第5話・公爵令嬢は棺に眠る
「セティウス、何を言いに来た! セレスティーナはもう死んだ!」
アシル=クロードは声を上げる。微かな恐れが、その響きに含まれている。無実の証明? セレスティーナは足元で血を吐き、喉を掻き毟ってこときれている。いまさら、なにを……。
「嘘でしょう! セレナ!」
セティウスは叫び、倒れている妹を抱き起こしたが、確かにもう息をしていない。白銀のドレスに吐いた血が幾筋も飛び散って、苦しみに喉を搔き破った指の爪にも血が滲んでいるが、まだ温かいその身体はぴくりとも動かない。抱き起こされたはずみに髪飾りが落ちて、美しい金の髪がはらりと兄の膝にほどけて広がった。
「セティウス……もう終わったのだ……わたしはこの娘を救ってやれなかった……」
涙混じりの父親の声に、セティウスは茫然と、
「なんということだ……あとすこし、早ければ……」
と呟いた。
「セティウス、今更何を言いに来たのだ、と問うているだろう! セレスティーナは死に際におまえに会いたがっていたようだったぞ。お父さま、お兄さま、と震え声で微かに呟いていた」
「……!! ならば何故、もう少しの暇を下さらなかったのですか!」
「知ったことか。遅れたおまえが悪い」
そう突き放したアシル=クロードの言葉に、女の悲鳴が重なった。
「あああああ! お許し下さい、セレスティーナさま! こんな……こんな事にまで……」
突然響き渡った絶叫に、人々の視線は、大扉の所に蹲り、泣き叫ぶ女性に集まった。
「院長先生……?」
セレスティーナの亡骸に許しを請うように伏しているのは、帝立修道院の院長。
「なんなのです、どうしたのです!」
と苛立たしげに問う皇太子に、院長は涙に濡れた顔で、
「わたくしが全て間違っていました! 嘘を言いました……セレスティーナさまは間違いなく『きよらか』でした! 勿論、妊娠などなさっていません」
この告白に、広間は蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。アシル=クロードは青ざめ、
「どういう事です! まさか神の御前であなたのような方が、嘘の証言を……?!」
「お許しを……いいえ、わたくしはお許しなど要りません。ただ、わたくしの孤児院の子どもたちにご慈悲を」
「何を言っているのか解らないぞ」
「わたくしは、脅迫されて……ああ言わなければ、子どもたちを閉じ込めたまま孤児院を焼き払うと……他言しても同じだと……」
「だれに、だれになのだ!」
「判りません……でも、毎夜脅迫状が届き……嘘を言ってもセレスティーナさまはせいぜい婚約を破棄されるだけで殺されたりはしないからと……ならば、わたくしの三十人の子どもたちの命の為に……例えわたくしが嘘の証言をした罪に堕ちるとしても、皆の命が救われればと……!」
「セレスティーナは不実の罪を犯していないと?」
「そうです……連日、セティウスさまに説得され、ようやく脅迫の真実を話す気になったのです。孤児院は絶対に守るからと言われ、無実を晴らして欲しいと請われ……わたくしは次第に己の過ちに気づいたのです。ああ、まさかあの気高いセレスティーナさまが、わたくしのせいでこんな……」
おののきながら修道院長はセレスティーナの亡骸を見、号泣した。ことの成り行きに皇妃は、
「……なんということ。わたくしはもう耐えられないわ。部屋に戻ります」
と退出してしまう。
茫然とアシル=クロードは、元婚約者のほうを見た。父親と兄が、宝よ花よと可愛がっていた娘の、妹の亡骸に縋って泣いている。
「申し訳ありません……父上。もう少し私が早ければ……」
「いや、そなたはよくやってくれた……おかげで、セレナの名誉は回復された……」
「でももうセレナは帰らない……」
「……」
―――――
『アシルさま! これ、作ってみましたの! お口にあうか……』
子どもの頃、自らクッキーを焼いて誕生日に贈ってくれた、弾けるようなあどけない笑顔。
『殿下……生涯変わらずお慕いします……』
昨年、星空の下で初めて交わしたくちづけ。彼女は甘い香りがして。はにかんだ頬はほんのりと染まり、なんて美しいのだろう、と思った。
……そして。
『あなただけを愛し、誰にもこの身を許した事などありません!』
信じて欲しいという魂の叫び。
『誠実のあかしとして、殿下のご要望に従い、在りもせぬ罪を飲みましょう……』
何もかも諦め、それでもまだ自分に素晴らしい皇帝になってくれるようにと……17歳になったばかりの身で、理不尽に与えられる死にも毅然として。
「う……セレナ……」
様々なセレスティーナの貌が浮かんで来て、アシル=クロードは思わず両手で顔を覆った。かけがえのない宝を、この欲の渦巻く宮廷でたった一人、生涯をかけて己の為にだけ尽くし通すと誓ってくれた、美しく優しい女性を、自らの過ちで死なせてしまった。誇り高いひとに、恥辱に塗れた罪を被せて。慈悲を請う父親と人々の前で、苦悶を与えて。
何故、信じてやらなかったのか。彼女が生涯捧げてくれた愛に対して、自分が最後に向けた言葉は、
『その顔にも見飽きた。さっさと逝け』
何故あんな事を。そうだ、彼女を信じて、もしも本当に裏切りだったらと思うと怖かった。信じて裏切られれば、それは二重の苦しみになる。だから……自分が苦しまなくて済むように、彼女を苦しめた。自分はなんと弱い男だったのか。
―――――
「殿下……セレスティーナを我が家に連れ帰ってもよろしいでしょうか」
気が付くと、彼女の父親のフィエラ公爵が傍に立っていた。ほんの一週間前まで、敏腕宰相として帝国の支えとなって働き詰めてくれていた男だ。色々な事を教わりもした。病弱であまり表に出ない父皇帝よりもよほど父親のようで、子どもの頃は無邪気に慕っていた。セレスティーナの母親を一途に愛し、彼女が早逝した後も男盛りで独り身を貫き……そしてセレスティーナはその母親にそっくりの容姿と性格だった。いま、彼の眼はくっきりとくまが出来、一気に十も老けたように見えた。『殿下とセレナのお子ならばどんなに可愛い孫になるでしょうか』と笑っていたこの男から、自分はたくさんの恩を受けながら、一番の宝を踏み躙り奪ってしまった……。
「……出来れば、セレナに詫びを言わせて欲しい」
「申し訳ありませんが……お許し頂けるなら、今は……。血に汚れています故」
公爵は血の気の引いた貌で柔らかに謝罪を拒絶する。
そうだ……詫びを言う資格もない。詫びても何も返らない。
「解った……では、葬儀の時に」
「お汲み取り頂きありがとうございます」
公爵は、担架を断り、自らの腕に愛娘の屍を抱いて、息子と共に静かに広間から退出した。広間には泣き声ばかりが響いている。最上位の貴族の姫でありながら、明るく隔てのないセレスティーナは、皆に愛されていた。
声にはならない非難の視線が浴びせられている気がした。それも当然だと思う。
「殿下……お許しください……わたくしの子どもたちを……」
修道院長が泣きながら取り縋る。一番見たくない顔だったが、アシル=クロードは苛立ちをぐっと抑えて、
「聖職者であるあなたを裁く権限はない。孤児院には警備をつけ、脅迫状の事も調査させよう……どうせ終わった事だが」
と答え、身を翻した。
奥へ戻ろうとした時、場にそぐわない華やかなものが視界に映った。シェルリアだ。ぽろぽろと涙を零している。
「申し訳ありません、殿下……」
「……貴女のせいではない。誤解だったのだから。しかし、今は話しかけないで欲しい……」
そう言ってアシル=クロードは、力ない足取りで奥へ消えて行った。
棘のある真紅の薔薇は涙の翳で密かに笑む。もしや従者の不始末の責を問われるかとそればかりが些か不安だったが、この一週間、ずっと付き添って『傷心の』皇太子を慰め続けてきた事が功を奏した。狙った獲物は逃さぬ美貌は今回も役立ち、男女めいたことはまだないものの、皇太子は長年のパートナーから裏切られた痛みを、『誠実な告発者』を信じる事で埋めようとしていた。いま、皇太子はこれまでとは逆に、疑う事を避けようとしている。いまは、これでいい……。邪魔な婚約者は退場した。
―――――
翌日、しめやかにセレスティーナの葬儀が執り行われた。
棺の中の彼女は、亡き母の遺した形見のウェディングドレスを纏っている。父公爵が大切に保管していたものだが、娘にウェディングドレスを着せてやりたかったからと。
死に化粧が施され、苦悶の痕はもうない。ただ美しく、安らかに眠っているようだった。
「セレナ……愚かだった私を許してくれ……きっと、おまえの言ったように、立派な皇帝になる。私が後に誰を皇妃にしようと、私の妻はおまえだけだ……」
アシル=クロードは冷たい彼女の頬に触れて誓う。
棺の蓋が閉められて、セレスティーナ・フィエラは皆の哀惜の声に送られて、地中へ葬られた。
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