暗闇を抜けて

 暗闇の中は何一つとして見えなかった。


 ただナツに腕を掴まれているという感覚と、自分の足音、嫌なほどはっきりとした呼吸の音しか感じなかった。


 最初は無理矢理引っ張られて嫌だったのだが、今ではナツが掴んでいるという感触が、雪人を安心させていた。

 人がいる、それがわかるだけで暗闇の恐怖も多少緩む。


 きっとナツが掴んでいなければ、雪人は途中で立ちすくんでいただろう。そして暗闇の中で前にも後ろにも行けず、うずくまって、誰に聞こえるとも知れない救助の叫びを上げていたかもしれない。


 そろそろ暗闇に入ってから二、三十分が経っただろうか。相変わらず景色は闇のままだった。そして世界は二人だけだった。


「あっ」


 突然ナツの声がした。


「どうしたの?」


 雪人は聞く。


「やっと光が見えたわ」

「えっ、ほんとに?」


 目を凝らして雪人は前方を見た。けれどそのようなものは見えない。


「見当たらないんだけど――」


 そう雪人が言い終わるか言い終わっていないかというとき、二人の間に強い風が吹いた。それはまるで二人を分かつように。


 雪人は、顔の前に腕をあてて風を避ける。ナツも似たようなことはしているだろう。が、暗闇でよくわからない。


 風がおさまったとき、雪人は違和感を感じた。

 腕に握られている感覚がない。

 いつの間にか手がはなれていた。

 その瞬間、彼を恐怖が襲う。

 誰もおらず、出口もわからない暗闇。

 一人残されたならばほぼ確実に戻ることはできない。永遠の監獄。


 雪人はその場に蹲った。

 少しでも「存在」を感じていたかった。それがたとえ自分の体の一部であっても。


 彼はしばらくそのままだった。


 だが慣れというものは実に役に立つものだ。だんだんと恐怖が和らぎ、立ち上がることくらいならできるようになる。


 雪人はナツの名前を呼んでみた。しかし返答はなかった。

 もう一度呼ぶ。

 声は空間の奥へ消えていった。

 雪人は呆然と立ち尽くす。


 だが不思議なことに、雪人の周りの闇はだんだんと薄くなっていっていた。朝にかかっていた霧が昼に近づくとともに消えていくように。


(あれ……?)


 闇が薄明くらいの明るさになった頃、雪人もこの変化に気づいた。


 闇が完全に晴れると、雪人の周囲には森と湖が広がった。森は鬱蒼と茂っている。湖はあまり広くなかった。


 湖の水面には、月が映り、波がその反映を崩していた。湖水は著しく透明で、昼間だったならば、こちら側の湖底から対岸の湖底まで湖底がすべてが見えていただろう。


 森は大体が針葉樹で、その風景は北欧の山々を思い起こさせた。木々は湖の縁から五メートルにところだけは生えていなかったが、他はあたり一面に生えていた。


 湖の縁から木々までの間には、背丈の低い草の生えた岸辺があった。そこからは夜の虫の声が聞こえてくる。


 雪人はそんな光景をぼんやりと見つめていた。 


(ここはどこなんだろう)


 そんな言葉が心にもたげる。

 ここは空気がさっきとは違っていた。黄昏の街は夕暮れの、暖かみのある、どこか懐かしいような空気を持っていたが、ここの空気は荘厳な神殿の中のようだった。

 空気が隅々まで冴え渡っている。


(すごく綺麗なところだ)


 現実世界にあれば、確実に観光スポットだっただろう。それほどの絶景だった。


(でも、ナツを探さないとな)


 雪人はそう自分に言い聞かせた。彼は湖の岸辺を目を凝らして見た。彼自身がここに降り立ったのだ。彼女がこの近くにいたっておかしくはない。


(ん?)


 雪人から見て右手、コンパスで書いたように滑らかに曲がっていく湖の岸のところに、一人の人間がいた。それはナツにしては体が大きいように見えた。それに男に見える。


(誰だろう)


 雪人は男を見つめた。白衣を着ているようだった。

 雪人はもう一度念入りに湖の周りを見渡した。ナツが見つからなければ彼に尋ねてみようと思ったからだ。


 何かの情報が得られれば、と、雪人はその男に近寄っていく。


 だが、男まであと十メートルほどのところに近寄ったとき、雪人は立ち止まった。

 大切なことを失念していたのだ。この世界の存在は自分を見ることができない。ならばその男もたぶん……。

 進むかどうか、雪人が逡巡しながら立っていると、男がふと雪人の方を向く。


 雪人はメドゥーサに睨まれたかのように動作を止める。

 しばらく雪人は男を睨むように見つめていた。


(俺のこと、見えてるのか?)


 心には淡い期待と陰のような不安が、溶けかけのアイスのようになって混ざり合っていた。


 すると男が、何かに気付いたように雪人へ近づいてくる。

 雪人は不審そうにその様子を見た。


 男は雪人との距離を詰め、雪人の目の前に来たところで立ち止まった。


「やあ、君はあの闇の中を越えてきたのかい?」


 男はそう雪人に話しかけた。撫でるような、柔らかくしっとりとした声だった。月夜の雰囲気にはたいそう合っている。

 雪人は恍惚として男を見つめながら、漏れた息のように「はい」と男に答えた。


 男は口もとに小さく笑みを浮かべる。


「そうか。ならちょっと僕に付き合ってくれないかい? この月夜は一人で過ごすには孤独すぎるだろうから」


 男はそう告げ、さっきまでいたところに戻っていく。

 雪人はそのあとに従った。


 男にはなぜか不思議な魅力があった。彼と話をしてみたい。そんな感情が雪人にわいていた。

 男が立ち止まる。そこはさっき雪人が見たときに、男がいたところだ。

 雪人は彼の隣に立つ。


「君は僕をどんな人物だと思う?」


 男は立ち止まるやいなや話しかけた。


「俺はあなたを不思議な人だと思います」


 それは全くの本心だった。男は頼もしくもあったが、一方で何を企んでいるか分からないというような雰囲気があった。


「そうか。僕に会う人物はだいたいそう言う」


 男は雪人の方に向いて、さっきのように小さく微笑んだ。


「僕自身は素直に接しているつもりなんだけどね。奥底にある諦めが原因なのかな」


 男は独り言のように言った。「諦め」という言葉、雪人にはその真意は分からなかった。男はさらに言葉を続ける。


「そういえば僕のことをまだ紹介してなかったね。僕は物理学者さ」


 続きの言葉を雪人は待った。しかしそれで終わりなのだと気づく。


「あの、名前を伺っても良いですか?」

「名乗るような名前はない。僕はただの物理学者。それ以上でもそれ以下でもない」

「そうですか」


 はぐらかされているような気もしたが、言葉を続けた。


「それで、あなたはさきほど俺に、一晩付き合ってほしいと言っていましたけど、何か話したいことでもあるんですか?」


 雪人が言うと、男は小さく頷く。


「ああ、僕はここであの闇を越えてくる人と話す義務があるんだ。その人を然るべきところへ送り出すためにね。君はあっちの森から来た。僕はこれから君の話をきいて君が来たのと反対側の森へ送り出さないといけない」

「ん? つまり、仕事ということですか? じゃあさっきの俺への誘い文句は?」

「ああ、さっきの『月夜は一人で過ごすには孤独すぎるだろうから』ってやつか。あれは挨拶みたいなものさ。相手の警戒感を解くための」

「それにしては少し気障すぎませんか? まあ俺はこの雰囲気に合ってるとは思いますが」

「気障すぎるか……でもまあ良い。君が良いと言っているんだからここはそれで良いだろう? どうせ会話の相手は僕と君だけなんだから。ところで君は一つ言い忘れていないかい?」

「え? 言い忘れですか?」

「ああ」


 雪人は少し考えた。が、思い当たらない。


「君の名前だよ、名前」

「あ」


 とうの昔に諦めがついたなくしものを見つけたときのような声だった。そして少し恥ずかしがるようにはにかんで、


「確かに言い忘れてましたね。俺の名前は白河雪人って言います」


 と言った。

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