随行

 ……雪人、……雪人……


 遠くから声が聞こえた気がした。


 目を開けると、うつろな景色の中にナツの後ろ姿が見えている。


 彼女は後ろを振り向いて、雪人に笑いかけた。雪人はナツの名前を呼ぶ。


 しかしナツは走り出す。


 雪人が追おうとしても、なぜか足は石になったように動かなかった。ナツの姿はどんどん小さくなっていく。


 名を呼んだ。けれど届かなかった。

 彼女の背中が遥か彼方にに消えていった。




「雪人くん!」


「――!?」


 大きな声に雪人は驚いて目を開けた。

 彼の眼前には、中年の優しそうな婦人の顔がある。


「ごめんね、雪人くん、寝てるところ無理矢理起こしちゃって」


 婦人は申し訳なさそうに言った。


(あれは夢だったのか)


 雪人はいつの間にか、眠ってしまっていたのだ。


「あなたに会いたいっていう人が玄関口に来てるのよ。女性なんだけれど」


 婦人が言う。


 雪人はベッドから飛び起きる。


「い、今すぐ行きます!」


 雪人は婦人を置いて勢い良く部屋を出る。彼は足音を大きくたてながら階段を降っていく。


 一階へ降りると簡素な木製の玄関へ向かった。

 そしてその扉の前で足を止めた。


 一度深呼吸。少し荒くなった息を整える。

 できるだけ何事もない様子で。


 雪人は扉を開けた。


「ナツ、帰ったの――?」


 そう言った途端、彼の目は扉の前に立つ女性の上で彷徨った。目の前に立つナツではなかった。彼女よりも可憐で儚げな、そんな雰囲気を持つ女性だった。


「どちら様、ですか?」


 雪人は戸惑いながら言う。


「突然押しかけて申し訳ありません。私、レトールと言う者です。ナツさんから、言伝を預かって来ました」

「ナツから言伝?」


 雪人は首を傾げる。


「はい。ナツさんは、これから山を越えて隣町の方にまで出掛けるということで、あと一週間程は帰らないと――」

「ほ、本当にナツはそう言ったの!?」


 雪人は女性に思わず掴みかかった。


「は、はい。しっかりとこの耳で聞きました」


 彼女はかなりびっくりしているようだった。


「本当だね!?」


 雪人の言葉にレトールは頷く。

 レトールから雪人は手を離し、彼女を押しのけて外へと出て行く。


 もう頭からは、レートルのことは消えていた。


 彼は街の中を走った。


 頭の中を夢の中の映像が過ぎっていく。あの山の向こうは隣町へ向かう道が続いている。

 だが、それは途中から相当険しくなっていた。ところどころ幅が一人ひとり分しかないところもある。そんなところに限って崖っぷちにあり、足を踏み外せば奈落へと真っ逆さまだ。崖の下には、何体か骸骨もあった。


 雪人は、夢の中で彼女が去っていったのは、虫の知らせのような気がした。そんなことは全く望んでないのだが。


 それでも確認せずにはいられなかった。

 宿にとどまるという消極的な態度でいれば、万が一のとき後悔が大きくなる。


(俺があの崖の道にまで行くのに四時間はかかった。まだ走れば追いつくかも)


 雪人は出来る限り止まろうとはしなかった。疲れて足が進まなくなったときにでも、力をふり絞って歩いた。


 途中でばからしくなってきたときもあったが、少しするとあの夢が思い出され、走り始めずにはいられなかった。


 何度か転ぶこともあった。手には擦り傷ができた。

 胸は嵐の中の船のように激しく波打った。

 心臓は破裂しそうなほど早い。


 雪人は自分の体力の無さを恨めしく思った。せめて何か運動でもしていれば、と思った。


 いくつも坂を登り、いくつも坂を降った。


 だんだんと意識が朦朧としてくる。体はまるで自分のものではないようだった。ただ単に頭が宙に浮いていて前に進んでいるだけだ。


 ふと先に、白いワンピースが見えた。まだ米粒ほどの大きにしか見えないが、ワンピースは木の間に見え隠れしながら道を先へと進んでいる。


「ナツ!」


 雪人は叫んだ。だがナツは振り返らなかった。

 雪人はさらに距離を詰める。


「ナツ!」


 雪人はもう一度叫ぶ。

 するとナツは止まった。彼女は振り返り、目を大きく見開きながら雪人を見る。


「ナツ、待って! この先は危ないから!」


 雪人は走りながら言った。

 五十メートル、三十メートル、十メートル。だんだん距離は近づいていく。


 ナツの前にたどり着いたとき、雪人の足がこんにゃくのように力が入らなくなり、彼は地面へくずおれる。


「大丈夫!?」


 ナツが慌てて雪人に駆け寄った。


「いったいなにがあったの? 私、連絡したはずよ」


 心配するようにナツは言う。


「この先には崖道があるんだ。それもすごく危険なものが。ナツだとそんな道も進んでいっちゃいそうだから、ちゃんと止めてあげないと」


 切れ切れの、まるで死にかけの人が話しているような声だった。


「あなたね、私だって流石に危険なところは判別がつくわよ? いくら後先考えず突っ切っていくタイプだからって――」

「心配だったんだ。もしナツが帰ってこなかったらどうしようって」


 雪人がささやく。いや、これは彼にとっては普通に出した声なのかもしれない。声がうまく出せなかっただけで。


「でも、会えてよかった……行ってしまった後でなくて。俺は君と離れたくなんかないから」


 雪人の声は少し涙声だった。

 ナツは雪人に何も言葉を返せなかった。

 ナツは雪人をしっかりと抱きしめた。


「もう!」


 雪人はナツの肩に顔を当てて泣いた。声は出さずにとても静かに。


 森の奥のどこかからか水の音が聞こえてくる。その涼しげな音は木の葉を揺らす心地よいそよ風に乗ってやってくる。

 その中で二人は、静かに時間を噛み締めていた。

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