第7話・公爵の決断
セレスティーナの葬儀を終えた夕刻に時は遡る。
彼女の父エリウス・フィエラ公爵は、押し寄せる弔問客を全て断り、茫然と自室に座っていた。閉じたカーテンの隙間から漏れる落陽が、彼の涙を紅く染め上げる。
彼がこよなく愛した娘は、今はもう土の中。その現実を受け止める事は彼にはひどく難しかった。おまけに、元婚約者の皇太子アシル=クロードは、葬儀の後にこんな事を言って来た。
『フィエラ公、済まないが、セレナの死因は病死という事にして欲しい』
公爵には……普段は頭の切れる公爵だが……、この、娘婿となる筈だった男の言葉の意味が全く解らなかった。セレナは衆目の前であなたが命じられた通りに、犯してもいない罪の為に自ら毒を呷って死んだのではないか、と怒鳴りたいのを堪え、ただ、どういう事でしょうか、と尋ねた。アシル=クロードは言いにくそうに目を伏せたが、
『既に皇家の名において、セレナとの婚約破棄は国中に伝えられている。その理由……そしてセレナが何故死を賜ったのか、ということについては、正式に発表した訳ではないが噂が広がっている。この事を……否定するのは、皇家の面目に響くと母上が仰せなのだ。過ちで断罪したなどとは……皇家の判断に過ちなど認めてはならぬと……』
『何を仰います! セレナの無実は、あの場に居た全ての者の知るところではありませんか!』
『既に緘口令が行き渡っている。あの場で何があったのか、誰も口外してはならぬと……その代わり、セレナは刑死したのではなく病死だったとすれば、刑死者を出したという事実は消え、婚約破棄の理由も公式にはせずに済み、フィエラ家の面目も立とうと……』
『何という事を。過ちは過ちとお認めになるのもまた君主の器でございましょう。それに、我が家の面目より、セレナの名誉を回復して頂きたい!』
アシル=クロードは、公爵の怒りも尤もと感じているのか、青ざめて唇を噛む。
『母上の……皇妃陛下の命令だ……曲げられぬ』
『もとは、殿下が仰ったことを皇妃陛下もご了承なさって。皇妃陛下を説得して下さい! でなければわたくしが皇妃殿下にお目通りを願って……!』
『私が誤った事を母上はお怒りなのだ。堪えてくれまいか……』
『出来ませぬ! いかに殿下のお言葉であろうと……』
しかしこの時、脇から別の声がかかった。
『フィエラ公。臣下の分際で皇太子殿下に何という申されようかな』
そこには、フィエラ公の政敵、サジウス将軍の姿があった。容貌は醜いが、立派な体躯は誰にも勝り剛腕を誇る、この帝国の武の要。文官の長である宰相フィエラ公爵とは常にと言ってよい程に対立関係にあった。フィエラ公の娘が不義の罪で死を賜ると聞き、喜び勇んで他の予定を伸ばしてその死の様子を見に来たような男である。婚約破棄が成った時点で既に、自分の娘を皇太子の婚約者候補にと推して来ている。父親に似て、セレスティーナとは比べようもない容姿なのだが。
『将軍……あなたも娘を持つ父親の身ならば、私の気持ちもご理解頂けましょう?』
公爵は思わず日頃の因縁も脇に置いてそう言ったが、将軍はふんと笑って、
『我が家の娘は、皇家の為ならばいつでもどのようにでも死ねるよう教育して来ましたぞ。皇家の名誉より己の名誉を重んずるような不心得な娘と一緒にしないで頂きたい』
『な……なんだと』
公爵の白い顔が侮辱に紅潮する。そこで将軍は今度は諭すような口調になり、
『貴公の振る舞い如何で、セレスティーナ嬢がそのような不心得者と思われる、とご忠告申し上げているのですぞ。あの若さで、皇家の為に涙も零さずその命を捧げた娘御はご立派であった。その行為を、父親の貴公が無にしてよいのですかな?』
『…………!』
なにが忠告か、娘の死を最も喜んでいるのはあなただろう……今にも言葉になりそうな怒りが、普段温和な公爵から噴き上がったのを周囲は感じ、凍り付く。
その緊迫を解いたのは、二人を恐れる事もない皇太子。
『と、とにかく、頼んだぞ、フィエラ公。今更騒ぎ立ててもセレナが生き返る訳でもない。セレナは私に、立派な皇帝になるよう願ったのだからな。その願いを無にしたくない。私の経歴に傷がつくのは、彼女の望みではなかろう』
アシル=クロードは、普段はやや苦手に感じている将軍が助太刀してくれたとばかりに、反論する間も与えずにそう言い置いて立ち去ろうとする。
『殿下……!!』
その言葉を翻させねば、将軍に構っている場合ではない、と気づいた公爵が懇願するように呼び止めようとする声も、聞こえないふりをしてアシル=クロードは足早に馬車に乗り込んで去ってしまった。馬車は立てる土埃の向こうへあっという間に消えてゆく。将軍は、この墓場で不謹慎な笑いを堪えるのに必死な様子だった。今までは、皇太子の義父となる立場、という事で、しばしば宰相に譲らざるを得ぬ場面があり、煮え湯を飲まされる思いだったのだが、皇妃となる筈だったその娘はもういないのだから。
普段の凛とした佇まいもどこへやら、悲嘆に暮れ、茫然と立ち尽くしている政敵の後姿を見て、
『娘など、家の道具のひとつに過ぎぬ……ああ、そうか、我と違い、貴公には娘はお一人しかおられぬのでしたな。それならば、取り返しのつかぬ事を、と嘆くのも理解できる。我が家には、妾腹合わせて五人も娘がおりますからな』
と、挑発するように言う。この場で更に公爵が無様に取り乱せば良いと思っているようだった。だが、公爵はそんな言葉ももう耳に入らない様子。
『行きましょう、父上』
と嫡男のセティウスが見ていられないといったように父親に声をかけ、まるで老父にするように手を貸し、将軍に会釈して馬車へ導いたのだった。
館に戻ると、使用人たちは皆啜り泣いている。セティウスは、父を部屋に連れて行き、
『早くお休みになられた方が。嘆いても……セレナは喜びません』
と、自身も喪失感を隠せないながらも、何とか父を慰めようとする。
『よろしければお話し相手になりますが』
『いい……ありがとう、セティウス。今は……そうだな、寝酒が欲しい』
晩餐会やパーティなどの付き合い以外では全く酒を嗜まない父だったが、無理もない事と思い、早く眠れるようにとセティウスは強めの火酒を運ばせた。
息子が扉を閉めて出てゆくと、公爵は、愛用の黒檀の小机に向かって座り込み、火酒を啜りながら、亡き妻と娘の事ばかりを思った。
『おとうさま~、おとうさま~! ほら、花冠!』
『上手に出来たな、セレナ。私にくれるのかい?』
『もちろん。うふふ、よくお似合いだわ!』
あれは、身体の弱かった妻の静養先の別荘の庭先だったろうか……? まだセレナは五歳くらいだったろうか?
『お父さま、このケーキ、焼いてみましたの』
『殿下に差し上げる前の味見役かね?』
『まあ嫌だ、まあそれは……美味しければ殿下にも……でも、お父さまにも美味しいって言って頂きたくて!』
あれは、婚約が調ってどれくらい後だったろう? 皇太子殿下は利発で優しい少年。セレナは殿下に嫁いで幸せになれると信じた。
『お父さま……お母さまは、お母さまは……』
『セレナ、お母さまはいつもおまえの傍にいらっしゃるよ。天がお母さまにお与えになった寿命なのだよ……おまえのおかげで、お母さまは最期まで笑って……』
あれは、妻が亡くなった頃。他国の王族に嫁ぐ話もあった皇家の姫と激しい恋に落ちて得た、かけがえのない妻だった。その喪失感は決して完全に埋まるものではないと感じたが、彼女が遺してくれた子どもたちの為に今後は生きようと思った。
『お父さま、今日もご公務お疲れ様でした』
『お父さま、この書物の解らないところがあって』
『お父さま、このドレス、本当にわたくしに合ってまして?』
目を閉じても開けても、愛娘の笑顔ばかりが浮かんでくる。そしてそれに重なって、あの、凛として死のグラスを飲み干したものの、毒で苦しみ、喉を掻きむしり苦悶する姿が。何の落ち度もなく、未来の皇妃として立派にあるべく努力していた娘。なのに、辱めを受け、死なねばならぬ運命から、目の前にいても救ってやれなかった自分はなんと無力であったのか。しかも、生涯を通して尽くしてきた皇家の態度は余りにも冷たい。
『私の経歴に傷がつくのは、彼女の望みではなかろう』
少年の頃は立派な皇帝の器だと思っていたのに、今の皇太子は、ただおのれの自尊心を護る事が第一になってしまっている。棺のセレナに誓いを立てていたけれど、あの調子では、いずれは忘れ、同じ過ちを繰り返すだろう……。
民を護ってこその皇家。そう信じて尽くしてきたのに、民どころか、結婚の約束を交わした相手すら守れない。間違って裁かれた一人の尊厳よりも、過ちを認めない事が皇家の誇りとする、そんなものに捧げた自分の生涯はなんだったのか。
(私がいなくなれば、殿下は将軍の言いなりになっておしまいかも知れぬ。そうなれば、皇国の民の幸せはない……。だが、私は弱い……もう心から皇家に尽くす事は出来ないし、宝も失った……)
飲みつけない強い酒は、セティウスの気遣いとは裏目に出た。高潔な公爵は、汚れた皇家に忠誠を誓い続ける事は出来ぬし、それでは結局民を護れない、とぐらぐらする頭で考えた。民を思い、皇家に忠誠を尽くし、家族を護る……それだけの為に生きて来たこの男には、宰相としてこの国を切り回す才能を持って生まれた事は逆に不幸の種だったのだ。もっと平凡であれば、おのれも娘も、平凡に幸せに生きる道もあったろう。だが、恐らくはその地位のせいで妬みか恨みを買い、人生のすべてを捧げたものは、息子ひとりを残して何もかも奪われたのだ。修道院長を脅迫した犯人、そして発端である男を探し出して糾弾する気力は、もう、残されていない……。
『セレナ……殿下を恨むな、などと、無理を言って済まぬ。恨んでいるのは私だ。この心は消せぬ。このまま生きてはいけぬ……』
棚から取り出したのは、かねてから取り寄せていた、セレナが飲んだものと同じ毒。
『セティウス、済まぬ……』
公爵は、二通の遺書を書いた。一通は息子に宛て、もう一通は……。
未来の義理の息子と思い、忠誠と共に愛した皇太子には書かなかった。書けば、恨み言になりそうで。
そして、毒の杯を手にする。
だがその時、不吉な予感を受け取ったのか、セティウスが扉をそっと開けた。父が平穏に眠っているか確かめる為に。
『父上? 何をなさっておいでです?!』
『セティウス。済まぬ……まだ年若いそなたに、あとを押し付けるような事を』
『何をお考えですか! 父上は、国にも我が家にも必要なんです!』
父と息子は毒杯を奪い合った。だが、弱っていた父親の方が、ほんの僅かな差で、それを手にする。
『さらば……』
『父上!!』
セティウスはそれを取り上げようとしたが、公爵は一気に飲み干した。
『ぐっ……』
公爵は激しく吐血する。騒ぎを聞きつけた使用人たちが駆けつける。
『キャアー―ッ!!』
『公爵殿下! 誰かお医者を!』
『飲んだものをお吐かせしろ!』
そんな叫びの中で、誰かが言った。
『セティウスさま、なんてことを!!』
セティウスは意味が解らず、混乱したまま、苦しむ父を抱えていた。その侍女は叫んだ。
『父上に、毒を盛られるなんて! わたくし、見ましたわ!』
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