凪いだ海、忘却の港町 39
「そういえば、イロンディは周囲を警戒する技能はないのか?」
麦穂の間から頭を出しながらタジが尋ねる。周囲に獣の気配は無い。霞がかった月明かりの下は、虫の音と麦穂のささやきで満たされている。静かな夜、というにはあまりに虫の声がやかましかった。
「人並みに、としか言いようがありません。こうして身を潜めて辺りをうかがう程度のことはできますが、超人めいた五感や第六感によって危機を回避するなどは、夢物語です」
「なるほどな」
未開の土地や、未踏の場所を訪れて地図を作ろうという職業であれば、そういった周囲を警戒する技能というのも長けているのかと予想したのだが、そういう訳ではないらしい。
「他者ができることは他者に任せればよいのです」
「なるほど、そのように仕向けるのが共感の技術という訳か」
「仕向けるというと語弊がありますが」
共感の技術というのは、友好的に用いるのならば、他者が何に対して興味を抱き、何をもって相手を信用するかを探る技能だ。未開の土地の歩き方を知っている者、未踏の場所を進む勇気のある者を味方につければ、長い時間をかけてその土地や場所に適応するために必要な技能や知識を習得する必要がなくなる。
「ですから、今はタジさんに警戒をお任せしているんですよ」
「ものは言いようだな」
それは結局誰かに依存しなければ立ち行かない技術だ。
「それでいいんですよ。人は一人で生きてはいけないのですから」
「至言だ」
タジが声を上げずに笑う。麦穂に全身を埋めるイロンディも同じように笑う。
そんな二人の微笑を壊したのは、獲物を求めて気配を察した野生の獣でもなければ、人間を襲いその血肉を食らって強くなろうと欲する魔獣でもなかった。
空から刀が降ってきたのかと思った。
その刀は空中で制止し、タジの喉元にピタリと当たっている。突然の緊張に喉を鳴らそうものなら、その動きで剣の切っ先が触れてしまうのではないかと思うほどの距離。
それと同時に、月光が翳った。
まるで最初からそこに佇んでいたかのようだった。タジの認識の外から突然存在が現れたのではないかと思われるほどに、その出現は不自然で、そして佇む姿は自然だった。
タジはその正体を知っていた。
それは技術だ。
気づかれにくい、という段階を超えて、ほとんど別次元に存在しているかのように存在を消す技術。
ムヌーグの部下であるイヨトンが得意としていた技術だ。
しかし、目の前で剣先をタジの喉元にあてている人物は、イヨトンとは別の人物である。
「ムヌーグ……?」
月明かりを背負い、逆光にわずかに見える顔は、ムヌーグだった。
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