3ー12 風が生まれる場所

 まだ顔を見せない朝日によって生み出された、薄紫色に染まる暁の空。眼下には地表すら見えなくなっている断崖と、水平すら覆うほどの白綿が敷き詰められた雲海が広がっている。

 皆、先の戦闘で気力体力ともに限界であるはずなのに、誰も歩みを一度として止めることなく、空に響いた声の導きのまま、霊峰の頂上を目指して登り続けている。

「不思議、です。ずっと風に押され……いいえ、支えられているので、とても楽です」

 見た目こそ、既に倒れてもおかしくないほど、衣類がボロボロになっているルカだが、顔色が非常に良く、足取りはとても軽快と言っていい。

 彼女の言葉通り、声の導きによって足を進めれば、止めどない追い風が吹き、よろめけば側面から突風に見舞われ、姿勢を戻される。加えて、自分は戦場となった7合目からずっと、カキョウを横抱きにしながら登っているが、腕の痺れや疲労が訪れることがない。

「罠っていうより、歓迎されてるみたいだな」

「そうですね。今のところ、鈴の鳴る気配も無いですし、どの風もすごく澄んでいます」

 嗅覚に優れるトールとマナ知覚に優れるネフェルトの言葉を証明するように、頬をなでる風の心地よさは、先ほどまで死を間近に感じるほどの激闘そのものを忘れさせるほど、身体からあらゆる疲れを吹き飛ばした。

 しかもここは世界最高峰の超高度地域であるにもかかわらず、空気が薄くない。凍えるような寒さも無い。周囲が雪化粧の中、自分達が歩く道だけは、綺麗に除雪されている。

 眼下の雲海を除けば、超高度地域を登山していること自体を忘れさせる、そんな全力のおもてなしとも、お膳立てとも取れる至れり尽くせりの状態が続いた。

 登り始めてから、およそ1時間。それまで鋭利な三角錐だった視線の先は、徐々に形を崩し、頂点が水平へと変わっていく。まさしく、ゴールである山頂が見えてきた。

「な、なんだ……これは!?」

 一番先頭を歩いていたトールが叫び、それに続いた腕の中で眠るカキョウ以外の全員が、一斉に息を呑んだ。

 霊峰の頂と思われる開けた場所は、これまでも見てきた青灰色の鋭い岩肌の広場となっているが、中央に半径50mほどの半球状に抉られた巨大な穴が開いてる。半球の表面はスープ皿の内側を思わせるほど美しく、陶磁器のように滑らか。岩、土、小石などの自然な凹凸が一切なく、まるで消し去られたように存在していない。

 そんな不気味な穴の底には、無数の黒々とした木炭に似た物体が、幾重にも積み重ねられていた。それこそ、半球の半分を埋め尽くすほどの量。個々の大きさは目視でも確認できるほど大きく、建材用の丸太を彷彿させる大きさである。

 だが、黒々とした物を凝視すれば、それは丸太という表現からどんどん遠のく。

 大小に多少の違いがあれど、おおよそ巨人族(タイタニア)以外の“人体の大きさ”と言ってよい。

 悪寒が全身を支配する。脳が知覚することを拒絶し始める。

「うっくぁ……、嘘だろ……あり得ねぇ……これ全部、“ヒト”、なのか」

 この場にいる誰よりも嗅覚に優れたトールだからこそ発する悲鳴。脳が言葉を理解してしまえば、彼に続くように皆が膝を折り、嗚咽、嘔吐、激しい動機、泣き崩れと各々の反応が噴出していた。

 自分も抱えていたカキョウを優しくも急ぎ地面へ降ろし、体を反転させると、こみ上げてきた嗚咽と胃液しか出ない嘔吐を繰り返した。

(なんなんだ、ナンナンダ、何なんだこれは……!!)

 脳が焼き切れそうになるほど、理解を拒んでいる。身体が止める事のできない振えに包まれ、次第に切っ先を突き立てられた痛覚に切り替わる。

 それでも状況を理解しなければと、穴を覗き込む。

 無数の黒い炭は、ヒトを麻布で簀巻き上に縛り上げた物が、長い年月の間、野外に放置されたものと思える。それぐらい表面の布の腐食や風化が進み、ボロボロに見える。

 問題は、無数と表現してしまったソレらの数。腹を括って数えてみたものの、50を超えたあたりから数えることを放棄した。

「これは……、なんて濃い闇のマナなんでしょう」

 視線をずらせば、横で口元を押さえつつ青ざめた表情で、ネフェルトがこの場の魔術的分析を行っていた。

「闇の……マナ? それは聖魔大戦で失われたのでは……」

 200年前に起きた聖魔大戦。ルカの所属する聖サクリス教が興るきっかけとなった世界大戦。

 魔界に住む『闇』の精霊と天上に住む『聖』の精霊たちが、地上で行った大戦争の結果、闇の精霊と聖の精霊はその多くが死滅してしまったといわれる。その結果、彼らの恩寵である闇と聖のマナは一度完全にこの世界から消え去った。

 ただし、聖のマナは聖サクリスの祈りにより、火水地風のマナと共に、世界に復活したと言われている。

「いえいえ、失われてはいませんよ。闇のマナは他のマナと同じく、今も空間中に漂っています。現に、目の前のご遺体方の表面の色が、可視化した闇のマナです」

 自分の中では、理解すること自体を止めていたために、目の前のものをソレと表現してしまっていた。だが、ネフェルトの中でソレらは、すでに息を引き取った人間であったモノと強く認識し、敬意を払っている。トールがヒトと言った時点で目の前の黒い山は、無造作に無遠慮に敬意を払われることなく打ち捨てられた、ご遺体の山なのだ。

(自分が恥ずかしい……)

 現金なことに、ご遺体と理解すれば、脳の拒絶はウソのように消え去り、改めて目の前のご遺体たちに心の中で手を合わせつつ、視線を向けた。

「ただ、聖魔大戦を境に、闇属性に関する情報や魔法、技術の多くが衰退したり、失われたり、禁止されたりした関係で、眼にする機会がほとんどなくなりました」

 そもそも闇属性とは、あらゆる生物が発する負の感情や本能に反応するものや、生物の身体に悪影響を及ぼす効果を引き起こす作用を持った、一種の『悪性』が具現化、物質化したものである。

 闇属性に分類される魔法の多くは、対象に様々な悪い変化をもたらす“呪い”に特化しており、道徳的観点から世界の国々で、研究及び魔法の使用が禁止されている。

 分かるのは、本来無色透明であるはずのマナが、可視化してしまうほど濃縮されている、この惨状。ご遺体を凝視すれば、表面の黒色は時間と共により一層濃く、厚くなっている。

「ご遺体から、マナが、溢れている?」

 表面の黒色はやがて形を持ち始め、雨空の窓ガラスのように黒い水滴となって、一筋の流れとなって、巨大なお椀という、このくぼ地の底に流れていった。

 ご遺体の山で見る事は出来ないが、くぼ地の底に集まっている濃縮されつくした闇のマナが意味するもの。

「んじゃ、これが黒い風の正体ってことか」

 トールの言葉は、この場の真実だろう。これだけ濃縮され、可視化された闇のマナなら、その一筋に触れただけでも、身体に変調をきたしてしまうのは明白。

 それを風に乗せることが出来れば、大人数かつ広範囲に一瞬で影響を及ぼすことができる。


『そう……ここは、あの者が作った儀式の祭壇であり、祟り場そのものだ』


 その天から降りてくる声は、自分達の誰の声でもない。

 だが、初めてではない。約1時間ほど前に聞いた、導きの声。

 声の方向に視線をやれば、くぼ地の向こう側に伸びる、剣型の巨大な岩。その上に一言では形容しがたいモノが、こちらをじっと見据えている。

 身体はミルクの白に一滴の緑を垂らしたほどの、極めて淡く優しい薄緑色の巨大な鳥。羽ばたくために広げた翼は左右に2枚ずつの計4枚。尾羽はエメラルドを連想させるほどの光沢のある深緑色であり、身体と同じかそれ以上の長さを持つしなやかなもの。脚は猛禽類よりもカラスなどの細身のある鳥の脚。

 そして顔は、『ヒトの顔』。性別は声と顔から男。年齢は30代から40代と思われる。黒に近い緑の長髪。耳だった部分には、羽兜の飾羽に似た左右3対、計6枚の小さな翼が生えている。端麗な顔立ちと磁器のような白い肌に加え、異形の耳からヒトよりも人形の顔に近い、冷たい印象を持つ。

 全員の視線を釘付けにした巨大な鳥は、広げた翼を羽ばたかせると、着地の“地響きも風圧も発すること無く”、自分たちの目の前に静かに降り立った。

「我が名は、ラファール。そなた達の歴史でいえば、風の大精霊という立場にいる者だ。本来なら、清々しい風が生まれる我が聖域へようこそと言いたいが、この惨状ゆえ、許してもらいたい」

 見た目に驚かされたものの、声は慈愛と表現するのが正しいと思うほど優しく、滑らかな心地よさを覚える低めの声。

 本人の言葉通りなら、200年前の大戦時にヒトの世界を捨てて、己が世界へと隠れてしまった4大勢力の一つ『風』を統べる者、その人……この場合、存在だということ。そして、この闇のマナにあふれる場所こそ、本来なら神聖にして侵さざるべき御座である。

「……それで?」

 そんな、心地よい風の音を裂くように、獣の威嚇に似た低い唸り声と剥き身のバルディッシュの刃を、トールは大精霊と名乗る存在に差し向けつつ、全員の盾になるように前へ出た。

「悪いが、人の顔つけたデッカくて怪しい鳥を見て、警戒するなってのがおかしい話だぜ? しかも、この世界にいないはずの精霊を名乗っているんだからな。怪しさしかないのは、分るよな?」

 巨鳥に唖然と見上げていたネフェルトとルカも、トールの警戒姿勢を見て、武器を携えながら前に出た。本来なら自分が前に立たなければならないところだが、地面に寝かせているカキョウを放置することもできないため、最後衛位置で武器に手をかける。

 しかし、いくら全身の傷が癒えているとはいえ、全員の衣類や装備はボロボロの状態であり、端から見れば満身創痍の勇ましい姿に映る。つまり、在って無いような防御力である。

「無論だ。汝らが警戒するのも、至極当然。それだけ、我らの存在は人心から離れてしまっていることも理解している。

 だが、どうかまず、聞き届けてほしい願いがあるのだ」

 相手が本当に神話や御伽噺に出てくる大精霊というなら、人間に比べれば持つ力も、存在の意味も含めて上位種族であるにもかかわらず、思いあがる様相は見受けられない。それどころか、自分たちと同じ高さの地面に立ち、小さくだが頭を下げている様子は、請願の姿と見れる。

「……みんな、武器を下げてくれ」

 逡巡の末に出た答えは、“相手を信じる”ことだった。

「…………いいのか?」

 背中越しに伝わるトールの圧は、もっともな話だ。相手は懇願しているとはいえ、美しい色合いをしたモンスターと表現できる存在。しかも、1時間前まで人の顔を持った巨大生物と戦っていたのだから、相手を疑うのは至極当然なのだ。

「おそらく、大丈夫だろう……俺たちを始末するなら、回復させずに蜘蛛の後に奇襲したほうが効率がいい」

 その請願する姿に絆されたというわけではないが、言葉にしたようにこちらを罠に嵌めるとするならば、時期は逸している。しかし、先の巨大蜘蛛男のような凌辱思考の持ち主ならば、こちら側に生きる希望を持たせておいて、一気に死の絶望へと叩き落すことも、一応考えられる。

「それに、トールなら分かってるんじゃないのか?」

 とはいえ、この巨大な鳥が現れた途端、周囲に立ち込めていた闇のマナによる瘴気や異臭が和らぎ、清らかな空気が肺を満たしつつある。羽ばたきによって吹き飛ばしたとしても、この清涼感を持続させることが出来ているのは、この巨大な鳥が本当に神聖なる存在だからこそできる御業なのではと考えたのだ。

 特にトールなら牙獣族(ガルムス)特有の優れた嗅覚によって、空気中の瘴気やマナの流れ、ひいては相手が緊張状態で放つ特別なにおいなども読み取れるはずである。道中でも『罠というより歓迎されているみたいだ』と彼自身が語っていたのだから、危険な場合はもっと強烈な殺気なり、警戒姿勢を強めるはずである。

「……フフ。まぁな」

 まるでその言葉を待っていたといわんばかりに、トールは背中越しでも伝わる嬉しそうな声で、バルディッシュを下げた。また、やり取りを見守っていたネフェルトとルカも、大きなため息とともに緊張の糸を解いた。

「皆の寛大な心に感謝する」

 こちらが警戒を緩めると、巨大な鳥――もとい、風の大精霊ラファールは、右の翼の一つを人面の下まで動かすと、そのまま深々と頭を下げた。その動きは、ティタニス国やサイぺリア国で使われている左胸に右手を置いてお辞儀する答礼の動きと同じであり、こちらの警戒を解いたことに対する礼として、人間の様式にて答えたといった感じである。

「さて、まずこの場について話しておこう。ここは君たちの予想通り、巨大な蜘蛛と融合したあの男が長い年月を経て完成させた、黒い風(デッドリーカースウィンド)と呼んでいた儀式魔法の起点。生ける実験体たちの負の感情を呪いに昇華させ、捕らえた我の神聖な風に乗せて、任意の場所へ送り込む……極めて下劣で度し難い所業の発生源だ」

 風の大精霊がまず初めにと語りだしたのは、この惨状についてだった。そこまで多くのことは語っていないが、ここが呪いの発生源であること、大精霊は何らかの方法で囚われの身となっており、さらに力を利用されたことが理解できた。

「お待ち、ください、風の大精霊よ。……“生ける”……とは」

 さらりと紡がれた言葉の中に潜んだ、聞き捨てならない語句。言葉を紡ぐたびに、口が拒絶する。ソレまで止まっていた脳の拒絶が、再び起きはじめる。荒くなる呼吸、熱くなる目頭と目じり、痛み出す額。

 皆の視線が、ゆっくりと目の前の黒い山へ、再び移動する。

「そう……、彼らは生きている。呪術によって、四肢の自由を奪われ、血肉の腐敗も最低限に抑えられ、ただひたすらて横たえられ、終わらない悪夢を見せられ、死ぬことを許されない、真に救われなければならない者たちだ」

 これらの人型は、ご遺体なんかではない。負の感情を永遠に生み出すための生体部品として、この場に縛り付けられた捕らわれ人。

 生きている。この一言が、脳を完全に焼ききった。膝を折る音。嗚咽。すすり泣く声。小さな怒声。もはや、誰のものか分からない。自分を含めた皆が一様に、この悲劇の舞台に嘆き、悲しみ、憤っている。先ほどすべてを出したはずの胃が、再び反応する。

「そして、彼らを救うことが出来るのは……、この場では彼女だけだ」

 風の大精霊は4枚の翼を大きく広げると、その内の右翼1つをゆっくりと前に出し、先端の風切り羽でカキョウの額に触れようとした。

「まさか、彼女を起すのですか!?」

 先の戦闘で心身ともにボロボロとなり、今やっと穏やかに眠っている彼女を、何故わざわざ起す? できることなら、彼女にこの光景を見てほしくない。気を負ってほしくない。そんな気持ちが自然と声を荒げさせ、横たわるカキョウと大精霊との間に割り込んだ。

「汝の気持ちは理解している。すまないが、今はどうしてもこの娘の力が必要なのだ」

「カキョウの力が、どう必要なのですか?」

「それについては、この娘が起きた時に説明する。……さぁ、起きるのだ、炎の愛し子よ」

「なっ……! 待てっ!!」

 悲しいことに、風の大精霊はこちらの進言を汲み取ることなく、健やかに眠るカキョウの額に翼の先端である風切羽根を当てた。

 すると、彼女の眉が動き、目頭がくしゃりと皺を寄せ合い、徐々に重い目蓋が持ち上がっていく。

「ん、んん……、よく寝た……。って、イツツっ! 何これ、地面??」

 地面の感触を確かめながら、上半身を起したカキョウの顔はとても血色が良く、安眠からの清々しい目覚めといった感じである。

「カキョウ、気分はどうだ?」

 寝起きの彼女を気遣いつつも、自分はカキョウの前にわざと中腰気味に立った。いずれ見てしまうというのは分かっていても、目を覚ました直後にこの光景を見せるのは酷だと思った。この体勢なら、足の間からもコートで見えないはず。

「う、うん……その、憑き物が落ちたって、言っていいのかな? 今、すんごく心も身体も軽い」

 確かに顔色などからも、彼女の体調はかなりよさそうである。

 しかし、それとは別にして、彼女の頬と耳がほんのりと赤い。また、視線をこちらから外している。

「どうした? やはり、具合悪いのか?」

 あれだけの魔力を一気に噴出したのだから、時間が経つにつれて出てくる変化もあるだろう。だが、それでも彼女の血色はとてもよく、そして頬の赤みはさらに増す。

 彼女の視線は、そっぽを向きながらも、時折チラチラとこちらを見ている。

「いやぁ……その……、色々と……いやもう、ほんと色々と恥ずかしいところばかり見せちゃって……ごめん」

 ようやく合点がいった。彼女は虫への怯えや、戦いに狂喜乱舞する姿、そして腕の中での泣き姿と、これらすべてを痴態と表し、恥ずかしさのあまりに謝罪をもって濁そうとしているのだ。

「そんなことはない。俺としては、やっとありのままの君を見れて嬉しかった」

 自分にとっては、彼女のこれらの表情は痴態とは思わない。むしろ、今までひた隠しにしていた、彼女の弱い部分をようやくさらけ出してくれたという点は仲間として嬉しく思う。また、一時のすがり先として選ばれたことに、男として栄誉を感じるのだ。

「あー……うー……あ、ありがと……。えっと、手、借りていい?」

 こちらが言葉を伝えるごとに、彼女の顔は真っ赤になり、今やゆでだこ状態である。

 問題は、立ち上がろうとするカキョウが補助して欲しいと、手を差し出していることについてだ。この手を取れば、彼女は後ろの惨劇を見てしまう。

(これだけ血色がいいのなら……)

 だが、永遠と見せないというのは、不可能である事も分かっている。目覚めたばかりではなくなったので、幾分かマシにはなっているはず。同じ痛みを背負わせることを許して欲しいと思いつつも、彼女の手を取った。

 立ち上がった彼女から、小さく息を飲む音が聞こえる。茹でだこ状態だった顔色は一気に白くなり、目を見開き、刺し殺さんばかりの視線で、黒い山を見つめる。

「何……何これ……」

「これが……黒い風の正体、多くの、犠牲者の方々です」

 それ以上でもそれ以下でもないと理解させる、たった一言。ルカは黒い山の真の正体をカキョウにとっての余計な情報として、そぎ落とした。それで良い。この場の誰もが、同じようにそぎ落としただろう。深きを知りたければ、そのときに改めて伝え、背負ってもらう。

「うそ……そんな」

 分かる。彼女の今の表情。困惑。脳裏を焦がすほどの、負の情報量。数分前までの自分達の姿が、今の彼女に集約されている。立ち上がったはずの彼女は、口元を手で押さえつつ、よろめいて、こちらに身を預けだした。こちらが腰に手をまわして、しっかりと抱き寄せないと立てないほど、目の前の光景で力が抜けたようだ。

「良き目覚めに、このような光景を見せてしまったことを許して欲しい。我は風の大精霊ラファール。炎の愛し子よ、君の力を貸してほしい」

 自分とカキョウの頭上から落ちてくる巨大な影と、ひどく優しい声。風の大精霊はその巨大な体と翼を使い、自分とカキョウの視線を無理やり遮った。隣に立てば、縦横ともに自分の倍の大きさであり、翼を広げれば、視界全てを奪えるほどの存在感を放っている。

「ふ、ふぁわぁ!? 鳥! ヒトの顔! 魔物!?? 違う、大精霊!!??」

 視界を覆い尽くした大精霊の御姿に驚愕することは予想していたが、彼女の頭上を飛び交う疑問符が、手に取るように分かる。

(なるほど……これが返事というわけか)

 その巨大な存在感を使って、カキョウの意識を逸らすことで、彼女が受ける心への負担を減らし、先ほどのこちらからの進言に対する返事としたのだろう。実際、今のカキョウからはどんなに顔を動かそうとも黒い山が見えないように、大精霊が前を陣取っている。

「……え、えっと、私の力って、どういうこと……?」

 状況を理解し始めたカキョウは、改めて協力要請についての確認に入った。

「この黒い山となっている犠牲者たちを、どうか君の炎の力で自然へ還してもらいたいのだ」

 ようやく、大精霊の真意を理解することができた。黒い山の正体を知らない彼女の手によって、この捕らわれの人々を燃やし……つまり火葬によってすべてを解放してほしいという申し出である。

 個々の肉体がどれぐらいの期間放置されていたのかは分からないが、大精霊の説明では少なくとも全員の肉体は死の境界を無理やり捻じ曲げられている以上、不死者(アンデッド)に限りなく近いだろう。加えて、負の感情のみを生み出す部品化している以上は、強力な解呪を持ってしても、元のヒトの肉体には戻れない可能性が高い。

 一応、黒い風の儀式を完全に終わらせるというだけなら、呪いを解除するということで、ルカやネフェルトに全員の魔力を集中させて、浄化や葬送の祈りなどを行ってもらう方法もあると思われる。

(彼らの希望なのか……)

 カキョウは知らないが、この黒い山の人々はまだ“生きている”。手も口も動かせないとはいえ、彼らはまだ考えることができるのかもしれない。

 本来なら、呪いの解呪の後に肉体を家族のもとへ返したほうがいいのだろう。しかし、肉体が死んでいる今、帰ったところで不死者となってしまった以上は、元の人間に戻ることは不可能。魂の死を待つばかりで、残された家族の前に確定した死を見せつけることになる。

 また、ここの犠牲者たちは犠牲者であると同時に、黒い風を生み出していたという意味では加害者ともなっている。恥じらいという意味でも、この場で天に還ったほうが、彼らの心も休まるということか。

 加えて、カキョウが黒い山の真実を知らないということは、彼らに対し手心を加えることなく、送り出すことができるだろう。

「……できない」

 こういった場面では、彼女なら快く引き受ける姿を想像できるが、予想とは裏腹に断りを入れた。彼女の表情は、それまでの清々しさを失い、沈痛な面持ちでうつむいている。

「どうしてだ? 今の君は、はっきりと自分の中にある魔力を感じているはずだ」

 これには大精霊も予想外と言わんばかりに驚いており、若干の焦りが見え始めた。

「分かるよ、いえ分かりますよ……自分の中がたっぷりと満たされている。自分の意思ひとつで、出し入れもできる。たぶん、こうすればいいって」

 カキョウだって、完全に魔力が無かったというわけではない。体内に流れていた極少の魔力が、本来の肉体に合わせた大きさになっただけであり、操ると言う点については以前と変わりがない。

「でも、違う……。私の力は、発火じゃなかった!! ただの熱放射っ!……だから、その炎は、私のじゃない!! 私は……、私は結局、真のホーンドになれない! 出来損ないの、ままだ……」

 その叫びは、湿り気の混じった悲痛の訴え。

 長年待ち望み、諦めていた有角族(ホーンド)としての力は、彼女の思い描いていた物とはかけ離れていた。火を神聖視し、崇め奉る有角族にとって、熱は同じ火属性の力でありながらも下位互換の力とされ、角の大きさと同じく優劣の対象となっている。

(望まない未来、望まれない未来……)

 自分も、己ではどうしようもないことで、幾度となく貶され、蔑まされた過去があるからこそ、彼女の嘆きが胸に刺さる。

「ふむ……なら、これを見て欲しい」

 風の大精霊がこれと言いながら、右の下翼を左の翼の間に突っ込むと、風切り羽をヒトの指のように器用に動かしながら、何かを取り出した。

 取り出されたのは、炎が収まったガラス玉。大きさは自分たちの頭部と同じぐらいの大きさであり、両手でないと持てない大きさだった。ガラスとは表現したものの、実際はとても薄い風の外皮であり、無色透明ながらも時折、それが風であることを表現するように金糸に似た、濃縮されたマナを見る事ができる。

 また、ガラス玉の中に封じ込められた炎は、夕日のような橙色がと思えば、リンゴのような青味の混じった赤だったりと、様々な“赤”に変化する不思議な発色をしている。

「これはね、先ほどの戦いで君が生み出した炎だ」

「うそ……」

「嘘ではないよ。その証拠に……ネフェルトよ、この炎を見てほしい」

 何か閃いた風の大精霊は、手招きをする動作のように風切羽根を動かして、“ネフェルト”を指名した。

「え? は、はい!」

 カキョウと大精霊のやり取りを見守るというより、大精霊が目の前にいるという状況に、ずっと目を見開いて驚愕していたネフェルト。突然のご指名に肩を大きく震わせ、錆び付いた滑車のように鈍い動きで、緊張感を露にしている。目の前にいるのは、このウィンダリアの地にて、かつて信仰の主神として崇めていた偉大なる存在であるから、ネフェルトの緊張は当然と言っていいだろう。

「あ、あの……どうして、私の名前を?」

「何、囚われの身だったとはいえ、風を通して君たちを見守るぐらいは造作もないことだ。それに、君は我ら風の愛し子たる翼を持つ者だからな。手に取るようなものだ」

 さすがは風の大精霊と感心しつつも、道中のカキョウとの喧騒や先の戦いを全て見られていたと思うと、何処か恥ずかしさと、気まずさと、心苦しさと、情けなさに襲われる。

「そ、そういうことでしたか。では改めて、失礼いたします」

 姿勢を正し、風の大精霊に向かって一礼したネフェルトは、差し出された炎を手に取った。

「どうだ? この娘の魔力が流れているだろう?」

 風の大精霊が結果を気にしているようだが、ネフェルトは受け取った炎を上から、横から、下から、さらには斜めに回転させたりと、食い入るように観察している。

「はぁ……流れているというより、これは魔力そのもの。……なら熱自体がカキョウさんの……変換無しでコレはすごい。なるほど、超高温による自然発火。もう少し濃度があれば、結晶化が始ま……ああ、すみません、ついつい」

 まさに我を忘れて食い入っていたようであり、その炎は魔法学的にも面白いものだったのだろう。ネフェルトは炎の球体を大精霊に名残惜しそうに返すと、カキョウへものすごく嬉々と輝いた視線を送った。

「結論から言えば、この炎は間違いなくカキョウさんのものです。しかも、かなり濃密で限りなく純粋……とても素晴らしいカキョウさんのの魔力と炎のマナの塊です」

 原理としては、カキョウの魔力が超高温の熱状態で放出され、燃焼性のある対象に触れたことで発火したことによる自然発火の応用であり、そこから採取された炎ということだ。燃焼中も燃料として魔力が注ぎ込まれているために、炎そのものに彼女の魔力が溢れている。

「り、理屈は分かった。間接的にだけど、炎は出せているってことよね?」

「そういうことです」

「う、うーん……」

 大精霊と、我がパーティ随一の専門家のお墨付きに、まだ納得の行っていないカキョウは大変複雑な表情をしている。

 ネックとなっているのは、“直接”発火ができないと言う点だろう。

 通常の火の魔法として扱われる力は、体外に溢れ出た魔力が直接炎となったものを指す。カキョウの場合は、温度上昇や対象の燃焼性が関わってくるために、発火までの行程がいくつか増えてしまっている。

 同じ火のマナ、属性に分類されて入るが、火の神聖視から言えば、やはり“劣”として扱われる点が拭いきれないようである。

 そんな悩ましい彼女の表情が、再び胸に刺さった。

 同時に、彼女から眼を逸らしてしまった。

(ああ、そうか……俺、“忘れて”しまっていたのか)

 自分も彼女と同じように、日常的に自分ではどうすることも出来ない差別に苦しみ続けていた。

 だが、彼女と出会ってからの1ヶ月で世界が……否、俺自身が変わった。自分を肯定してくれる、仲間達の優しさ。存在を否定しない、世界の心地よさ。18年の歳月が、たった1ヶ月で塗変わった。

 最初に計画されていた通りの旅なら、変化は少なかっただろう。それを大きな変化と実りへと導いたのは、他でもなくカキョウの存在があったからだ。互いの境遇こそ違えど、同じ“不要”者のレッテル持ちとして、傷を舐めあっていたはずだった。

 なのに自分は、いつの間にか彼女を残して、舞台から降りていた。

 この胸の痛みが、何よりの証拠だろう。まるで他人事のように、同情の眼差しで、彼女を外側から見てしまった。

「カキョウ」

 この声掛けは、何を意味している? 同情? それとも罪悪感を紛らわせるためか? それらの行為、思考自体が思い上がりであっても、止められない。

 今の彼女の背中は、あまりにも小さすぎる。

 せっかく開花した花を押しつぶしたくない。腐らせたくない。守りたい。

「ここは……コウエン国じゃない」

 故郷を忘れろとは言わない。だが、今立っている場所は、彼女を肯定してくれる世界だと認識して欲しい。

「俺達が知ってるカキョウは、今の君だけだ」

 君を肯定してくれる者たちを見て欲しい。

 君が助けた者たちを見て欲しい。

 俺が、俺達が、君のすべてを受け止めるから。

「ダイン……、みんなも……?」

 カキョウが皆の顔を見渡せば、それぞれが笑みを浮かべながら、力強く頷いた。

「カキョウさん」

 その中で、ネフェルトが一人前に出て、カキョウの手を取った。

「実はですね、熱放射も色んな訓練を行えば、直接発火ぽく見せる事ができるようになりますよ」

「ほ……ほんとに!?」

 ネフェルトから発せられた提案は、カキョウの表情やら一気に影を消し去るほど、今の彼女に必要な言葉だった。

 熱放射といっても、彼女の場合は温風という可愛さはなく、まさに炎が生み出す熱そのもの。コントロールさえできるようになれば、それこそ一瞬にて周囲の物体が持つ自然発火温度に到達させることもできるようになるだろう。

 むしろ、目に見える炎と違い、目に見えない状態から殺人的な温度を生み出すことができると考えれば、隠密性に優れた強力な攻撃手段となり、同時に敵に回したくない能力と言っていい。

「ホントですよ。それに熱は光を屈折させることができたりと、応用先が多いんです。なので、このお仕事終わったら、一緒に訓練しましょうか」

(光の屈折? そうか……蜃気楼のようなこともできるようになるのか)

 気温や地熱によって空気中に含まれるマナの密度が変化し、あらゆる光を屈折させ、物の見え方を変化させる自然現象『蜃気楼』。この原理を利用した魔法は存在しており、主に相手の視覚情報などの認識を惑わす幻惑系の補助魔法に分類される。

「は、はい! よろしくお願いします!!」

 自身の力に未来を示されたカキョウは、一段と大きな笑みを零し、朝日に照らされる肌の血色が、彼女の心を表すように赤く色づいている。

 そんな彼女の表情を見るたびに、自分の全身が熱を帯びていく。考えれば考えるほど、彼女が開花させた力の幅は大きく、未知数であり、まるで自分のことのように心が躍ってしまう。

 それは彼女が、再び自分と同じ舞台に立ったからか? 同情する必要がなくなったからか? 胸を痛める必要がなくなったからか?

 たぶん、すべて違う。

 ただ純粋に彼女に笑みが、血色が、輝きにあふれる瞳が戻ってきたことが嬉しい。これこそ、自分の知る彼女の姿だと、全身で噛みしめている。



「さて、カキョウよ。少しは納得してもらえたかい?」

 頃合いを見計らったように、風の大精霊ラファールは改めてカキョウに優しい視線を向けた。その光景は、まるで子供の自発的な答えを見守る親という構図だ。

(俺にもあったな……)

 養子に入って間もないころ、新しい家では何をしていいのか分からず、ただひたすら自室として与えられた部屋の隅でうずくまる日々。形とはいえ姉となったネヴィアに無理やり外へ連れ出されるのが苦痛で、とうとう大声で嫌だと叫んだ日。

『貴方は、どうしたいのですか?』

 怒るわけでもなく、ただこちらの言葉をくみ取ろうと待ってる養父となったグラフ。その後ろでは、『一緒に遊んだらいいのに』と不貞腐れるネヴィア。でもこの頃は、この家で自分はどう振舞っていいかが分からず、以前の家と同じく、自室に引きこもっていることが正解だと思っていた。

 ただ、完全に一人がいいかと言われれば、それは子供心的に一定の寂しさや、新しい環境への好奇心はあったために、本当はネヴィアの誘いに乗りたかった。

 それでも、自分にとっては部屋の外へ出ることは、怒られるものだという恐怖心が残り続けていた。だから、どうしたいかと問われても、本心を言ってはいけないものだと思い込んでいた。

『まだ難しいかもしれませんね。徐々にでいいから、やりたいことを言ってください。なんでもいいです。そして、みんなで話し合いましょう』

 この時のグラフの顔が、まさに今の風の大精霊と同じ、優しく諭す朗らかな顔なのだ。自分の時は頭に大きくて温かい手が乗せられた。永遠に追いつくことのない大きな手。自分なら、この手は誰の頭の上に置くのだろうか。

「納得……とまではいかなくても、なんとなくは」

「今はそれでいい。君はまだ出発したばかり。これからなのだからね」

 カキョウは自身の手のひらや、体のあちらこちらを見渡しては、自分の中に生まれた不思議な感覚に遊ばれつつも、慣らすように自身から遊ぼうとしている。

 そう、彼女はまさにこれからなのだ。ようやく上り始めた階段。彼女が今度こそ踏み外さないように、頭ではなく、手を取って支える手にしたい。

「それでは改めて、協力してくれるかな?」

「……えっと、その……気になることがあります」

 ようやく落ち着きを取り戻したかに見えたカキョウに、大精霊が改めて協力を依頼しては見たものの、彼女は再びどこか不安とも落ち込みともとれる影の落ちた表情に切り替わった。

「まず、その火を大精霊様の風に乗せて、火を大きくすれば、ことは足りるのではないのでしょうか?」

 カキョウの言うことは正しい。あの炎を火種としてみれば、ここには空気も寝ん賞を拡張させる力も溢れている。加えて、その炎を持っているのは風の支配者である大精霊その人なのだから、何もわざわざカキョウに協力を依頼する必要はないはずだ。

 ならば、彼女のを無理やり起こす必要だってなかったかもしれないと思うと、胸の奥底に小さな怒りが生まれ始める。

「君の言う通りで、できなくはない。だが……それでは燃焼という効果だけが拡張され、“生命の輝きが生み出した火”という意味まで薄まってしまうのだよ。それはで火葬ではなく、ただ燃やしているだけになってしまうだろう?」

「カキョウちゃん、魔力は心によって濃度とか、出すときの勢いとか変化する、でしょ? 聖サクリス教の祈りも同じ……。なるべく、修道士それぞれが、ちゃんと祈ることで意味を成すんです。き、気持ち、が大事なのです」

 大精霊とルカによれば、魔力は生命及び心が作り出すものであるために、そこから生み出された自然の効果自体の濃度に関わると言っている。

「それなら、俺たちが代わりに魔力を注いでもいいのではないのか?」

 結局のところ、自分としては先の戦いも含めて、カキョウには多大なる負荷がかかっており、また更に負荷をかけて、自分たちが指を咥えて見守るだけの無力という状況が腹立たしいのだ。代理を務めることで事が成せるなら、安い話である。

「ダインさん、それでは意味がありません。大精霊様が求めるのは、純粋でかつ高濃度の炎の魔力なんです。風を当てたり、私たちの魔力を注げば単純に火は大きくなるでしょうが、広範囲を高温にすることはできない……つまり、ここの数を一気に送ることはできないんです」

「加えて、俺たちは全員が別々の属性だから、それを火に注いだところで、反応しない可能性もある。せめて、カキョウちゃんを通して、炎の魔力に変換してからじゃないとダメってことだな」

 結局はカキョウが持つ純粋な炎の魔力だけが必要であり、それ以外での解決手段がないということが、全員から証明されただけ。一応、魔力を渡せば、彼女の負担を軽減することができる可能性も見いだせたために、ここが拳の下ろしどころなのだろう。

「……俺は、カキョウだけが無理をする事態にならなければ、それでいい」

「ダイン……。ごめんね、心配かけさせちゃって」

「気にするな」

 ここで大事な仲間と言えればよかったのだが、自分の中に生まれつつある不思議な感覚に、その言葉を出してしまうのは躊躇われた。

「あ、あともう一つ! その炎が私が生み出したものなら、その……真っ黒い心が生み出したモノだから、清めるとかには使えないのではと……。今の話だって、心が魔力として現れるからってことでしょ?」

 一難とは違うが、不安が去って、また不安。今、新しい自分の一面を獲得したことによって、彼女の視野は大幅に広がった分、隣り合わせの不安要素も多く見つかっていくはずだ。

 そして今は、大精霊の手の中にある彼女の炎と称した輝きについて。彼女の炎として採取したというなら、先ほどの戦闘中以外はあり得ない。それを踏まえれば、炎の源は彼女の狂乱と殺戮衝動に彩られた黒い心であり、それを浄化……言ってしまえば火葬の送り火として使うことに疑念を持ったようである。もし自分が彼女の立場なら、先ほどの心と魔力の関係性からも、同じ疑念を抱くかもしれない。

「カキョウ。君の考える心の黒い部分とは、先の化け物に対する復讐心と殺戮欲のことだろう。確かに、人理の上では悪、負、濁に分類される褒められたモノではない区分、という解釈だな?」

「はい……」

「ふむ……ではまず、君たちの尺度で話をしよう。君たちが持つ心とは必ず、善と悪、正と負、清と濁といった両極の二つで形作られる。比率は違えど、知性・感情を持つ全ての生物は、この理の中にいる」

 知性・感情を持つすべての生物ということは、生存するための基本欲求である本能とは違った知的思考と行動を行い、他者と何らかのコミュニケーションを取ることができる、“自己”を確立した生物ならば、善人、悪人、動植物、魔物問わず、皆同じだという。これまで戦ったことがある悪人といえば、数時間前に戦った巨大蜘蛛男も、ポートアレアで戦ったグローバスも、精霊の目からは等しく知性を持った生命体、一つの大きな括りでしかない。

「では、清と濁の境界は誰が作った? それはヒトの『過去』。ヒトがヒトたることを定義づけるために敷いた人の理。つまり君の清濁感は、あくまでもヒトが作り上げた人理の上で測ったものでしかない」

 倫理、道徳、常識、秩序、法律と、様々な形で清と濁の境界線を、過去の人々が自らの体験を基に、必要と考えたから設定していった。だから歴史が存在し、今と未来を導く法や秩序が整備されている。安易に殺めてはならぬ。犯罪を犯してはならぬ。見下してはならぬと、これらは生まれたその時から、教育として刷り込まれていく。

 むしろ教育が存在しなければ、殺戮溢れる真の弱肉強食の世界になっていた可能性もあっただろう。

「そこで君に問いたい。君が黒い心とするそれは、本当に悪しきものなのか?」

「……え?」

「見方を変えれば、それは己を害する存在の排除という防衛反応。苦痛な過去や怨嗟からの脱却。無縁と諦めていたものを得た喜び。死迫るもなお生きたいという渇望。君という存在が最も輝いた瞬間。絶望の黒から希望の白に切り替わった一幕。違うか?」

 物は言いようであると感心してしまった。彼女は実際に狂乱と殺意に溢れ、嬉々とした表情で剣を振っていたが、それも大精霊の言葉通りに解釈すれば、自らのあふれ出る力に喜び溺れ、自分たちを含めた多くに人々に害をなす者を絶対排除する気迫と変えれる。

 彼女が自身の行為と心を黒として悔いるのなら、その姿に心を踊らされ、嬉々としてみていた自分もまた黒である。

 そして、彼女がいくら悔いようとも、カキョウ自身とその場にいた自分たち、そして山の麓で暮らす多くの人々の生命を守ったことになるのだから、そこまで極端に自分を追いやる必要はないと思う。

 それだけ彼女はまだ、自分の力そのものを信じれないのだろう。何せ、生まれながらにして、ほぼ存在しないと思っていたものが、他者の目にも見えるほどの濃さで湧き出したのだから、それを自分の現実とするまでは、もう少しだけ時間がかかるだろう。

「そ……それは……」

 しかし、力の根源たる存在からの説得は、比較的良い方向へ向かっている様子であり、先ほどまで苦悩と悲痛に歪んでいたカキョウの表情が、和らぎつつある。

「いいか? 魔力とは本来、白も黒も清も濁もない。純粋なる生命の輝き。そこに人が勝手に人理、尺度、情緒という意味を見出し、自分らを分類し、縛り付けているだけなのだ」

(人が勝手に分類しただけか……)

 彼ら精霊というものは、自然から発生した『自然の意思』を発言する者。

 故に彼ら『自然』が紡ぐ言葉は、このエリルという『世界』の言葉。

 故に彼らの説く意味は、『世界の考え』。彼らの許しとは、『世界の許し』。

 つまり、大自然や世界の前では、己が発した力には正負、聖悪、清濁といった二面は存在せず、ただ純然たる『力』しかない。そこに意味を見出すのが人特有の行動であり、彼らにとってその区別や自体が無意味なのだと。

 自然災害がまさにこれだ。そこには自然が発した力だけが存在し、そこに善も悪もない。ただ人が敷いた理に照らし合わせ、自分たちが一方的に被害を受けたから災害と区別しただけだ。

「付け加えよう。この山は今、この黒き山が原因で闇に満ちているが、この炎はどうだ? 闇を孕んだような色をしているか? 我には極めて美しく、君の根源的な生きたいと願う強い思いの炎に見える。ネフェルトよ、この炎を分析した際に、闇の痕跡はあったか?」

 登頂時のネフェルトの説明通りなら、カキョウの狂乱や殺戮衝動に惹かれ、その炎の中に闇の痕跡があってもおかしくはない。

「いいえ、ありませんでした。この炎は属性で言うなら完全なる火一色。そこに不純物がないほど、きわめて高純度なカキョウさんの輝きそのものと思いました」

 ネフェルトから返ってきた答えは、さらなるお墨付きと言わんばかりの結果だった。あくまでも“心を燃やし、魔力を生み出した”というだけなのだろう。

「か、カキョウちゃん!」

「ルカ?」

「お手伝い、しましょう。私は、カキョウちゃんが黒くないこと、知ってますから」

「そうそう。誰だって、自分を殺そうとしてきた奴なんて許せないし、殺し返してやりたくなるさ。みんな普通だって。むしろあの場面を黒い心って言っちゃうあたり、十分白いじゃん」

「トール……!」

 微笑とともに掛けられる言葉が増えるたびに、カキョウの目には雫がたまり、いつ決壊してもおかしくない。

 狂喜乱舞する姿に魅せられた自分や、魔力に惚れたネフェルトだけじゃなく、手伝いを促すルカや、殺意に同意するトールも、皆分かっている。たった1ヶ月とはいえ、その時間は決して短いものでもなく、薄いものでもない。死地を共にしたからこそ、互いの醜い部分も許容できるぐらい、皆が繋がりあってる。

「カキョウ」

 それでも、年齢分の年月の中で、彼女はずっと自己を否定され続けてきた。自分たちがどんなに言葉をかけようとも、ぬぐい切れない劣等感はまだまだ残り続けるだろう。

「さっきも言っただろう。俺たちが知っているのは、今の君だけであり、見てきた君だけだ。誰も否定していないということは、肯定しているのと同じだ」

 それでも君が信じれないなら、何度でも伝える。

「ダイン……、みんな……ありがと」

 カキョウは感謝を言い終えると、下向きに顔を隠しながらも、ルカに支えられつくしゃくりあげるように泣き出した。背中を摩る手が増え、泣き顔も白い翼で遮られた。

「次は、お前が涙をぬぐってやれよ」

 いつの間にか自分の左隣に移動していたトールが、生肌むき出しになっている左肩を2回叩いた。視線はこちらにではなく、白い翼の中で黒い心を濯ぐ少女に向けられている。

「……そうだな」

 これが現状のリーダーだからという話ではないことぐらい、さすがの自分でもわかる。

 自分の中に彼女の対する“特別な異性”という感覚。

 はっきりと自覚したのは、蜘蛛の糸で宙づりにされ、命の灯を消したかのように弛緩した彼女の姿を見たとき。仲間としてではなく、もっと深いところで失うことに対する恐怖に支配された。

 加えて、炎の舞台で自らの魔力と生に喜び踊る姿を見たとき。彼女の生命の躍動と願いに応える魔力の激流。そして浮かべる狂乱の笑みは、もっと見ていたいと全身を焦がすように血流が沸騰した。

(文字通り、恋焦がれるか……)

 もしきっかけを探すなら、一番最初の出会いの時だろう。自分に多くの驚きを与えてくれたのは、まぎれもなく彼女だ。乗船料から始まった繋がりはとっくに返礼されて、むしろ溢れかえっている。

 だからこそ、先ほどは“大事な仲間”と言えなかった。自分の中ではすでに“大事な女性”という次の段階へ進んでいたのだから。

 ただ、それはまだ自分の中に生まれたばかりの感情でしかなく、まだ一方的なものでしかない。彼女にとって自分が特別な存在であればと願いつつ、この育ち切っていない感情を今しばらくは胸に秘めておこうと思った。



◇◇◇



 目を覚ました時は、すでに朝日によって薄霞が照らされる青空が広がる早朝であり、自分はダインによって霊峰の山頂まで運ばれていた。硬い岩肌の布団によって体中がチクチクしたが、体内や心はとても清々しく、瑞々しい。

 そんな気持ちの良い目覚めは、目の前の男前――ダインによって一気に奪われた。経験を積めば積むほど男前度の上がっていくこの青年の整った顔が、目覚めの眼前にあるというだけでも良い意味で心臓に悪い。加えて、登山中の言い争いに相手を殺すこととあふれ出る魔力に喜び狂い暴れてしまったこと。その後に彼の腕の中で泣きじゃくったこと、またどうやって運ばれたのかと多くのことが頭を巡り、恥ずかしさのあまりに自分の顔が赤く火照るのに気づくと、彼から視線をずらした。このまま、空の中に消え入りたいほど、恥ずかしさのあまりに心の防御はボロボロである。

「俺としては、やっとありのままの君を見れて嬉しかった」

 そんな時にこんな言葉を言われたら、それこそ“特別”というものを意識してもいいのかと錯覚してしまう。

 だが、そんな想いも束の間、彼の向こうに見えたたくさんの黒い物体が脳が理解することを拒絶する。あまりにも強烈な負の情報が脳を焦がし、心をかき乱し、さらなる痴態を晒すこととなった。

 さて、ここからは一度に色んなことが起こり過ぎたので、一旦整理する。


 1.目の前の窪地の中に積み上げられた黒い山は、霊峰に登山なり、調査隊なりで踏み入れた人たちの成れの果て。つまり実際の犠牲者たちであり、長きにわたる大災害の起点。この方々を送り出さないことには、悲劇が終わらない。


 2.目の前にいる巨大な翡翠色の人面鳥。自らを風の大精霊ラファールと名乗り、私に力を貸してほしいと言ってくる。普通なら人面鳥という段階で、怪しさ爆発なのだが、麗人や美丈夫と表現していいほどの整った男性の顔であり、体毛は宝石のように煌めく神々しい姿は、まさにこの世ならざる存在として妙な説得力を持つ。


 3.大精霊と名乗る存在は、私の魔力を使って黒い山に対し火葬を行いたいので、協力してほしいとのこと。普段の自分なら協力はやぶさかでもないが、後述の2点が協力を躊躇させた。


 4.躊躇した部分その1。自分の魔力は発火ではなく、熱放射だったこと。なので大精霊の手の中にある炎は自分のではないはず。しかし、ネフェルトの鑑定によって、自分のものと判明。それでも結局、有角族としては半人前にすらなれないことが分かり、周囲に迷惑をかけた。ただし、これは訓練によって発火に見せかけることができ、応用先も多いと判明。その助言だけで、どれだけ救われただろうか。


 5.躊躇した部分その2。大精霊の手の中にある炎が、自分のドス黒い心から生み出されたものじゃないのかという疑問。それも、精霊たちにとってみれば、ただの力の一つでしかなく、黒いも白いも関係ないらしい。加えて、再び仲間たちから励まされてしまった。照れくさくなった。


(……とまぁ。ここまでの流れをざっと振り返ってみたけど、私、混乱しすぎだな)

 心が落ち着いてくれば、自分がどれだけ気が狂っていたのが理解してしまう。もはや恥ずかしいを通り越して、穴があったら入りたい。

 時間が経てば、考え方も少しずつ変わってくる。魔力が溢れているということは、これまで戦闘中に大きく負荷をかけていた関節や腱をもう少しは労わることができる。刃に宿らせていた魔力が大きくなり、これまで以上に熱い一撃を与えることができる。さらには、ネフェルトが示唆したように、熱を応用する技や魔法を多く習得していけば、この仲間たちの足を引っ張ることもない。

 しかし、仲間たちからの言葉は、優しい世界と言ってしまえば聞こえはいい。今までの人生からすれば、ここはぬるま湯というぐらい心地が良すぎる。むしろそのやさしさに甘えた末に置いて行かれるのではと、不安になってしまう。

 それでも“今は”必要としてくれている。

 なら、その“今”を積み重ねていくしかない。

 生まれ変わった、『今の私』を出していくしかない。

 大きく息を吸う。黒き山からは、いまだに多くの呪いの筋が見えるが、それでもここの空気は澱みなく澄んでいる。これも風の大精霊なせる業なのかと思えば、この巨大な存在に対する疑いはかなり晴れた。

「はー……、よしっ! 大精霊様、協力させてください!」

 涙の跡をぬぐい、吸った息を大きく吐きだし、風の大精霊に向かって胸を張って協力を宣言した。深呼吸によって、体中がきれいな空気で満たされ、これまでに燻っていた悩みやモヤモヤした感覚がすっかり消え去っている。

「ああ、感謝する。では、この君の炎に触れなさい」

 大精霊から改めて差し出された炎は、手を近づければ近づけるほど、今か今かと激しく揺らいでいる。それはまるで生き物のようであり、ガラスに似せた風の障壁を破ってこちらに襲い掛かってくるんじゃないかと、恐る恐る手を伸ばす。

 受け取ってみると、炎は若干大人しくなり、手にはじんわりと手になじむ温かさが伝わってきた。

 これが自分の魔力によってできた炎なら、念じることである程度は形を変えることができるのではないだろうか?

(あ、できた。本当に私の魔力でできてるんだ)

 止まれと念じれば棘のような円錐形に固定され、暴れろと念じればそれこそ回遊魚の魚群のように、ガラス玉の中を縦横無尽に動き出した。

「理解してもらえたね。さぁ……彼らのために、祈ってやってくれ」

 風の大精霊が指し示す、黒い山となっている犠牲者の方々。一体いつからここで眠っているのだろうか。一体どれだけの昼と夜を見てきたのだろうか。

(遅くなってごめんなさい)

 奇跡的に自分たちがあの蜘蛛を倒せたとはいえ、これほどまでの犠牲者を出してしまったことと、解決までが遅れに遅れてしまったことを、これまで尽力してきた関係者の代わりに謝罪する。自分たちにできることは、ただひたすら、この方々の安らかなる眠りと冥福、そして次の生が幸多からんことを祈るだけ。

 その祈りに応えるように、手の中の炎を収めた風の球体がまるで包帯を解くように、シュルリと音を立てながら、周囲の空気に溶け込んで消える。

「……どうか、安らかに」

 その言葉が合図と言わんばかりに、風の拘束がなくなった炎は、夜空を切り裂いて流れる流星のような、尾を引く火球を次々と生み出し、黒い山へ飛翔する。その光景は風になびくルカの長髪のように優しい揺らめき。時折、黒い山から漏れ出る呪いの筋を食しながら、尾を伸ばしていく。

 やがて火球は赤や朱、橙や黄色、白といった炎の色彩ごとに色を発し始め、尾の中に金糸や白絹糸で描かれた蝶、鳳凰、鬼灯、菊、雲、川などの模様が浮かび上がり始めた。まるで、コウエン国の祭事や神事、冠婚葬祭で身に着ける煌びやかな礼装の反物や帯が生を受け、魚のように空を泳ぐ。その数は時間とともに増えていき、今や空の青はすべて炎の暖色に置き換わってしまった。

「……綺麗」

 煌びやかな炎の反物によって作られた円天井(ドーム)は、ろうそくの火のように中央に向かって消失するように集束し、放射状に吸い込まれる様子が万華鏡の中を思い起こさせる光景となっている。

「熱く……ない。なんで、しょう……まぼろし、ですか?」

 炎の万華鏡となった空を眺めるルカがこぼした一言。確かに熱くないが、それは数時間前の戦闘中と同じように、自分の魔力が発している力だからか、もしくはかろうじて炎の民である有角族だから炎熱に対する耐性があるからだと思っていた。しかし、周りを見渡せば、皆汗一つかかずに、この光景に見入っている。

「いいえ、これは……カキョウさんの魔力が純粋に可視化したもの。ほら、カキョウさんの周りから出ています」

「へ?」

 ネフェルトに指摘されて、はじめてわかった。手の中にあったはずの炎はいつの間にか消え去っており、新しく生み出されていく炎の反物が、自分の体表から10cmほど離れた空中から徐々に姿をはっきりとさせている。

「だ、大精霊様、これは……!」

「そうだよ。熱は見えづらいからね。少し見やすくさせてもらったよ。どうだい? 君の魔力はこれほどまでに美しく、神々しく、黒を含まない輝き。是非、皆に見てほしかったのだ」

 巨大な翡翠色の巨鳥に視線を送れば、まるで我が子を見守るような親の優しいまなざしで、己の御業とこの光景の源についてを肯定してきた。

 このおびただしい数の煌びやかな反物一つ一つが、自分の魔力の姿。視線を動かせば、その方向へゆらりと反物たちが揺れる。

 その姿形が故郷の反物であることは、自分の中に流れる力がしっかりと有角族(ホーンド)特有のもであり、また故郷で育ち、得てきた環境的要因から生み出されていることの証拠。どんなに自分を半人前と罵ろうと、どんなに周りから認められなくても、自分は有角族であり、コウエン国民であり、炎の民であること。

「おいおい、大精霊さんよ。できるんなら、これを最初からやればよかったんじゃないのか?」

 トールの言う通りだ。最初からこうやって示してくれれば、あんな駄々をこねることなく、少しは違ったかもしれない。

「それでは意味がないのだよ。いいか? 大事なのは、彼女が己を信じ、己を受け入れ、その上で手を差し伸べる心。納得のいかぬ者に、この光景を見せても、我が作り出した幻にしか感じないだろう? カキョウよ、違うか?」

「う……確かに……」

 大精霊の読みは当たっている。今でこそ、手の中にあった炎や目の前の反物が自分の意志で動く様を見たから信じれるのであって、こんな光景を先にいせられたところで、先ほどの自分なら嘘だの、幻影だのと喚き散らしていただろう。

 さて、これだけ自分の魔力がはっきりと可視化されたのなら、あとはどのように魔力を動かせばいいかが手に取るようにわかる。全方位で舞っている炎たちを黒い山へ導く。

「カキョウさん。私もお手伝いさせてください」

 改めて黒い山へ意識を集中させようとしてた時、自分の左隣にネフェルトが立った。

 いくら新しく生まれてきた魔力が大量だとは言え、黒い塊1体分を空へ導くためには、どれだけの魔力が必要なのかは分からない。

 加えて、この黒い山を構成する人々は、ネフェルトの同胞たちであるはず。手伝うも何も、本来は彼女が主体になって弔ったほうが筋が通ると思われる場面であり、自分が代行してしまっていることが心苦しとも思っていた。

 つまり、この申し出はありがたい以外の何物でもない。

「ぜひ、お願いします!」

「では、失礼します……」

 左肩にネフェルトの手が静かに置かれる。と、思った途端、触れられた部分から、明らかに自分の中をうごめく魔力とは“違った温度”を持つ圧が流れ込んできた。

(これが、ネフェさんの、魔力っ!)

 まるでお湯の中に、冷水の塊を入れた時の異なった二つが混ざり合おうとしている感覚。冷水と感じたのは他者の魔力ということに加え、明らかにネフェルトの持つ“氷”の属性が反応しているのだと思う。さらには雷の魔力なのか、体内には静電気に似た小さな痛覚も感じ取れる。

 だが、流れ込んでくる魔力は次第に、自分の元の魔力に溶け込んでいき、痛みも消え去り、同じ温度になっていく。

「わ、私も!」

 ネフェルトの魔力に慣れてきた時、今度は逆の右側からルカがしがみつくように手を取ってきた。

(あ……ルカの魔力は、すんごい滑らか……牛乳?)

 流れ込んでくる魔力はネフェルトの冷水と違って、ほんのりと温かくトロみがあり、心地の良い滑らかさは暖められた牛乳の喉越しに近い。その上、体の隅々にじんわりと浸透していく。相手の体内に馴染みやすい魔力だからこそ、治癒魔法に向いている魔力なのだと理解できた。

「おいおい、お兄さんたちを仲間はずれにしないでほしいな」

「まったくだ」

 そう言ってトールが右の肩甲骨に、ダインが左の肩甲骨に手を当てた。

(ふお……わわ、わわわわわわ!?)

 順次に来たネフェルトとルカと違い、男二人は同時に魔力を送り込んできたために、体の中に発生した新しい2つの感覚に全身がしゃっくりのような、軽い痙攣を起こした。

(えっと、こっちがトールので……)

 トールの魔力は、彼が戦闘中に放つ風そのものであり、爽やかな流れが体中を高速で駆け巡る。それこそ体の形に添って駆け巡るために、指先や足先などが驚いて、軽い痺れを起こしている。

(んで、これがダインの……)

 ダインのは先の3人に比べたら量は少ないものの、まるで水田の泥のように非常に重みと粘度のある塊である。そのため存在感が極端に大きく、きれいに溶け込むまでには少し時間がかかるものの、溶け込んでしまえば、誰よりもはっきりと体の隅々まで行き届き、“一体”となった心地よさと安心感を覚える。

(みんなの魔力が……いや、みんなと一体化していく)

 それぞれ個性を出していた魔力たちも、次第に自分の中にある熱に溶け込んでいく。しかしはっきりと、内側から押し上げられるような質量と密度が増加していると分かる。

「……よしっ! それじゃ、いくよ」

 今の自分は貯水槽の蛇口。全員の魔力が体に馴染んだのを確認すると、これまで出していた自分の魔力と合わせて、ゆっくりと元栓を解放する。先ほどとは異なる自分の中から巨大な塊が外へあふれ出る感覚に、一瞬だけ意識が持っていかれそうになった。それだけ、預かった魔力に反映されてしまうほど、みんなの鎮魂の祈りが大きいことを表している。

 そして、大きく変わったことがある。これまで赤や橙といった炎を連想する色の中に、青や水色、紫に緑、乳白色、真鍮に似た鈍色などの様々な色が下地や刺繍の入った反物が現れるようになった。

 これは、力を貸してくれた仲間たちが預けてくれた魔力の属性が、色となって表現されている。青系と紫はネフェルト。緑はトール。乳白色はルカ。鈍色はダインのものだろう。それぞれの個性がこの体を通って、一緒に可視化されていく。それこそ色とりどりの反物が風に乗る姿は、端午の節句の鯉のぼりや5色吹き流しを連想させた。

(どうか、ご冥福を……)

 深く祈れば、舞い降りた色とりどりの炎の反物は、黒い山を形成する個々の犠牲者たちを優しく包み込み、本来の形である炎へと姿を変えていく。炎に抱かれた犠牲者たちは、黒から赤へ、そして徐々に白へと変色していく。

(良き来世でありますように……)

 手は合掌をし、目をつむり、暗転した世界の中で最後の祈りを捧げる。

 思い描くは、焚火の穂先のようにゆっくりと天へと昇る炎。一つ、また一つと完全なる炎となった人々が空へ還る。

 目を開けば、思い描いた風景が具現化する。白へと変化したご遺体は形が崩れて細かい灰に代わり、空へと導かれていく。一つ、また一つ。

 両側と背中に置かれていた手がなくなっていることに気づき、周囲を見渡した。

 トールとネフェルトは導かれる人々を追うように天を見上げながら、黙祷を捧げている。

 ルカはその場に膝つくと、両手を胸元で握り組み合わせ、聖サクリス教の祈りの形をとった。

 ダインは天を目に焼き付けるように天を見つめながら、右の握りこぶしを左の胸元へもっていき、まるで兵隊のような敬礼を捧げている。

 その光景はとても長いようで非常に短く、気が付けば全ての犠牲者は炎と風と共に朝日に照らされた淡い空に昇り、何もかもが消えてなくなった。



 黒き山がすべて、世界へ還ったのを見届けると、見上げていた空は朝日を浴びて仄かに鈍い金色が混じる青灰色の晴天となっていた。

 呪いの起点となっていた陶磁器に似た半球型のくぼ地には、わずかに燃え残った一部を除いては、すべてが消え去っていた。淀んでいた空気もしっかり浄化され、どこを見渡しても、ここに厄災を生み出す要因は見当たらない。

 体の中を蠢いていた魔力も出し尽くしたために、魔力と入れ替わりで疲労感が体中にたまり始めていた。

 それでも新しく生まれ変わった自分の力によって、この地に縛り付けられていた多くの人々を救い出し、下界で待つさらに多くの人々の生命と営みを守れたという達成感が、霊峰の清風とともに肌と肺から全身を満たしていく。

「終わった……の、です、か……」

 澄み渡る空の下で、歓喜が喉の奥からこみ上げようとしている中、一人ネフェルトが視界の左側から消えるように、その場に崩れ落ちた。

 慌ててしゃがみこめば、ネフェルトは地面に座り込み、自身の肩を抱きしめながら小さく震えている。

「ネフェさん……」

 肩に触れればビクリと大きく震え、前髪の隙間からは大粒の涙を必死にこらえようとしている。

「カキョウ、さん……ありがとう、ござい、ました」

 この集団の中だと、トールとさほど変わらない年齢であるために、どうしてもお姉さんとして振舞おうとしている節は多々見られる。だからこそ、ここでも泣くのも堪えようとしているのだろう。

 だが、彼女は今、誰にも止められることなく泣いてもいいはずだ。

 黒い風という人為的な大厄災によって、両親が奪われている。他にも多くの見知った人や、大量の同胞たちも同じく連れ去られた。ネフェルトもこの厄災の犠牲者なのだ。

「ネフェさん、こらえちゃダメ。ご両親のために、殺されたみんなのために、泣いてあげて」

 自分たちが泣くこともできるが、この国で生まれ、この国で育ち、そして多くの同胞たちを奪われ、今まさに多くの同胞たちを見送ったネフェルトだからこそ、流す涙に意味がある。

「そう、ですよっ……! すべての、終わりを、告げましょう」

 自分の隣に場所を移して、一緒にネフェルトを覗き込んだルカの言葉。

 すべてが終わった。到来を告げる鐘の音。夜闇に溶け込む黒い恐怖。風を受けても死なない今日。何十年と続いてきた忌まわしき日々。

 そのすべてを終わらせたのは自分たちであり、ネフェルト自身なのだ。

「なぁ、ダイン。見てみろよ。フェザーブルクの人々が動き出している」

「本当だ。俺にも見える……」

 男二人は、この世界で最も高い場所から、目の前に広がっている光景を堪能している。それこそ、視線の先には救われた多くの命と営みが在る。ネフェルトに気を使っていると思われる二人の背中は広く、大きく、頼もしい。

「みな、ざん……あり、が、ど……」

 その言葉を皮切りに、これまでに聞いたことのない声量が天に木霊する。滝のような雫が止めどなく流れ、たくさん地面を濡らす。腫れ行く顔を隠すためか、白い翼が自分とルカも含めて包み込んできた。翼の付け根より少し下をさするたびに、体が大きく跳ねては嗚咽に似た声で大切な人の名前が呼ばれる。たとえどんな音色だろうと、今この音こそ最も美しい鎮魂歌なのだ。

 風が生まれる神聖な場所で、ネフェルトの奏でる鎮魂歌とともに、すべての嘆きが終わりを告げた。

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