光の届かない場所 02

 繰り返す現実に疲れ切った脳が、それを酸素ボンベだと理解するまでに数瞬の間があった。そして気づいてからも、それが自身の見た幻なのではないかとも思った。

「どうかしたさ?」

 大岩の間を口を開けてぼんやりと見つめるタジを不審がって、コンが声をかける。時間の牢獄は、コンがタジと共に沢にやってきたという経験をすっかり消し去っているらしく、村から沢に向かうたびにタジはコンに案内されるという体になっていた。

 もちろん、これまでタジがさんざん行ってきた様々な試行錯誤をコンは知らない。

 タジ自身もそのほとんどを忘れ去っているのだから、それらの何千何万と言う試行錯誤が本当に存在していたのかすら定かでなかった。

 今はそれよりも、この場に酸素ボンベが突如として現れたという方が重要だ。

「いや、何でもない」

 表面上は冷静であっても、タジは内心焦りを抑えきれなかった。心臓がドクンと大きく脈打つと、今まで靄のかかっていた脳がにわかに起き始める。鈍化した思考力が明晰となって、目の前の全く異質な存在をどう扱うか、必死に思考を巡らせる。

 コンに気づかれてはならない。コンは仕掛け側だ。仕掛け人が誰であれ、あるいはコンが仕掛け側だと気づいておらずとも、彼女にあの酸素ボンベの事を気づかれてしまえば、また時間の牢獄に繋がれるだろう。

 恐らく、とタジは考える。

 あの酸素ボンベは、このまやかしの世界の特異点だ。これまでの世界の常識からは外れた、現代的な技術の産物。存在していること自体が何かの暗示であり、このまやかしの世界から抜け出すための切り札だと考えるのが妥当だ。

 また、今この場には制限時間がある。

 コンが洗い物を終えて、それらを大岩の上へ干す。

 それまでの時間。

 干し終えれば、抗いがたい睡魔に襲われ、タジは眠りにつくだろう。眠りについた後に、依然としてそこに酸素ボンベが置かれている保証はない。事象の綻びが、そんな簡単に何度も現れるのであれば、これまでやってきた苦労と矛盾する。

 つまり、このひと時が重要なのだった。

 コンも最初はタジの気づきに不審がっていたものの、今はすっかり手桶の中の洗い物を沢の水で濯ぐことに夢中になっている。

 動くなら、今だ。

 タジは身体を清めるふりをして、ゆっくりと酸素ボンベに近づいていき、それを手に取ると、大岩の林の中にそっと身を潜めた。

 コンに見られることの無い、岩陰の、特に日の当たらない場所。

 タジは急いでその酸素ボンベを調べ始める。何の変哲もない一般的な物で、上部についた計器にはボンベの中身が満たされていることが分かる。圧力調整装置もついており、酸素ボンベではなく潜水用の酸素タンクと言った方が正しそうだ。

 もしこれが、この時間の牢獄における特異点であるのならば、きっとそれ自体に現状を打開するための何かが描かれているはず。

 そう思ってタンクを回し見ていると、側面にそれらしい模様が描かれていた。

「太陽と月……?」

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