凪いだ海、忘却の港町 38
眠りの国の夜は深い。
これほど稠密な人口密集地帯であるにも関わらず、夜の街は閑散を絵に描いたように静かだった。虫の声と警邏の足音、それからわずかに爆ぜる松明の音。
酒場の喧騒もなければ、夜を楽しむ貴族の声も、暗躍する役人の押し殺した笑い声もない。
太陽の沈んだ時間には、仕事をしてはならない。
これは太陽を信仰する眠りの国の教義の一つである。眠りの国の民は、すべからくその教義を律儀に守る。夜に活動するのが許されるのは、国の治安を守る警邏の騎士と、火の番をする者くらいだ。どれだけその人間が貧乏であろうとも、夜の時間を使って悪事を働くことはしない。
それはタジから見れば、倫理を超えた何かのようにさえ感じられるものだ。
例えば、人間は眠っている間に仕事をすることはできない。本を読むこともできないし、誰かと会話をすることもない。外部の刺激に対して反応することはできるだろうが、そこには思考を伴う何かはない。
そういう本能や欲求に近い段階で、彼らの信仰は成り立っている。
彼らにとって夜とは眠りそのものであり、活動から最も離れた場所に位置する時間帯なのである。
「だからといって、今こうして動き回るのは……」
タジは、イロンディと共に夜の眠りの国から転がり出た。実りを迎える穀倉地帯の一所にジッと隠れて、静かに息をひそめている。頭を下げる麦穂の香りが妙に心地よい。
これが昼間であれば、まだしものんびりできただろう。
しかし今は夜中である。魔獣でなくとも夜は野生の獣が現れる時間帯だ。闇に乗じて狩りを行う獣は少なくない。
「俺の予想が正しければ、今夜に限っては外に出ていた方が安全だ」
「どういうことですか?」
人間もまた、獣だということだ。
本能に近い段階で成り立つ信仰を悪用する人間も、決して多くはないが存在する。虹の平原がチスイの荒野だったころにタジが出会った指揮官は、魔獣と結託して自分達のみが利するように働きかけた貴族と共に、タジを排斥し、あわよくば討伐しようとさえした。
今回の事態もまた、彼らにとってタジがよろしくない存在になっているのかもしれない。
だとしたら、チスイの荒野で夜討ちに遭ったように、今回もまた、夜中に襲撃がないとも限らない。特に問題なのは、タジ自身に危害を加えようとするのではなく、その周囲の人間に危害を加える場合だ。
つまり、標的がイロンディである場合。
「俺一人なら宿屋でのんびりしていても良いんだがな、イロンディがいると色々と手間がかかる」
「それは……」
市場で手に入れた様々な必需品は、今まで泊まっていた宿屋とは別の宿屋に置いてきた。タジも初めて使う宿屋だったので足元は見られたが、多少ぶっきらぼうにされようと、荷物部屋なのだからどうでも良かった。
最悪の場合、イロンディの調達した荷物は置いていく必要もあるかも知れない。そこまでの覚悟は彼女に伝えなかったが、決してあり得ない話ではなかった。
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