い素顔を見せてみろとでも言われたら困るからな。そういう事にしておくよう、公爵が考えて下さったのさ」


 アルトはぱちんと仮面の留め金を外してゆく。私は息を呑んで見守る。そう言えば背格好は良く似ている……。でも、声や口調は……。髪の色は……。

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