【番外編】川のぬしづかみ 5

 その日の晩、タジは宿としていた教会を抜け出て川に来ていた。

 出がけにトーイが寝ぼけた様子で話しかける。修道女は朝が早く、日の出に鳴らす鐘があるので、寝るのが早い。もっともそれ以外にも蝋燭がもったいないとか、単純にトーイがよく眠るといった理由もあるのだが。

「あれ、こんな時間にどこにお出かけですか?」

「酒を飲みに行くんだよ」

「嘘だァ、タジさんあんまりお酒好きじゃないじゃないですかァ」

「飲みたい日もあるんだよ」

「そうなんですかァ?ふぁぁ、まあほどほどにしてくださいね」

 脳がほとんど眠っているのか、それだけ言うとトーイは部屋に戻っていった。

「ぬしを肴に酒を飲むってか」

 自分で言って苦笑してしまう。魔獣などではなく、本当にデカいだけの魚だとしたら、食べたいと思う子どもの気持ちが分からないでもない。

「まあ、そういう巨大なサイズの淡水魚は泥臭いと相場が決まっているんだがな」

 夜更けと言うほどでもないが、夜になってからそれなりに時間は経っている。村の家々に灯りはほとんどなく、酒場の篝火も勢いはすっかり消えて熾きがやや残るのみだ。雲が出ているので、月を隠すと辺りが闇で満たされる。

 周囲の見回りを終えて帰ってきた騎士団の二人組と行きがけに挨拶をかわしつつ、村の中央を流れる川をやや上流に進み、簗を見つける。

 簗は壊されていなかった。

「懸念はあったんだが、杞憂だったな」

 アエリがぬしについて語った言葉は、水棲の魔獣の存在を仄めかしていた。だとしたら、簗が修理されたことを魔獣が気づかないはずがないし、気づけば必ず何らかの破壊工作を行ってくることは容易に理解できる。魔獣の中には縄張り意識が強い種がいることが確認されている。水棲の魔獣が自分の縄張りを荒らす人間に憤ることがありうるということだ。

「とは言え、何か気配はあるな……」

 魔獣の気配はどこか特別なものがある。

 どこかドロリとした、足元から這い上ってくる感覚。

 流れる川は清水で、月光を反射させると光を放つ魚が泳いでいるようにさえ見えた。実際、水中でひらめく銀色の燐光は魚鱗であったし、泳ぐことによって幾筋も流れるように見えるのは美しかった。

 しかし月の光が雲にかくれると、川は途端に空恐ろしさを増す。光を反射しない清水は液体状の黒曜石とでもいうべき様相を呈し、その奥からタジの事をジッを伺う何者かの気配が、水底の、淀みの辺りから感じられるのである。

「……確かに、いるな」

 視線が実体をもっているとすれば、これほど粘度の高いものはないだろう。用心深さと妬み嫉みとを混ぜ合わせたような視線を、例の大岩、クレイが簗で追い込み漁をするときに目印とした岩の水底辺りから感じる。

 月が隠れていなければ感じられないほど、暗く、微かな、それでいて粘っこい視線。水棲の魔獣は、存在を水に溶かして周りに気づかれないようにすることができるのかも知れない。

「なるほど、イヨトンが見せた技術に近いんだろう」

 野生が習得せしめた技術を目の当たりにして、感動に近いものを覚える。

「だからと言って、何度も簗を壊されるのも癪だからな」

 悪く思うなよ、と独り言を言いつつズボンを脱いで黒曜石のような色味の川に足を突っ込んだ。

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