凪いだ海、忘却の港町 46

 イロンディに手渡された詳細な地図は、彼女の人生そのものだった。

「地図は、描き直すものですから」

 月明かりの下でいくらか不満そうな顔をしながら、イロンディはタジにそれを手渡した。眠りの国からシシーラの村までの道のりが詳細に描かれている。

「大体の方向が分かればいいだけだから、無理して俺にくれなくてもいいんだぞ」

「ここで恩を売っておけば、タジさんは無下にはしないでしょうから」

 釘を刺すのも忘れないのだから、やはり強かだった。

「そうかい。じゃあ、遠慮なく貰っておくことにするよ」

 顔に不満と大書してあるイロンディの表情は、地図を持っていかれることよりも、その場に置いていかれることの方がよほど堪えていた。だからタジはイヨトンのムヌーグの二人に強く言って、この常識破りの女性を浮世につなぎ止めさせた。

 着の身着のまま、とは言うが、タジの旅装はもはや旅装ですらない。

 ちょっと近くの川まで散歩に出かけると言った気軽な服装である。追手から逃げるにしてももう少し何か持っているだろうと思われるくらいに、タジは無手であった。

 持っているのは、懐に忍ばせた地図くらいのものである。

 タジは地図を見ながら、夜通し駆けた。

 地図の縮尺は眠りの国からポケノの町に至るまでの道のりを考えればおおよその見当はつく。その測量技術は思った以上に正確で、タジの想定していた距離と同じくらいの距離だった。むしろタジの推量の方がよほど不正確だ。

 時折、空高く跳ねて周囲を地図と見比べると、森林の形はいくらか変わっているものの、山や川(川もまた、ポケノの一件でずいぶんと様変わりはしていた)を見ることによって自分の居場所は分かった。

 後は、地図に従ってシシーラの村のある方角へと進むだけだ。

 ムヌーグたちと別れる前に、眠りの国がどう動き始めているのかを尋ねたが、具体的な動きは二人も知らされていなかった。ただ、王議の決定のみが伝えられ、その決定に対して騎士団内がにわかに慌ただしくなっていたということだった。

 騎士団全体が慌ただしくなっているのだとすれば、国が大々的に動くのだろう。だとすればその歩みは決して早くはないはずだ。まして眠りの国は太陽を信仰する宗教の中心地でもある。夜中に追手を差し向けるということはまずもってするまい。

 余裕をもってシシーラの村に着けるだろうが、だからと言ってタジは暢気に旅程を楽しむわけでもなかった。

 旅路を楽しむにも先立つ物が必要だ。見栄を張ったわけではないが、タジの懐には本当にわずかばかりの粒金があるだけだった。

 金貨や銅貨は、紅き竜に炎を吐かれたときに溶けてしまった。鋳つぶされた粒金にはさほどの価値もない。ましてやシシーラの村でそれが流通するかも定かでない。

「まあ、何とかなるだろ」

 タジは楽観して、ひたすらに駆ける。

 山を越え、また山を越え、急峻な下りの斜面を飛びながら降りていく。地図に書かれた交易路を無視してシシーラの村へ直進する。

 やがて、空が白んできた。

 日の出とともに鳴る鐘の音を聞かなかったのは、久しぶりだった。眠りの国では日の出とともに必ず鐘が鳴る。鐘の音と共に、人々は一日を始める。

 鐘の音の代わりとばかりに、ふと、潮の香りが漂った。

「ああ、懐かしいな」

 遠く向こうに、水平線が朝日を反射させていた。

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