「雪人くんか、なるほど」


 男はメモするように「ユキト」の字を空中に指で書く。それが彼の記憶法なのだろうか。


「それじゃあ本題に入ろうか」

「本題?」


 雪人は首を傾けながら男を見る。男は真意の取れないような微笑みを口角に浮かべていた。


「僕にはここに来た人に必ず話していることがあるんだ。それは話さないでいることができるものではなくて、義務のようなものなんだ」

「義務、ですか?」

「そう、義務。僕は君に絶対話さなくてはならないこと」


 そう言うと男は、湖のほうに目を向ける。


「それは僕の自分語りさ。物理学者でしかない自分の」


 雪人は男の言葉の続きを黙ったまま待つ。

 男は小さく息を吐いて話を始めた。


「僕は最近までずっと物理学者として生きてきた。そして僕は信じていた、この世界は全て数式で表せるということを。物体の落下や空を走る雷はもちろん、僕や君の感情だって数式化可能だと思っていた。


 はじめの頃はそのことはずっと良いことだと思っていた。なにせ数式にしてしまえば色々と意のままに操ることも可能だから。


 でもある日、一つのことに気づいてしまったんだ。それはこの世界の最も根底となる数式を描こうとしてたとき。数式を計算する僕の手の動きがふと止まった。まるで金縛りに遭ったかのように動かない。式の完成は目前だというのに。これで世界を操ることができるようになるというのに。

 なぜかその数式が怖くなってしまったんだ。もう頭の中ではほぼ完成していた。あとは鉛筆で数個の記号と数字を書けば終わりだったというのに。


 僕は無性にその式を書いた紙を破り捨てて燃やしたいと思った。そして僕はその通りにした。でも僕の頭の中にはその計算法はまだ残っている。だから再現も可能だ。でも僕はそれを再現はしたくはない」


 すると男は雪人に顔を向ける。


「君はそれをどうしてだと思う?」

「えっ、ど、どうしてですか?」

「そう、僕が数式が怖くなった理由と、それを燃やした理由」

「そ、そんなのを聞かれても……」


 雪人は困ったように目を男から逸らす。


「まあ、そうだよね。個人の思考は他人には完全には分からない、それが必定だ」


 男は小さく息を吐いて話を続ける。視線は再び湖に戻っていた。


「僕は僕が神になるのに嫌気が差したのかもしれないんだ。だってそういうことだろ? 世界の真理を窮めてそれを操れるようにするのはつまり神になることだ。僕の理性は神になるのについていけたのかもしれない。でもね、僕の心はそれに追いついていなかったと思うんだ。心の方ではまだ神を求めていたんだと思う。だってそう思わないかい? 神も何もいない、物質だけの世界なんて絶望的じゃないか」


 雪人はそれを黙って聞いていた。雪人の視線は男の横顔をぐるぐると巡る。

 そして数分の沈黙の後、雪人は口を開いた。


「神だとか、絶望的だとか、はっきり言うと、俺はそんなことを考えたことなんてないので、いたずらなことは言えません。でも一つだけ思ったことがあります」


 雪人の言葉に、男は興味深そうに彼に顔を向ける。

 雪人は話を続ける。


「その考え方はなんとなく、出口の見つからない迷宮で何もせずに立ち止まっているように思えます。たとえ本当に出口がなくても、徒労に終わっても、その出口を探し続けなければならない。その過程が大事なんだと思います」


 聞いている、という意思を提示するように男は軽く頷いた。


「確かに。そうかもしれない。でも君は今までのことが本当に徒労になったときに、そう言い続けられる自信はあるかい? 過程だけを重視して、結果はなにも出てこない、その事実に」


 そう、強い口調で言った男に、雪人は一瞬怯む。


 しかし雪人は心を持ち直し、強いだが静かな意志を込めて答えた。


「俺は、後悔はしないと思います」


 そう答えた雪人に、男の顔は柔和になる。


「そう。その決心、しかと聞いたよ。じゃあ僕は君の決心を信じて君を送り出そう」


 男はそう言って、手を前へつき出す。すると手のひらに竜巻のような空気の渦ができていき、だんだんと大きくなっていく。


 雪人は男に何をしようとしているのか聞こうとした。だが雪人の喉は、声帯をうばわれてしまったかのように音を出さない。雪人はパクパク口を動かしつつ、男に訴えかけるように見つめる。だが男は何も答えなかった。


 いつしか雪人は渦にすっぽりと飲み込まれてしまった。周りは真っ暗で何も見えない。螺旋を描いて風が吹きつけるばかりだ。雪人はその頃になってやっと声が出せるようになってきた。


 風はだんだんと止んでいった。

 だが風が止むころには月も湖も消えていた。

 広がっていたのは広大な暗闇の空間だった。


 雪人は辺りを見回した。正確には見回したとは言えないかもしれない。なぜなら、彼の視界には布で覆われてしまったかのごとく何も捉えられなかったから。


 雪人は呆然と立ち尽くす。さっきのはこの闇の見せた幻影だったのか? 実は自分は、この闇の中に入ってから何も見ていなかったのではないか? そんな考えがよぎる。


 一瞬、彼は叫びたくなった。が、それはじっと堪える。


 彼は自らを落ち着けようと深呼吸をした。ここでとどまっても何も変わらない。前へ進んで出口を見つけなければ。


 そして雪人は一歩前へ足を踏み出した。


 そのとき、彼の視界の闇は一気に晴れ、周囲に広大な草原が広がった。

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