3-11 生誕の炎
『ごめんね……』
懐かしい。そう思わせる音に、耳を傾ける。
ゆっくりと眼を開ければ、そこは白くぼやけた世界。何もかもが靄がかかったように、良く見えない。
それは暖かく、でも冷たい。
大きくて暖かいはずのそれは、とても冷えていた。
大きくて暖かいはずのそれは、吸い付くように、まるで離れる事を嫌うように、アタシの頬や額を撫で繰り回している。
これは手だ。
白の中に写る桃色が、ふわふわと揺れる。
緋色の瞳が涙を浮かべながら、こちらを見ている。
『こうしてあげることしか出来ない』
先日のぼんやりとした夢だったのに、今回は割りとはっきりしている。
春雨がまだ人肌に対して冷たく感じる時期。
その日はまるで狐の嫁入りのように、日差しが所々射しながらも、しとしとと雨が降る明るい日だった。
一つひとつを認識するたびに、ソレまでぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていく。
これ先日見た母の夢だ。
場所は既に懐かしいと感じてしまう実家の玄関。
故郷の中でも古いほうの分類に入り、玄関は椋の一枚板で作られた上がり框のある土間状であり、6畳ぐらいの広さがある。見上げれば、成人女性の胴体ほどの太さがある梁が屋根を支える重厚な木造家屋だ。
何故、アタシと母は玄関にいるんだろう?
いや、分かっている。母は何処かに行こうとしているのだ。
何処かへ……逝こうとしているのだ。
とても小さなアタシの身体を、母は名残惜しそうに力を込めつつ、でも苦しくならない程度に強く抱きしめる。
行こうとする母を止める事ができない。声をあげることもできない。
いや、夢だから、すでに過ぎ去った過去だからなんだろう。
それとも聞き分けの良い子供だったとか?
いや……違う。何かが止める事を封じている。
それが母なのか、別の物なのかは分からない。
抱きしめながら、母はアタシの額に口付けを落とす。
そこで目蓋が重くなり、徐々にまどろみの中へ落ちていく。
額がチリッと熱くなった。それでもまどろみは、アタシを落としていく。
遠ざかる母の顔は悲しそうにしながら、何かを口ずさんでいた。
それは、先ほどまでの謝罪とは違う言葉。
そして紡ぎ終わると再び『ごめんね』とつぶやき、アタシの身体を離していく。
あの雨は、自然の雨じゃなく、恐らく母の涙だったのだろう。
雫を受けながらも、アタシは意識を手放していく。
しかし、意識が手放されていくと分かっているのに、自分の視界はどんどん遠ざかっていくだけであった。
まるで後ろに下げさせられたように、アタシは“母に抱きとめられた幼い頃の自分”を見ているのだ。
意識が無くなったアタシは母が抱き上げると、アタシの中を通って後ろから現れた人物に、渡していた。
アタシの中を通って現れたのは、父だった。
アタシと同じ真紅の髪と瞳を持った少し若い頃の父の背中。
父の真後ろにいる状態では、表情が見えないので全てが見渡せる横のほうへ移動した。
見たことの無い場面ではあるが、何となくアタシ自信の正しい記憶なのだろう。アタシの意識自体は眠っているために記憶には存在しないはずだけど、触れられた、抱上げられたといった身体が受けた体験として身体が覚えている記憶が再生されていると思う。現にアタシが眠った後から、父と母の顔は墨で塗りつぶされたように真っ黒であり、父はアタシを抱き上げたまま微動だにしていない。
でも、表情が見えなくても、アタシを抱きかかえる父は優しいように見えてしまった。
それは……見たことも無い、覚えてすらいない父の優しい姿だった。
ズ……。
額に小さな痛みが走る。
それは鼓動と共に大きくなり、やがて頭が割れそうなほどの痛みになる。
痛みと共に、白く霞んだ暖かい風景は一瞬にして、黒一色の闇へと切り替わった。
闇の先には、仄かな白い光。
それはルカが放った照明魔法の光であり、そこから広がるのは、今まさに自分以外が戦っている戦場の光景。
トールが竜巻を起こして、蜘蛛たちを吹き飛ばしている。
ネフェさんが雷撃で、蜘蛛たちを焼き殺していく。
そして、自分の足元から少し離れた位置に、大量の血を流すダインと、それを必死に治癒魔法で癒すルカの姿があった。
それは、アタシがいなくても成り立っている光景。
(アタシは……みんなに迷惑しかかけてない)
何も出来ないアタシが、いっぱい迷惑かけて、いっぱい危険を呼んで、みんなの命を危険に晒している。
皆が必死に戦っている中、奥の小屋の残骸から傷だらけになった巨大蜘蛛男が、ゆっくりと不気味な笑みを浮かべながら起き上がりつつある。
「……ッ! 奥を見て!!!」
皆に向かって叫んだところで、届かない。自分の声だけが、この闇の中を木霊する。
『トール……ブラストネイルをカキョウごと巻き込んでくれ』
あんなにも分かるように避けていたのに、彼はアタシを助けることを優先しようとする。
分かるよ。もうそれしか手段はないし、そんなに深く考えなくていい。
ダインにとっての、皆にとって最善の行動を取ってくれればいいのだから、今は戦力にならないアタシなんか捨て置いていていいのに。
しかし、背後に迫った脅威から何か発せられたのか、皆の動きが一様に止まった。しかもその表情からは、それまで抱いていた闘志や戦意といったまだ前向きな気持ちと共に、血色すら抜け落ちている。
『……-ン。……リーン』
聞こえてきたのは、戦慄の金属音。時機が最悪だ。
鈴の音と巨大蜘蛛男に気取られた一同は、周囲に展開していた子分の蜘蛛たちから放たれた糸によって、完全に身動きを奪われてしまった。
こちらが叫んでいる間にも、意識を奪われたネフェ、口を塞がれたルカ、指を封じられたトール、打つ手がどんどん無くなっていくダイン。目の前の状況は刻々と悪化していく。
このままでは、皆の死が確定する。
(──このままでいいの?)
いいわけが無い。
仲違いのまま、嫌われたまま、さよならするなんて……嫌だ。
戻っても役立たずかもしれない。蜘蛛に囲まれて何も出来ないかもしれない。
それでも……戻りたい。
アタシを……“私”を必要としてくれるのなら、帰りたい。
(──分かった)
その声は自分の物なのか、他の誰かのなのかは分からない。
ただ、その声が消えたと同時に、再び額に痛みが走る。
「あ、ぐぁ……つつぅ……!」
先ほどの痛みとは比べ物にならなほど痛く、額を押さえて年甲斐なくその場でのた打ち回るほど痛い。痛みは脈動に合わせて、小刻みに強弱を出しながらも、徐々に大きくなっていく。
次には指先と足先からも痛みが生まれる。眼をやれば、既に手首と足首まで“炭”のように、肌が黒々しく変貌していく。まるで自分の存在が消え行くように、周囲の闇へ溶け込んでいく。
『ククク、アハハハハハハハ!!』
そして、遠かったはずの外界の声が耳元でがなり立てられたかのごとく、劈くようにすぐ傍で聞こえる。耳を押さえるが、外界の嫌な音だけが耳の奥に残る。
これが体を包む全ての痛みをさらに酷くさせた。
音が外からではなく、頭に直接流し込まれているものだと理解すると、痛みの隣に沸々とした怒りが生まれ始める。
「……るさい」
小さかった怒りは言葉を受けるたびに肥大化し、“熱”のような皮膚を刺す感覚が全身を取り巻いていく。
のた打ち回るほどの痛み、全身を包む熱、黒化していく身体。
急激な変化と怒りと不安定になる情緒によって、今にも爆発してしまいそうだった。
『さぁ! サァ! サァアアアア!』
「うるさいっつってんだよ!!!!!」
耳の奥に直接流し込まれた興奮と色を含む叫び声に、堪忍袋の緒はあっという間に切れた。 そして自分の声に、黒一色だった世界は硝子板が砕けるように、弾けとんだ。
世界が切り替わっていく。
暗闇の中で遠巻きに見ていた光景が、鮮明にして目の前に広がっていく。
先ほどまで狂喜乱舞の奇声を上げていた巨大な蜘蛛男と、男の腹や周囲の蜘蛛から伸びる大量の糸によって作られた白き惨状。紅い星たちの広間。仲間達が捉われ、鈴の音が鳴り響く地獄の入り口。貶められ、辱められ、殺されそうになった忌むべき場所。
「……ナニコレ」
目の前は煌々と輝く橙の草原……もとい炎の海に囲まれていた。火種となっているのは破壊された山小屋の瓦礫、黒ずんだ糸。
そして、空を覆い尽くさんばかりだった蜘蛛が奇声と弾けるような音を小さく発しながら、紅点が次々に橙へと塗り換わっていく。
火の手は人身の大きさを優に越え、難攻不落の城塞を思わせる幾重にも張り巡らされた厚く巨大な壁となっていた。
山火事というよりは、祖国の神事で炊き上げられる炎のように、神々しささえ感じる。火の手が夜闇を切り裂き、煌々とした炎が踊り狂い、宙を舞う火の粉が彩り、天に向かう。
夜空に舞い上がる火の粉は、まるで海へ向かう精霊流しのように、美しい送り火となっている。
「……ハハッ、綺麗」
カラサスの夜。彼と見た夜闇に光る天蓋の光たち。あの優しい光に抱かれ、送られるのは私達かもしれない。奇跡的にこの糸が解けようとも、既に逃げ道は無い。仲間達と仲良く火葬される未来が広がっている。
火と共に生き、火によって送られる有角族(ホーンド)としては、もっともらしい最期とも言える。
「ヒッ……嘘だ、在り得ない……!」
感傷の邪魔をする耳障りな声。視線を落とせば、先ほどまで狂喜の奇声を上げていた化け物がいた。
「ふざけるな、フザケルナ、ふざけるなぁアア!! お前からは何も感じなかった!! ただの成り損ないだったはずだ! 何故だ!? 隠していたのか!!? いや、有り得ない……お前にそんな芸当はできないぃイイイイ!! お前は何だ? 化け物か!?」
妙な事に先ほどとは打って変わり、まるで自身の理解を超える化け物に遭遇したような、阿鼻叫喚の酷く激しく歪んだ形相で喚き散らしている。
人智を超える化け物として自負する存在から、化け物やら成り損ないやらと喚かれるのは、なんと耳障りで神経を逆撫でされることか。
(殺したい、殺したい、コロしたい)
無力な私を辱め、成り損ないと言い、その上で化け物と表する者を。
皆の心を叩き潰し、数の暴力で甚振り、死に瀕してもなお絶望で弄る者を。
無関係な人々を恐怖で支配し、無差別に殺し、嬉々として喜ぶ者を。
自分でもはっきりと、腹の底から“形ある殺意の塊”が水流のような“形ある流れ”となって体中を駆け巡る。歯茎から血が滲むんではないかと思うほど、痛くかみ締める奥歯。指の骨が折れんばかりの力で握り締める拳。腸(はらわた)が煮えくり返るという言葉が生易しく感じられるほど、胸と腹の境界が焦がされるような痛みを発する。
「言ったよねぇ……ウルサイって!!!」
膨れ上がった殺意が臨界を突破し、怒号となって外に出た。
もう我慢できない。虫が何だ、蜘蛛が何だ、糸が何だ。もう既に相手は恐怖の対象とかいう話ではない。排除対象。殺害目標。任務でもなんでもない。私達は今、生存を賭けた戦争をしているんだ。殺したい、殺したい、コロしたい、コロシタイッ!
「ヒギァアアアアアアアアアアアアア!!! ヒャ、ヤア……アヅイ、アヅイイイイ!!! 爛れる、タダレルゥゥ!!!」
怒号から一拍して、巨大蜘蛛男が悲痛な叫びと共にのた打ち回り始めた。見れば、ダインによって切り落とされた左前足の止血部分から火の手が上がり、傷口部分からは肉の焼け爛れる音と臭いが発し始めている。
周囲は火の海だが、糸に火の粉が付着して燃焼したとしても、巨大蜘蛛男が気づかないということはないはず……。
ガクン。
不意に揺れる視界。重力を感じる身体。四肢の拘束が緩む感覚。
自分を縛り上げている太い糸の先を見れば、糸が勢いよく燃えていた。炎の進みは思いのほか速く、瞬く間に身体に巻きついていた糸が燃え散り始めた。
糸の素材が燃焼性の高いものなのか、それとも別の要因があるのか。
ガクン。
そんな事よりも、糸がこのまま燃えていけば、宙吊り状態からそのまま解放され、岩肌の地面に落下してしまう。そこまで高くないとはいえ、このままでは受身を取れないまま落下し、身体中に新しい傷に加え、脚を挫くか最悪折る可能性もある。
(なんだろう……“大丈夫”)
だが、何処からか生まれ出る意味不明な自信によって、このまま落下しても問題ないと謎の結論にたどりつく。自分は無傷のまま、降り立つという妄想に近い想像が出来上がっている。
その時は来た。耐久力の無くなった糸は燃えた断面から引き千切れ、身体は宙を経て、地面へと吸い込まれていく。
そして、身体が何かに布のような優しい心地の感触に包まれながら、ふんわりと舞い降りるように着地した。強烈な地面からの風が起きたわけでもなく、落下衝撃軽減や重力操作の魔法が発動したわけでもない。
ただ分かるのは、身体を纏う“流れ”が全ての衝撃と抵抗を消し去っていく。流れは、自分に危害を加えるものではなく、何処か安心を生み出す、加護に似た何かかもしれないということ。
害が無いと分かった以上は、一先ず頭の隅に放り投げることにする。今は、目の前の化け物をこの世から消し去るために、愛刀の回収を急がなければならない。
「……ド、コ?」
しかし、周囲を見渡したが、何処にも見当たらない。宙吊りにされた際、確かに手から離してしまった。そのまま落下したはずなので、足元の近くにあるはずだったが、見渡しても炎と小蜘蛛の燃えカスしかない。この炎の中か、巨大蜘蛛男によって、山肌のほうへ捨てられたか。
「ウソ……ウソ嘘うそ!」
信じたくない。想像するだけで、身体の一部を持っていかれる欠損に似た喪失感を覚え、気が狂いそうになる。
「カキョウ」
名を呼ぶ声に振り向けば、身体中に燃えカスになった糸を散りばめたダインがやや遠い位置に立っていた。彼の姿は無事とは言いづらく、髪は乱れ、整った顔のいたるところに大小さまざまな傷と土汚れにまみれている。鈍銀に輝いていた金属製の鎧は大量の切り傷が付き、左の肩当が無理矢理引きちぎられ遠くに転がっている。高貴な色合いの青い外套も切り傷だらけであり、左肩には拳大ほどの大きな穴から素肌が露出している等、見るも無残という言葉が似合うほど、今の彼はボロボロだった。
また、この火の海に囲まれているためか、彼の額や頬には汗がにじみ、唇は渇き気味で、少々息苦しそうだった。
そもそも、彼は中々表情を表に出さない分類のヒトだ。冷静といえば聞こえが良く、寡黙といえば近年の美徳と言える。意思疎通ができないというわけでなく、ただひたすら表情の強弱が少ない。もしくは、どこまでも感情を殺し続ける悲しい人物かと思っていた。
そんな彼の、昨日に発した怒りは、初めて直接受けた『彼の感情』そのもの。普段のように少ない表情の奥底から痛々しく、体の芯が凍らされるほど激烈な冷徹は、彼の内側に巨大な炎を宿しているのだと、まざまざと味あわされた。
そんな彼の瞳が何処か輝きを放ち、何か意味を持つように真っ直ぐと見据えている。火の光という物理的なものではなく、何処か自信や希望に満ち溢れると表現しても良い輝き。
「これを」
そして、まるで慈しむように優しく、彼は自身の左腰から鞘に収まった私の愛刀を取り出した。鞘だけ見ても、土汚れは綺麗に拭われている。昨日の喧騒から互いの関係は気まずいものになっていたにもかかわらず、わざわざ腰に差し込んで、大事に扱っていてくれたことに、目頭が熱くなっていく。
「ごめん、ありがとう……!」
何よりも、愛刀を預かっていたのが彼だったからこそ、胸の底からこみ上げてくる塊が溢れそうになる。
差し出された愛刀を受け取ろうと近づき、右手を伸ばす。
ゆらり。
腕がおかしい。肌が波打つ水面のように絶え間なく歪んで写る。時々、腕の向こう側が見えるほど、空間が歪んでいるように見える。
「な、何これ」
それはまるで“陽炎”のように。
腕だけではない。足先から腹部、肩と見える範囲全て。恐らく、全身が揺らめいているのだろう。
自分の変化に驚きつつ、ダインに答えを求めようと顔を上げると、彼の汗は滝の如く大量に噴き出しており、表情は先程よりも苦し気なものへと変わっている。
周囲が夜闇を切り裂くほどの光り輝く炎の海とはいえ、真夏の昼間に運動したような汗のかき方はしないだろう。ましてや、自分には今の気温が心地いい。
加えて、ダインはじりじりと後ずさりし始めている。1歩近づけば、彼が1歩下がる。まるで私から逃げるように遠ざかる。
渡したいのか、渡したくないのか、それとも今度は彼から私を避けているのか。そんな行動をされては傷つくし、次第に苛立ちへ変わっていく。
彼の無事を確認したことで鳴りを潜めていた“形ある流れ”が、再び渦巻き始めた。合わせるように身体に纏わりついてる揺らめきは大きく激しいものになり、心地よい風が髪の毛を巻き上げる。
逆にダインは「熱ッ!」と苦悶の表情を深く歪め、更に1歩遠ざかった。
(……? 熱い??)
どうもおかしい。自分は火のマナに囲まれて暮らした有角族(ホーンド)だからこそ、真夏のギラギラした炎天下でも、平静な顔で暑いねって言える程の熱耐性を持っている。だからと言って、他の種族と大きくかけ離れるような耐性があるというわけでもなく、暑い時は暑いし、脱水症状だって起こす。
その上で自分は今の気温が心地よく、ダインは滝のような汗を流し、唇は乾いている。
彼と自分に起きている変化には極めて大きな差があり、違いという点なら、はやり身体を纏っている揺らぎしかないだろう。
「ダイン……もしかして、コレ熱い?」
コレとして、自分の左腕を彼のほうに向けつつ、右手指で揺らめきを指し示してみた。ちなみに、揺らぎは彼が熱いと口走った時よりも、幾分小さくなっている。
「ああ……凄く。だが、今は少し弱まった」
ダインの言葉や少し和らいだ表情からも、揺らぎの温度自体が下がったように見える。
まず理解できたことは、自分に纏いついている陽炎と表現した揺らぎは、そのまんま超高温の『熱』であるということ。
熱は、高温になるほど光を屈折して陽炎や蜃気楼、逃げ水と言った幻影を見せるようになる。自分の肌が時折透過して見えるのもそのせいだろう。
では、熱自体は自分が発している物だとすれば、どういう原理なのだろうか?
一般的に考えられるのは、余分な魔力が体外に放出された時に起きる“魔力の発露”だろう。生物は個々の差があれど、必ず魔力の保有量に上限が存在し、これを超える魔力を作ると自然と身体から漏れ出るようになっている。
このとき、漏れ出た魔力は生物が必ず持っている先天属性に沿った発露物に変換され、体外へ放出される。
火属性なら発火や放熱、水属性なら霧や小雨、雷属性なら静電気、樹属性なら接している植物の生長促進という形だ。
自分は有角族(ホーンド)であるために、火属性の放熱が近いものだと思われる。
だが、自分には味噌っかす程度の魔力しかないため、保有量の上限突破による発露はありえないはず。
なのに、この自分の状態は発露にかなり似ている。どういうことなのか、さっぱり分からない。
「カキョウ」
「ん?」
我に返るようにダインを見上げれば、彼は不可思議なものを見るように、少し怪訝な表情となっている。
「隠していた……というわけではなさそうだな」
「かく……す??」
どういうこと? 何かを疑っているの?
……何でそんな表情をするの? 今、自分のことで精一杯なのに、何? ナニ? なんなの? 自分でも、情緒不安定すぎるというのは理解している。
しかし、同時に“ヒト”としての瀬戸際のようで、本当に余裕がなくなっている。
彼の言葉が少しでも癇に障れば、穏やかになっていた揺らめきは、一気に激しさと大きさを増した。
「熱ッ……いや、君のその魔力……」
「ま、りょ……くぅんんんん!?!?!?」
おかしい。その言葉を聞いた瞬間、それまでは小さく、薄っすらとしていたなけなし、味噌っかすと表現していたものが、大量の束になって身体の中を“燃やすように熱く”駆け巡っている。
やがて全身が流れにとって満たされると、余剰となった流れが行き場を失い、全身の穴という穴から外に飛び出して『熱』となっていく。
「何これ……何これ、何これ」
言葉を理解し、認識した途端、身体の中の流れは“自分が生み出している魔力”として、はっきりと知覚しはじめる。巨大蜘蛛男が喚いていた“感じなかった”という表現から、先ほどまでは自分にこの力は無かったのは明らか。
魔力とは体力や生命力のように自然に生み出されるものであると同時に、心の機微や感情の上下によっても生み出される。そのため、『心の力』と表現される事もある。
自分の場合、角のせいか、遺伝的なにかのせいか、どんなに願っても、どんなに激しい感情を持とうとも、生み出される魔力も溜められる魔力も、魔術師を除いた一般人の量からすれば10分の1とも100分の1とも言える量だった。
親や生まれを恨む事もあった。
迫害してきた者たちを憎むこともあった。
自分の存在を消したいと思うこともあった。
「カキョウ!!」
今、私は人生で一度も感じたことのない程の膨大な魔力を体内に抱えている。喜びのあまりに魔力は際限なく溢れ出し、すぐに発露しては膨大な熱となって、髪やら服やら暴れるように逆巻いている。自分を含めた誰もが見たことのない状態なのだから、彼が驚くのも無理はない。
自分は、今、ひたすら嬉しい。そして愉しい。この体内を蠢く魔力と熱に、酔いしれている。
(……今なら、魔法、使えるんじゃないの?)
魔法の使い方は、知識としては知っている。
まず対象選択。攻撃対象は……こちらの様子を伺いながら、蹲って体力を回復させている最中の巨大蜘蛛男のヒト部分の長い白髪。距離にして3メルト離れているので遠隔扱い。照準を合わせやすくするために、右手の平を相手に向けるように突き出す。
次に詠唱……といっても、炎の魔法の詠唱なんて、一生使うことなんてないだろうからと一切覚えていない。なので、これは省略。その次の魔法名の宣言、これも同様に省略。
最後に魔力をマナへと変換し、魔法自体を発動させる。詠唱と魔法名宣言が無い場合は、大量の魔力を消費するが、自分の発動させたい光景を想像するだけでも、近いものを発動させる事ができるらしい。想像は容易い。なんせ、手本となる本物の炎がそこら中に広がっている。
あとは身体中を渦巻く魔力に想像を乗っけて、攻撃対象に向けて放つ。魔法名があれば、魔力が対象に触れたと同時に効果が現れる。
身体中の魔力の流れを手の平に集まり、そこから炎が相手に向かって吹きかけられるという妄想に近い想像。
準備は整った。私の大舞台の始まりだ。
「燃えろ!!」
煌々と輝く炎の海に、新たなる豪炎が加わる。
……とはならなかった。
何も出ない。魔力は確かに体外へと放出されているのに。豪炎の妄想を強めても、逆に弱めても、右手の平からは何も出ない。
「……は? ふざけてるの?」
こんなにも魔力があれば、自分も“一人前の有角族(ホーンド)”に、“ヒト”なれるんじゃなかったのか?
自分はどこまでも持たざる者、ヒトならざる者なのだろうか。
「ヒギャアアアアア!!! 熱い! あヅい! ア゛ヅイ゛イ゛イ゛!」
ところが、巨大蜘蛛男は髪を振り乱しながら、盛大にのた打ち回っている。
5メルト程あった白の長髪は、火の粉が付着した糸と同じく、毛先の部分から見る見ると黒く変色し、そして遅ればせながら、変色した部分から巨大な炎が生まれ、燃えカスとなって空に舞い上がっていく。
火を出す事はできない。しかし、“狙った相手に超高温の熱を与える”事はできる。
つまり、自分の発露や魔法の方向性は、火の中でも『発熱』に特化したものではないだろうか?
それなら、周囲の火の海も納得が行く。いつだったのかは分からないが、殺意という熱の塊を蜘蛛や糸に放ち、自然発火からどんどん延焼していった結果、質量も合間っての火の海となったのだろう。
目に見える形の力というわけではないにしろ、命の危機に瀕した現状で、自分の力の性質が分かっただけでも上出来である。
分かってしまえば、自分の戦い方は自ずと見えてくるというもの。基本的には今までの戦い方と同じで自らの身体を張り、刃に魔力を乗せて、相手を切り裂く。
大きく変わる点は、様々な動作に魔力の補助を重ねる事ができるようになること。跳躍力や脚力を増強させたり、着地の衝撃を和らげたりと身体能力への補助を加え、多少の無理をした動きを交えた戦い方が出来るようになるはず。
つまり、この世界の常識、当たり前、普通な戦闘行動が行えるのだ。
「ぎざ、マアアアアアアア!!!」
そんな事を思っていた矢先に、良い実験対象が動いた。
逆切れも甚だしく、巨大蜘蛛男が半狂乱になりながら、まだ残る右前足を振り上げた。
「ダイン! その子を投げて!!」
今、殺意が蘇り、再び超高温を纏った自分にダインを近づけさせては、巨大蜘蛛男に宛がう熱を向けてしまいかねない。
「……っ! 受け取れ!!」
相手が大事にしていると分かっている品物を投げやるというのは、彼なりに戸惑いが生じる行動のようだった。
しかし、状況は理解しているために1拍の後、日頃から大剣を扱う豪腕から繰り出される投擲により、愛刀は豪速を持って手元に帰ってきた。
愛刀を受け取った流れのまま身を翻し、大振りの刺突を回避しつつ、巨大な虫の足を正面に捕らえる。
「――居合・赤隼(イアイ・アカノハヤブサ)」
そのまま腰を一気に落とし、受け取った愛刀を腰の左に持ってくると、反りの背である峰を上に向け、馬上太刀のように佩く。そしてこれまでにないほどの魔力をたっぷりと注ぎ込み、居合の一撃を思いっきり解き放つ。
これまでの味噌っかす程度の魔力では、熱された鉄が持つ鈍い赤色程度の光り方しかしなかった。
だが、今、愛刀の刃に乗る色は、太陽にも負けないほどの赤白い輝き。
輝く白刃は、豆腐に刃を通すが如く、分厚い甲殻に覆われた右前足を逆袈裟に切り裂き、巨体が地響きを鳴らしながら地面へと沈んでいった。
分離してしまった足の断面は、磨かれた鏡を思わせる美しい平面を描き、鉄板で焼かれた肉のように熱で変色していた。吹き出るはずの体液は超高温の熱によって蒸発し、周囲には鉄板上で跳ねる肉汁の音と臭いが充満する。
化け物は裂傷と火傷に加え、両前足を失った激痛に、声にならない叫びでもだえ苦しんではいるものの、蜘蛛らしく残された左右3本ずつの足で、まだ立ち上がろうとしている。
化け物のあがく姿に、煮えたぎる憎悪はより一層騒がしくなり、心臓の早鐘に全身が震えを起す。
「……足りない」
左の前足は、ダインが捧げてくれた私の分。
右の前足は、私が捧げるダインの分。
では、ルカの分は? トールの分は? ネフェルトの分は? 黒い風で亡くなった人たちの分は?
復讐の花が、血に彩られた大輪の花が圧倒的に足りない。
再び地を蹴ると、切り落とした脚の残骸を足場に、化け物の人体部分目掛けて大きく跳躍する。
身体が軽い。魔力を帯びた脚から生み出された跳躍は、自分の背丈の倍以上の高さととなり、化け物の人型部分を眼下に捉えた。滞空中の身体は、やはり魔力によって前後左右全ての方向からほんのりと圧力がかかり、安定性が生まれている。
化け物の人型を越えると、順手持ちしていた愛刀を逆手持ちに替え、愛刀を突き刺すように力いっぱい振り下ろした。狙うは、化け物の膨れ上がった巨大な腹部の甲。
無傷の状態なら、目視からの回避や糸による防護膜などで守りに徹することもできただろう。だが、両前足を失った激痛に化け物に考える余裕も体力も無く、ただ痛みに蹲るのみ。
刃は狙い通り、甲殻の装甲を無視するように、刀の鍔まで腹部に深々と刺さった。
両前足の痛みに比べれば、腹部の1点に生じた痛みなど、可愛いものであるかのように、化け物は小さな悲鳴を上げた。
しかし、これだけで済むような煮えくり方はしていない。
甲殻に突き刺さる愛刀から手を離し、その場に軽く跳ぶと、愛刀の柄の先『柄頭』を体重を掛けて踏み込んだ。
愛刀が降格の内側の感触を伝えながら、化け物の奥へさらに深く刺さる。
「――追撃・朱鴫(ツイゲキ・アカシギ)」
そして、最大限に突き刺さったと同時に、限界まで膨れ上がった風船を想像させる魔力の塊を愛刀内の発熱の術式に一気に流し込み、その風船を割った。強烈な炸裂音と共に、中身は甲殻を突き抜け、投げつけられたトマトのごとく、盛大に“破裂”した。
それこそ、望んだ大輪の、血で彩られた牡丹のような美しい花となった。
追撃・朱鴫は、相手に刺さった状態の武器を踏み込むか蹴り込み、より深く刺すと同時に爆発や炎上の魔法を武器伝いに流し込むことで、武器を起点に内部から破裂や燃焼を起して相手を攻撃する、殺傷能力の高い技(アーツ)である。
ただし、相手に武器が刺さっているという特殊な状態に加え、急速かつ大量にに魔力を流し込むという点から武器の損耗が激しく、非常に使いづらい技(アーツ)となっている。また、武器の扱い方や攻撃方法のえげつなさから非道徳的と批判され、コウエン国では禁じ手として忌み嫌われている。
しかし、ここは外の国。そして相手はヒトを脱した化物であり、こちらは絶体絶命の背水の陣ともいえる状況。法も規則も何もない戦場である今、非道徳的などという言葉は無い。加えて、相手の動きが止まっているという最高の状況で、使わない手はなかった。
さて現在、自分は朱鴫の爆発で、宙を舞っている。爆発の大きさはは直径5メルトとなり、爆発の威力自体も高かったため、愛刀と共に簡単に吹き飛ばされてしまった。眼下の化け物は、腹部の甲に爆発と同じ大きさの半球状の抉り痕を作り、動かなくなってしまっている。
以前なら、このまま地面にたたきつけられてしまうところだが、身体を駆け巡る魔力が、軌道と向きが自然に修正し、脚に負担をかけること無く地面に降り立った。愛刀も見えない紐や磁石がついているかのように、身体に追従する形で、天に伸ばした右手の中に戻ってきた。
「アハハ……、ハハハ、ハハハハハハハ!! 何これ、スゴーイッ!!」
魔力によって補強された身体能力というのは、なんと素晴らしいものだろうか。楽しい。愉しい。動くたびに、魔力が四肢や筋肉を引き伸ばさんばかりに激しく流れる。心が躍り、身体が熱くなるという表現を、まさに体現しているのだ。
それは永遠に到達できないと思われた、遠き理想の場所。
持たざる者が持つ者へ。ヒトならざる者がヒトたる者へ。
「そっかぁ……、私、やっと“ヒト”になれたんだ」
望んだ結果とは若干違うものの、自分はこの瞬間から一人の有角族(ホーンド)として、一人のヒトとして、この世界で堂々と生きることが許される。
もう、何も恐れる必要はない。
今日、私は、私になったのだ。
「アッガ……ンギィ……ギ、ギィ……ギ、ギザま゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
喜びに浸かっているのも束の間、化け物は怨念と殺意の塊というべき奇声を上げながら、再び立ち上がった。
腹部の半分を失い、大量の体液を垂れ流し、ヒトならば既に絶命してもおかしくない状態であるにもかかわらず、未だにその巨体を維持する生命力には、脱帽せざるを得ない。
だが、どんなに凄まじい生命力を持ち合わせたとしても、生命を維持するための体力と魔力は奪われていく。現に人型部分は最早死人と言わんばかりの不気味な青白さを放ち、息も絶え絶えと、明らかに死に瀕する寸前である。
「ヂョウシ、に乗るノモ、いイ、加減にジロッ!!」
化け物が叫ぶと、ただ煌々と燃え盛っていた周囲の炎が煽られる様に揺れた。それは山頂のほうから流れ来る風。
「わダジの、デッドリーカースウィンドを忘れているだろう!」
長ったらしい意味不明な言葉の羅列ではあるが、それが何となく“黒い風”のことだとは理解できる。
なれば、この全身に纏わり付く風も、やがて死を運んでくるのだろう。
しかし……。
「あのさ、今のあんたに儀式魔法に集中できるほどの余裕って残ってるの? 今だってさ……鈴の音止まってるじゃん」
そう、風は吹いているものの、ネフェルトの手首に装着された鈴は鳴っていない。
彼女のクリスタルシャトーのように、儀式魔法は発動を完了させるまでに長時間の意識集中が必要であり、集中が途切れた場合は魔法そのものが発動しない。再度発動させるためには詠唱のはじめからやり直しとなる。両前足に左脇腹を失った状態なら、痛覚を遮断しない限り、魔法に意識を集中するのは難しい
。
仮に痛覚を無視して、詠唱を完了させることが出来ているのなら、拘束されていたあの時に黒い風が到来してもおかしくない。
既にはったりと化している化け物の言葉に、何の恐怖も抱かない。
「覚悟、できてるってことで、いいよっ、ネッ!!」
身体を駆け巡る殺意が、再び爆発に似た衝撃となって、身体を突き動かす。1歩踏み出すごとに蜃気楼が大きく揺れ、愛刀は火の海を切り裂くほどの白き輝きを放つ。
「ヒ、ヒィィィィイイイ!!! わだじヲ、私を守レえエエエェェェ!!」
あと数歩というところ、化け物の背後や火の海から全身火達磨となりながら、蜘蛛の大群が一斉に飛び出し、振りかぶりでガラ空きになった腹に直撃した。
質量の暴力から生み出された威力は凄まじく、腹と肺から一気に空気が抜ける。加えて、弾き飛ばされた身体は背中から地面へ叩きつけられると、ゴム鞠のように跳ねた。
しかし、腹部と胸部に走るはずの痛みは微々たるものであり、引き裂かれた夜闇を見上げる視界は、ゆっくりと反転しながら地面を捉える。開いている左手を地面に突き刺し、軸にしつつ、端から見れば猫のようにしなやかに四つん這いで着地した。
左手の平は、硬い岩肌に突き刺しただけあって、見るからに皮膚は所々裂け、血まみれであるが、やはり痛みは無い。
「ヒィヤアアアアァァァ!! ば、化け物メェエエエ! 来るな、来るなアアアアアア!」
化け物の悲鳴に、火達磨状態の蜘蛛共が飛び出し、巨大な津波となって押しつぶさんと、天から降り注いだ。
「アハ、アハハハハ……だからぁ?」
再び化け物に化け物呼ばわりと、とことん逆撫でられる神経は、既に焼ききれており、憤怒の感情が鉄砲水の河川のごとく、苛烈な激流へとなり、新たなる熱へと変わる。
泣き叫び、蹲るほどの恐怖の対象も、今はもう過去の物。この身に溢れる魔力に守られていると思えば、有象無象の畜生も恐れるに足らず。
「――舞・紅燕(マイ・ベニツバメ)」
むしろ何故恐怖していたのかすら分からなくなるほど、復讐の舞に身をゆだねることの愉快さに、腹の奥底が嗤いがこみ上げてくる。
◇◆◇
降り立つ姿は、しなやかな猫。
舞う姿は、狂乱に浸る舞姫。
戦う姿は、戦慄を悦とする狂戦士。
笑みを歪ませながら、彼女は舞台の中心で嬉々と刀を振う。
荒神という言葉が似つかわしく、それでいて残忍、非道というべき彼女の戦い方は、忌避すべきものだろう。
「……美しい」
しかし、自分はその真逆の感情で彼女を見つめた。身に纏う荒れ狂った魔力は羽衣の如く流れ、化け物から散る体液は宙を舞う花弁に、7合目を包む炎は、一人の女の覚醒を祝う晴れ舞台と言わんばかりに煌々と輝いている。
それは彼女自身に対してか、彼女の発する力に対してか、それとも両方か。自分は、明らかに魅了されている。
「なんて……、なんて乱暴な魔力なんですか」
それは後方から発せられた女性の声。振り向けば、自らの大杖に身を預けるようにゆっくりと近づいてくる、ネフェルトの姿があった。
「ネフェさん! 大丈夫ですか」
近づいてみれば、気温によってか、まだ復調していないためかで、息も絶え絶え状態であった。
「はい……こんな魔力に当てられたら、さすがに目が覚めます」
ネフェルトの視線の先には、縦横無尽に剣舞するカキョウの姿。彼女から吐き出される魔力は、近づくことも許さないほどの超高温と化して、うねるようにはっきりと空間を歪めている。
「カキョウさんの魔力も物凄いですが……あれだけの魔力を完全に隠せ、なおかつ術そのものを誰にも感知させない技術。私にも分からない……何なんですか、アレ……」
もはや、目の前の光景は、当パーティ内における魔術の専門家ネフェルトの舌を唸らせるほどの、高等を越えたところにある魔術体系であった。
舌や喉、内臓壁、骨などに直接魔方陣などを刻み込むような魔術も存在する中、カキョウの状態はそれに当てはまらないものであり、もはや精神や魂と言った更に奥の内在的部分に刻み込まれた“呪い”の類かもしれないと零す。
どうしてそのような呪いを受けたかなどの経緯も含めば、カキョウに秘められた謎は、計り知れないものだ。誰にだって秘密は存在する。自分ですら、仲間に打ち明けていない事は山ほどある。
それでも、自らの魔力の無さを痛烈に嘆いていた彼女だからこそ、この状態は一体何なのだろうか。
「ともかく……今は、カキョウさんを止めないと」
ネフェルトは身体を預けていたロッドを持ち替え、カキョウが戦う戦場へと掲げた。
しかし、ロッドの先は蜘蛛の化け物にではなく、完全に動き回るカキョウを捉えている。
装着された緑系天然石が、周囲の炎に負けないほどの強力な輝きを放ち、杖を中心に幾重にも重なる巨大な魔方陣が形成されつつあった。発動しようとしている魔法は雷系であり、且つ魔力とマナの集中から、今まで見た事の無い高出力のものだ。どんなにネフェルトが疲れていようと、魔術の専門家による本気の一撃ならば、カキョウの身体がどうなってしまうか、想像もしたくない。
「ネフェさん! 何をしてるんですか!! そんな高出力魔法を撃てば、カキョウが!!」
「止めないでください! 一刻も早く止めないと、このままではカキョウさんが死んでしまいます!!」
今、ネフェルトの口から、聞きたくない言葉が飛び出た。
「は? 死ぬ……? 彼女が?」
今まさに、生気溢れる舞姿の彼女が、その肉体の一切の活動を停止してしまう?
ありえない。
ありえない、ありえない、ありえてほしくない。
“また”俺の前で、彼女は死ぬのか?
「そうです。錆び付いた配管に無理やり圧のある流れを加えたらどうなります? 錆が取れるかもしれませんが、劣化の激しい部分からはじけ飛びますよね? 穴が開きますよね? 今の彼女は、正にそういう状態なのです!」
決して、ゼロであったわけではないが、それでもカキョウの身体は、ほぼ魔力や魔法と無縁の生活を送っていただろう。故に、正しい消費方法も分からない状態のまま、蛇口を全開にしている。
自分ですら、防護魔法を体外に展開しただけで、意識が飛びそうになるのだから、確かにカキョウはこのままでは身体が耐えられない。
だからといって、先程ネフェルトが準備していた魔法は、マナに対して鈍感気味である自分ですら感じてしまうほどの濃度と圧縮。無防備状態の人間なら、命を消し去りかねなかった。
「では、どうすれば!?」
「一番手っ取り早いのは、気絶させることなんです……って、ダインさん!!」
理解した。ネフェルトは大げさな魔法を放つことで、カキョウに隙を作りつつ、気絶するだけの傷を一時的に負わせるつもりだったのだろう。
ならば、それはリーダーとなった俺の役目だ。
駆け出すと同時に、いつの間にか覚えた……いや、“昔は覚えていた”ハーダースキンを唱える。皮膚の一時的硬質化なんぞ、彼女の熱量からすれば、小手先の付け焼刃も同然だろう。接触間際にプロテクションウォールを張れば、一瞬なら何とかなるかもしれない。
だが、チャンスは完全に一度きり。ウォールが解除されたと同時に、確実に意識を失う。
それでも、賭けるしかないじゃないか。
焦る気持ちだけが、前へと身体を進ませ……、後頭部に衝撃が走り、その勢いのまま盛大に地面に頭突きをしてしまった。
「いっつぁ……」
後頭部と顔面という2段構えの衝撃に、ハーダースキンを唱えておかなければ、気絶していたかもしれない。
「バーカ、頭冷やせ。闇雲に突っ込んだところで、彼女の情熱に負けちまうぞ」
「確かに、情熱、ですね……ちょっと、熱すぎますけど」
何が起きたのかと、起き上がりつつ振り向けば、こちらにバルディッシュの柄尻を向けた全身蜘蛛の糸くずと傷にまみれたトールが立っていた。その後ろには、蜘蛛の糸をほぐしつつ、汗をぬぐうルカがいた。
「トール! ルカ!」
嗚呼、よかった……。全員、生きている。ダメだ、震える肩が止まらず、思わず感極まった声を上げてしまう。
「おいおい、熱烈だなぁ。普段のお前は、何処にやった?」
確かに……今の自分は、感情の振れ幅がおかしい。
焦り、憔悴、恐怖、絶望からの希望、憧憬、魅了。そして、再び訪れた絶望。あまりにも一度に起きてしまった感情の変化に、自分自身がついて行けていない。もう、これまでの外面を取り繕うほどの余裕もない。
むしろ、普段の自分とは何だろうか。
否、これが本当の自分なのだろう。
「そんなことよりも、今はカキョウを止めるほうが大事だ……!」
だからこそ、今の自分が何なのかなんて、彼女の生命と比べれば些事なのだ。
この自分の中に鎮座した、もう何も失いたくないとい気持ちが、ドス黒い怒りとなって発露する。
「わーかってるって。余裕のない我らがリーダーに代わって、お兄さんが出血大サービスしちゃおうかね」
自分一人が焦っているわけではないと言い聞かせるように、トールはニヒルな笑みをこぼしつつ、こちらの頭に手を置くと、これでもかというぐらい髪を撫で乱してくれた。
ダメだ、彼には勝てない。彼から溢れる余裕と冷静な姿は、場数の問題だけではなく、あらゆる生き方や戦いに対する“覚悟”の差が生み出すものだろう。彼に言わせれば、そういう生き方しかしてこなかった、と言われるかもしれない。
今思えば、同性の若干年上という存在は、トールが初めてだった。ネヴィアは異性なので論外であり、同性であれば一番近かったのは養父のグラフ殿。それでも二回りは歳が違った。
そう、トールは名実ともに、自分の人生における“先輩”であり、覚悟の持ち方を見せてくれる追うべき背中なのだ。
「さてっと……まず、俺がブラストネイルで周囲の火を弱める。その間に、ネフェさんとルカちゃんが俺の実家でやったみたいに、二重詠唱でサンダーストームを無差別且つド派手に展開して、カキョウちゃんの注意を引きつつ、可能なら残りの蜘蛛を殲滅」
トールがサービスといったものは、個々に対する指示だった。内容は、とにかく化け物からカキョウを引き離すことを念頭に置くものだった。ルカに関しては、こちらが何らかの傷を追えば即座に詠唱を中断して、回復行動に専念することも追加している。
「そしてお前は、カキョウちゃんの気が逸れたら、懐に飛び込んで、何でもいいから魔力の放出を止めさせる」
「何でもいいって、何だ」
「気絶させるとか、説得するとか、ようは戦意自体を消し去ればいいんだ。あれだ! キスでもいいぞ!!」
半分は前言撤回。いくら何でも、こんな状況で突拍子もなさすぎる。
こちらが呆れた溜息をついてみせれば、逆に相手もなぜか呆れた表情を返してきた。解せない。
「まぁいいさ。じゃあ、行動開始といこうじゃないか!!」
号令と共に、周囲の熱を吹き飛ばさんとする暴風が、早速吹き荒れはじめた。全力の限界ギリギリまで放出されるトールの魔力と、それに答える膨大な風のマナが見える範囲全てを吹き払う。並みの魔術師でもこんな儀式級の範囲を一人で生み出すことは出来ない。
ただし、ここは風の生まれる場所。風神信仰の総本山。山そのものが、彼の全てに応えている。
「「――サンダーストーム!!!」」
加えて、2人が唱えた雷撃魔法が暴風の荒波に乗っかり、縦横無尽に目が眩むほどの強烈な稲光を撒き散らしている。雷もまた、風のマナの傍系にあたるために、トール同様に山の恩寵を受け、サンダーストームの光は炎の舞台を霞ませ、夜闇すら簡易させない晴天の正午のごとく周囲を照らした。
荒れ狂う暴風、目が眩みそうになる程の強烈な点滅、生肌を伝う電流の感触には、さすがのカキョウも動きを止めた。
(今だ……!)
暴風と稲光が荒れ狂う中、流れに逆らうように全身に鞭を打ち、揺らめく彼女の背中に手を伸ばした。
「もう、いい! 止めるんだ!!」
辛うじて掴む事のできた、彼女の左腕。トールの風が熱を逃がしているにも係わらず、触れた腕は熱したフライパンのように、肉が焼けるような熱さをしている。
だが、自分の痛みなど、彼女の身体中の悲鳴に比べれば、可愛らしいものだのだと言い聞かせた。
多少痛いかもしれないが、彼女の腕を力いっぱい気引き寄せ、こちらに顔を向かせる。
「どうして!」
予想はしていたが、真一文字に引きつり、かみ締めすぎて血が溢れている口角、皺がよりすぎている眉間、真っ赤に充血した眼球が飛び出さんばかりに見開き、見るもの全てを殺さんばかりの強烈な眼光。
「なんで? コイツは私達を辱め、弄り、殺そうとしたんだよ? 何百人、何千人と殺してきたんだよ? これは自分達とウィンダリアの人たちの生存を掛けた戦争なんだよ? コイツは魔術師なんだよ? 手足がなくても、私達を殺す手段なんて、それこそ五万と持っているんだよ? なんで、何で止めるの!!!」
いかにも理性を持った憤怒の発露のように見えて、裏からは本能的な殺戮衝動が駄々漏れであり、今の彼女はまるで理性の皮を被った餓えた獣だった。
だからといって彼女に対して忌避、嫌悪、憐憫と言った感情は無く、むしろまだ理性が残っている事に対する安堵に溢れている。
「ちゃんと見るんだ。もう、コイツは死んだ」
優しく諭せば、彼女も歪みきった表情を緩め、足元の化け物をじっと見つめだした。
白銀であった長い髪は所々が焼け縮れ、四肢と腹の中身はすでにどこにも無く、人体部分は深紅よりも更に深い赤のシャツを着込み、眼は白目を向いている。動く事のない胸、鼻、口。
まさしく、物言わぬ死体と成り果てた化け物を認識すると、彼女から放たれていた熱波はたちまち消え去り、糸の切れた操り人形のように、カキョウは膝から崩れ落ちた。
握っていた左腕から流れるように左脇へ腕を入れ替え、右腕で抱き込むように彼女を支えつつ、ゆっくりと地面へ座らせる。
「ダイン……、私……ちゃんと、魔力、あったよ」
右腕を通して伝わる、彼女の小さな震え。声は水気を含み、時折力むように小柄な身体が大きく跳ねる。彼女の波が遠のくように、炎の舞台も闇の中へ終幕していく。
「ああ、そうだな」
自分も彼女の隣にそのまま腰掛けると、脇に支えとして通していた右腕を、カキョウの小さな背中に回し、ゆっくりと擦った。
はじめこそ、背中だけだったが、次第に彼女もこちらに体を預けだしてくると、完全に抱き込むように頭から背中まで、たっぷりと撫でた。
(ああ、本当にカキョウは小さいな……)
抱きしめれば、腕が余ってしまう。胸に押し込めれば、見えなくなってしまう。
「もう……失望されない? ダインも……しない?」
うずまった胸の中から、彼女のか細い問いが聞こえてきた。表情は見えないが、まだ見上げる事のできない泣き顔なのだろう。
彼女の問いはこれまでを考えれば、当然のものだろう。年齢が迫害に近い目を向けられていた期間であり、同時に失望され続けた期間でもある。需要と供給に似ており、どんなに現状の自分を磨き上げていったとしても、必要とされなければ、それは永遠に“不要”なのだ。
「初めから、していない。俺には、君が必要だから」
出会ったときから、それは変わらない。俺が必要としたものは、能力でもなければ、技術でもない。これからどんなに変化が訪れようとも、ただひたすら、この胸にうずくまる少女が必要なんだ。
「……そっか。ありがとう」
胸元から聞こえる小さな声はとても柔らかく、先ほどまでの殺意の棘は微塵も感じれない。やがて無音の後、ゆったりとした一定の呼吸音となった。あれだけの魔力放出を行ったのだから、身体は深い休息を求めるのも無理はない。
カキョウが眠った事を確認すると、空いていた左腕を彼女の膝裏に挿しこみ、右腕で背中を支えながら、いわゆる横抱き状態で彼女を抱え上げた。
(軽い……小さい……)
カキョウが自分よりも圧倒的に小さい事は、何度も認識してきたはずなのに、いざ抱え上げてみると、直に認識してしまい、彼女を命の危険に晒してしまった事への後悔が心臓を抉ってくる。
「お疲れ様。……カキョウちゃんもな」
一番に駆け寄ってきたトールは、腕の中で眠るカキョウを見ると安堵の波が押し寄
せたようで、彼女の額を優しくなでた。続いて、ルカとネフェルトもやって来て、カキョウの顔を覗きこむと一様に「よかった」と小さく涙ぐんでいる。
「カキョウさん、失礼しますね」
眠り続けるカキョウに一言断りを入れると、ネフェルトは彼女の手を両手で優しく包み込み、祈りを捧げるよう眼を瞑り、静かになった。
「……すごい。あんな暴走をしていたのに……これはこれは……さすがです」
何やらネフェルトの声色が、それまでの心配とは打って変わり、新たな発見に心弾ませる、なんとも華やかなものとなった。
横抱きしているために、密着状態のカキョウの中に、全く別の優しい魔力が薄っすらと流れているのが分かる。この別人の魔力がネフェルトのものであり、カキョウの中にある魔力関係の器官を隅々まで確認……いや、観察しているように見える。
「ネフェさん……カキョウは無事、何ですか?」
「はい! 傷だらけの外と違って、中はほとんど大丈夫です。これなら体力が回復すれば、全快します。ルカさんお願いします」
それまで真剣にカキョウの中を見ていたネフェルトが顔を上げると、安心と興味に満ちた笑みで、太鼓判を押したのである。
「は、はい! 傷つきし者へ慈愛の光を──ヒーリング」
ネフェルトの嬉々とした雰囲気に釣られるように、ルカも朗らかな笑みでカキョウに手をかざし、治癒の魔法を唱えた。
カキョウは、あれだけ暴力的な魔力を撒き散らしていたというのに、ほぼ外傷だけという状態。これは幸運なのか、それとも本来の素質なのか。
(俺としては後者であって欲しい)
それは傭兵仲間としての意見ではなく、『不要者』同志として純粋に彼女を祝したい。
「その……目覚めた瞬間に、また魔力が溢れすぎて……なんてこと、ありえますか?」
だが、穏やかに眠っている今だから、そう思えるのであって、眼を覚ませば再び魔力を暴走させてしまわないだろうか。これまで魔力や魔法と切り離したに近い生活を送っていた彼女では、自らの魔力に今度こそ耐えられないのではないだろうか。
「んーとですね、その問いになら、ありえるとしか答えれません。私達だって頭に血が上ったら、ぶわぁーーーって魔力が溢れますよね? それと同じで、カキョウさんが眼を覚ました時に、まだ心が荒ぶっていたら、なってしまう可能性はあるということです」
魔力は、己の肉体に発生する生命エネルギーの発露と言われているが、実際は何処から生み出され、強弱や量を決めているのかというと、心の機微や想いといった“感情”そのものだという。
心が落ち着き、穏やかであれば、あのような攻撃的な魔力は生み出されないということだ。
「ダインさん。カキョウさんは、今まで私達が“普通”と思っていた世界から、切り離されていた状態でした。乗り方や操作方法が分からない状態で、暴れ馬に乗せられているだけです」
カキョウは常々『自分には魔力が極端に少なく、魔法が使えない』と嘆いていた。しかも、それが“彼女の普通であり、永遠に変わることのない事象”として捉えていたのだろう。
実際、自分達も告げられてからは、その事柄が彼女を形作る要素の一つだと捕らえていた。言い換えれば、“魔法が使えない=普通とは違った”者であると。
「貴方なら、これらの言葉の意味がどれだけ大きなものかは分かるはずです。なので、どうか決して彼女を追い詰めたり、締め出したり、逆に押し込めようとしないでください」
そう、自分だからこそ、“普通”という世界の曖昧な尺度と言葉の重さが分かっていたはずだ。
何が起きるかは分からない。何が起きても不思議ではない。
普通なんて言葉は、本当は存在しない。
「……それは、昨日のせいですよね」
先ほどからネフェルトが口酸っぱく諌めるのも、昨日のカキョウに対する態度のせいだろう。カキョウの口からも、俺からの失望を怖がっていた点から、暴走の一因には昨日の自分も大いに影響しているはずだ。
「そうです。でも、それはダインさんがカキョウさんを、本当に大事にしているからだってのは、皆も分かっています」
口酸っぱかった言葉も、今は柔らかい甘みを感じるような声色に変わり、ふんわりと笑う顔は、音に聞く優しい姉を想像させるものだった。
それは治癒魔法を終えたルカや、こちらを見守るトールも、ネフェルトの言葉に同意と微笑みながら、小さく頷いた。
別にカキョウと他大勢という区別をしているわけではないが、どうしても彼女に対しては、自分の旅路に巻き込んでしまったという負い目と後悔がどこかにある。
だがそれと同時に、衝撃的な出会いや彼女の能力、人柄を含めて、今までの人生にはいなかった特別な存在である事は、確かなのだ。
「そう……ですね。改めて言われると、なんか、不思議な感じがします」
腕の中で安心して眠る存在は、ただの仲間以上に大事な存在として、はっきりと自分の中で浮き彫りになって行くのが分かる。
「なので、リーダー、私から一つ提案します。山を降りて一段落したら、私が講師になりますので、皆で魔力の制御方法や魔法について学びなおしましょう。身に着けてしまえば、あのような突発的な暴走は失くせますから」
「皆……俺もですか?」
不慣れなカキョウが教わるのは分かるが、なぜか自分らも含まれていたことに気づいた。
「そうです。ダインさんは魔力の量は一般的ですけど、使い方を間違えているためにかなり効率が悪く、身体に無駄な負担がかかりすぎています」
ネフェルトの指摘は、最もだった。自分の場合、自分以外が標的となる魔法は総じて不得手である。プロテクションウォールのように、本来は魔法であるものを武器を通す事で、技(アーツ)として応用させる事によって、ようやく他の標的を狙う事ができるようになる。
問題は、技に転用したところで、体外に放出すれば昏倒しかねない状態は、戦士系や不得手を通り越して、機能不全といっても過言ではない。以前のカキョウのように、武器にのみ熱を持たせることしかできないという状態と大して変わらないのだ。
根本的に何かが間違っていることは分かっていたが、監禁生活の関係上、師事できる相手がいなかったために、今の今まで放置していた。そもそも、ネフェルトが仲間になった時点で師事していれば、もう少しまともな戦闘ができていたはずである。
実際に、今回は全員が奇跡的にも無事だったが、実用的な範囲攻撃を持つ者が限定されていたために、不要な窮地が目立った。これらのことから、自分以外にも眠っているカキョウにトールとルカも動揺であるために、皆と言ったのだろう。
むしろ無事だったからこそ、同じ過ちを繰り返さないための機会が与えられたと見るべきだ。
「分かりました。是非、お願いします」
こちらが軽く頭を下げると、ネフェルトもその答えを望んでいたかのように、快く頷いた。
「さて、かなり脱線してしまいましたね……先ほども言いましたが、カキョウさんの心がまだ荒ぶっていたら大変ですので、精神沈静と簡単な魔力封じを施しておいたほうがいいでしょう……」
結局、議論や新しい方針を決めたところで、腕の中の眠り姫が目覚めた時の危険度は変わらない。
ネフェルトの表情は心配もあるだろうが、何処か戸惑いを感じさせるゆっくりとした手つきで、カキョウの額に手を当てた。
『その必要はない』
ネフェルトの魔力が込められる寸前、落ち着き払った男性の声が、山全体に響き渡った。全員で声の発信源を探すが、夜の帳が上がり、明けの空が広がりつつある以外は、何も見つけることができない。
全員がいぶかしむように顔を見合わせた途端、肌を抜ける仄かに暖かい突風が吹き荒れた。あまりの急で勢いのある風に体がよろめき、抱き上げているカキョウを落としてしまいそうになったが、自分の踏ん張りとは別に周囲を駆ける突風に押し戻される形で、態勢が戻った。
『我が元へ』
声が一層頭に響いてくる。音は、しいて言えば天上もしくは、更に高き場所である山頂から風に乗って降りてくるようだ。その声には、怪しさや不安、恐怖といった負の感情が生まれてこない。むしろ、安堵や心地よさえ感じる。
『我が元へ……』
ネフェルトもカキョウの額から手を退け、皆一様に山頂を見つめる。
頭の隅には洗脳の可能性だってありえると考えつつも、声と風を追うように、その場にいる全員が戸惑うことなく歩き始めた。
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