第19話「涙とくうと慰魔師」

 それから数分経過後―――。


「い、いい? ぜ、ぜったい……、こっち、向いちゃ……ダメ……だからね?」


 くうの腕から解放されるにはされたが、僕は未だに後ろを向けずにいた。

 何故ならくうがまだ何かをゴソゴソとやっているからだ。

『入れ物』『蒸発』『回収』等というキーワードが途切れ途切れに聞こえるが、何をやっているのかさっぱりだ。


 ――先ほどの出来事は一体何だったのだろうか。


 くうを待つ間暇だったので僕は変な方向に曲がりかけた腕を戻しながら、原因を考えてみた。

 くうが急に密着してきて、僕が感動して、涙が落ちて、くうが悲鳴を上げた。


「………………!」


 ――あれ? これもしかしなくても僕の涙の所為?


 僕は自分で導き出した答えに愕然とする。

 確かに僕なんかのに触れたら、気持ち悪くて悲鳴を上げるのも分からなくもない。

 でもそれはあんまりにもあんまりではないだろうか。

 仮にも僕は長い年月寝食共にした幼馴染だというのに。


「うぅ………ショックだ」


 僕はまた涙が零れそうになる。

 だけど駄目だ。

 涙を零せばまた気持ち悪くて悲鳴を上げられるかもしれない。

 そうなればもう精神が耐えれそうにない。

 僕は何とか涙を堪えた。


「あ、あのくう……。もう呪いって解けたのかな?」


 僕はだんだん居た堪れなくなって来たので、一刻も早く此処から去ろうと画策する。


「え、えぇ。もう、終わったから……戻って、いいよ」

「う、うん」


 くうに許可をもらうと、僕は逃げるようにその場を離れようとする。


「――絶対、絶対、後ろを振り返らないでね」


 何度も何度も念を押してくうは僕に確認する。

 僕はブンブンと首を縦に振り、頷いた。


 ――でもそんなに僕に見られたくないのはどうしてだろう。


 僕は早足でその場から離れながら、考える。

 呪いを解くのに力を使って消耗したから、弱っている様を見られたくない為とか。

 いつも無表情のくうから考えるとそれは十分ありえる。


「弱っているくうかぁ……。ちょっと見てみたい気もする」


 涙を嫌がられた件も関係してか、僕の中で邪な気持ちがむくむくと頭を持ち上げる。

 けれど後ろを振り返らないでと言われた以上、振り返ることはできない。

 もし振り返ったことがバレれば、どんな目に合わされるかわかった物じゃないからだ。


「む~~」


 僕は歩きながら何とかしてくうを見る方法を考える。

 前を向きながら後ろを見る方法。

 でもそんな方法あるのだろうか。

 後ろに目がついているわけでもないし。

 と言うか、後ろに目がついていたらそれこそ僕が妖魔だろう。


「何か、くうを見る方法……………………あっ!」


 僕は思いつく。

 鏡を使えばいいのだ。

 寧ろ何でこんな簡単な事を直ぐ思い浮かばなかったのか、自分の頭の出来を少し恨んだ。


「でも、鏡なんて……」


 僕はポケットをひっくり返してみる。

 中に入っているのはコイン袋と寮の鍵、そして学生手帳だけだった。

 どう見ても鏡の代わりになりそうなものはない。

 僕は何か別のアイディアはないかと、学生手帳を捲った。


「あ……あった」


 僕は鏡面シールが貼られたページに目が留まる。

 何で学生手帳にこんな物がついているのかよくわからないが、これを使わない手はない。


「これさえあればくうを……」


 僕はくうに気取られないように慎重に学生手帳の位置をずらして行く。

 そしてさり気ない素振りで鏡面に視線を送った。


「うーむ」


 鏡面シールなので良好な視界とはとても言えないけれど、そこには蹲り、じっと自分の左腕を見つめるくうが居た。


「腕に何があるんだろ?」


 僕は少し歩調を遅めながら鏡を注視する。

 鏡の中のくうは腕を顔に近づけたり、遠ざけたり、別の角度から見たりとまるで芸術品を見るかのような動作をしていた。


 ――呪いを腕に封じ込めたのかな?


 僕は首を捻る。

 その時、僕に天啓が降ってきた。


「そうか、僕の涙に呪いが残っていたんだ。だからくうは今も弱っていながらも呪いを取ろうと必死に……」


 真剣な表情をしているようにみえるくう。

 もし僕の涙に呪いが入り込んでいたのなら、あの爆発も納得だ。

 きっと恐らく、あの涙はくうにとって予想外の出来事だったに違いない。

 だからあんな事態になったのだろう。

 僕の中で色々の出来事が繋がる。

 それと同時に逃げ出したいだの、弱っている顔が見たいだの、思っていた自分に無性に腹が立った。

 くうがこんなにも苦しんでいるというのに、僕は何を考えていたのだろう。


 ――僕は最低だ。


 僕は自分の行動を恥じ、後悔した。

 そして鏡を仕舞い、もう後ろの様子を見ないと決める。

 いつか恩返しをしたいと思いながらも、僕はそのままクリスティナさんの待つ教室へ脇目もふらず戻った。

 ――途中迷子になりながら。



 †



「――漸く、行った……よう、ね……」


 私はキョウが階段に消えた事を確認すると、張り詰めた気を解く。

 呼吸の荒さは一向に収まる気配はない。

 胸の動悸も変わらず早鐘を打ち続ける。


「久々……だから、と思いたいね」


 今もこの手にキョウを抱きしめた温もりと感触が残っている。

 外見は今にも折れそうな柳だけれども、実際はかなり筋肉質なその肉体。

 その肉に服越しとはいえ抱擁するだけで、私が何年も抑えこんでいたが抑える必要がないレベルまで減少していた。


 ――やっぱり昔より慰魔師としての力が強くなっている。


 私は改めてキョウの力を再確認する。

 そして成長しているのはそれだけではない。

 私は先ほど自分の結界を、内側から破壊するレベルで妖気を放出した。

 側にいたキョウはそれをモロに浴びたはずなのだ。


 妖気は慰魔師にとって必須なものである。

 生まれつきの消費量が多い慰魔師にとって、妖魔との接触に依る妖気の摂取は食事に並ぶくらい重要な行為だからだ。

 その慰魔師にあった妖気を適量とりこめば、病気知らずで健康的な肉体を維持できる。


 ――概念的にはが最も近い。


 少量では効果が薄く、過剰に摂取すると毒となる。

 その線引の限度をキャパシティと呼ぶ。

 私は理事長あのひとの血を強く受け継いでいる。

 故に纏う妖気は僅かに触れるだけで、普通の慰魔師のキャパシティを遥かに超えるだけの濃密さと強さを誇る。

 それこそクラスメイトのように、気分が悪くなったり立つことも困難になったりするのが普通だ。

 そんな私の妖気をアレだけ吸収したというのに、キョウは体調を崩すどころかピンピンしている有様。

 それはつまりあの程度取り込んでも、最早影響の出ないレベルのキャパシティを誇っている事にほかならない。

 そして最も厄介なのはやはり――。


「はぁ……涙一滴。場所が悪いとはいえ、たった一滴腕に触れるだけでこんな様になるなんてね」


 私は憎々しげに左腕を見る。

 そこには接触したが浮かび上がっていた。

 涙、つまりは慰魔師の体液だ。

 これを摂取するだけで妖魔は意思にかかわらず、強制的に快楽を与えられる。

 教師はこれがさもメリットであるかのように宣ったが、これはそんないいものではない。

 相性のいい慰魔師が相手だと、妖魔は理性の飛んだ発情した獣へとなり下げられてしまう。

 そして一度与えられると体がその味を覚えてしまい、貪欲に求めるようになる。

 最早そうなればお終いだ。

 後は堕落の一途を辿るように精神的にも肉体的にも慰魔師に依存していき、やがては妖魔の本能も誇りも失う。

 慰魔師にとって妖気が『薬』であるように、妖魔にとって慰魔師の体液は『毒』であり、『麻薬』なのだ。


「牙を折られ、理性を奪われ、快楽漬けの獣へと落とされる。本当に忌々しい


 私は力の入らない体を奮い立たせ、無理やり立ち上がる。

 私は負けはしない。

 こんな『血』になど。


 ――でなければ………。


 私はそこまで考えて、溜息を付く。

 今は焦ってもしかたのないことだ。

 いずれ機会は必ず訪れる。

 誰にも邪魔は出来ないし、させない。


「……取り敢えず、下着を替えないと」


 私はそう独り言つと、のろのろと歩き始める。

 気怠いのもあるが、極力股を広げたくないのだ。


「――っ」


 何故なら歩く度に、肌にの感触が気持ち悪いからだ。

 今、私の下着は最早下着の意味を成さないほど濡れている。

 涙が皮膚に直接触れるだけでこうなのだ。

 経口摂取すればどうなるか、想像したくない。


「~~~~~っ!!」


 想像したくないと思いつつもそれを想像してしまい、私の体は歓喜に震える。

 私の体はもう既に毒されている。

 それも爪先から髪の先まで余すこと無くどっぷりと、だ

 肌と肌を触れ合わせるだけで馬鹿面を周囲に晒し、体液を浴びせられるだけで失禁したかのように下着を濡らす。

 感じたくないと思っていても、容赦なく快楽を与えられる。


 ――あぁ、それはなんて甘美な地獄てんごくだろう。


 私は体をビクンビクン痙攣させながら、廊下の壁に爪を突き立てる。

 煎餅の様に簡単に壁は割れ、亀裂を刻む。


「……キョウに呪いを掛けた。この落とし前は必ずつける」


 私は復讐の炎を胸に宿すと、階段へ向かって歩き出す。


 ――でもその前にお手洗いね。


 自分でも触るのも嫌なほど濡れた下着の感触が、私を現実へと戻す。

 嫌でも今の状況を思い出させ、私は陰鬱にならざる終えない。

 だが今回の出来事は醜態を晒しただけではない。

 私はに視線を送り、静かに目を細めるのであった。

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