凪いだ海、忘却の港町 26
タジに負ける気は決してない。不利な状況だろうと勝てるという確信があれば、タジは勝てる。とはいえ、不利に伴う周囲への被害は甚大を極めるだろうし、タジ自身も疲れるだけだ。
いらぬ戦いを強いられるくらいなら、という思案がタジの中にあったことは確かだった。
「ミレアタンは交渉に応じてくれると思うか?」
「さあ、どうかしら?彼は酒も飲まないし女にうつつをぬかすこともない。何で彼を気をひくのかを考えないと、絵画に向かってにらめっこを挑むようなものだわ」
ミレアタンが人間に対して敵対心を持っていない以上、最善策は交渉によってその場を去ってもらうことだろう。戦わずして勝てば、戦って害を被るよりもずっと有利である。
討ち倒したという名声は威を示すが、交渉し従わせたという名聞は武力に勝る交渉力を周囲の国々に示すことになるだろう。前者はタジへの属人性が高いが、後者はその風聞にこそ力が宿る。
魔獣に対して交渉を行い、従わせることができたという風聞こそが、その後の周囲への交渉を自然と有利にするのだ。
タジにとっても、戦わずに済むのであれば面倒がない。眠りの国の政治的中枢にタカ派がいない限り、交渉は最善策である。もっとも、タカ派を抑えるだの交渉は許されないだのという話をされようと、タジ自身は自由にふるまうだけだ。
「何か助言はないのか」
「ないわ。実際に会ってみれば分かるだろうけど、彼には欲がないのよ。心安らかに、水面に漂うように生きていたい。それがミレアタンの真情」
「怠惰かよ」
「そうね、怠惰と言っていいわね」
話している間にも、エダードは樽の酒を杯で掬い取っては飲み干していく。すらりとした小柄な女性の姿をしているその体躯のどこに酒が入っているのかすら分からない。上気し、月光の照らし出す桜色の頬から、酒の匂いがするのではないかと思うほどだ。
「しかし、なぜわざわざシシーラの村沖を凪にしてそこに棲んでいるんだ?」
「あら、三度目の無意味な何故を問うのかしら?」
「いや、これは必要な問いだ。もしその問いに対する答えが見つかったのなら、それは交渉のきっかけになりうる。そこにいなければならない理由があるとすれば別だが、特に理由がないのであれば、条件によっては退いてくれもするだろう」
「なるほどね。でも残念だけどアタシに助言をあげられるだけの彼の知識はないの。ザンネンね」
「交渉が可能だと分かっただけでも十分に収穫だ」
タジは杯の中の酒を飲みほした。
「しかし、本当にいい酒だな……」
「魔獣にささげるにはもったいない?」
酔いの回ったエダードは、艶めかしくに小首を傾げる。その美しさはまさに傾国のと形容すべき美しさだ。
「エダードが普通の魔獣だというのならあるいはもったいないと思っただろうがな。相手は災害のような強さをもった伝説の生き物だろ?酒くらい必要だろうよ」
「まあ、及第点ね」
そう言ってエダードは微笑むのだった。
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