凪いだ海、忘却の港町 43
「よくありません!」
イヨトンの拘束を逃れて、イロンディが叫んだ。
常人離れした人間の力を振りほどくのに、力は必要ない。必要なのは、友好的であるか、あるいは従順を示すことだ。そして、イロンディの技術はまさしくこういう場面でこそ生きる技術である。
体を押さえつけながらも、イヨトンはどこかイロンディに対して同情的な仕草をとっていた。ほんのわずか、タジが目を離した隙にこれだけの関係改善ができるのは、イヨトンの存在を消す技術と同じように、何かの魔法を思わせる。
「私はもともとこの国にいて普通の生活などしておりません。ほとんどを他国や国の目の届かないところで生活しています。それにそもそもタジさんを巻きこんだのは私なのですから、罰せられるは私です」
いくら月夜に虫の音がうるさいほどだと言っても、人間の声はよく通る。最初に叫んだ声よりいくぶん抑えて説明するイロンディに、タジは冷ややかに言った。
「普通の生活はしているんだよ、イロンディ。お前はどこの国に行こうと、いかに国の庇護下にないところに行こうと、この国が帰る場所なんだ。そう言った場所に行く理由がこの国にある以上、普通の生活をしていようがいるまいが、お前の社会はここにある。それは曲げようのない事実なんだよ」
「だからと言って、私のせいでタジさんに迷惑をかけるなんて……ッ」
「別に俺は迷惑だなんて思っていない。言っただろう?俺は俺の思うがままに行動するだけだ、と」
「タジ様は破天荒ですからね。誰よりも自由を求めるゆえに、常識をも踏み越えていってしまう」
「俺は一応まだ常識を踏み越えた覚えはないんだけどな」
「エダードを従えていてどの口が言うのですか。彼は伝説の魔獣、一個騎士団が立ち向かっても歯が立たないような強さなのですよ?」
ムヌーグたちは、紅き竜エダードの正体を知らない。エダードが女性性であることも、タジが引き連れているのがエダードによって生み出された彼女の分身体であることも。
「ああ、そうか。紅き竜を引き連れているのも、国王にとっては悩みの種ではあったのかも知れないな」
飼い犬のように扱っているとはいえ、一人の人間であるタジが常軌を逸した化け物を付き従えていることに懸念を覚えるのは当然だ。そう言えば、チスイの荒野での一件においてもその辺りの懸念が引き金の一つになっていたことをタジは思い出す。
であれば、ますますタジがこの国にいる理由がない。魔獣に唆されただのなんだのと脚色して、とっとと太陽の御使いという称号をはく奪してしまえばいい。
いや、もうはく奪されているのかも知れない。
「タジ様」
「どうした?」
「いや……誰が、というよりはどの国王が最初にタジ様を排斥しようとしたとかは、疑問に思わないんですか?」
ムヌーグが尋ねた。
「それを疑問に思ってどうする?王議がどのように進められているかも知らないが、俺の知っている限り、四人の王の間で結論に対し意見が別れることはないのだろう?だとしたら、レダ王でさえも、事ここに至って最初から俺を排斥しようとしていたということになる」
今回の決定がタジにとって青天の霹靂であったことは事実だ。しかし、急な転向に湧く疑問は、その仕打ちへの怒りよりも困惑が濃い。
きっと、自分自身が、この国に対する未練がないのだ。タジはそう思うことにした。
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