宿にて

 雪人は、その後のことをよく覚えてはいなかった。


 気づいたら、いつの間にかベッドの上で寝ていた。


 そこは宿の、見慣れた彼の一室で、横には食事と小さな四つ折りにしたメモが置いてあった。窓の外は夜だ。黒い紙に穴を開けたようなのっぺらな月が顔を覗かせている。辺りは寝静まり、月の光の音さえも聞こえてきそうだった。


 雪人はベッドから這い出して窓の近くへ寄る。ベッドのあたりは暗く、メモの文字が読めなかったからだ。


 メモには「ナツより」という字が書いてあった。それは女性らしい繊細な文字で書かれていた。


 メモは二枚あって、一枚目は、雪人があの後森の中で寝てしまい、通りすがりの人に手伝ってもらって、背負われて帰ってきたということと、ナツもこの宿に泊まることになったこと、そして宿の婦人が夕食を作っておいてくれたから食べておいてほしいという内容だった。


 雪人はそのまま二枚目へ目を移した。そこには、


『ありがとう』


 ただその一言だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。

 文字は紙の真ん中に小さく、そっけなく書きつけられていた。


 雪人はクスッと笑った。なんだかとても微笑ましい。正直に言いたくても言えない不器用な小学生のようで。


 雪人はそれをもう一度折り直して、ポケットの中にしまった。そしてベッドの方へと戻り、縁に座る。


 縁からベッドの横にあった食事へ手を伸ばした。食事は、肉や野菜をクレープのような薄い小麦粉の生地で来るんだものだった。それは三つほどあり、どれも冷え切っていたが美味しかった。


 食べ終わると再び雪人は窓の外を眺める。


 月はさっきよりも少し西へと移動していた。夜空は宇宙を透かしたように澄んでいる。とても美しかった。誰もいないようで、誰かいるよう。月明かりに照らされた家々の屋根は、白い光を淡く反射させて、夜の海面のようだった。


 雪人はそのまま横に倒れてベッドに体を預ける。彼の体の動きに合わせて屋根の海面は直立した。雪人の頭が倒れたところには、ちょうど枕があってそれが彼をしっかりと受け止めてくれた。


「ナツ、今頃なんて思ってるかな……」


 雪人は昼間のことを想った。

 つい口走ってしまった台詞。


 ――俺は君と一緒にいたい。


 それは確かに本心だったが、あの場で言うのは間違いだった気がする。

 それはもっとしっかりと準備をしたところで、勇気を振り絞って言うべきだった。けれどあんな風に突然ではナツも戸惑ったに違いない。


(なにか勘違いしてくれてれば良いんだけど)


 雪人は枕へと顔をうずめた。もう現実逃避するしかなかった。


(明日からナツの様子をみてよう、もしかしたら聴き逃してくれてるかもしれないし)


 半ば祈る思いだった。


 夜はさらに更けていく。街は、もう二度と起きることがないかのように静まり返っていた。


 雪人はベッドの中で、いつの間にか寝息を立てていた。

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