光の届かない場所 07

 十分深くまで潜ってきたことを確認し、タジは呼吸弁を外して少しだけ空気を吐いた。

 水面から届く光は全くない。また、海底に作られていた水棲魔獣の街の光も届かない。

 静寂と暗黒。

 肌に染み込む海水は冷たく、ゆっくりとタジの身体を蝕んでいく。

 沈まぬ太陽によって作られた時間の牢獄がタジの意識を刈り取るとしたら、暗黒に染まった水底はタジの身体感覚を奪う。

 視覚は閉ざされ、聴覚は奪われ、嗅覚は機能せず、味覚に意味はなく、触覚は海中に溶け込む。意識だけがやけに肥大して、体全体が脳になってしまったような違和感を覚える。

 意識がそこにあるだけの存在。外部に発信する術がなく、ただ水底に意識のみが漂うだけの存在。

 まるで幽霊のようだ、とタジは自嘲した。

 陽の光から逃げるために、自分はその存在を意識のみの存在に変貌させている。培養液に脳だけを保存して不老不死を手に入れたと息巻く近未来の権力者のような想像が、タジの頭を過っていく。

 まるで夢物語だ。

 母なる海に体を奪われ、意識すらも水の中に広がっていくのならば、もはや個人としてのタジという存在はいなくなったようなものだ。ただ考えることができるだけの無為な思念体。

 それも、太陽の目から逃れるためだ。太陽とはつまり監視の目であり、あまねく光がタジを捕えようとしているのだから、光のない場所で警戒が解かれるのを、あるいはその時間の牢獄を作り上げた魔法が解かれるのを待つしかない。

 しかし、いつまで……?

 タジはわずかに戦慄した。

 いくらでも、待つことはできる。とは言え、まるで一秒が十秒にも感じられるほどに圧縮されたような時間の密度の中を、どれだけ待つ必要があるのだろうか。意識を刈り取られ、シシーラの村と沢の間とを延々往復していた頃は、思考停止して体を動かしていたのでまだ大丈夫だった。

 今度は、体を動かすこともできず、ただ無限に広がる闇の中を意識だけが光の速さで疾走していくのだ。

 そこにはあらゆるごまかしが効かない。

 止まらぬ思考はやがて力尽きる。あらゆる世界を想像して、なお届かぬ想像の果てに、タジは思考を止めるかも知れない。

 身体感覚を全て奪われて、さらに意識も奪われたとき、人は死ぬ。

 正確には、生死不明の状態で存在することになる。誰かが、それを生きていると認めてくれない限り、その人は存在が曖昧な状態でそこに「ある」だけになる。

 しかもここは人間の安易に生きることのできない海底深く。

 タジがどこにいるのかなど、誰も分からない。いや、タジ自身が分からないような場所に身を潜めているのだから当然だ。そんな世界で、生死の狭間に立つということは、言わば自ら望んで曖昧な状態に身をやつそうとしているだけだ。

 だとすれば、タジはせめて意識だけでも保ち続けねばならない。

 気の遠くなるような時間を、眠りもせず、身じろぎもせず、じっと待つ。

(地獄だな)

 時間との戦い。いや、時間との睨めっこ。

 どれだけの間、この膠着状態を続けなければならないのか。無音無明の世界でタジは一人、腹に力を込めた。

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