荒野に虹を 26
「ニエの村で仕事をしているんじゃないのか?」
「私がついていなければ何もできない赤ん坊など、私の中隊には存在しませんよ」
扉を閉めて、二人の座る丸机に椅子を増やして座る。
遠くで鐘の音が鳴った。一度目の鐘は日の出の鐘、今鳴った鐘は始業の鐘だ。
鐘の音と共に外はたちまち活気づく。喧騒、足音、あるいは怒号。やがてこの兵舎にも人の動く匂いが届いてくるだろう。
「少し、悪い噂を聞いたものですから」
「悪い噂?」
丸机を囲むムヌーグの前に陶器のカップを差し出したのはイヨトンだ。ムヌーグは元々イヨトンの直属の上司である。カップに白湯を注ぐと、ムヌーグはそれを傾けた。あっという間に飲み干してカップを下ろすと、イヨトンは茶を取りに行くと言って部屋をするりと出て行く。
「ええ。チスイの荒野が大変なことになっている、と。それにタジ様が巻き込まれておいでなのではと思いまして様子を見に急ぎ眠りの国までやってきたのです」
「俺は赤ん坊じゃねぇぞ」
「あら、お守りは重宝したのではありませんか?」
「この国はまだ分からないことばかりだ」
「世界に無知であることを赤ん坊と言わずに何と言えばいいのでしょう?」
「……相変わらず切れ味の鋭い言葉の使い方をする」
「太陽の御使いにお褒め頂いて光栄ですわ」
太陽の御使い、という言葉にタジは目を大きく見開いた。
その言葉の意味するところは、ニエの村までタジの情報が届いているということだ。太陽を信奉する眠りの国において、太陽の御使いという言葉、肩書きの持つ意味が小さくないということは、いくらこの国の世事に疎いタジでも容易に想像できる。
それがムヌーグの口から出たことに、タジは妙な心地悪さを覚えた。
「顔に出るのは変わっていないのですね」
ムヌーグが人を食ったような笑みを浮かべていると、イヨトンが水差しを持って戻ってきた。ムヌーグのカップを奪ってイヨトンの前に向けると、しょうがないと言った様子で茶が注がれた。
タジはそれを一気に飲み干して、カップだけをムヌーグに返す。ムヌーグは邪悪に微笑んだままだ。
「ムヌーグはそういう奴だったよ」
「あら、奴だなんて心外な。タジ様こそ、イヨトンを召使いか何かだと思っていらっしゃるのでしょうか?」
「お守りだろ?自分でいったばかりじゃないか」
「では、ご自分が赤ん坊だとお認めになると」
「認める訳ないだろ」
二人の会話の間で、イヨトンがクスクスと笑っている。何が可笑しいのかとタジは苦い顔でイヨトンに目を向けたが、それがまた助けを求められているようにイヨトンには感じられるのだった。
「それで、太陽の御使いというのは?」
「太陽の御使い、というのは言ってしまえば救世主の別称です。チスイの荒野で何か悪いことが起こっているならば、それをタジ様が見て見ぬふりをするはずがなく、そしてタジ様が行動を起こすのであればたちまちのうちに解決するでしょう。今度は一体何をなさったのですか?」
「イヨトンは結果だけを報告したと?」
「あら、私はタジ様の口から聞きたいだけですよ。ほんの世間話ではありませんか、救世主様」
「今度俺のことを救世主って言ったら口を縫い合わせるぞ」
「まあ怖い」
クスクスと笑いながら、ムヌーグはタジの語るチスイの荒野の顛末について耳を傾けた。
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