祈りの歌姫と紅き竜 起02

 チスイの荒野で最も力の強い魔獣を、人々は紅き竜エダードと呼んで恐れた。

 エダードは人間に換算すれば何世代も前から荒野にたびたび現れる、行ける伝説と恐れられる竜である。普段は自ら戦線に立つことも無く、チスイの荒野における人間の領土と魔獣の領土の均衡を保つかのように、人間が戦線を押し上げ始めたときに現れては、人間側に壊滅的な損害を与える存在であった。

 祈りの歌姫によって、歌に頼って戦線を押し上げすぎた人間たちは、紅き竜の逆鱗に触れてしまったのだ。エダードは戦場を踊るように駆け巡る歌姫を見つけると、咆哮一閃、地上を火炎の息で焼き払った。

 人間側にも魔獣側にも、その炎は被害を与えたものの、空中を舞っていた歌姫には当たらず、無心のうちに焼け焦げた地面を爪先で触れて再び飛ぼうとした歌姫に向かって、エダードは突進した。

「歌姫を守れ!」

 全身に大火傷を負い、それでも動けるのを人間と呼んでよいのか。しかし歌姫を守るために紅き竜の進路を妨害しようとした人間は、まさしくそのような戦士たちである。焼け焦げた剣をふるい、盾を構え、しかし炭化した手足の末端は、エダードの羽ばたきによって脆くも崩れる。

「歌姫よ!こちらへお逃げください!!」

 人間の陣営へと戻るように指揮官が叫ぶ。しかし、歌姫と陣営を結ぶ最短距離を阻むようにエダードは立ちはだかった。

 歌姫はそこでようやく足を止め、歌を止め、まだ熱のこもる地面へと足をつけた。

 紅き竜と相対する歌姫。

 エダードが歌姫に二言三言話しかけると、歌姫の顔は険しくなる。それから一度、人間側の陣営に顔を向ける。指揮官が最後に見た歌姫の顔は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 歌姫の口が何かを語るように動いている。しかし指揮官に読唇術の心得はなく、次の瞬間にはエダードの鉤爪のような短い腕が、歌姫の体を拘束した。

 苦痛に歪む歌姫の顔。

 歌の聞こえなくなった戦場。

 紅き竜が体を起こして、地面を踏み込むようにして飛翔する。グラグラと揺れる大地、亀裂のそこかしこから魔瘴が噴き上げて、人間の形をかろうじて保っている炭化した生物の残骸に再び命が宿る。

 それを命と呼んでよいのかは定かではない。しかし、その場に生き残った人間たちの多くは、死んだはずの人間が再び立ち上がり、こちらに対して敵意を持って腕を振り上げ襲ってくる人間だったものの姿を目撃した。

 魔獣化した人間の誕生と、歌姫の加護がなくなった戦場は混迷を極めた。

 押し上げていた戦線は大きく後退し、ものの数日で人間の領土は勢いのついた魔獣によって侵略される。

 こうしてチスイの荒野はまたもや多くの人間の血をその大地に吸い取ってしまうのであった。

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