狼の尻尾亭 23

「その時は、トーイちゃんを次の生贄ちゃんにするのが最も被害の少ない方法だったのよ……」

 アエリの目が泳ぐ。その姿にタジは怒りが噴火する前のマグマのように沸き起こった。タジは片手を握りしめ、テーブルに叩きつけて立ち上がった。

「目をそらすんじゃねぇ!テメェが一度決めたことを後悔するくらいなら初めからするな!欺いて他人の命を生贄にして、それでのうのうと生きて犠牲から目を背けるような人間になるんじゃねぇよ!」

 ムヌーグがテーブルの下で剣を準備する。気配を感じたタジは片手で制した。決して怒りに我を失っているのではないと言うことを表したかったのだが、それがムヌーグに伝わったかどうかは、タジには分からなかった。

「タジさん……なぜあなたが泣くんですか?」

 トーイが尋ねた。

 タジの目頭に涙が溜まっていた。溜まる涙は目尻から頬を伝って際限なく流れていく。

 ニエの村では、それが当たり前だったのだ。

 当たり前のように生贄が選ばれて、その生贄は神と運命を受け入れるように殺される。トーイも、タジがいなければ真実を教わることなく“幸せ”のままに殺されるはずだったのだ。己が神の怒りを鎮める唯一だと聞かされて。

 知らないからこそ、心が穏やかでいられる。村を存続させるために必要な生贄を、幸せのままにするにはそれしか方法がなかった。だから、アエリの方法は間違っていない。間違っていないのに、根本が決定的に間違っている。

「俺は、間違いを正せたんだ……!」

 言い聞かせるように、呻くようにタジはつぶやいた。

 生贄によって村の平穏が保たれること、できるだけ多くの人ができるだけ幸福でいられる方法としてベターだった慣習を、根本からブチ壊した。

「その通りです、それがタジ様のなさったことです。それは誇っていいことで、私たち騎士団がなしえなかったことなのです」

「……俺が悔しいのは、誰もが幸せになるために目をつぶっていることだ」

 タジの言葉に、テーブルがしんと静まり返った。遠くから聞こえる祭りの喧騒は最高潮に達し、人々の楽しそうな声が美味しい匂いのように漂ってくる。それでも、タジはあふれる涙を止められなかった。

「ニエの村が村として存続できていた土台を、その根本にある苦悩を誰も直視しなかったら、それこそさっきのアエリのように目を背けてしまったら、この村は何を誇ればいい!?俺は、それが悔しいんだ」

「……タジさんは、とても優しい人なんですね」

 いつの間にかムヌーグの腕の中から抜け出していたトーイが、タジの真横に立ってその頬に流れる涙の一筋を拭った。驚き後ずさろうとするタジに、トーイが体を預ける。受け止める際に、足が椅子に当たって後ろに倒れる。薄暗い部屋に音が響いて、屋敷の外が緊張しているのをムヌーグが感じ取っていた。

「同じように目を閉じ耳を塞いで、何も知らないと言うことだってタジさんは出来たはずです。ましてあなたは……村の人ではないのですから、この村に義理もなかった。それを、私の言葉を聞いて、悲しんでくれて、この村の根底にある呪いのようなしきたりを、行い続けてきた罪を打ち消してくれた……」

 タジに寄りかかるトーイは震えていた。

 トーイが知らず知らずのうちに担わされていたものがついに本人のものになった。己を犠牲に多くの人の幸福を保つこと、それが義務だと思わされていた。思わされていたことが、過ちだったと言われ、目を背けられ、足元が大きく揺らいでいる。そんな女の子を、抱きしめない訳にはいかなかった。

「ありがとうございます、タジさん……」

 それだけ言って、トーイは恐怖を払うように大声で泣いた。

 子どものような遠慮のない泣き声を聞いて、タジはようやくこの村の呪いが消えたのだと感じた。

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