荒野に虹を 60

 人間が魔獣化する、という話は確かにタジも聞いた。

 しかしその現象が起こったのは、既にこと切れた、あるいは大けがを負って意識を失った人間だったものが魔瘴を浴びたためである。姿形は変わらず、ただ人間に対して敵意をむき出しに襲ってくるだけの殺戮人形と化したというが。

「ガアアアアァァァァ!!!」

 巨大な岩石を思わせる人型魔獣の拳がタジに向かって振り下ろされる。ひらりと横にかわすと、地面に叩きつけられた拳の衝撃で地面が大きく揺れた。

「ラアッ!」

 タジが避けた方向に振り下ろした拳をさらに振るう。生じた暴風とでえぐられた土砂が辺りに飛び散った。

 今度は後方に飛び退くと、人型魔獣は自分が振り動かした拳の挙動に耐え切れず、身体の均衡を失って転んでしまう。

「知能なしかよッ!」

 その身体に慣れていないのだとしても、あまりに身体感覚がお粗末に過ぎる。

 わずかに距離をとったタジの前で、じたばたともがき立ち上がる人型の魔獣は、タジの身長の2倍をゆうに超えていた。

 元は普通の人間である。

 それが魔瘴を取り込んだだけでこの調子。聞く耳を持っているのかすら怪しかった。もっとも、人間の状態でタジの話を聞かなかったかもしれないことを考えれば、呼びかけるのも意味はないかも知れない。

 のっそりと立ち上がった魔獣は標的に向かって走り出し、サッカーボールを蹴るようにタジを思い切り蹴飛ばした。

 魔獣の爪先に飛び乗るように回避して、タジは月明かりに照らされた魔獣の顔を見た。人間としての面影があるか、それが知り合いかどうかを確かめるためである。

 しかし魔瘴による莫大な体組織の変形は、四肢や各器官の機能を残すのに精いっぱいで、みてくれを気にするような生易しいものではなかった。赤ん坊にも老人にも見えるような、刻まれた皺と艶やかな肉、それらを覆う体毛。

 魔獣は、徐々にその動きが良くなってきていた。

 闇夜にキョロキョロと辺りをうかがい、体の各部の動作を確かめるように指先や足首をしきりに動かしている。先ほどまでの不用意な攻撃がまるで出来損ないででもあったかのように、魔獣の四肢に精密さが宿っていく。

 魔獣は笑った。

「ゴオオアアアァッッ!!!」

 月に吠えた。

「なるほど、声帯が未発達なんだな」

 急速な身体の異常発達によって混乱をきたした脳が、ようやく現状を理解し始めたのだろう。動かし方を理解し始めると、全く人間と同じように動き始める。

「しかし悲しいかな、ガルドには遠く及ばない」

 体長で言えばガルドの方がやや大きいくらいだったが、人型相手なら構造を理解している分、与しやすい。刺客としてタジの前に立たざるを得なかったのは不幸だが、道を阻むなら倒すしかなかった。

「すまんな」

 一瞬で距離を詰めて魔獣の腹に風穴を開けようとしたところで、タジは上下から鋼鉄のような硬い何かによって押しつぶされた。鈍い音が辺りに響き渡り、タジはほんの一瞬、意識を失った。

 視界が開けると同時に目覚め、その場を回避する。しかし上下から襲いかかる鋼鉄の塊のようなものは、回避するタジを追いかけるように襲い来て、再びタジを押しつぶしにかかった。

 両手両足で潰されないように支えるその物体は、魔獣の手が変形したものだった。

「……ッ!マジかよ!」

 蹴り上げ殴りつけ、タジが地面に着地すると、魔獣の両腕は長剣と騎士盾を模したそれになった。

 鈍色の刃が月明かりを反射する。

 昆虫の外骨格や、動物の爪や角のように、人型の魔獣は文明の利器の一つである武器を自らの体内より生じさせたのだった。

「そんなんアリかよ」

 魔獣は、右手の長剣を大きく振り下ろした。

 地面に大きく入った斬り跡にわずかに気をとられているうちに、騎士盾を構えて突進してきた。攻撃を防ぐためではなく、突進で圧をかけるための盾の使い方に面食らったタジは、騎士盾に体を弾かれて、思いきりよろけた。

 その隙を逃さず、魔獣は再び長剣を上段に構えて斬りかかる。袈裟斬りの一撃をまともに食らって、タジは地面に倒れた。

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