第5話

 上り階段をあがり、屋上へと続く扉の前に立つ。

 本当にここのことなのだろうか。しかし理那は上を指さしていたし、上というと屋上しかない。

 授業はトイレに行くと言って抜けてきた。

 トオルが半信半疑で扉を開けると、まず目の前に広がったのは抜けるような青空。心地良い涼しさの中に、ほんのりと懐かしい匂いがした。

 一年ぶりの夏の匂いだ。

 空は抜けるように青く、まだそれほど高くない入道雲がすぐ先に迫った夏の気配を感じさせている。

 案の定人気(ひとけ)のない、高校の屋上。

 遠くから聞こえてくる喧騒は、おそらくどこかの学年のどこかのクラスが体育をしているものだろう。部活動にはまだ早い。なんといってもまだ授業中なのだ。

 通いなれたいつもの光景は遠く、それほど大きくもないこの町を一望できた。

 高いビルが少なく、住宅が圧倒的に多いこの町。

 陽光に照らされた道路には、どこかの会社の社用車であろう白いバンが時折通るだけ。

 体育の喧騒とたまに聞こえる子供の歓声がなければ、まるで自分一人を残して世界から人がいなくなってしまったかのような錯覚にとらわれそうになる。

 こういう住宅街の静寂は平日の午前中特有のものだ。

 日中学校に通っているとなかなか分からないが、体調を崩して早退した時なんかに見ることができる光景だ。

 トオルはあたりを見渡す。

 白く照らされたアスファルトに乾いたフェンス。もう午前十一時を過ぎた。一番高い場所に登った太陽が少し眩しい。

 目当ての人はすぐに見つかった。

 今しがたトオルが出てきた扉の横に壁があり、理那はそこにもたれかかるように腰を下ろしていた。座ったまま左右のスカートのポケットに両手をつっこんで、火のついたタバコをくわえている。少しだけ首を傾げているから、彼女の束ねた髪が垂直にすとんと落ちているのが見えた。

 白いブラウスが太陽の光に照らされて眩しく輝く。理那は上目遣いになる格好でこちらを見、ほんの少しだけ黄色い歯を見せてニカッと笑った。

「おぅ、トオル。遅かったね」

 オッサンみたいだな、とトオルは目を細めた。

「おぅ、じゃないだろ。なにやってんだよこんなところで」

 トオルの言葉に特に動揺するでもなく理那はタバコを右手で口から離す。ふうっと紫煙をゆっくり吐き出し、そのままタバコを足元のアスファルトでもみ消した。

 タール臭が少しだけトオルの鼻をつつき、すぐに空へと消えていく。

「見てわからんの? そんなに世間知らずだったっけ」

 ちょっとだけばかにするように、上目遣いのまま理那は笑った。

 本当にフリーダムな奴だよな。トオルはそう思う。

 理那はタバコを吸う。そのことを予め彼は知っていた。最初は驚いたが、風紀委員でもなく注意する気もないため、教師にチクったりはしない。それよりも彼女の自由さが彼には気になっていた。

 今朝は自分のタイミングで彼氏の携帯をチェックしに行く。

 こうして授業をサボってタバコを吸う。

 そしてやっていることはどうみても校則違反。しかし不思議と悪い印象はなかった。

「そうじゃなくてさ。なんで授業サボってタバコなんて吸ってんだよ」

 理那は両膝の上に腕を寝かせ、そのさらに上に顎を載せる。

「……なんとなく?」

 虚空を見るような仕草。わざとしらばっくれるポーズ。

「なんとなくって……」

「なんとなくっていうのは語弊があるかな。なんていうのかな。身体がうずいて? ムラムラしてって言うか」

「なんか違うだろ……」

 それじゃまるでソッチ系のイヤラシイ話だ。

「なになに? 何想像したのトオル君?」

 理那は立ち上がり、トオルへ迫る。

「な、なんでもねーよ」

 くそっ、タバコ吸ってたくせになんでシャンプーのいい匂いがするんだよ。トオルは心の中で苦し紛れの悪態をついた。

 薄いブラウスから漂ってくる少女の気配。

 子供でも大人でもないなまめかしさを微かに感じ、あわてて飛び退いて理那から離れた。

「なんだなんだ、照れてんの?」

 ニヤニヤと笑みを浮かべたままこちらへ歩を進めてくる。

「おぉ、なになに、まさか照れてるの? 身の危険感じたほうがいいところ?」

 そういうことをオレに言うか……? トオルは胸の高鳴りを感じながら、それをごまかすようにわざと呆れてみせた。

「あのなぁ、今からそんなもの吸ってると肺がんになるぞ。保健の授業で習っただろ」

 トオルは無駄だと思いつつも一応忠告しておく。

「習ったわよ。でもしょうがないじゃない。ムラムラするんだし」

 ただのニコチン中毒者じゃねえか、と今度は本当に呆れた。

 そうしてなにをするでもなく、しばらく二人で屋上にいた。理那は二本目のタバコに火を付けたところで、トオルはただぼんやりと雲を見つめていた。授業をサボるのは気が引けると彼は思っていたが、今から戻っても怒られるだけ。どうせ怒られるならサボっちゃおうよ。そんな理那の言葉も反対する気になれなかった。

「ねぇ」

 唐突に、理那が全く変わらない様子で切り出す。

「としまえん行かない? 今から。二人で」

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