第6話・闇の中で

 静かに目を開けると、そこは真の闇だった。なにひとつ見えず……これが、死後の世界なのか。痺れていた頭の奥が徐々に記憶を取り戻してくる。そうだ、私は死んだのだ。

 けれど、きっと光溢れる天の国で、お母さまが出迎えて下さると信じていたのに、この闇はどういう事なのか。神様までもが、私を罪びとと取り違えてしまわれたのか。


(そんな……私の魂は永遠にこの闇に囚われて?)


 私は混乱し、助けを求めるように腕を伸ばす。すると腕はすぐに壁のようなものにぶつかった。身動きしようとしたけれど、殆ど動く事が出来ない。むせかえるような百合の花の香り。息が苦しい。


(まさか……まさか……)


 私の心は恐ろしい想像でいっぱいになる。まさか私は、生きたまま葬られてしまったの? ここは棺の中……?

 そうとしか思えなかった。私の身体にぴったり合った寸法の箱の中に、闇の中に閉じ込められた私。死んでいるのならば、息苦しさなんか感じない筈。

 昔、幼い頃に、なかなか寝付かなかった私にばあやが語った怖い物語。間違えて生きたまま埋葬された男がいて、後日、墓場泥棒がたまたま掘り返してみた所、棺の中で目を覚ましたらしい男は、窒息と恐怖で、目の玉が飛び出し、髪は真っ白に、苦しみもがいて四肢は折れ、血まみれだったと……。

 私も、私もそうなるのか。既にかなり息苦しい。棺の中の空気は尽きかけている……どうして、どうして私は二度も死ななければならないの?!


「たすけて、たすけて! わたくしは生きているわ!」


 混乱の極みの中、私は叫ぶ。もう一度処刑されても構わない、こんな所で死ぬのは嫌……!


「…………にしろ」


 微かに、男の声が聞こえた気がした。


「……? だれかいるの?」


 ざくっ、ざくっと、定期的に繰り返される音。


「すぐ出してやる。だから、騒がず息を潜めていろ。叫べばそれだけ早く空気がなくなる」

「…………!!」


 誰かが墓土を掘ってくれている! その声は、聞き覚えがあるような、ないような……既に、酸欠で朦朧としてきた私にはよく判らない。だけど、救いを信じ、闇の恐怖に震えながらも、私は騒ぐのを止めた。もしかしたら、声も音も幻覚かも知れない……とは考えないようにして。


 長いような短いような時間が過ぎたあと。がつんがつんと棺が衝撃を受けた後、金梃が差し込まれ……薄い隙間から新鮮な空気が入って来る! めりめりと音を立てて、棺の蓋に打ち込まれた釘が外れ……蓋は開けられた。


「ああ、神よ……!」


 私は起き上がる。棺に敷き詰められた百合がぱらぱらと散る。新鮮な空気を胸いっぱいに吸った。私は生きている。閉じ込められてもいない。月の光が清かに私を照らしている。冷たい夜風が肌を刺すけれど、それすらがただ生きているという実感として心地よくさえあって。生の有難さに、涙が零れる。いったいこれはどういうことなのか。


「おい、おまえを見放した神より、わたしに感謝したらどうなんだ? わたしがいなければ、おまえはとっくに、その心なき神の国に行っていたんだぞ」

「あなたは……?」


 月の光を背後から受けて、最初はそのひとの貌は殆ど見えなかった。だけど、夜の暗闇に目が慣れてくると、月明りの下に立つその人のある特徴が見えてきた。


「アルト……あなたなの? 何故……」


 顔の上半分を覆う奇異な銀の仮面。幼い頃に大火傷を負ったのだという、アシル皇太子お気に入りのお抱え道化師。アシルが心を変え、私を救うよう命じたのだろうか。後から考えればそんな事はまったく辻褄も合わないのだが、この時の私は思わず希望を持ってそんな想像をしてしまった。

 宮廷道化師は、ただ面白おかしい道化であればよい訳ではない。きちんと宮廷作法を身につけ、言われた事に当意即妙な応えを返せなければ務まらない。知性と教養を兼ね備えた上、『道化よ』と馬鹿にされても控えていなければならない……。アシルに気に入られ、色んな場所に連れ回されて、常に新しい道化の技を披露しては皆を湧かせて……彼には勿論何度となく会っているが、表情が読めないこと、口調も仕草も丁寧だけど他の人にあるような優しさが感じられないことから、私は彼が少し苦手だった。

 でも、そんな彼が私の命を救ってくれた。いつもと違う乱暴な言葉遣いに戸惑いながらも私は言う。


「アルト……もしかして」

「もしかして、アシル=クロードさまの差し金でわたくしを助けてくれたの? という期待なら的外れだからやめておけ」


 彼はあっさりと私の希望を打ち砕いた。


「……では何故? そもそも、どうしてわたくしは生きているの?」

「わたしが毒をすり替えた。本物の致死性の毒と、二日ほど仮死状態になるだけの毒を」

「何故そんな事を? どうして助けてくれたの?」

「話せば長くなる。取りあえずこの棺を埋め戻さないと面倒になる。手伝え」


 アルトは私にもう一本のスコップを渡す。そんなものを扱った事もなかったけれど、とにかく彼のする事を見よう見まねで手伝った。頭の中は疑問符だらけだったけれど、力仕事なんてした事もなかったので、息が切れてしまい、何も言葉を紡げない。


 やがて、普通に見ただけでは判らないくらいに墓が元通りになった頃には、夜が明けかけていた。


「ああ……家へ、家へ帰らなくては」


 私は呟いた。お父さまもお兄さまもどんなに喜んで下さるだろうか。

 だけど。アルトは無感情に……そう聞こえる声音で言った。


「おまえに帰る家はもうない」

「何故? お父さまもお兄さまも、わたくしが死ぬ事には、最後まで反対してらしたわ。喜んで、匿って下さる筈よ」

「そうだ……おまえの無実も明らかにされたのだから、あんな悲劇さえ起きなければ、おまえは逃げ隠れする必要さえなく、元通りに皇太子の婚約者に返り咲く事だって出来た筈だ」

「無実が明らかに……?」

「わたしが迂闊だった……フィエラ公にもっと早く、この事をお伝えしていれば」

「なんなの、何がどうなっているの。はっきり言って!」


 私の言葉に対する彼の応えには、今までなかった僅かな感情の揺れが籠っていたように思う。


「おまえの父上は……フィエラ公は亡くなった……。そして、おまえの兄セティウスは、父親を暗殺した犯人とされ、追われている身。近いうちに、フィエラ家は取り潰されるだろう」


 ……生還出来た喜びから、再び悪夢へと突き落とされたようだった。彼の言葉を理解するのにも少し時間がかかってしまった程に、私は疲れ果て、混乱してはいたけれど、もう一度お父さまに、お兄さまに会えるのだという期待だけで何とか立っていられたのに。


「うそ……そんな、そんなひどいこと、ある訳ない……」


 死ぬ為のグラスを手にした時でさえ我慢出来た涙が、止まらなかった。何故だか、彼の言う事は本当なのだ、と確信してしまったのだ。


「いや……いやよ! わたくしのせい……なの?!」

「誰の所為でもない……いや、違うな、色々な者たちの所為だ……おまえに咎はない」


 彼の言葉はただ私には虚しく響くだけだった。私は地面に崩れ落ち、既に血と共に失っていた筈の涙を流した。

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