黄昏色の街

 そこはまるで空に浮いているような空間だった。地面はガラスみたいに透明で、下にも上にも空が広がっている。

 空は黄昏時の紫がかった橙色を呈し、縁だけが紅く染まった紫雲が頭上にも足下にも浮いていた。


 あたりは凪のように音がない。


 時間が止まっているような、という言葉がぴったりだった。

 雪人が立っていたのはそんな空間だった。


 遠くには空に紛れてしまいそうなほど透明な建物たちが立ち並ぶ大きな街。それは確かに街に見えたが、そこには一人として人が住んでいるようには思えなかった。人が住んでいれば必ずあるはずの人影も車の影もなにも見えなかったからだ。


「お兄さん、どう? 気に入ってくれた?」


 横に立っているクレが、無邪気な笑顔で話しかけてきた。

 雪人は呆然とその言葉を聞き流していた。


「ここは黄昏の街って言って、夜と昼の境をずっとくりかえしてるんだ」


 クレが言う。


「そう……」


 雪人はうわの空だった。頭が現実に追いついていかない。


「そうだ。僕、あの街を案内するよ。お兄さん、付いてきて!」


 突然クレは、街のほうへと駆けていく。


「えっ、クレ!? どうしたの!? ちょっと待って!」


 クレを雪人は慌てて追いかける。


「お兄さん早く!」


 クレは走りながら雪人を呼んだ。だが透明な地面が段差も勾配も分からなくし、雪人に慎重に進んでいくことを余儀なくさせる。距離はだんだんと離れていった。


(まあいいか。どうせ透明な街なんだし。すぐに見つかるだろうから)


 そう楽観視し、雪人は走るのを止め、ゆっくりと歩きだした。


(それにしても不思議な空間だな。あの街以外には何もないみたいだ。まあ、もしかしたら遠くにあって、透明で見えてないだけなのかも知れないけれど。でもなんか落ち着く。まるで空気がガラスみたいに澄んでる。繊細で冷たくて、透き通ってて)


 雪人の前に、上がアーチになっている門のようなが構造物現れた。その構造物は商店街の入り口で何々町商店街と名前を掲げている看板のように見えた。


(ここが透明な街のメインストリートかな)


 雪人はそう思いつつその下をくぐっていった。


「えっ……?」


 だが門をくぐった雪人を待ち構えていたのは透明な商店街ではなかった。


「どうなってるの?」


 クリスタルの建物は色を得て、レトロな商店街のたたずまいに変わっている。店舗が列をなし、ビニール生地で出来た日よけが、店先から張り出して、鮮やかな色の野菜や服を覆っている。店先には客や店主が立ち、賑やかな雰囲気を醸し出していた。


(さっきまでは何も見えなかったのに……)


 雪人は迷子になった子供のように辺りを見回す。薄暗い時分の顔判別のつかない人影は亡霊にも似ていた。


(クレはどこに?)


 先達を失ったからといって泣くような年齢ではないが、霧のような不安が心を覆う。


 雪人は早足で商店街を進んだ。


 十字路、路地、曲がり角、店の中、雪人はクレがいそうなところをくまなく探した。だがどこにもいない。


(クレ、どこだよっ!)


 段々と進む足が早くなっていく。息も切れてきた。まだ見つからない。


 何分、何十分も探していた。


 雪人ははたと立ち止まる。いつの間にか周りの景色は商店街から住宅地へと変じていた。


(あれ? ここはどこだ?)


 空の様子は何も変化をきたしていない。この街に入ってから何分も経っているというのに、空は紫色に褪せた橙色のままだ。これでは何分歩いたのかもわからない。


「どうやって商店街に戻れば良いんだ?」


 クレを見失った今、ここは行き止まりのない迷路に等しい。ゴールも通り方も何通りもあるし、何も案内してくれるものはない。


「どうしよう……ん?」


 雪人はブロック塀の並んだ通りの向こうから、一人の人影が向かってきているのに気づいた。膝丈くらいのスカートを穿き、左肩からバッグを掛けたショートヘアの女性。例によって顔は陰になっている。

 シルエットからは会社帰りのOLのように見えた。雪人は人影へ近づいていった。道を尋ねたい。


「あの、ちょっとお尋ねしたいんですけど? この近くに商店街ってありますか。どうも道に迷ってしまって。教えてくださると嬉しいんですが……あの!」


 だが人影はすたすたと通り過ぎてしまった。


(俺、怪しまれたかな)


 雪人は後ろ姿を見送りつつ思う。


 二人目。雪人は通りかかった学生服の男に話しかける。だが彼も、雪人がまるで存在していないかのように通り過ぎてしまった。

 三人目、四人目と繰り返しても結果は同じだった。声をかけて誰も振り返らず雪人を素通りしていく。


(一人くらい立ち止まってくれたっていいのに。この御時世だからって怪しみすぎだよ!)


 道沿いのブロック塀を蹴りたい気分だった。だが必死に抑えて、また通りすがりの人に話しかける。誰かに聞かなければ商店街へ帰ることはできない。それは仕方ないことだ。雪人はまた、道の向こうからの人影に近寄っていく。


「あの! 聞きたいことがあるんですが」


 人影は会社帰りのサラリーマンのようだった。


「この近くにある商店街に行きたいんですけど、道を教えてくれませんか? あの!」


 人影はまた、雪人の前を過ぎ去っていく。


「あのちょっとくらい聞いてくれません? 人が尋ねてるのに無視しなくたって良いじゃないですか!」


 手を伸ばし雪人は男の肩に手をかける。だが――。


(え?)


 彼の手は男の肩を突き抜け、背中から出ていった。それはまるで水面に映った像を掴むような感じだった。触った感覚も全くなかった。


「なに……? これ……」


 彼は自分の手のひらを見つめる。声はひどく震えている。

 だんだんと顔から血の気が引いていくのがわかった。

 道の向こうからはまた次の通行人がやってきていた。

 だが雪人は一目散に逃げ出す。

 もう何がなんだか分からなかった。

 勝手に色づいた街、触れない人影、怪異としか言いようがない。


(どうなってんだよここ!)


 恐怖に震えながらやみくもに街を抜けていく。人影が見えれば逃げ、見えれば逃げを繰り返した。


「ゼェーハァーゼェーハァー」


 もう何分走ったかわからない。悲鳴を上げそうな心臓と肺だけがそれが長かったということだけは教えていた。


(塾帰りに逆方向の列車になんか乗らなきゃ良かったんだ。そのまま家に帰ってればこんなことには!)


 数時間前の自分の選択を呪う。もし過去に干渉出来るのなら引きずってでもあの時の自分を家に帰らせたい。


(あっ……!)


 右足のつま先が道の小さな窪みに引っ掛かる。左足は間に合わず、体は前にバランスを崩した。

 雪人は正面から地面に突っ込む。手をついたが肘に力が入らない。肘が折れ曲がって顔を地面に擦る。頬から血が出た。腕も擦っていた。


(ああ、俺、もう帰りたい……誰か助けてくれよ……)


 雪人には立ち上がる体力も気力も残っていなかった。アスファルトの上に倒れ込み、虚ろな目でたまに道を通る人影を眺めるだけ。


(俺、このまま一生ここにいるのかな……)


 雪人はもう真上を人影が通ろうが構わなかった。


(俺は家に帰れないのかな)


 勝手に涙が顔を伝っていく。


(もう、やだ……)


「あなた、こんなところで昼寝でもしているの? 寝心地が良いのなら私も寝ちゃおうかしら」


(え?)


 女の人の声が聞こえた。それも雪人の近くで。雪人は顔を上げて辺りを伺う。すると雪人の横で彼と同じように腹ばいになりながらアスファルトに寝そべる女性がいた。

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