薄明
――ねえ、起きてよ。
かすかに声が聞こえる。
ひどく眠い。このまま眠っていたかった。
――ねえ、起きてってば。
少し声が大きくなった。
――起きてよ!
体が揺すられる。
――起きろー!
耳元で叫ばれた大声。頭の中を声が暴れまわり、ガンガン頭蓋を打った。
雪人は慌てて飛び起きた。
「鼓膜破れるかと思った……」
耳を抑えながらあたりを見回す。一帯はどこもかしこも真っ白な世界だった。
(ここはいったい……? 俺は確か……つっ!)
頭が痛む。よく思い出せない。
(だめだ。記憶がそこだけ取り去られたみたいに抜けてる。なにか大きな衝撃があったことは覚えているんだけど……それ以降がわからない。あれ? ところで、俺を起こしたのは誰?)
「僕だよ」
心の声を読まれたような回答に、雪人は驚いて、声の方を向く。
「僕さ。薄明の番人、アケ」
絹のような白い髪に、ホクロ一つない色白の顔。瞳は琥珀色で大きい。新品のような真っ白いワイシャツを着、ズボンはそれと対照的に黒色。胸元には青いネクタイをしていた。歳は十歳くらいだろうか。可愛げな笑みを浮かべている。
「アケ……。それが君の名前なの?」
珍しい名前だと思った。とはいえ今そんなことはどうでも良かった。
「君、ここがどこだか分かる? 俺、ここから出たいんだけど」
雪人が尋ねる。だがアケは不思議そうな顔をした。
「どうしてそんな簡単なこと聞くの?」
こんなことは当然に起きるとでも言いたげな顔だった。
「簡単? ならすぐに帰りたいんだけど。どうすればいい?」
雪人は聞いた。するとアケは珍しいものでも見るように雪人を見る。
「ここは薄明だよ? 夜と昼の境。待っていれば出られるさ」
「え?」
確かに待つだけならば簡単だ。だがそんなことはあり得るのだろうか。
「心配しないで。他の人もここに来たときは待っているだけだから」
アケが言う。まるで雪人の心を読んだかのような回答だった。
「そう……待ってれば戻れるんだ……」
雪人は空を見上げる。真っ白な世界がどこまでも広がっている。ここのどこかに道のようなものができるのだろうか。
(待ってれば……良いのか……)
そう思ったとき。
「もしかして、お兄さん」
アケが声をかける。
「ん? なんだい?」
「薄明に直接来たのかい?」
「え?」
「薄暮や夜を通ってないの?」
雪人は答えに窮した。
「俺、記憶がなくてよくわからないんだ」
するとアケはうーんと唸る。
「そうしたら、お兄さんは薄暮へと戻った方が良いかもしれない」
雪人の頭の中に疑問符が並んだ。
「薄暮へと戻る?」
「そう。ここは夜と昼の境、薄明だからね。ここに直接来てはいけない。夜を越えて来ないとね。だからお兄さんはこれから薄暮に戻らないと。そしてちゃんと夜を越えてここへ戻ってくるんだ」
説明してくれたようだが、その意味は読み取れなかった。
アケはそのことを感じ取ったようだった。
「いずれわかるよ。お兄さんがここに戻ってきたときに」
「そう……」
そのとき雪人の胸にはなぜか夜という言葉が木霊していた。その言葉が魅力的に聞こえたのだ。普通ならこんな見ず知らずの場所からはすぐにでも出て行きたいはずなのに。
「なら連れて行ってくれないかな。アケ君の言う薄暮へ」
「わかった。じゃあ目を閉じて」
「こうかい?」
「うん。そうそう」
ひたっと頬にアケの手が触れた。子供にしては冷たい気がした。が、夏の暑い日に?日陰の冷えた岩に触るように気持ち良い。
「じゃあ、行くよ」
アケの声に雪人は頷く。
「長き夜を飛び越えし者よ。薄明の番人、アケの名において汝に夜をめぐりて朝を迎ふる資格を与う。さあ、時を還れ!」
アケの声とともに、雪人の周りを風が回るような音が聞こえる。それはだんだんと大きくなり、砂嵐のような音が雪人の聴覚のすべてを占めた。頬には次第に風が強く当たり、アケの手の感触も薄くなっていった。
突然、雪人は自分が一人で取り残されるような気がした。急に不安に襲われる。
「アケ君、ちょっと待って……」
………………。
答えはない。
「アケ! アケ! 答えて! アケ!」
「……て……きたときに……から……」
「え……? アケ? 今なん……」
雪人の意識は突然電源を抜いたテレビのように途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます