プロローグ

弐 はわっ!?

 「はあっ、はあっ」

 ロリ声のせいで朝寝坊こそしたものの、全力疾走すれば間に合わなくはない。

 下り坂を駆け下りる。交差点を左に曲がる。散歩中のお爺さんの横を通り抜ける。びっくりさせてごめんなさい。

 「急がなきゃ!」

 とにかく走れ、チャイムが鳴るその前に……シンデレラではない。

 なんてどうでもいい事を考えてる内に、視界の中に見慣れたシルエットが現れてきた。桜丈高校だ。

 「よし……まだ何とか間に」

 そのセリフの続きは言えなかった――俺の体は横断歩道の上で宙に舞った。

 最初に受けたのは、エレベーターが動くときのような浮遊感、続けて一瞬の混乱。ろくな思考も出来ないまま、アスファルトに叩きつけられた。そしてようやく、俺は自分の現状を把握した。どうやら俺は轢かれたらしい。

 不思議と痛みは感じなかった。

 車とぶつかって、何秒経っただろう?体感時間が長くなるっていうけど。わかんないや。

 

 今さら、ブレーキの音が聞こえてきた。

 

 

 「――あれ?」

 気が付くと、俺はうつ伏せに倒れていた。最初に思ったのは。

 「……ここ、どこ?」

 辺りはとても薄暗い。周りの空気が体に纏わり付いてくるようで、すごく気持ち悪い。

 とりあえず顔を上げる、と。

 「――」

 「?!」

 巨大な黒い影と目が合った――いや、正確には違う。そいつの目が見えた訳ではないが、確かに見られている感覚があるのだ。

 「……う…だ……く」

 影は唸って……いや、違う。

 

 「――れ」

 影がまた何かを言った、その瞬間。

 「うわっ!?」

 辺りが一気に明転した。

 奴が何て言ってたかは分からない。

 しかし、確かに何かを伝えようとしている、それだけははっきりと理解できた。

 

 眩しさに瞑っていた目を、ようやく開ける。どうやら俺は道路に寝っ転がってるらしい。そして、数十秒前の出来事を思い出した。

 「……生きてる?」

 一応体の末端までの感覚はある。動くだろうか、試しに起き上がってみた。

 「んっ、よいしょ」

 まさか立てるとは。我ながら驚きだ。

 「はわっ、だ、大丈夫ですか!?」

 「うわっ!」

 今まで気付かなかったが、誰かが近くにいた。腰まで伸びた黒髪が特徴的な、美人な女の人だ。服装も黒を基調としており、近くには無人の黒い自動車がある。きっと俺はこの人に轢かれたのだろう。美人にいじめられることがご褒美になる業界もあるらしいが――俺には理解できない。

 それはともかく。俺は彼女を眼差して言った。

 「あなたが?」

 「ごごごごめんなさい!いや謝って済む話じゃないですけどごめんなさい」

 そりゃそうだ。ごめんなさいで済めば警察も裁判官もいらない。

 だがしかし。

 「いや、別に」

 打ち所が悪ければ最悪の事態となっていただろうが、幸運にも今の俺は五体満足だ。格ゲーでも実生活でも、大事なのは受け身だな。

 「ん……体は動くな。ちょっと痛いけど」

 「はわ、あ、あの」

 運転手の人は何か言いたげだ。しかし、今は時間が無い。

 「すんません、また後で」

 そう言って俺は駆け出した。体が軽い。本気出したらこんなもんか。

 「はわっ!?あの、ちょっと!」

 呼び止める声は。

 きーんこーんかーんこーん。

 「うわヤベぇ!」

 ウチの学校の、苦情が来るほど馬鹿でかいチャイムに掻き消されてしまった。彼女に一瞥もくれずに、俺は更にスピードを上げ、通学路をひた走る。

 (あの人、美人だったなあ)

 なんて煩悩を撒き散らしながら。

 

 「全くお前は……」

 「ごめんなさい」

 しかしというか、やはりというか、結局遅刻した俺は、担任の先生に怒られている。

 少し寂しくなった頭頂部を持つ彼の名前は板居いたいあおい。物理教師であり、44歳にして俺らの学年主任だ。

「どうしたんだ、寝坊か?」

「はあ、実は眠れなくて」

「そうか……ったく。」

 ぶっきらぼうなところもあるが、その裏に垣間見える優しさと真面目さから、生徒からの人気も高い。

「お前、保健室行ってこい」

「え?」

 最近の学校には、カウンセラーの保健医がいるところも多い。

「多分何か悩みでもあるんだろ?全部話して楽になったら戻ってこい」

 ……勘の才能(?)は無いらしい。ともあれ、授業をサボれる(しかも合法的に)なら何でもいい。


「失礼しましたー」

「次は遅刻するなよ」

 早足に職員室を後にして、特別棟の保険室へ向かう。ちょっと遠い。

「よし、着いた」

 少しアルコールの匂いがするスライドドア。

「失礼しま――」

 何気なしに手を掛けた、その時。

 ガラガラガラッ!!

 おばあちゃん家の縁側を空けるような、見た目とは不釣り合いな音と共に大きくドアが開いた。当然俺の右手もつられて動く訳で。

 ガシィィィン!

「痛ったあぁぁ!!!」

「はわっ、ごごごごめんなさい!」

 俺の手は、ドアの取っ手と壁の側面とで挟まれてしまった。

 普通こういう扉って途中で止まるよね?!

 ただ、幸か不幸かここは保健室。処置ならすぐにしてもらえる……はずなのに。

 「はわぁっ!?」

 「あ、ちょっと!」

 保健の先生はあろうことか部屋の仕切られた奥の方に引っ込んでしまった。音速に匹敵するスピードで。

 俺は痛む右手を何とかドアから引っこ抜き、保健室へ入る。

 「すみません、怪我人ですけども!」

 多少キレ気味に。

 「治療して下さいよ!」

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 「いや、謝罪じゃなくて治療を」

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 「ああもう!何してるんですか!」

 いよいよ堪えられなくなった俺は、先生がいる奥の部屋へ、足を踏み鳴らして行く。

 「早くこの手を……ってええぇ!?」

 そこには多分先生がいた。多分ってのは、先生の顔が隠れていたからだ。

 でかい角と牙が生えた、般若のお面で。

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 「うわぁぁぁっ!」

 あまりに唐突で、腰が抜けてしまった。

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 般若が近づいてくる。俺には見える!尋常でない程の圧が!

 「あっ、おっ、お邪魔しましたぁ!」

 逃げなきゃ、殺される。殺気が桁違いだ。

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 上手く体に力が入らない。挟まれた右手が痛むのも気にせず、俺は床を全力で這った。

 しかし、彼女はやがて追いつき、俺の右手を掴む。

 「ああぁ……」

 死を覚悟した俺は、目を瞑って祈った――楽に死ねますように。

 しかし、やって来たのは死ではなく。

 「……包帯?」

 生命力の象徴であった。

 

 俺の右手は、あっという間に適切な処置を施されて、包帯でぐるぐる巻きになった。

 「あの……」

 「……」

 彼女は喋らない。

 「ちょっといいですか?」

 「……何ですか」

 「……聞きたいことが山ほどありまして」

 「はい」

 「……あなたは、この学校の保健室の先生ですか?」

 まずはそこだ。頼むから学校外から来た不審者であってくれ。こんなのが保健の先生なんて思いたくない。

 「……その通りです」

 そうですよね!そりゃそうだ!保健室にいたんだもん!

 はぁ……気を取り直……せないまま、次の質問に移る。

 「ええと、次に……いつもの安田先生はどちらへ?」

 安田先生。普段はこの先生が保健室を受け持ち、いつも丁寧に処置をしてくれる。

 「今日は急用で学校には来てないと聞きました」

 「そうですか」

 今日はツイてない。本当にツイてない。

 さてと。ここからが本題。

 「ええと……」

 一番気になっていたことを聞く。

 「なぜお面を?」

 「あなたに顔を見られては困るからです」

 「……絶対に?」

 「はい。絶対駄目です」

 「はあ……」

 大体理由は分かる……だが、そのカモフラージュは端から効力を失っている――聞き覚えのある、あの特徴的な口癖のせいで。

 「多分ですけど先生、朝、俺のこと轢きましたよね?」

 「はわっ!?ば、ばれてたっ?!」

 「ばれてたってちょっと!」

 俺はこんな人がどうして養護教諭になれたのか、不思議に思わずにはいられなかった。

            to be 魂tinued…

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