【番外編】温泉好きの竜 30

 すっかり汚れを落として湯船に浸かると、一仕事終えた後の風呂は格別に気持ちがいい。

「これで酒でもあれば最高なんだけどな」

「荷物の中に入っていたはずよ」

「……は?」

 こともなげに言うエリスに、思わずタジの開いた口がふさがらなくなる。湯に浸かりすぎてややのぼせたのか、エリスは自ら石化した小屋へと戻り、荷物の中から革袋を二つ持って戻ってきた。

「これよ」

 手に取ると、ひんやりと冷たい。中身はわずかに凍っているようだ。あまり度数の高くない酒なのだろう。

「用意周到なことだ」

「アタシは自分の欲望に忠実だと言ったはずでしょう?」

 タジに荷物を背負わせるよりも前に、エリスは商人に話をつけて酒を忍ばせておいたということになる。大荷物の中で革袋に入った酒程度ならほとんど誤差の範囲ではあったが、してやられたという気持ちは拭いきれない。

 鼻白むタジだったが、一方でエリスがわざわざ一仕事終えるのを待っていたことも理解できた。魔獣の痕跡があった以上、縄張りを害する人間が現れた場所に魔獣が現れないはずがなく、戦闘は不可避だ。だとしたら、祝杯は戦闘が終わるまで待ってからにすればよい。

「なんだ、俺と一緒に酒を飲みたいのなら素直にそう言えばいいのに」

「うぬぼれ」

 湯もみで冷めた湯は、ちょうどよい温度に戻っていた。エリスは浴槽の縁に腰かけて、革袋ごと豪快に酒を呷り始めた。湯船にすっかり浸かるタジも同じように革袋の口から中身を呷る。

「何の酒だ?葡萄酒にしてはやけに酸っぱいが……」

「ただの葡萄酒よ。ヤマモモの果汁を混ぜてあるだけ。強い酸味と香りのする果物で、周囲の臭いを中和してくれると思ったんだけど、意外と温泉の臭いは気にならないみたい」

 他の感覚に比べて嗅覚は少しくらいなら刺激に慣れる。よほどの有害物質が放つ悪臭でない限り、人間は臭いに慣れてしまうのだ。今もきっと温泉自体は硫黄泉の独特な臭いが辺りに漂っているはずだが、それが気にならなくなっているのは完全に慣れであった。

「まあ、そんなもんさ」

 ヤマモモの酸味と香気が鼻を突く。冷えているのは、この突き刺すような果物の香りをより際立たせるためだ。口の中でゆっくり噛みしめるように味わうと、頭痛がするくらいの酸味に思わず目をしばたたかせてしまう。

「それより、俺の肩は治してくれるんだろうな?」

 温泉と酒とを十分に味わいながら、タジが問うた。

「肩?そんなの、もう治ってるでしょ?」

「は?」

 革袋を持ち直して傷を負った肩に触れると、確かに石化は治っていた。

「アンタの抵抗力では、ちょっとやそっとじゃあ傷つかないのよ」

 そもそもタジが本気だったならば、力の弱い搦め手型の魔獣の攻撃など受け付けないはずで、それで怪我を負ってしまったのはむしろタジ自身がその攻撃がどのような効果があるのか興味を持っていたからだという。

「確かに、ちょっと石化には興味があったが」

「油断というよりも遊びに近いわね。それで怪我しているからとんだお笑い草だけど。でも、結局アンタの毒に対する抵抗力が勝った」

 そもそも肩が完全に石化してしまえば、腕を自由に上げることすらままならない。

「肩こりみたいに感じていたんだろうけど、その時点でアンタの肉体は石化毒を中和していたって事ね」

「エリスは俺のその抵抗力とやらを知っていたのか?」

 もちろんよ、とエリスは酒を一口飲む。

「っていうことは、俺がまず石化することがないというのを知っていて風呂掃除をやらせたってことか!?」

「情報の非対称性は、交渉を優位に進めるには最高の手札よねー」

 ホッホッホ、と高笑うエリスの隣で、タジはすっかり石化の治った肩をがっくりと落とした。

「石化よりもお前の仕打ちの方がよっぽど肩にのっかってくるぜ……」

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