第7話
理那は翌日、学校に姿を見せなかった。
あのときどう見ても理那が聞いていたのは盗聴器で、その音声はトオルの携帯のもの。
トオルが糾弾と疑問と詰問の言葉を発するより早く、理那はどこかへ走り去ってしまった。まるで逃げるように。
理由を聞きたかった。携帯電話に盗聴器をつけるなんて。しかも理那は逃げ出した。自分にやましいところがあるって認めているようなものだ。
しかしトオルは怒ってはいない。ただただ、困惑していた。
朝登校したとき、クラスメイト達からはさんざんからかわれ、そして根掘り葉掘り聞かれた。なにがあったのかとか、なにをしていたのかとか。
上谷あかりからは盗聴器探知機『しゅないだぁ三号』の性能について褒めるよう強要され、凛太郎からはイヤミどころか心配されてしまった。
それらに律儀に答える気力もなく、ひたすらうつぶせになってやり過ごす。
もちろん教師にも呼ばれたが、なんと答えたのか最早覚えてなどいない。
「オイ、トオル! 当てられてるぞ!」
凛太郎が大きめに声をかけるまで上の空だった。
今は三時限目。現代文の授業中。
黒板の前で問題を解くのに、トオルが当てられていたのだった。
トオルは教壇まで歩く。黒板の右端に書かれた日付を見、そういえば出席番号から言って今日当てられてもおかしくないよなとのんきに思った。
彼はもやもやした気持ちを抱えながら、ゆるゆると席を立ち黒板の前に立つ。
どうにも頭がぼうっとするのを感じながら、トオルはチョークを持ち、目の前の文字をぼんやりと見詰めていた。
だめだわからん。
というか身が入らない。
昨日の今日で未だに現実味を持てずにいたし、なによりそれどころではなかった。
理那はどこに行ったのか。なぜ盗聴器なんて持っていたのか。なぜ自分だったのか。なぜ逃げてしまったのか。何を考えているのか……
そんなことがぐるぐるとトオルの頭を駆け巡り、同じところへと戻っていく。
不毛な詮索とその失敗。無限に思える思考が延々と彼の中でループしていた。
もういい、それどころではない。
わからないフリをして誰かに代わってもらおう。そう思って、トオルは教科担任に謝ろうと振り向いた。
誰もいなかった。
文字通り、誰もいなかった。
横にいるはずの教科担任も、授業中にもかかわらず機械いじりの内職をしている上山あかりも、几帳面にノートを取っている凛太郎も、他のクラスメイトも。
誰一人として席についておらず、教室の中にもいなかった。
教室の中は静寂に包まれている。二限目だったにもかかわらず、机はまだ一日が始まっていないかのように整然とならんでいる。並べられた机にはそれぞれ持ち主のカバンがかかっているはずだが、一切かかってなどいない。まるで休日の教室に入り込んでしまったかのようだ。
「……?」
もちろん本当に休日だったわけはない。今の今まで、トオルは現代文の授業を受けていたのだ。
「え?」
目の前に広がる光景が信じられず、二回、三回と目を閉じては開く。
しかし何度目を見開いてみても、結果は同じ。教室には誰もいなかった。
教壇から降りて、教室全体を見渡す。やっぱり誰もいない。
不思議に思うのと同時に、トオルはなにやら言いようのない気持ち悪さを感じた。ここにいてはいけないような、全身びしょ濡れの服をまとったような……落ち着くことがどうしてもできない。
ふと、窓の外を見る。
空は相変わらず夏をはらんだ青さで、雲はいよいよ次の季節の到来を天下に知らしめようと高くそびえ始めていた。
窓に注目するために足を止めると、いよいよ世界から音が消えていることに気づかされる。
トオルは自分の足音で気づかなかったが、隣のクラスからも外からも、廊下からも一切の音が聞こえない。
授業中とはいえ、外で体育の授業をしている歓声や、隣のクラスの喧噪ぐらい聞こえてきてもいいはずだった。
それが一切、ない。
「は?」
音はあった。
どこか遠くで、キーンという甲高い音がする。その音がトオルの耳を支配する。それが自分の頭の中を流れる血液の音だと、気づくまでに少し時間がかかった。
身体の外からは相変わらず何の音もしない。
その事実を認識して、トオルは急に寒気を感じた。
急な焦燥感が彼を襲い、まっすぐ立っていられなくなる。
黒板の隅にこのような書き込みを見つけ、上半身に鳥肌が走った。
『NO BODY』
『喰われた』
だめだ。だめだ。
トオルは直感的に思った。両手に大量の汗をかき、背中がぞくぞくする。頭の中で警鐘が激しく鳴った。一日の大部分を過ごしているはずの空間に、安心感ではなく恐怖心を覚える。
ここにいてはいけない。
ここにいては危険だ。
それが誰なのか全くわからないし根拠もないが、誰かがやってきてしまう。
トオルは予備動作をしないように気をつけながら走り出し、教室を飛び出した。予備動作をすれば誰かが気づいて追いかけてくるのでは無いかという不安に襲われたからだ。根拠はなにもないが。
廊下を走る。誰もいない。響くのは自分の足音だけ。
下駄箱で靴を履き替えるのもそこそこに外へ出た。
やはり、誰もいない。
トオルは足下から崩れ落ちそうになる感覚を必死でこらえた。
「どうなってるんだ、これ……」
またしても頭の中で血が流れる音がする。
無駄に強い陽光が、孤独感をなおいっそう際立たせてくる。
この世界にお前は一人だけなんだぞ、みんなに取り残されてしまったんだぞ、と念押ししてきているような焦りを彼は感じた。
駐輪場へ走る。
自分の自転車はあった。
しかし他の生徒の自転車は……まるで最初からそこに無かったかのように、一台たりとも存在しない。
慌てて自転車の鍵を取り出して錠を外し、素早くまたがる。錠を外すために鍵穴へ差し込む際、手が震えてしまって二回ほど失敗してしまった。
一漕ぎ目から全力でペダルを踏み、反対側の足も同様に踏み込む。その繰り返し。
景色はめまぐるしく変わるものの、やはり自転車がアスファルトを切りつける音のみが響くだけだった。
登校する道を逆走する。
いつも帰り道に見ている光景だが、まるで夢の中であるかのように頭がぼーっとした。
夢の中のことならどれだけいいことか。
夢の中の出来事であることを祈りながら、また無駄だろうなと思いながら、トオルは一心不乱に自転車を漕いだ。
病院の前を通り過ぎる。いつも通学中に通りかかる病院。看板には病院の名前と、「当院に御用でない方で駐車された方はおしりに注射します」の文字があるはずだった。
いつもと同じものを見てホッとしよう。一縷の希望と共にその看板へ視線を向けた。
『ね柿そふをり仇うQH*FIPふ』
背筋どころか、今度はトオルの心臓が凍った。
なんだこれ。何語? 彼の視線が看板に釘付けになる。
最早その場からペダルをこぎ出す気力も無く、ただトオルはその場で自転車にまたがったまま。
どこなんだ、ここは。
少なくとも自分のいた場所ではない。そうでなければ車一つ通らず、通行人もおらず、こんなへんな文字が書かれた看板があるわけない。
何分……いや、何十分経ったかわからないほど時間が経ったとき、聞いたことのある声がした。
「トオル君!」
理那だった。
遊園地で別れた制服姿のまま、必死の形相でトオルに走り寄る。がしっと彼の両腕をつかんだ。
「なにか食べた!?」
「理那! 無事だったのか……」
「ねえ答えて! ここで! なにか食べなかった!?」
「いや……」
「よかった……」
脱力したように、理那はその場から崩れ落ちた。
「ごめん」
うつむいたまま、ぽつりと理那が言う。
周りの音がないから余計によく聞こえた。
「理那……なにか知ってるのか?」
「本当に、ごめん」
声が震えていた。
「……まず、ここはどこなんだよ」
何かを飲み込むようにしてから、理那は顔を上げて言った。彼女から表情が消えている。
「ここは、時空の狭間」
「時空の……なんだって?」
マンガじゃあるまいし。そんな風に切り捨てたいと思いながら、トオルは病院の看板をちらりと見た。
「トオル君達のいる世界と、私たちが今ここにいる世界とは似てるけど違う世界なのよ」
それはわかった、とトオルは表情を変えずに続きを促す。
「たまにいるのよ。この世界……時空の狭間ってさっき言ったけど、迷い込んでしまう人がね。『時空の狭間』へ迷い込みやすいチャンネルっていうものがあって、それを持っている人は時空の狭間に入り込みやすいの。特にトオル君」
走り寄ってきた時とは打って変わり、抑揚のない声の理那。
「トオル君みたいにチャンネルを持っている人が迷い込んだら、大事にならないうちに元の世界へ連れ戻す。それが私たちの仕事なの」
理那は「仕事」という単語を少し強調した。
彼女の様子が、屋上でタバコを吸っていた時とは別人のようだとトオルは思った。
「私たち、って……」
彼女はトオルの問いには答えない。
元の世界へ戻すわ、と理那はトオルに背中を向けて歩き出す。
「ついてきて。元の世界に帰してあげる」
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