3-10 紅星の宴

 現在、深夜2時25分。皆が眠りにつく中、愛刀を抱きかかえるように壁に背をつけて丸まって、一人見張り番をしている。

 建物内だからということもあり、明かりはルカのトーチライトという照明の魔法で周囲が見える最低限の光量だけ照らしてある。

 10人ぐらいが寝泊りできるほど広めの小屋だったので、寝ているそれぞれの位置間隔は広く取られており、意外と快適に過ごす事ができている。

 窓の外は完全なる闇であり、何度か強い風が吹き、辛うじて窓ガラスがはめ込まれている古めかしい窓枠が音を立てて震える。これが黒い風なら、ネフェさんの手首にぶら下がっている鈴が反応するために、今吹いている風が安全なのかどうかは一応判別できる。因みに今の風にはまったく反応していないので、これは黒い風ではない。

 このように、外では黒い風が夜闇に隠れているために窓の外を見たところで実体を見ることはできない。これが魔物などによって扉や窓を破壊されてしまったら、後はネフェさんを叩き起こして氷の壁などを無理にでも展開してもらう必要がある。

(はぁ……寝ればモヤモヤ取れるかもと思ったんだけどなぁ……)

 そんな危険な今夜のくじ運は、最悪だった。

 最近は見張り番をくじ引きによって、誰がどの時間帯を担当するかを決めていた。夜の10時から朝5時半までを5つに区切り、10時から1番と割り振る。

 今日は何が何でも1番か、朝方となる5番を引き当てて、少しでも長く寝て、心のモヤモヤを小さくしたかった。

 だが、引いてしまったのはド深夜を担当する3番のくじ。

 いくら仮眠を挟むと言っても、連続した睡眠では無い上に、一番静寂となる時間帯に一人でいると、余計な事を考えて、自分で疑心暗鬼に陥ってしまうことも考えられるために、是が非でも1番か5番が欲しかった。

 さらに、くじで決めると言う前提の決まりごとに加え、先の件で皆とも会話しづらく、くじの交換を願い出る事もかなわず、現在に至る。

(まぁ……何もなきゃいいだけの話なんだけど……)

 悪い事が起きる時、相手は時間も相手も選んでくれないものだ。

 こんな事を考えていたら、神様というものは案外裏目になる悪い事をすぐにでも持ってくるものだ。

 だからこそ、気を引き締めて、警戒を強めなくてはと分かっているが、どうしても先のモヤモヤのせいで散漫状態であり、自分ながらも危険じゃないのかと思ってしまっている。

 背伸びしたりと、とにかくモヤモヤだけでも和らげようとはしていた。

 手元にはトールが時間の確認用に持ち歩いている古めかしい懐中時計があった。今までの夜営も、この時計を見ながら時間を確認して、時間が着たら次の担当にこの時計を渡して、見張り番を代わっていたのだ。

 自分の1つ前の番は精霊のイタズラなのか、ダインだった。

 本当なら見張り番に備えるために、少しでも寝ていなくてはいけなかったのに、彼が自分の前だと分かると、どんな顔をして懐中時計を受け取ればいいか分からず、ずーっと悶々と悩みながら起き続けてしまっていた。

 結局、彼に起され懐中時計を受け取るまで眼を合わせることなく、完全に避けるような気まずいそぶりのまま、自分の番を迎えてしまい、今もまだ悶々し続けている。

 懐中時計の針は、あと5分で自分の担当時間を終えようとしている。

(嗚呼、よかった……)

 ようやく寝れる事が出きると安堵の息が零れて、懐中時計を胸元に入れながら、天井を見上げた。

 それは何気ない行動だった。

 なのに、古い板張りの天井の“先”が気になった。

 屋根の向こう側には夜闇が広がっているはすだが、肌に針が刺さるような“違和感”が天井越しに伝わってくる。

 自然と腰が浮く。愛刀を腰の左側に移動させ、柄を右手で握り締める。両足を肩幅よりやや広めに開け、腰を落とす。音を立てないように、すり足で右へ移動する。

 瞬間。

 まるで引き絞られたものが解き放たれるように違和感が爆発し、轟音と爆風のような衝撃と共に自分が今の今までいた場所に“突き刺さった”。

 自分の腰周りと同じような太さをし、天井を突き抜けて目の前に刺さる巨大な円錐状のソレ。

最低限の光量でも分かるほど、その表面は豆を散りばめたような不規則な凸凹をしており、まるで生物の殻のような生々しさがある。

「る、ルカ!! 光を!!!」

 その声に合わせて、宙に漂っていた照明魔法の光源が強烈な光を放つようになった。

 あれだけの轟音と衝撃に、さすがに全員が飛び起きている。ダインやトールは武器を構え、ルカとネフェさんは引きつった表情で目の前の物体を見ている。幸い、誰も怪我をしているようには見えなかった。

 目の前の円錐状のものは、小豆のような赤黒い光沢を持ち、凸凹の表面と合わせて、まるで“虫”の細い足先が巨大化したモノのように見える。

「うっく……」

 ソレを虫と認識してしまったために、喉の奥に圧迫感が生まれる。口元を押さえ、周りに聞こえないように隠す。

 目の前の奇怪な円錐は、体制を整えるようにゆっくりと天井から抜け出ていく。

 円錐を追った視線の先にある天井の穴には、夜空の星々……ではなく、星々の存在を奪うように輝く無数の紅い点。

 それは昼間の横穴で見た、一匹当たり8つの眼を持ったあの巨大蜘蛛の目と同じもの。

 本当は泣き叫びたかった。蹲りたかった。耳を塞ぎ、目を閉じ、認識からも遮断してしてしまいたかった。大量の虫が眼前にいるだけでも吐き気を覚えるのに、それが明らかな殺意を持ってこちらを覗き込んでくる。

 でも今は、皆に大丈夫と言った手前もあるために、喉の奥から這い出そうなものを無理やり飲み込む。

 動かない脚を無理やり地面から引きはがし、背中から這い上がってくる虫への恐怖感を無理やり押し殺して、巨大な円錐のモノを追いかけるように、小屋の外へ飛び出した。



 外は、小屋から漏れ出る照明魔法の光で見える辛うじて境界が分かる崖と、吹き荒れる風で削られた荒々しい形の岩々。天は蜘蛛の存在がなかったかのように、煌く星々の夜空が広がっていた。近づきつつある夏の温度を吹き飛ばすような肌寒い風が吹き、無数のボロとなった風の神を讃える旗たちが世話しなくはためく音に包まれている。

「やぁやぁ、お嬢さん」

 はためく音と入れ替わるように響き渡る声。背後となった小屋の屋根の上から落ちてくる。

 振り向けばそこには、小屋と同じぐらいではないかと思えるほど巨大な節足動物のような影。

 節足動物の中でも長細く、8本の脚は蜘蛛のように見えながらも、黒光りする光沢の甲殻は丸で蟻のようであり、小屋の中に突き刺さったのはこの者の前足だった。

 そして、本来なら虫の頭と呼べる部分に、蟻のような楕円形の頭があり、8つの紅い蜘蛛の目玉が全て、ぬらりとこちらを舐めるように見てくる。

 そして8つの紅の中心には、地に届きそうなほどの長い髪を持った上半身裸の男。

 生気の抜けきったような白い髪と肌。下半身は節足動物の甲殻の中に埋まっており、巨木の樹洞に寄生する宿木のような融合を果たしている。

 屋根の上から一歩。先に突き刺してきたと思われる前足を小屋の前に静かに置き、人間と融合した頭をこちらに近づけてきた。

 半裸の男の身体はこちらに近づくにつれ、まるで礼節と言わんばかりに腰を曲げ、頭をたれ、いわゆる“お辞儀”をしてきたのだ。

 こちらが呆気に取られていると、半裸の男はクツクツと肩で笑いだした。

「見てましたよォ……、貴女が私の可愛い部下たちに恐怖し、泣き叫び、非力な事を理解されず、皆から煙たがられ、一人孤独に苛(さいな)まれ、死の階段を踊るように駆け下りる様。苦悶と悲痛と恐怖に耐えようとするその表情、正に芸、術!!

 貴女が負の感情に彩られ、赤黒いドレスに身を包み、その手で絶望を掴みとらんとする姿……そう!!!」

 そう、という声と共に勢いよくと眼前で上げられた顔。

 やせ細り、病的なまでに白くなった顔には、男の持つ本来の眼に加えて、それこそ先ほどまで恐怖していた蜘蛛たちと同じ真紅の目が人面の至る所に生えている。

 身体は、まるで地面に縫い付けられたかのように動かない。

 常軌を逸した姿、人間と虫の融合した姿に我と状況を忘れ、泣き叫ぼうとするのを必死に抑えているこちらの表情変化をまるで慈しむように、うっとりとした眼差しで一言。

「う・つ・く・し・いぃ……」

 そう言って、蜘蛛と融合を果たした男は右側から生える前足で、こちらの頬を一撫でした。 前足の鋭い先は頂点を中心に放射線状に5つにヒビが入り、ヒビから分かれて次第にヒトと同じ5肢に分かれた手を形成していた。

 ヒトの手に似つつも、まるで壁に停まる虫の足先のように、小さくも柔らかい無数の返しが頬を刺激するたびに、体中の毛穴から脂汗なのか、冷や汗なのか分からないほどの水を噴出させる。

 そして……誰も来ない。

 この会話の間に、既に数分が過ぎているのに。

 眼前の化け物は、舌なめずりをしながら、更に嗤った。

「だーれも来ません。みーんな、自分が大事ですから」

 視線をずらせば、融合体の奥にある寝泊りした小屋は、融合体の腹部の先や道中で見た巨大な蜘蛛たちの口から出る糸によって、入口、天井の穴、窓など抜け道となりそうな場所が全て、打ち付け板のようにどんどん補強されて行っている。

 あのように拘束されてしまっているのなら、誰も外へは簡単に出ることが出来ない。みんな、自分が大事になるのも当然だ。まず、自分達の身の安全を確保できなければ、仲間の安全など確保できないと分かっているから。

 分かっている……はずだから……。

 なら、今の自分の状況は?

 自分ひとりでは何も出来ないくせに、一人飛び出して、一人危険になって、身動きすら取れない。

 先ほどまで夜天に煌く星々と認識していた光は、白や黄色から徐々に紅へと変わっていく。 やがて、色は全て入れ替わり、まるでこちらを嗤うように、私を“見つめる”。

 紅き星々は見開かれた虫の目。自分はようやく、とてつもない数の虫に取り囲まれていたのだと理解してしまったのだ。

 例え、この山に巨大な蜘蛛が無数いるとう認識していても、目の前に広がる数の暴力の前では意味が無い。

 視界全てが蠢く虫、虫、虫。圧倒的質量の前にすくみ上がってしまい、あの日の悪夢が身体支配し、もう呼吸すらままならない。

「虫嫌いで機動力があって、好奇心もある貴女なら、いの一番に飛び出して周辺を確認するはず。だから、貴女が見張り番の時なら、なおのこと、貴女は動きますよねぇ」

 嗚呼、アタシは……アタシたちは完全に踊らされていた。

 心の傷、見せたくない内側だったのに、みんなの心象を悪くして、結局こうやって先に動けば役立たずの烙印が浮き彫りになる。

 握り締めた愛刀が、今の自分を辛うじて保たせているのに、視界が歪む。焦点が合わなくなる。意識が遠のいていく。見えるもの全てが、覗き込んだ写真のように客観的な感覚へとなる。 嗚呼、自分は考える事を放棄しようとしている。

 もう立っている気力さえなくなりつつあった。膝が折れ、ぼやけた視界の角度が変わる。

 身体に地面の感触が伝わる直前、体のいたるところに締め付けられる感覚が生まれ、視界は地面から遠ざかっていく。

 身体を見渡せば、蜘蛛独特の粘着性がある糸が手首、肘、足首、太もも、腹、胸と巻きつき、支えられ、されるがままに宙へと持ち上げられていた。

 この糸が視界の隅々に眩く紅い点のそばから伸びているものだと分かると、それが個々の蜘蛛の口から吐き出されているのだと認識し、手放そうとしていた意識が強制的に引き戻される。

 ソレを認識してしまい、喉の奥に止めていた嗚咽に耐え切れず、胃の中の物を吐き出してしまった。

 体力は吐き戻すために使われ、既に何か対処しなければという思考と行動のための力は、残されていない。

(こんな役立たず……ここで消えちゃえば)

 だが、目の前の化け物は、そんな思考をする時間すら許さない。

 化け物の腹部から1本の糸が放たれ、首に巻きついた。糸はゆっくりと確実に呼吸を止めようとして、締め上げてくる。

「あっ……ぐぁっふ……あ゛……!」

 糸の締め上げは喉を潰し、物理的に呼吸を奪ってくる。

 苦痛が生を思い出させ、身体は自然と卑しくも空気を求めようと、必死に呼吸しようともがく。

「ダメですよぉ。貴女はすぐに死んでしまっては、すぐに生を手放してしまっては、貴女に生まれ始めている絶望と恨みが育たないじゃないですかぁ」

 遠ざかる意識の中、急に首が楽になり、肺に大量の空気が入り込む。

 急に与えられた空気の塊に、必死に吸い込もうと枯らした喉と肺には刺激が強すぎて、咳き込んでしまい、更に喉を傷つけてしまった。

「だからぁ、貴女が壊れ行く様を私がゆーっくり愉しませてもらいますね」

 そして再び、首の糸が肉に食い込んでくる。

 簡単には終わらせないと締めては緩めて、また締められて。喉が爛れるような痛みに変わり、もう吐き出すものすらない胃が、無理やりせり上げようと必死に動く。

 意識を手放そうとした瞬間に現実へと戻され、また再び意識を手放そうとする。

 繰り返される生と死の行き来。

 だが、それにも限度があった。体力の限界による失神。

 相棒や身体の一部と豪語していた愛刀が、手から抜け落ちたのがいつなのかも分からないまま、途切れた意識の闇が自分に与えられた最後の安息になった。



◇◆◇



 最悪だ。全てが最悪だ。完全に俺の判断ミスだ。

 壁も天井もあるからと安心してしまった事。

 いつもの要領で、一人ずつの見張りにした事。

 異変は結界と鈴の音が知らせてくれるだろうと、決め付けていた事。

 知性を持ち合わせている可能性。

 事実、相手は人語を話し、深夜のカキョウが見張りのタイミングを狙い、結界の外側から一気に突き破ってくるほどの計画性と知性を持ち合わせた者だと理解できる。

 外から聞こえてくるのは男の声。

 天井の穴から次々と下りてくる蜘蛛たち。

 外は声の主に率いられた蜘蛛たちによって取り囲まれているのだろう。

 天井の穴は蜘蛛によって塞がれ、窓の外は白い糸を幾重にも束ねたような模様に埋め尽くされている。

 彼女が飛び出して行ったのを追うように駆け出したものの、入れ違うように即座に扉が閉められた。開ける動作すら煩わしく思い、体当たりで突破しようとしたが、まるで向こう側から押し返されるように、扉はヒビだけが入り、ビクともしなかった。

 外からは、男の声だけが聞こえ、彼女の声が聞こえない。

 彼女は今、たった一人でこの悪夢の元凶と向き合っている。


 ──カチ。


 窓の外と同じだろうと思い、まだ糸が薄い内ならばと剣を振ったが斬っても斬っても、破壊されていく扉の破片けが虚しく宙を舞う。露になったのは幾重にも重なる糸で作られた白い壁。何度斬りつけようと、すぐに新しい糸が形成され、次の白い世界が作られていく。

 粘着性があるのか、斬りつけるたびに糸の一部が剣に張り付き、徐々に切れ味が落ちていく。ぬぐう時間すらもったいなく、力押しでどうにかならないかと、何度も何度も剣を振るった。

「どけ!!」

 トールに思いっきり肩を引っ張られ、我に返った。

 ネフェさんはこちらに背を向けながらルカの前に立ち、まず天井の穴を氷の魔法によって塞ぐ事で新しい蜘蛛の侵入を阻止しつつ、既に室内に侵入された蜘蛛を小ぶりのアイスニードルで1匹ずつ駆除していた。

 雷系統の魔法でも良いのかもしれないが、こんな閉所でサンダーストームなどの範囲型の魔法を使えば、どんなに操作コントロールが優れたネフェさんですら、自分たちにも被害が及んでしまうために、安易に放つことが出来ない。

 また、蜘蛛の糸が電気を逃がす役割を持っている可能性も考慮すると、雷系統の魔法よりは物理的な攻撃に近い氷系の魔法のほうが都合が良いのだろう。

ルカはトーチライトの魔法を維持しながら、新たにホワイトヴェールも唱え始めていた。

 ホワイトヴェールは、以前アンデッドから発せられる瘴気を和らげる魔法として、キスカの森の中の研究所に入る際にかけてもらった魔法だ。元々、瘴気とは人体に悪影響を及ぼす空気感染性の毒素の事を指すが、目の前にいる蜘蛛たちが毒蜘蛛である危険性を考慮して、ここでも使用することを決めたようだ。

 そして、部屋の隅に積みあがった蜘蛛の死骸は、的確に頭を串刺し、もしくは真っ二つに断った状態にしてあり、これはトールが作り上げたものだと読み取れた。

「サイクロン……」

 トールは、扉があった場所の前に立つと、腰を落とし、得物を地面と水平になるように構え、放たれる直前の弓矢のように、身体を扉か遠ざけるように引き絞った。

 引き絞ると同時に、得物の刃や柄に蛍のような小さな光の粒が発生し、柄に対して垂直横方向へと回転し始め、光の回転はやがて周囲の空気を取り込むように、風の渦を刃と柄全体で作り始めた。

「ホーン!!」

 技の名前が完成すると、武器の柄から水平方向に突き進む“横向きの竜巻”だった。

 バルディッシュの長い柄に絡みついた竜巻は、まるで蛇のトグロのようにハッキリとした筋を持ち、数匹の風の蛇が目の前の扉の残骸と白い壁を絡め取るように、一思いに突き破った。

 解き放たれた風に巻き込まれるように、周囲の空気も空けられた風穴から抜け出ようとし、生まれた激しい気流によって身体ごと外に放り出されそうになる。

「行け!!!」

 叩きつけられたトールの怒号を合図に、サイクロンホーンの風に自ら乗るように外へ飛び出した。



 風穴を抜けた先は、季節を無視するような肌寒い風が吹く、満点の夜空が広がる夜闇の世界であるはずが、背後の光によって映し出された異様なモノに息を呑んだ。

 見上げた先。空中の一点に向かう数本の丸太のような太い白。

 その中心には、四肢と首を糸で拘束され、身体を弛緩したかようにように垂らすカキョウの無残な姿。地面には吐瀉物が散乱し、半開きの口からは吐き戻した涎の跡があり、足元には吐瀉物に混じるように彼女が決して手放す事の無かった愛刀が剥き身の状態で無造作に転がっている。

 彼女の名を呼べど、まったく動かない。

 生きているかすら分からない。

 まるで動かされる事を待つ操り人形状態だった。

 

 ──カチ。


 耳の置くから聞こえる歯車のような音。自分の底で何かが動き出す。

 白き糸が意識のすべてを埋め尽くし、やがて視界が開けてくる。

 天には光を一切通さない曇天の空。地は足跡すらない白銀の地平線。

 空からは優しく振る雪。

 単調な雪景色に栄える、横たわる彼女の髪の色。

 赤は白を汚し、やがて広がり、混ざり合い、薄まる。

 彼女の弛緩した指が、足が、身体が、広がる赤の中に溶け込む。

 あらゆる部位が、四肢が、“チリヂリ”に点在する。


 ──カチ。


 刹那に流れた白昼夢。見たことの無い風景。ただ酷く懐かしく、酷く切なく、酷く不愉快で、何故か彼女の今の状態と繋がる気がする悪夢。

 現実に意識が戻ってきた際に、肺に流れ込んだ空気が冷たく感じながらも、全身は冷や汗で気持ち悪く湿った。

 冷や汗を拭いながら、目の前に落ちている彼女の愛刀と鞘を拾い上げると、自分のコートの裾で無造作に汚れを拭った。

 彼女の凜とした立ち振る舞いを写すように輝いていた刀身も、何処か光沢が消えているかのように見える。

 “取り返しが付かなくなる”前に、彼女を助けないと。

「……遅い。まったくもって遅いですね」

 彼女の刀を納刀し、一旦預かるように自分の腰に納め、再び天の彼女を見上げた時、男の声が後ろから聞こえてきた。

 その声は、先ほどまでカキョウが話していた男のもの。

 ゆっくりと振り返れば、小屋の上に鎮座する巨大な虫。

 身体は小屋と同じぐらいの巨体であり、頭と思わしき所には、上半身が裸の男が巨大な虫と融合している状態。巨大な蟻とも蜘蛛とも思える身体を通り、地面までつきそうなほどの男の髪は、周辺に張り巡らされた蜘蛛の糸に似た白銀の光を放っている。

 小さいからこそ無視できる造形が、毛や棘の一本一本を目視できる大きさとなって、こちらの視覚に対して暴力的に写る。

「はじめまして、リーダーさん。ああ、大丈夫ですよ。彼女は“まだ”死んでません。少々、心が壊れかけているだけですから……ンククク」

 巨大な虫の中で男は、顔を歪ませながらも愉悦と言わんばかりに妖しく嗤う。

 そんな非現実的なモノと生の肉体を連結させ、妖しく嗤うモノが存在している、ただそれだけで自分ですら吐き気を覚えるのだ。彼女の抱いた苦痛はこんなものの比ではないはずだ。

 現に彼女は刀を握る事をやめ、無防備に意識を手放している。


(何が『俺達が守ればいい、フォローすればいい』だ)


 カチ、カチ。


 次の瞬間、地を蹴り、ブロードソードの刃は相手の人型の頭を捉えていた。

 キスカの森手前の夜営地と同じく、意識より早く動く身体。歯車の音が、自分の中にある何らかの力を強制的に爆発させているようだ。

 だが、それでいい。

 今は目の前のこの化け物を1分、1秒でも早く排除し、カキョウを助け出さなければ。

 しかし、相手の動きも早く、ブロードソードの刃は左前足によって器用に振り払われ、身体は放物線を描いて元居た位置に戻される。

「ご挨拶もなしにいきなりとは、無礼というものですよっ!」

 着地の間を置かずに、巨大蜘蛛男は右前足を天高く降り上げると、そのまま叩き潰すために大きく振りかぶってきた。

 背後には崖。後ろに跳ぶわけにもいかず、ブロードソードの幅拾い背の面を盾に、相手の振りかぶりを防御する形で貰い受ける。重い一撃に若干後ろに押され、全身に電流のような痛みが走る。

 それでも視界の隅に映る白い丸太のような天に伸びる糸を認識するたびに、頭の中が、身体の中が、神経の先まで沸騰する湯のように煮えたぎり、痛みを忘れさせてくる。


(俺はただ……『守りたかった』だけ)


 俺は彼女の見張り番の時、自分は彼女に背を向けながら狸寝入りをしていた。彼女の前の番だったために、番の証である懐中時計の受け渡しを行ったが、眼も合わせてもらえず、無言のままの受け渡しであり、あからさまに彼女から避けられた。そのことが気がかりで、眠れなかった。

 なのに俺は、彼女を守る事ができなかった。

 ただその一つの事実が、この大惨事であり、今の俺を突き動かす。


 カチカチカチカチ。


 耳の奥にで鳴っていた歯車のような音は、早鐘のごとく打ち付けるように鳴り響き、体内が呼応するように騒ぎ出す。

 脚は地を殺さん勢いで踏みしめ、剣を持つ手に一層力が篭り、怪物の右前足を弾き返した。

 同時に再び地を蹴る。1歩踏み出せば、3歩分ほどの距離を進み、気づけばもう相手の足は眼前にある。

 狙いは相手の左前足。そのまま振り上げれば、確実に前足を切り落とせる。

 刃に魔力を注ぎ込み、突進の勢いのまま、流れるようにグラインドアッパーを振り上げた。

「見え見えなんですがねぇ」

 狙われた左前足を軽やかに持ち上げて、アッパーをあっさりと避けてきた。


 ──カッチャ。


「……その言葉、返させてもらうっ!!」

 グラインドアッパーの勢いを殺さず、そのまま一回転を描く。グラインドアッパーの回転逆袈裟斬りの軌道は、終点が地面よりになるために重心がかなり下になるが、そこから更に魔力を注入。さらに縦の角度をつけて、飛び上がりながら、刃に込めた魔力を推進剤にして、斬り上げた。

 名前はスカイブレイク。下から上へ攻撃する際の最大の要点となるのが武器の重さと筋力だ。武器の重さに腕力や背筋力が負けてしまうと、威力の死んだ唯の武器振り上げ行動でしかなくなる。

 それを解消するために、自分の場合は遠心力とグラインドアッパーにも使っている、刃の強制加速術を使い、“武器に身体を持ち上げてもらっている”攻撃技である。

 武器に持ち上げてもらっているということは、空中での姿勢制御が重要になってくるために、無駄な動きを如何に無くし、如何に次の行動へ繋げれるかを即座に見極めなければならない。

「ヒギャアアアアアアアアア!!!」

 男の断末魔が紅い点の光る夜闇に木霊する。嗚呼、耳障りだ。

 浅めの回転逆袈裟斬りに合わせて、さほど高く足を退避してなかったために、スカイブレイクによる斬り上げは見事に貰い受ける形となった。左前足はほぼ垂直に近い角度の強力な斬撃で切り落とすまでは行かなくとも半径分は深く切れ込めたはずであり、叫び声から、そこそこのダメージを与える事ができていると思う。

 やや水平に近い回転斬り上げのグラインドアッパーから、流れで垂直上昇斬りのスカイブレイクを放った俺は、まだ空に大剣を掲げる形で“宙”にいる。

 刃には、既にグラインドアッパーとスカイブレイクで付与された“加速”の術。

「──メテオ、ハンマアアア!!」

 さらに“重量増加”の術を付け足し、身体の落下に合わせて大剣を振り下ろす。

 加速に加えて、新たに付与された術によって、刃はグラインドアッパーの時以上に白く輝き、尾を引く刃光は夜ならば彗星のようだなと、幼馴染の女は言っていた。

 高度からの落下に、加速と重量増加によって強化された刃は、巨大蜘蛛男の切られた左前足の付け根に吸い込まれるように叩きつけられる。

 初めこそ硬質な木材に叩きつけたような感触が伝わってきたが、すぐに柔らかく波打つような柔らかいものを引き裂く感覚が刃を伝わり、トマトをいくつも握りつぶしたような泡立つ音が響き渡った。

「いヒギャアアイイイイイイイぃぃぃイィィィィィア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛っ!!!!!」

 既に声とは言いがたい金切り声が、肉を引き裂く音を追うように発せられる。

 付け根から完全に切断された巨大蜘蛛男の左前足は、地響きを立てながら横倒しになり、今度こそ完全に切り落としていた。

 その巨体を支える肩のひとつを潰したのだ、一時的にバランスを崩し、巨大蜘蛛男自身も傷口から盛大に地面へと崩れた。神経の集中量もさることながら、自らの重みによって加算された痛みは、凡人の精神では失神してもおかしくないだろう。

 自分は、地面に着く直前に武器に付与した重量増加を解き、同時に足の裏に対衝撃軽減の術を付与するが、思いの他、勢いがあったために軽減の術が発動しても、足に痛みが走った。

 これら一連の攻撃の動きと術の発動解除の流れが、物理技と呼ばれるアーツの中身であり、戦士はこの一連の流れを無意識にやっている。

 戦士と魔法使いの大まか違いは、魔力を体外に出すことが得手か不得手の差でしかないため、実際は戦士であっても、自己の体内に流れる魔力を使って衝撃を緩和したり、威力を底上げしたりと、魔力を利用した戦い方をしている。

 これはむしろ、生活に息づいた動き、流れであり、半ば世界の常識だと思っていた。

 しかし、カキョウという例外が現れた。

 彼女は技として運用するための魔力も無いために、彼女の動きには一切の魔力を使用していない。精錬された“剣術”と“動き”によって、魔力を一切使用することなく、素早く、的確に相手を沈めてきた。

 当然、魔力による補助が無い以上は、着地や剣撃で貰う衝撃は直に体に響くはずだが、彼女は受け止めるのではなく、上手く受け流している。

 彼女は自身を卑下する必要が無いほど、精錬された“剣豪”なのだ。

 自分を含めたこの世界で生きる多くの戦士が見習うべき存在なのだと思った。

 そんな彼女が『今』、自身の心を、矜持を、生を全て手放している。

(繋ぎ止めないと……)

 獣のような唸る息を整え、大剣の刃を右腕側へ、地面と水平になるように構えて、地面に対して力を込める。

 蜘蛛男はいまだに、喪失した左前足の痛みに悶絶していた。周囲の蜘蛛たちは親である巨大蜘蛛男からの指令が出されていないために、完全に止まっているか不規則に動いているかのどちらかで、こちらへ攻撃してくる気配がない。

 このチャンスを逃してはいけない。

 地面を大きく蹴り、今度は右の前足を狙う。

 しかし、2度も攻撃させてくれるほど、蜘蛛も馬鹿ではない。

 こちらが動き出すと、巨大蜘蛛男を庇うように、周りの蜘蛛たちが一斉に巨大蜘蛛男の前に群がった。

 これは想定の範囲内であり、群がってきた蜘蛛を往復の横薙ぎからのグラインドアッパーで一気に屠る。

 ほんの一瞬だが、蜘蛛たちの波が止まった。

 この瞬間を逃すことなく、再び駆け出す。目指すは、巨大蜘蛛男の横たわる位置から左にずれた岩壁。

 群がる蜘蛛を踏み潰しながら、岩壁を蹴りつつ身体を捻り、空に向かってスカイブレイクを放つ。その先には、吊るされているカキョウ。宙で無理やり身体をひねりながら軌道をずらし、彼女の左側を縛っている丸太状の糸を切り裂く。

 しかし、右側に絡まっている糸の強度は、彼女を宙吊る程の強度を持っていたようであり、彼女はまだ解放されない。

 次手を逡巡した瞬間、周囲の未行動だった蜘蛛の糸が足を捕らえ、顔面から地面に叩き落された。

 顔面自体は左腕で庇う事ができたが、岩肌むき出しの地面は叩きつけられた衝撃と相まって、強烈な痛みが全身を襲い、一時的に身体が麻痺してしまった。

 隙を逃さないのは相手も同じこと。ここぞとばかりに、蜘蛛たちが滝のように降り注いだ。個々の重みは然程でもないが、数の暴力が生み出した重量は、口から内臓が飛び出るのではないかと思うほど、圧殺の意思が見られるものだ。

「──ハーダースキン!」

 プロテクションウォールと並んで自分が使える数少ない魔法の一つ。自分、もしくは触れた相手の肉体を一時的に岩肌のように硬質化させる地属性の一般レベル魔法であり、皮膚が受ける傷や痛みを軽減し、擦り傷程度の小さな攻撃なら無効化することができる。

 使い方は若干違うが、肉体を硬質化させることによって、物理的な重圧への耐性も生まれる。

 ただし、自分は魔力の体外放出が苦手であるために、触れた相手に付与することはできず、自分自身にのみ効果を発揮する。

 昔は、この魔法が他の誰かの為に使えればと悔やんでいたが、今は使えるという点だけでも、かなりありがたいものだと思い知った。

 しかし、身体を硬質化したところで一時凌ぎでしかなく、身動きが取れない状況は変わらない。

「ククククっ……先ほどはよくもやってくれましたねぇ……」

 その声を発端に蜘蛛たちが動きを止め、統制された動きで一斉に身体の上から退いた。

 声の主は、足を切り落とされた親分である不気味な笑みを浮かべた巨大蜘蛛男。切り落とされた脚の関節部分は、自らの糸を巻きつけることで止血している。

 蜘蛛が退いたのをいいことに身体を起そうとすれば、地面に縫い付けるように蜘蛛の糸が身体中に纏わりつき、起き上がれなかった。

「ハァ……いいですねぇ。貴方のような美丈夫を汚し、這い蹲らせる快感……」

 顔に付着した血を恍惚の笑みと共に舌なめずりし、気色の悪さが更に増した巨大蜘蛛男が、切り落とされた足を庇うようにゆっくりと近づいてきた。

「……うっ……く……」

 それは頭上から聞こえてきた小さな声。強靭な糸に無理矢理抗いながら上半身を起せば、先ほど切り裂いた糸が修復され、更に雁字搦めに縛られたカキョウが眼に入った。意識を取り戻しつつあった彼女は、ゆっくりと目蓋を開こうとしている。

「カキョウ!! 眼を開くな!!!! 閉じろ!!!」

 今やれる精一杯は、一時的でもいいから簡潔に彼女の視界と意識から蜘蛛を遠ざけ、場に慣れさせること。

「 お は よ う ご ざ い ま す 」

 まだ意識が朦朧とする彼女の頬に、紳士然とした動きで歪な虫の脚を宛がい、易しくさすり出した。頬を伝うであろう甲殻の異質な感触が、彼女を覚醒へと導く。

 好奇心が強い彼女には、こちらの声よりもぼやけた視界がはっきりしてくるほうに意識が傾くだろう。

 彼女は見てしまう。眼前には、自らの前足から飛び散った血で彩られた巨大蜘蛛男の顔。口が裂けんばかりに口角を上げ、彼女を視姦するかのように爛々と眼を光らせている。

「アッ……く、ぁ……」

 彼女は認識してしまった。自分が蜘蛛の糸によって絡め取られいる絶望感、蜘蛛から吐かれた糸が素肌に触れる感触、周囲に蠢く蜘蛛たちの姿。既に何も入っていない胃袋の中身を必死に吐き戻そうとする。

 音にすらならないほどか細い嗚咽と悲鳴を上げると、再び意識を手放したようで、持ち上がっていた首が力なく垂れ下がった。

「ふふふ、アハハハ!! いいですねぇ!! もう少し、もう少しで壊れちゃいますねぇ! アハハハハハァ!」

 巨大蜘蛛男が下卑た笑いを上げながら、彼女の頬を愛おしそうに撫でる。

 何もできないまま彼女が再び意識を手放す様を見せ付けられ、腹の底から湧き出す怒りで身体中の悲鳴を無視しながら、磔にしてくる糸に抗い立ち上がろうと踏ん張った。

「さーて……私は優しいですからね。“お揃い”にしてあげましょう」

 巨大蜘蛛男は笑いを続けながらカキョウからゆっくりと離れると、こちらに向きを合わせ、右前足を天に掲げた。

 右ひざを立てた片膝立ちまで持っていくことはできたが、落下の衝撃を無視して身体を酷使した影響で、身体が思うように動かない。加えて、こちらを弄ぶように蜘蛛たちからは定期的に糸が吐かれ、容赦なく体力を奪ってくる。

 天に掲げられた右前足は、武器に用いるための鋭利な作りに見え、次に行われる行動が何となく想像ついた。だが、今の自分にはソレを回避するだけの体力は残されていない。

 蜘蛛男の右前足が、突き伸ばされた。

 左耳に響く、金属がねじ切られる音と肉が潰される音。

 左側の視界が真っ赤に染まる。

 数拍置いて、声にするのも憚られるほどの激痛。

 ショルダープレートが弾き飛ばされ、ブレストプレートとの連結部分が肩の中にめり込んだ。貫通と体内に金属が入り込んだ痛みで、意識が飛びそうになる。

 指先の感覚は激痛に塗りつぶされ、そこに腕があるのかも分からない。目線をずれらせば、力なく垂れ下がった腕が、指3、4本分ほどの肉で辛うじて繋がっている。先ほど唱えたハーダースキンによって強化していなければ、腕は身体から完全に離れていただろう。それでも間接自体が破壊されたのだから、このまま引き抜かれても、完全に使い物にならなくなった。

 しかし、身代わりと言う感じでかハーダースキンの効果は消失してしまった。魔法を唱えなおすにしても、肩の激痛によって集中することはできない。

「おやおや、惜しいですねぇ……まぁ、ほぼ潰したようなものです、しっ!!!」

 蜘蛛男は突き刺した前足を更に深々と押し込み、思いっきり力強く引き抜いた。

 傷口を防護する事もできない野ざらし状態の左肩に生まれた風穴に、高山の真也に吹く風の冷たさが傷の痛みを加速させる。

 引き抜かれた右前足は再び振り上げられ、次は左太ももへ突き立てられた。肩のように金属製の防具などが無い場所であり、魔法の効果も消えているために、あっさりと貫通。左肩の痛みに加え、新たに加わった激痛に、引き抜かれる際の体内から伝わる虫脚の感触。抜き去った後の穴からは血と力が抜け、左側に広がった自分の血溜まりの中に倒れた。

 だが、それだけでは飽き足らず、左足の踝と左手の平が穿たれる。悪趣味な事に、持続的な痛みが生じるようにと、丁寧に部位に見合った風穴を作っていく。無駄に意識と神経がまだ繋がっているために、朦朧とした意識は鮮烈な痛みによって引き戻される。

「どうです? 痛いですか? 痛いですよねぇ!!」

 手の平に刺さる脚を何度も捻っては、持続的に更なる痛みを加えてくる。

 左側を下敷きにしてしまっているために、身体を無理矢理動かそうとすれば、右半身に入った力が左半身でもバランスをとろうと、左半身に余計な力が入ってしまい、痛みを助長してくる。

 コイツは復讐しているのだ。自分が左前足を切り落とされたように、狙って俺の左半身を潰していく。完全に斬り離さないのは、手先足先の痛覚を残し、激痛によって支配しようとしているため。

「どうです? “お揃い”になった気分は」

 お揃いが何を指すのか。朦朧と覚醒が交互に訪れる意識の中、見上げた先のカキョウを見て理解した。

 それは、先ほどスカイブレイクで左半分を切断したときの、半分宙吊りになったカキョウの姿。俺の血で染まった左半身を、彼女の衣類の赤に見立てているのだ。

 さらに奪われた左前足も重ね、状況再現という名の復讐をして遊んでいるのだと。

「後は、首でも皮一枚にすれば」

 彼女のように、だらりと垂れ下がった頭になるだろう。

 この狂乱に満ちた精神の持ち主が、果たして簡単に死なせてくれるだろうか? コレまでの行動の傾向でいうなら、獲物を袋小路に追い詰めジワジワいたぶるのがお好みの様子である。

 そうでなくとも、かなりの量の出血があるために、死は確実に迫っていた。痛覚は徐々に無くなり、代わりに寒気のような感覚へ切り替わりつつある。

 このまま俺が餌食となることで、まだ小屋の中で戦っている3人に、この後を託す事だってできる。

 虫脚が足の甲から引き抜かれ、いよいよ首へ何らかの行動に出てくるだろう。


 ――だが、その時は訪れず、代わりに巨体が轟音と共に宙を舞った。


 高く飛ばされた巨体の腹には、大きく捻りの入った衝撃の痕。ここからでも見えるほど深く打ち込まれ、人型の口から唾か何かの液体を吐きながら、巨体は小屋を越して奥へ、背から山肌へと落ちていった。残念ながら落ちた山肌は崖下ではなく、まだ見ぬ山頂へ続く山肌のほうだが。

 轟音の発生源からは小屋の中から突き抜けるように、大量の糸くずと建材だった木屑が渦巻く風によって舞っている。

「よっ! 遅くなったな!」

 突風の発生源である小屋……だった物の中に視線を落とせば、こちらへ歩いてくる人影が3つ。大小さまざまな傷を負い、体のあちこちに蜘蛛の糸や千切れた足を引っ付けたトールと、疲れたように杖を突きつつ、肩を寄せ合うネフェさんとルカが無事な姿で現れた。

 先ほどの突風がトールのサイクロンホーンであったこともわかり、3人の無事な姿に少し安堵した。

「こりゃまた手酷くやられたねぇ……ちょっと、歯ぁ食いしばれよ!!」

 トールは担いでいたバルディッシュをこちら目掛けて振り下ろす。

 振りによって巻き上がった風は、強くも優しい調整された風刃となり、身体に絡み付いていた糸を切り離していく。小さなネイルブラストと言ったところだ。

 ただ、どんなに弱く調整されていても、傷口に強弱の付いた風が少しでも触れるたびに、痛みの波が襲ってくるため、本当に歯を食いしばらなければ意識を持っていかれそうになる。

「ダインさんっ!!」

 ルカが悲痛な叫びと共にこちらへ駆け寄ると、まずは左肩の傷口部分に手をかざし、治癒魔法のヒーリングを唱え始めた。

 それまではトールの放つ風の余波が当たることで、余計に痛みが増していた大きな傷口から痛みが徐々に遠のき、柔らかく心地よい温もりに覆われていく。

 傷口を注視すれば、周囲に集まっていたマナがルカのヒーリングと同じ柔らかい薄緑の光となって、傷口に吸い込まれていくのが分かる。

 治癒魔法とは術者が魔力を支払うことで、空気中のマナを圧縮し、術式によって人体の組織へと変換し、欠損や変異してしまった人体組織を補填する魔法である。この世界に生きる全ての生物は、細胞の最小単位としてマナで構成されるといわれているために、自然発生のマナの構成を組み変えることで、ヒトとも動物とも植物など全ての自然物に変換することができるらしい。それを人体の傷限定に適用させてあるのが、治癒魔法ということだ。

 こうして肩、手の平、太もも、踝と徐々に癒され、痛みが遠ざかっていく。きつく縛られ、塞き止められていた血が戻るように、指先と足先に暖かさが戻る。

「──サンダーストーム!!!」

「──ブラストネイル!!!」

 自分が癒されている間にも、目の前は暴風と雷の乱舞によって、子分の蜘蛛たちは次々と裁断処理、もしくは高圧電流による焼却処理が行われていく。

 この場所がかつて風の大精霊が座した霊峰というだけあって、風系統のマナで溢れた土地であり、風属性のアーツ使いであるトールと、風の傍系属性である雷を得意とするネフェさんは、水を得た魚のように周囲の溢れ変える風のマナをたっぷり利用し、自分の知る以上の威力が増された技や魔法で群がる蜘蛛たちを大量に蹴散らしていく。

「はーーーぁ! もう、なんつー数だ、ほんと」

「ハァ……ハァ……、た、体力が持ちません」

 端から見れば好転したかに見える戦場も、細かく見れば一進一退と言った状態である。

 屠れば屠るほど、新しい蜘蛛たちが岩場の影から次々と現れては、こちらの隙を狙って突っ込んでくる。

 今はまだ二人の範囲攻撃によって、隙間の限りなく少ない攻撃で何とか凌いではいるが、無尽蔵といわんばかりの大群の前に、全方位に神経を尖らせていては、魔力よりも先に気力や体力が尽きそうである。

 自分も急ぎ戦列に戻らねばと思い、負傷していた左手を握っては開いてを行い、左肩もまわしてみて、左足も前後へと動かして傷の治り具合を確認する。さらに大剣を持ち上げてみるが、苦無く持ち上がったのを確認し、動きの遅延も違和感もなくなっており、ルカによる治癒は完全に終えた。

「ルカ、助かった。ありがとう」

「い、いえ、これぐらい……」

 当然のことと言いつつも、ルカの声は消え入りそうなものだった。いかにも彼女らしい謙遜だと思うが、少し過ぎるとも思っている。

「ルカ」

 だが過ぎれば、その姿は持たざる者にとって、苦痛となる。自分にその力があれば、ルカに癒してもらう手間も省ける。化け物に遅れもとらず、カキョウを簡単に救えたのではないかと羨望と同時に妬みも抱くようになる。

 だが、資質上からも専門外の自分では、どんなに努力を重ねたところで、永遠にルカの技量に追いつく事は無い。

 それがこの世界の理。

 生まれ持った魔法への資質と、属性的相性。個性ともいえるヒトの根幹。

「君は、もっと自信を持っていいと思う」

 ひけらかして欲しいわけではないが、もう少し前向きに、ありのままの自分を受け入れて欲しい。

 言い終わると顔を見らずに、軽く彼女の肩を叩き、立ち上がった。

 自分を持たざる者と称するなら、頭上で助けを待つ彼女は……。


 カチ。


 俺はどうしようもなく馬鹿だった。

 自分は……彼女よりは持つ者なのかもしれないと、心のどこかで優位性を見出したかったのかもしれない。

 そうでなければ、俺は戦士としても、ヒトとしても、全て劣っているのではと。

 そんな事を考えること自体が驕りなのだ。

 ありのままの自分を受け止め切れていないのは、どっちなんだ。

 再び広がる腹の底の熱。かみ締める奥歯が痛い。口が切れているかもしれない。

 それでも、この悔しさが止められない。

「トール」

 蜘蛛狩りを続けているを呼び止めた。

「そのブラストネイルを……“カキョウごと”巻き込んでくれ。手加減は……要らない」

 たとえそれが仲間であるカキョウに傷を負わせてしまうことになっても。

「ダインさん!!」

 ルカが叫び、俺の腕を掴んできた。

 彼女が止めるように、他にも方法はあるのかもしれない。

 俺自身の攻撃では一度に全ての糸を切ることはできない。ネフェさんがまだ見せていない魔法に有効的なものもあるかもしれない。

 それでも……もう模索する余裕は無い。自分が持っている情報の範囲で選択していくしかないのだ。

「……分かった」

 トールも意図は理解してくれたようだが、あまりいい表情はしない。少し前なら、この選択に「いいんだな?」と念押しで聞いてきたと思う。

 本来なら、傷を負う側の意思を確認することなく傷を負わせてしまうことは、ルカという選任の治癒担当がいたとしても、褒められた行為ではなし、ルカに余計な負担を増やす。

 そしてこの場での最年長者であり、最も多く手段を持っているはずのネフェさんが何も言わないのだ。

 沈黙という名の同意。そして、現状に対する打破の手段はもう残されていないことを知らしめる。

「……貴方達、何かお忘れじゃありませんか?」

 トールがバルディッシュをカキョウに向け、新たに風を起そうとしていた時、引かぬ蜘蛛の波の奥から発せられた言葉。


 同時に、周囲の風や止んだ。


 完全なる無風となった山の頂。

 虫たちまでもが静止し、無音の世界。

 気持ち悪いほどに、自分達の呼吸とだけが聞こえてくる。

 破壊された山小屋の残骸の奥から、巨大蜘蛛男が静かに起き上がった。外殻のあちこちが拉げ、人型の頭部から血のような液体を流した状態で、見た目だけなら満身創痍だ。

 化け物が起き上がると同時に、山頂側から気持ち悪いと感じる、妙に生暖かい風が流れてきた。


 …………ーン。…………………………リーン。


 ソレは、今一番聞きたくなかった音。

「うそ……どうして、今なの……!?」

 ネフェさんの右手首から鳴り響く金属音。

 いつ来てもおかしくなかったのだ。むしろ、今の今まで起きなかったのが、奇跡だったのだろう。目の前の敵に対して無我夢中であり、早期終結の後に安全を確保することを怠った自分たちの落ち度だ。

「!?」

 急に首が絞まり、息苦しくなった。

 蜘蛛の糸によって締め付けられていると思い、手を伸ばそうとしたら動かない。

 鈴の音に気を取られていた僅かな時間に、全身のあらゆる場所に太い蜘蛛の糸が巻きついている。

 ソレは自分だけでなく、仲間達も一緒だった。皆が糸を振り払おうと暴れるようにもがくが、蜘蛛の圧倒的質量からなる絶え間ない糸吐きによって、自分達の生存率は限りなく0(ゼロ)になった。

 動ける状況なら、まだ目の前の敵を蹴散らさずに一塊に集まって、ネフェさんの持つ高位魔法(ハイマジック)クリスタルシャトーによって、一時的に自分達を黒い風から守る方法もあったのだ。

 ただし、ネフェさんの体力も限界に近い状態での高位魔法の使用は、道中で自分が犯した失態のように魔力切れや体力切れ、意識喪失もありえるほど危険な行為である。

 また自分達の現在の立ち位置も、長物を振り回すのに適するほど、それぞれが間隔を大きく取っているために、クリスタルシャトーを構築する際の範囲が無駄に大きくなりすぎて、ネフェさんの負担がさらに増してしまうだけである。

「トール!!」

 全員が既に武器を扱うことの出来ない状況であるために、彼には悪いが再び指先を犠牲にしてもらう必要が出てきた。

「っあ……ダメだ! もう指も使えない!!」

 トールにも意図が伝わったようだが、蜘蛛の糸はすでに彼の指先をも支配してしまい、一本も動かす事ができない。

 蜘蛛の糸は上手い具合に、こちらの可動領域だけを削るように、四肢の間接部分と手先足先だけを覆いつくし、顔や太ももなどは露出させたままだ。完全に繭状に拘束してしまっては、黒い風に触れることができなくなる事を踏まえての格好というわけだ。

「ネフェ……さ、ん!?」

 このまま何もせずに死ぬというなら、せめてその力を出し切ってからと、一縷の望みをかけてネフェさんの名を呼ぼうと視線を移せば、そこには首を絞められ、既にぐったりと気絶した姿があった。

 ルカも蜘蛛の糸によって口を封じられ、泣きながらもがいている。

 口も手足も意識さえ奪われた現状に、誰も何か抵抗できるという状態ではなくなっていた。

「ククク、アハハハハハハハ!! どうですか? 確定された死が迫り来る恐怖は? 仲間を助けるどころか、仲間に助けられ、挙句に皆さん仲良く捕まっちゃってまぁ……カキョウと言いましたか? 彼女も可哀相ですね。まだ息もあるのに仲間の失態によって人生強制終了させられてしまうとはぁ……ああ、違いましたね。彼女が起した失態がこの惨状を作ってしまったんですよねぇ。ならば、貴方たちは彼女を恨むべきなんですよねぇ!!」

 巨大蜘蛛男はこれでもかと言うぐらい饒舌に上機嫌に声音高々に嗤った。

 自分の失敗によって自分が死ぬと言うのなら、まだいい。だが、回りを巻き込んだ挙句、助けると息巻いた対象は助けられずに終わる死が傍まで来ている。

 俺はカキョウを恨むつもりはない。誰にだって怖いものはあるんだ。俺にだってある。だからこそ、もっと気の利いた言い方だって沢山あった。もっと気の利いた立ち回りだって……考えれば考えるほど、俺に彼女を恨む資格は無く、むしろ自分の情けなさばかりが浮き彫りとなっていく。

「せっかくですから、教えてあげますよ。貴方たちが黒い風と呼ぶものは、私が生み出した最高傑作にして、範囲と効果については最強の儀式型兵器です!! まぁ、1度放つと3時間ほどは時間を置かなければならない欠点はありますがねぇ。そう……そうですよ!! アレには蓄積する時間が必要なんですよ!!! ですが、アレを最後に吹いたのは何時間前ですかねぇ?? アハハハハハハ!!!!」

 高らかに嗤う化け物の声が、赤き光に包まれた夜天に響く。

 今更、不思議に思うことは無い。異様な状態の山にいた、異様な化け物。特に知性を持った異様の怪物であるなら、それが全ての原因である可能性は十分にある。

 だから何だというのだ。死が確定していると言うのなら、饒舌に語ったところで、それを記録する術も、身体も無くなるのだ。無意味な行動だろう。

「なぜ……何故こんなことを、するんだ」

「なぜ? 愉しいからですよ!! まぁ、仔細については今から死ぬ貴方に言っても仕方がないので省きますが……聞きたい? 聞きたいですか?? 教えませんよぉ、それが“契約”なんですから」

 それでも常軌を逸した加害者というのは、自分の行いを説明する事によって、相手の絶望を更に塗り重ね、その表情を愉しもうとするのだろう。

 愉悦に浸る化け物の言葉の中に、気になる言葉が存在した。

 契約。その言葉はこの化け物にとって、何気ない言葉だったのかもしれない。

 だが、こちらにとってその単語は、この悪質な事件の真相に大きく近づく一歩となる言葉だ。

 黒い風は、この化け物と契約の相手方との間で結ばれた、計画的行為であること。風の流れを利用している以上は、計画的に風の都を脅かす事が目的であり、それによって利潤を得る誰かが何処かに存在している事を裏付ける一言だ。

 それでもこの化け物の言葉通り、今ここで思案し、真実を突き詰め、知ったところで、それを誰に伝える事が出来るのだろうか? まさに死人に口無し。この山へ挑んだ先駆者たちもそうやって真実を知り、命を奪われてきたのだろう。

 そして、多くの人々が死んでいく様を見て、この化け物は愉しいというのだ。

「なんて……悪趣味な……」

 様々な嫌悪と悔しさが腹の底を渦巻くが、最早何を言っても無意味なのは理解している。そのために、もうまともに言い返す気力が生まれない。

「クククク……悪趣味、いい響きですねぇ。常人の理解の範疇に収まるようなら、こんな姿はしてませんよ」

「……ハハッ、確かにな」

 死の鈴が鳴り響く状況だからこそ、もう乾いた笑いしか出ない。

「……ふむ、面白いですねぇ……そこまで死が迫っているのに、貴方はまだ冷静で“正常”だ。いえ、ある意味、“異常”なんですよ。どうしてですかぁ?」

 化け物の言葉が一瞬、理解できなかった。正常が異常? 俺自身は冷静を装う努力をすることで意識を繋げ、どうにか逆転の勝機を窺っているだけに過ぎない。状況的にはただの悪あがきでもある。

 生暖かい風が今一度頬を伝い、それまで捨て去ったはずの死への恐怖が呼び戻される。全身が冷や汗と震えに包まれ、心臓の音が早鐘のごとく打ち付ける。口先では淡々と返しつつも、死への恐怖で心臓が身体から突き出てきそうなのだ。

 それでも化け物は、俺の姿が“異常”に見えるのは、もっと見苦しく足掻きもがく姿を所望しているということだろうか。

「……泣き叫んだところで無意味だと思っているだけだ」

 周囲から降り注がれる赤い視線と頬を撫でる風、もはや首と顔以外を動かすことができない身体が、抵抗は無意味だと突きつけてくる。

「……違いますねぇ。そういう冷静な判断、思考に至ること自体がおかしいんです。貴方はまるで、死が怖くない? 死の境地? 違いますねぇ……生への執着が無い?」

 化け物は、この状況を面白おかしく受け止め、考え込んでいる。まるで学者然とした動きに、焦燥の隣で沸々と苛立ちがこみ上げてくる。

「ああ、そうか! “死による終わり”に恐怖していない!!」

 一人納得に喜ぶ化け物を眺めながら、いっそ舌を噛んで自決しようかと考えるほど焦燥と不快感に包まれた頭では、この状況を覆すための要素が思い浮かばない。

「何を言っているんだ……死ねば、全て終わりだろう」

 あらゆる生物は誕生する際には、オスの精とメスの卵、そしてマナが掛け合わさることで、生命としてこの世界に形作られるといわれる。

 そして、生命活動が停止すると、まず肉体の崩壊が始まり、ソレに伴って記憶や経験等の肉体に保管されてる情報が消失していく。次に、崩壊した肉体に宿っていた個人の魔力が体外に解放され、自然のマナに溶け込む。

 魔力の無くなった死体は原型を保てなくなり、腐敗によって朽ち果て、やがて自然に還る。

 このマナを中心とした誕生と死の循環が、種族や宗教で表現方法に差はあっても、概ね共通の認識であると言われている。

「ですがね……噂では、マナに溶け込むはずの魔力に“記憶の一部を持ったまま、新たなる生を迎える”と。我々の間では、輪廻転生と呼んでいます」

 正直、くだらない。

 これから死を迎え、意識・記憶・個人が消滅していくというのに、ベラベラと世界の新常識らしきものを語られたところで無意味だというのに。

 ただ、化け物の背後に潜むものは、単一の契約者というわけではなく、我々と表現するほどの規模の集団的なものなのかもしれないことが窺える。学者然としているのも、化け物になる前は本当に学者だったのかもしれない。

(まぁ……考えたところで、死ぬんだがな……)

 咲かせる花も無い一方的な演説が最後に聞く言葉だと思うと、なんと悲しいことか。

「いいですか? 現代において、ヒトを含めたすべての生命は死を迎えれば、個人そのものが消滅するという、なんとも悲しく虚しい考え方が蔓延しています。

 ですが、本当は死を悲しむべきではないのです! 死は次の生への始まり!!

 貴方は“魂でそれを理解し、今の生の終わりが怖くない”のですよ!!!」

(死が……怖くない? こいつは、何を言ってるんだ)

 この状況に悔いているダインと言う男の意識が消滅し、全てを知覚することができなくなるという永遠の眠り。

 それまで漠然としていた“死”へのイメージが、個人の消滅を想像した途端に牙を向けてきた。早鐘を打っていた心臓が嘘のようにゆっくりと動き、このまま凍死してしまうのではないかと思うほど、身体の芯から熱が抜け出ていく。

 また、次の生といっても、新しい肉体にこの今の意識、自我が保持されなければ、記憶を引き継いだところで、それは別の新しい個人でしかない。

 この今から消滅する自分に、次の生へ馳せる気持ちなんて、皆無なのだ。

「さーてさて!! おしゃべりが過ぎましたね。そろそろ、死んでもらいましょうか。なーに、貴方にとってはあくまでも今生の別れ程度ですけどね!」

 頬を撫でる程度だった生暖かい風は、春の木枯らしぐらいの強さへと変化した。それに合わせるように、鈴の音が一層強くなる。

 黒い風を自由自在に操作できるのであれば、一時的に止めておくことも可能なのだろう。この異様に長い会話の時間も鈴の音が鳴り響くばかりで、黒い風そのものはまだ到来していなかったのだから。

 自分の死が秒読みとなりながらも、新しい生死感への講義に耳を傾けたのは、心が死の恐怖から逃がそうとしていたのかもしれない。

 風が強くなったからこそ考えるのは、様々な後悔の念。化け物が落とした情報の整理。自分の不甲斐なさと未熟さによって、皆を巻き込んでしまったことへの後悔。

 そして、“再び”彼女を死なせてしまう後悔が、全身を締め上げる。

「ああ、気持ちイイイイイイイ!!!! その表情の変化!! 間近で、死の燕尾服とドレスを纏う役者たちが死の恐怖と言う楽曲に乗って踊り狂ってくれる! 

 だーいじょうぶ……死ぬときは、みんな一緒にですからねぇ? 仲良く、あの世への階段を降りてもらいますよぉ? アハハハハハ!!」

 笑い声と共に、頬を伝う風はより一層強くなり、更なる熱を持ち始めた。ソレまで生暖かいと思っていた熱は季節が変わり、夏の肌に刺さる日差しのような暑さへとなった。

「……さい」

 後悔の重圧で意識が遠のきそうになる中、ふと彼女の声が聞こえたような気がした。それは後悔の念からの幻聴だろう。実際、彼女はまだ力なくしな垂れたままだ。

「さぁ!」

 化け物の声に応じるように、風は更に温度を増していく。心や身体の芯は冷え切っているというのに、額からはじんわりと汗ばみだしている。

「さぁ! サァ! サァアアアア!」


「……うるさいっつってんだよ!!!!!」


 怒気と殺気を孕んだ叫びが、一瞬にしてこの場を支配した。

 支配の形は、静寂と黒い風が運ぶものとは違った“新たな熱”。

 それまでは気温の変化に近い暑さだった周囲は、まるで山火事の中で肌が焼け焦げそうになるような、“直の炎”の熱さに変わった。茹だるを超えた熱に唇が乾き、ひび割れて痛みも出来ている。

 だが、周囲に火の手はまったく無い。ただ、とにかく焼けるように熱い。

 叫びの発信源である頭上を見上げれば、カキョウが顔を上げ、眼下の化け物を射殺さんばかりの視線で睨みつけている。

 そして彼女の周囲は、空間が波打つように歪んでいた。

「ヒッ……嘘だ、在り得ない……! お前に魔力は感じなかった!!」

 彼女を取り巻く歪みは、この肌を焼き焦がさん勢いの“熱”だ。黒い風の舐めるような暑い風が掻き消されるほどの膨大な熱量。彼女に巻きついていた糸が、彼女自身から発せられた熱によって白から黒へと変色し、次々に発火して消し炭となっていく。

 そして、熱から生まれた火が糸を伝い、ゆっくりと着実に化け物へと進んでいく。

「ヒィイイイ!! 来るな、来るなアアアアアア!」

 化け物は混乱を越えて、恐怖によって顔が歪んでしまっている。

 ソレは当然の恐怖だろう。彼女は魔力が極めて少ない。彼女は炎を出す事ができない。そのことで彼女は苦しんでいた。

 ソレまで無かったモノが、具現化していく奇跡。

 彼女が発する揺らめきは、まさしく『炎』の揺らめきそのもの。熱を発し、色を奪い、色を生み出し、生気と正気をも奪っていく。

 燃えた糸から火の粉が舞い上がり、別の糸に付着して、新たに糸を燃やしていく。夜闇を塗り替える、眩いオレンジ。ルカの光源魔法が霞んで見えるほどの光量。次々と広がる火の手により、紅星の天井が引き裂かれていく。

 今、自分達の周囲は、山火事のような“大火”によって覆い尽くされつつあった。



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