祈りの歌姫と紅き竜 起01

 歌姫は戦場をふわりと駆け巡る。

 背中に翼が生えているかのように、歌姫は駆けていた。その跳躍は人間の背丈をゆうに越え、幅は戦車二台分を飛ぶ。無重力に近い状態で体操選手が床運動をすれば、近い動作ができるだろうかという動きを、歌姫は地上で、しかも歌いながら行っているのだ。

「我が軍には歌姫の加護がついている!」

 振りかざす剣をひらりとかわして戦場の人間に歌を届ける歌姫の姿は、美しき妖精を思わせる。そして、その歌を一節でも聞けば、聞いた人間はたちまち全身に力を漲らせて、通常では敵わないような魔獣に対して果敢に攻めることができ、それでいて痛みを感じず、疲れも知らぬ強靭な戦士へと変貌する。

「この地の平和は我らの活躍にかかっているぞ!」

 指揮官の檄に、地響きのような歓声が轟く。

 それでも歌姫の声がかき消されることは無い。汚泥の上にふわりと乗せられた真っ白な羽毛が決して沈まぬように、戦士たちの獣のような咆哮の中に、歌姫の美しい歌声はかき消えないのである。

 いつしか、この地は「チスイの荒野」と呼ばれるようになった。

 他の地域に比べて魔瘴の発生率が異常に高く、そのために個々の魔獣が持ちうる力も非常に高い地域である。チスイの荒野の先には採石場があり、石材の安定供給のためにはチスイの荒野の平定は不可欠だった。荒野を避けて遠回りしようとすると、川に当たってしまい、石材を運ぶために遠回りをして、その上崩落の危険にさらされながら川を渡るとなると、採算が合わなくなってしまう。地政学的にも、チスイの荒野が魔獣の橋頭保となり、眠りの国を穿つ裂け目となるのは危惧すべきことだ。小麦粉を水で練って丸めたものに指を突っ込めば表面積が増えるように、チスイの荒野が魔獣によって荒らされるのを放置すればそれだけ戦線が伸び広がってしまうのである。

 それを避けるために、眠りの国はかなりの力を注いできた。最近にわかに魔瘴の発生が盛んになってしまったために、より多くの人員を割り当てなければならない事態になっていた。多くの人間による強力な魔獣との戦闘、そのために流された血を吸い上げるようにして保たれる仮初めの平和……血吸いの荒野とはそういう意味であった。

 事態を緩和させたのが、祈りの歌姫である。

 祈りの歌姫は戦場を駆けて歌を歌う。その歌を聞いた人間は、屈強な戦士となって普通の人間には発揮できないような力を揮うようになる。個々の力を引き上げることによって、数を恃む戦法から歌姫の歌に頼る戦法へと変わり、チスイの荒野の力の均衡は大きく人間側へ傾いた。

 チスイの荒野は歌姫の活躍によって瞬く間に平らげられ、眠りの国を穿つ大穴は塞がり、戦線は押しあがったのだ。

 しかしそれを手をこまぬいて見ているばかりの魔獣側という訳でもなかった。

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