第8話

「君が迷い込まないように私たちも警戒していたの。だから、私はあなたを監視するためにあの高校に転校したのよ」

 抑揚のない声で、トオルの方を向かずに理那は淡々と話す。

 今朝自転車で進んだ、先ほど逆走した道を二人で歩く。今度は高校へ向かう方角だった。

 自転車を押しながら、トオルは黙って彼女の話を聞いていた。

「さっき何か食べたりしなかったか訊いたでしょ? こういう時空の狭間でなにか食べたり飲んだりするのは良くないわ。戻れなくなるから」

「よくないっていうかかなりまずいんじゃ……」

「だから、迷い込まないように警戒していたわ。迷い込んでしまったらすぐに連れ戻せるようにね。それに……」

 一呼吸置いて、理那が続ける。「君」という言葉を少しだけ強調していた。

「意図的に無関係の人をこの世界に引きずり込もうとする人も、最近増えたわ。その人達の動向を監視して、チャンネルを持つ人を守るのも私たちの仕事」

「引きずり込むって……」

「人の良さそうな、ひげを生やした紳士という姿がよく知られているわね……面白半分だったり、単なる八つ当たりだったり……そんな人たちに好き勝手させるわけにはいかない。だから、彼らと連絡を取り合ってないかどうか、トオル君の携帯に盗聴器を仕掛ける必要があった」

「ちょっと待ってくれ。オレの携帯に盗聴器を仕掛けたのは、やっぱり……」

「私よ。遊園地でバレちゃったけど。上谷さんの探知機はちゃんと機能していたの」

 謝罪でも開き直りでもなく、淡々と彼女は言った。

 トオルのいる位置からは、理那の表情は見えない。歩きながら彼女のポニーテールが揺れている。

 数十分ほど歩いて、理那は立ち止まりトオルの方へ顔を向けた。

「ここって……」

 先ほど逃げ出してきた、トオル達の通う高校だった。

「教室で迷い込んだなら、もう一度教室に行く必要があるわ」

「なあ、理那……」

 彼女に何かを言いたくて、トオルは話しかける。

 しかし理那は表情を変えず、彼の言葉を振り切るように早足で歩き出した。

「……はしゃぎすぎた」

 廊下を歩きながら理那は唐突にこぼした。

「赦してもらえるとは思ってない。あなたを裏切って、正体も隠して、結果的に大丈夫だったとはいえ危ない目に巻き込んでしまった」

 教室にたどり着く。

 先ほど逃げ出した、二年C組の教室だ。

 見慣れたこの教室に入ると、理那はトオルを教壇に立たせた。そして自分は彼から少し離れ、うつむきながら独白する。

「楽しかった。あなたと過ごせて。あなたの彼女で。……だからあなたから目を離して、あんなところで逃げ出してしまった。あなたに責められたくなくて……でもきちんと説明すればよかった。いいえ、あなたが怒っても、それでも説明するべきだった」

 そうして理那はぎこちない笑顔を作った。

「この仕事ってちょっとキツくてさ。あんまりシャレのわかる人少ないし、オジサンオバサンばっかりだし……だから君と過ごしている時、楽しかったんだ。でも、ほとんど私が引っかき回してたよね」

 彼女の表情がすぐに消える。

 その様子を見て、なにが本当の彼女の顔なのかトオルには分かった気がした。屋上や遊園地で見せた、自由な理那。それが彼女の素顔なのだ。

 この状況を完全に呑み込めたわけではない。おかしな世界に入り込んで、恐怖心にとらわれていた。

 しかしそれ以上に、目の前の理那がいることで救われてもいたのだった。

 トオルはすぐに答えず、一息入れてから、

「そうなんだ」

 と言う。

「え?」

「実を言うと、怒ってないわけじゃない。でもそれ以上に残念だった。言って欲しかったな、ちゃんと」

 自分は何がしたかったのか。

 人並みに彼女が欲しかったのか。

 いや違う。トオルは自分で否定する。

 誰か好きになれる人が欲しかったのかもしれない。目の前の彼女のように惹かれる女の子が。

「ごめん……あ、それからさ」

 理那はスカートの両ポケットに自分の手を入れた。

「もう会えないかもしれないから、言うね」

「会えない……?」

 理那は笑顔を作ってみせた。それがひどく苦しそうに思えて、トオルはかけるべき言葉を探す。

「さっきも言ったように、はしゃぎすぎちゃってさ、怒られた。トオル君の担当から外されちゃった。もうそばにいられないんだ」

「理那……」

「待って! 言わせて!」

 目の前がだんだん黒く塗りつぶされていく。

「あの時遊園地で言ったことは、本当だから」

 意識が薄れていき、トオルはぼんやりと理那の声を聞いていた。

「……彼女にしてくれて、ありがとう。トオル君」

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