3-13 鎮魂歌の後に迫るモノ

 この世で最も美しい鎮魂歌が止み、幾ばくかの沈黙が流れた後、視界を覆っていた白亜の翼が徐々に開かれていく。

「カキョウさん、ルカさん……」

 腕の中で呼吸を落ち着かせつつあるネフェルトが、もぞりと動き出した。泣きつかれたのか声に張りはなく、目元はすっかり腫れあがり、眼も充血している。

「今、回復、しますね。傷つきし者へ慈愛の光を──ヒーリング」

 ルカは両手でやさしくネフェルトの頬を包むように触れると、小さく詠唱を唱え始める。自分は治療の邪魔にならないようにと立ち上がり、翼の外へ出た。

「気持ちいい……」

 空はすっかり薄霞も消え、厄災の終わりを祝うように晴れ渡る青空に太陽が全身を現していた。三〇〇〇mを越える世界で最も高い場所であるために、本来なら地熱も届かず、吹き荒れる山の風によって体温を奪われる場所である。

 しかし、目の前に鎮座する翡翠色の羽毛を纏った巨大生物――風の大精霊ラファールの力によって、山頂には小春日和のやわらかい日差しと同じような、体がじんわりとポカポカする温風が吹いている。

 改めて、大精霊の後ろにある塵一つ無くなった空っぽの窪地に視線を落とす。ネフェルトの両親を、何万もの命を、何年にもかけて奪い続けた災厄が跡形もなく消え去った跡地。

 この穢れも淀みも無く澄み渡った光景を作ったのが自分であることが、いまだに信じきれない。生まれてこの方、自分に魔力がないのは角の育成不良を含めた、体質的な問題だと思っていた。

 だが、今は体中にはっきりと今までに無かった流れを感じ、それは自らの意志によって、形や流れの速さを変えることができるのも実感している。同時に感情の起伏や何かの弾みによって、いつ暴れだしてもおかしくないほど、体の外側へ押し上げるような圧もある。

(みんなは、日ごろからこれを制御してるんだ……)

 実際は、日々の成長の中で自然と魔力の制御方法や向き合い方を学んでいくのだろう。だが、自分は今が出発点であるために、自然な制御ではなく、訓練による作為的な制御を身につけなければならない。

(でも、なんで今更……)

 本当に体質的な問題で魔力が無かったのか、それとも実は何らかの形で“封印”されていたのではないか。そんな疑問が新たによぎり出す。体質の問題なら、何かがきっかけで解消されたか改善された。

(封印……、お母さん?)

 後者の可能性を考えると、なぜか「ごめんね」とつぶやいた母の最期の姿を思い出す。その言葉と母を結びつけるとすれば、母が自分に何かを施したということだろうか?

(仮にそうだとしても、理由が思い浮かばない……)

 仮説として亡き実母が自分に何かを施す上で、周囲の常識から切り離さなければならない理由が全く思い浮かばない。

 どちらかといえば、跡取りとして虐待めいた修行を行ってきた実父のほうにありそうな気がする。魔力を奪うことによって、使うことができないという極限の状況下でもまともに戦える戦士の育成ということなら、成功といっても過言ではないだろう。

 問題は、それを持続させることによって、自分の流派である鳳流剣術の基本的な考え方である『炎で舞う演舞のような剣技』という点においては、永遠に未完成となる。そんな人間に跡取りとしての修行は、不適切極まりない。それこそ、五体魔力ともに満足であり、且つ男児の弟をはじめから本来のやり方で育成すれば、何の問題もないのだ。

 だからこそ、父の考えや行いが分からない。

 また、今回の魔力誕生のせいでか、父に対する信用は底に落ちた。

 ……永遠に分かりたくないと思った。

「大丈夫か?」

 ネフェルトが涙を流している間、配慮して後ろを向いていた男性陣が頃合いとばかりに振り向き、ダインのほうが近づいてきた。

「ネフェさんなら、もう大丈夫。ルカが診てくれてるよ」

「……カキョウのほうはどうなんだ?」

「私?」

 まだルカに治療されているネフェルトのほうを見ていたが、ダインの言葉に思わず視線を彼に移した。

「あれだけの大技を使ったのだから、疲れているんじゃないか?」

 彼がこちらに手を伸ばしながら、さらに近づいてくる。それこそあと三歩もあれば、手の届く範囲だ。

(……うそ……怖い)

 狂乱、狂喜、全力の否定、魔力への歓喜、鎮魂の祈りと目まぐるしかった時とは違い、体も心も落着き、冴えわたったことで……昨日の、登山中の彼の怒号を思い出す。自分に向けられて初めての怒り。あの場、あの時における戦力外通告。力を得た今なら、一人で引き返せなんて言われない。戦力外だなんて言わせないこともできる。

 だが、失望していないと言葉にしてくれたにも拘らず、一度向けられた敵意にも近い強烈な怒気は、胸の奥に深く刺さり、この一行の決定権を有する彼に対し恐怖心がせりあがってくる。

「あ、うん、いや、それはないっぽい……これも大精霊様の力なのかな?」

 冷静になればなるほど、自分の中に“戦力外という失望の烙印”が浮かび上がり、彼から視線をそらして、じりじりと後ろへ遠ざかろうとしてしまう。

「カキョウ? ……カキョウ、どうした」

 後ずさりを始める自分に、さすがの彼も異変に気付かざるをえない。徐々に険しくなる顔、唸りが含まれる声。心配しているのかもしれない。

(来ないで)

 しかし、脳を支配する“戦力外”という言葉によって、これまで安心と感じていた彼の大きな体も威圧を発する巨大な壁となり、その長大な背丈から圧を持って見下げられているように見えてしまう。体がすくみ上ってしまい、新しく発現した魔力でも戦力として足りないのでは? と脳裏をよぎれば足が震え、手足の先から体温が抜けていく。

「……カキョウよ、あまり嘘をつくな。我が力で幾分かは疲労が消えているとはいえ、儀式級の魔力消費を二度も行ったのだ。君は自分が感じ取っている以上に、疲弊している。現に、体の底が少々寒いのであろう。どれ、我が羽毛で温めてやろう」

 視界が翡翠色に覆われたと思ったら、次には全身が体がフカフカの羽毛に包まれていた。その間、実に瞬きほどの一瞬で、大精霊によって簡単に運ばれてしまっていた。

 大精霊も一種の概念的な存在で生物的な温もりは無いのかと思っていたが、現実の羽毛と同じくフワフワのフカフカであり、ほのかに温かい。ダインの存在によって冷やされた芯が回復していく。

(……なら、さっきの寒かったのは)

 本当に魔力の消耗による疲れのせいかもしれない。巨大蜘蛛男との戦いに、仲間たちの魔力をもらったとはいえ、一〇〇体にも上るご遺体を天に送ったのだから、自分が感じている以上の魔力を消費し、疲労も蓄積しているのだろう。特に自分は、これまで一度に大量に魔力を消費する行動を行ったことがなかったために、体がまだ慣れていない。どこかにガタが来て、崩れてしまっていたかもしれない。

 そして体に生じた不調と相まって、彼に対する恐怖心が重なった結果、彼に抱いている恐れの量が増殖してしまっていたのなら?

(……ダインに悪いことなぁ)

 先ほどの行動は、明らかなる拒絶。大精霊もそれを分かったから、自分とダインの間に巨大な翼を割り入れたのだろう。おかげで、彼を本気で拒絶せずに済んだが、彼の手がどこに触れようとしていたのかは、分からないままとなった。

 それでも、彼のことが怖いことには変わりない。一度押された烙印は、自分の中からしばらくは消えないだろう。

「おいおい、まさかの大精霊様って、そういう破廉恥なことするのか?」

 こちらの夢見心地とは打って変わり、なぜか妙にトールが声を荒げている。その隣ではダインが、苦虫を少し噛んでしまったような表情……一般的によく言われる“実に面白くなさそうな顔”をしていた。

「トール。そなた、失敬であるぞ。破廉恥とはなんだ」

 まったくだ。こんなフワフワのフカフカが破廉恥とは、意味が分からない。

(はー、だめ、このまま寝入りたい)

 相手は大精霊とはいえ、この高級羽毛布団を思わせるほど柔らかく、温かい羽毛はまさに天国であり、このまま意識を手放すのも悪くはないと思ってしまう。

「失敬も何も、“男”の姿で現界していて、よく言うぜ」

(……男?)

 今思えば、この大精霊は体こそ巨大な鳥であるが、その高き位置にあるご尊顔は、まぎれもなく人間の男性の顔である。神にも男神と女神がいるように、大精霊にも性別はあるだろう。

「はっ……!!!! そそそ、そうだったぁ!! すみませんでした!!!」

 慌てて大精霊から遠ざかると、地面に額をこすりつけんばかりの勢いで、土下座をもって謝罪した。

「ハハハッ、気にするな。我が引き寄せたのだからな。さて、向こうの治療も終わったようだな」

 確かに大精霊によって強制的に羽毛の中へ放り込まれ、こうして寛大な心で流されたとはいえ、一応の異性という存在に対して、少しは遠慮するべきところだったと反省している。



 さて、向こうと示された方向に目をやれば、顔色がすっかり良くなり、目元の腫れも引いたネフェルトと、一仕事を終えたルカがこちらに歩いてきていた。

「皆さん、黒い風を止めていただき、ありがとうございました。勝手ながら、この場においてのフェザニスを代表して、お礼申し上げます」

 ある程度の位置まで近づいてきたネフェルトは、全員に向かってお辞儀をした。まるで苦しめられていた期間に比例したかのように深く深く、そして長い時間、頭を下げられた。

「我からも改めて。此度の長年にわたる厄災を終わらせてくれたことを、この地域の自然や生命を代表して、皆の協力にお礼申し上げる」

 ネフェルトに並ぶよう、上位種である大精霊が直々に改めて頭を深々と下げた。苦しめられていたのは人間だけではない。巨大蜘蛛男の配下となっていた蜘蛛たちや、それを捕食していた怪鳥ヘルヴァルチャーのように食物連鎖および生態系そのものが狂ったのだから、自然にとっても今回の解決はかなり良い方向に向かったと思われる。

「では、気を取り直そう。君たちはいろいろと聞きたいことがあるのではないだろうか? 時間が許す限り答えよう」

「……大精霊ラファール様。まずは、姿を消したといわれる精霊種の貴方が目の前にいることについてお聞かせください」

 落ち着きを取り戻していたネフェルトは、時々顔を覗かせる真理や真相に対する探究心に火が付いた様子だ。その瞳から潤いはすでに消え、これから紡がれる真実を受け止めるべく、力強く見開かれている。

 そして同時に、どことなく“怒り”にも似た凄みを滲ませていた。

「なるほど……君の疑問は、もっともだ。少し長くなるぞ」

 まず、この世界は人間界エリルに、天上の聖、地底の闇、外周に火水地風の合計六属性が連結することによって、完全な一つの世界となる。

 特に中央の人間界は世界の基盤であり、連結している各精霊界が崩壊し、消滅したとしても、人間界において同属性を創出することで、消滅した属性を回復させることができる。

 逆に人間界が大きく傷つくことがあれば、基礎の損壊した建物や車輪の欠けた馬車のように、世界は加速度的な速さで崩壊し、ありとあらゆるものが消滅してしまう。これは自然エネルギーの体現者たる精霊にとっては、呼吸や血の流れと同等の秩序や摂理であり、人間界を守ることは自身を守ることにつながることを、よく理解しているはずなのである。 

 にもかかわらず、聖と闇は互いの存亡を賭けたかのように衝突し、主戦場となった人間界は大地、自然、文明、生命と全てにおいて多大なる犠牲が出たうえで、全世界消滅の可能性が見えるほど、全ての基盤である人間界は崩壊寸前の状態に陥った。これが二〇〇年前に起きた聖魔大戦と呼ばれる世界最大級の“意思を持った”自然災害である。

「そして、この大戦終盤には、太陽の化身にして時間の管理者たる聖の大精霊ラスヴェートと、夜闇の化身たる闇の大精霊リコフォスが消滅したことにより、世界から太陽と夜闇によって生み出されていた“明暗”と“時間の移ろい”が消滅した」

 聖魔大戦が起きる以前は、聖の大精霊が太陽を、闇の大精霊が夜闇を正しく運行管理することで昼と夜を切り替え、時間という概念を創出していた。しかし、聖魔大戦によって聖と闇が壊滅寸前まで陥ったことによって、それぞれが管理していた太陽と夜闇が消滅してしまい、世界から明暗と時間が同時に消失した。

 これが歴史上最大の厄災といわれる『無彩色の世界』の始まりであり、聖と闇双方の旗印が消えたことによる聖魔大戦の終結となった。

 戦いは終わりを迎えたものの、世界からは色が消え去り、大地には大きな傷跡を残し、多くの生命が意味もなく戦争の犠牲となり、世界のマナバランスが崩壊してしまった。

 このまま放置すれば人間界はおろか、隣接するすべての精霊界を含めた全世界が崩壊し、消滅してしまうだろう。

「そこで我々精霊は、大戦の影響が少なかった残る四属性の力を結集し、“外側”から人間界を支えることにした。まずは大戦で乱れてしまった全属性の均衡を戻すために、人間界に対するマナの流入を一時的に止めたのだ」

「なるほど……救済のためとはいえ意図的に止めたのなら、こちら側からすれば奪われたに等しいな」

 ダインの言葉に、大精霊は苦々しい顔をすると、頷くことで肯定した。

 改めて無彩色の世界をおさらいすると、『聖魔大戦で傷ついた人間界から太陽と夜、時間の移ろい、魔力、色彩を奪い、生き残った人々にさらなる絶望を与えた精霊たちの行い』として伝わっている地域が多い。

 この中で『太陽と夜、時間の移ろい、色彩』は先に述べられた太陽と夜闇ぞれぞれの化身が消失したために発生した事象であり、無彩色の世界の第一段階ということになる。

 では、第二段階となるマナの消失については、ダインが指摘した通りに精霊側の意図的な流入を止めたことが原因によるものだった。

 そもそも、自分たちがマナと呼ぶ自然の力は、人間界に自生する自然から発生するものと、精霊界から流入してくるものの二種類が存在していた。とはいえ、前者の発生量は微々たるものであり、大部分は後者によるものである。

 それを聖魔大戦直後の世界に例えるなら、ヒビの入った水槽(世界)に水(マナ)を注ぎ続ければ、ヒビは大きさを増し、やがて水槽そのものが割れてしまう。そのヒビを治すために、まずは水自体をすべて抜く必要があったということだ。

 この水がなくなった水槽の状態こそ“無彩色の世界”の第二段階ということだ。

「じゃぁさ……無彩色の世界はやっぱり全て精霊が犯人だったってことよね」

「そうだな。聖と闇のことも踏まえ、我ら精霊種が人間界に与えた仕打ちは、弁解の余地もないほどだ……」

 こちらの口に出てしまった言葉に、沈痛な面持ちだった大精霊の顔がさらに歪んでしまった。

 だが実際、どんなに歴史の伝わり方が各国で変化していても、無彩色の世界において、精霊が色とマナを持ち去ったことは完全な共通項目なのだ。それだけ人間にとっては、当時の人たちが命を捨ててまで逃げたくなるほど、深く大きく刻み込まれた大惨事であり、厄災でしかない。

「そして我々は……、最もしてはならない失念をしていたのだ。我のようにマナそのもの管理を行える者には、ある程度の知能が与えられたものの、基本的には純粋なエネルギー体としての側面が大きく、生み出されてから消費されるまでの間に劣化は起きない。また、消費されなければ、永遠にとどまり続ける。そして、基本的には食事を必要としない。

 つまり、我々は生死と時間の概念が極めて希薄であり、生物が持つ有限というものを考えていなかったのだ」

 水だけを抜き、水槽の中の魚を取り出さなかったら、魚はやがて死滅してしまう。大戦当時の人々は、それこそ万人が日常的に魔法を使う世界の住人だったからこそ、マナと色の消失は人々に大きな絶望を与えただろう。

「おいおい、自分たちでたっぷりと与えておきながら、危なくなったら全部取り上げて、しかも忘れてたってことか? ひでぇ話だな」

 トールが苦言を零すのも無理はない。それまであった日常が突然奪われ、それがいつ元に戻るかも分からないとなれば、終わりなき絶望しか見えない。加えて、大戦自体も巻き込まれた形で、ありとあらゆるものが破壊され、色彩まで奪われたのだから、心身共に死滅の一途となっただろう。

 だが悲しいことに自分は、昨日まで魔力のほとんどない状態の生活をしてきたために、魔力が無くなったとしても自活する方法も気持ちも持ち合わせている。そのために、死を選ばなければならないほどの苦しみかどうかは、理解しがたい部分がある。なので、トールの言葉に対する上辺での理解はできても、根本的なところでの理解は難しい。

「そう、我々精霊側全体の完全な落ち度であり、この件については未だに悔やんでいる。しかも、それに気づくことができたのは、外的要因によるものだった」

「外的要因?」

「人間界が無彩色の世界になってから、七日目のこと。どういう原理でかはわからないが、突如として閉ざしていたはずの境界に穴が開けられ……、この時初めて、人間界が死滅しかけていると気づかされたのだ」

 大精霊の言葉を歴史に照らし合わせれば、無彩色の世界が終わった七日目と一致する。

「七日目に、穴……それは、もしかして、サクリス様の奇跡、では……!」

 ルカが瞳を輝かせながら、自らが信仰する教えの祖の名前を口にした。確かに、聖サクリス教の説く歴史では、救世主サクリスによって無彩色の世界が終わったと伝えられている。

「そう。当時はサクリスという名ではなかったが、一人の青年が奇跡としか言いようがない力をもって境界の一部を破壊し、我々に七日間の世界と人間の状態を教えてくれたのだ」

 穿たれた穴の先には一切の色彩の無い世界に加え、終わりの見えない絶望を前に命を絶った者たちが地面を覆いつくさん勢いで転がる、地獄絵図と言わんばかりの光景。奪った側の精霊種ですら吐き気を起こすの異質で歪な空間が広がっていた。

 母なる竜神が作り出した、彩(いろどり)と生命に溢れた美しい景色を奪ったのは誰だ? まぎれもなく自分たち精霊であった。

 自らの傲り(おごり)と過度な干渉によって、母の残した大地と生命を破壊した罪は重く、自らの存在を見直さなければならないと考えさせられた。

「まず、人間界とマナの均衡を再生させるべく、量を制限する形でマナを再び流し始めた」

 無彩色の世界が終わりを告げたとき、再びマナが復活したことになってはいるが、どの国の歴史書においても、大戦以前のような量や密度には程遠く、目に見えないほど薄くなったと記されている。二〇〇年後の現代においても、ネフェルトのように一部の素質持ちを除いては、大多数の者がマナを視認することができない。これが大精霊のいう流入量の制限である。

 一度は空(から)にしたために、新しく注がれたマナはゆっくりと長い時間をかけて、傷ついた人間界を癒していく。

「次に、残った精霊種すべての力を出し合い、新しい太陽を作って、人間界に放った」

 世界に魔力は戻ったものの、まだ明暗、色彩、時間の移ろいが戻っていない。これらはすべて、聖の精霊が管理していた『太陽』と闇の精霊が管理していた『夜闇』が精霊たちとともに消滅したことが原因である。色を映し出す光源の太陽が戻れば色が戻り、太陽が動き出し地平に隠れれば夜が生まれ、昼と夜が復活したことで時間の概念も戻ってきた。

 こうして、無彩色の世界が終わり、新しい太陽と色による大戦後という新時代にして現代の幕が上がった。

「最後に、此度の大戦は我々の過干渉によるものだったことを踏まえ、我を含めたごく一部の大精霊が流入してくるマナの監視役として人間界に残り、それ以外の者たちは自分たちの属性世界へと戻った」

 この風の大精霊ラファールや自分たちがシンエンと呼び親しむコウエン国の炎の大精霊など、いまだに世界に名を残している大精霊がマナの監視役として残った者たちということになる。

 それは同時に、この人間界には彼ら以外の精霊種はおらず、誰も真実を知らなければ、聖サクリス教の教えに含まれる『精霊は人間を見放した』という曲解された現状だけが残ってしまう。

 曲解とはいえ、無彩色の世界に陥った人間界を一時的にでも見放した状態になったことには変わりなく、それを悔いているからこそ、自らが前に出て真実を口にせず、人間に見放した存在としてののしられることも甘んじて受け入れているのだろう。



「……実情は分かりました。ですが、納得できないことがあります」

 これまで自分たちは、途中途中にいろいろと口出ししていたが、ネフェルトは一人黙って風の大精霊の言葉を聞いていた。

 それが新たに口を開くと、言葉そのものは比較的丁寧であっても、握りこぶしに声音と肩が震え、瑠璃色の美しい瞳は相手を呪い殺さんばかりに風の大精霊を睨みつけていた。

「なぜ……今更、姿を見せたのですか? 黒い風が始まった時、あなたは何をしていたのですか? これまでが過干渉だったから、黒い風の発生を阻止せず、何万人が亡くなろうとも、ただ見ているばかりだったのですか?! ここは……ウィンダリアは、貴方の御座ではないのですか!?」

 ネフェルトの荒げた言葉が胸をかき乱し、その存在の大きさによって意識から消え去っていた疑問が襲い掛かってくる。

 言葉どおり、風の大精霊とあろう者が居ながら、非道極まれる大量殺戮が野放し状態だったのは何故だろうか。自分たちを山頂まで導き、癒し、ともに死者を弔った力と心があるのなら、なぜ何万という人々が亡くなり、何百何千という時間の間、何もしなかったのだろうか。特にネフェルトは、両親を黒い風という名の意図的人災で亡くしているのだからこそ、その怒りの矛先を大精霊に向けるのも当然のことだ。

「君の怒りは最もだ。言い訳になってしまうが聞いてほしい。……恥ずかしい話、皆が討ち取ってくれた蜘蛛と融合した男によって、長きにわたり囚われの身となりつつ、我の力をあの儀式呪文に悪用されていたのだ」

 理由については、お伽話や創作でよく見られる“上位の存在を意のままに操る”という、ある意味で月並みと言っていい内容だ。ただし、それはあくまでも“存在しない者や力”に対する憧れからくるものであり、精霊の存在が否定されがちな現代においては、作り話の領域で終わるはずだった。

 話は若干変わる。透明な水の中に色付き薬品を一滴混ぜると、初めに落ちた場所は色が濃く、離れるほど薄くなっていく。魔法の効果もこれと同じで、到達目標や魔法の発生点が発動者から離れるほど効力は弱まっていく。

 ところが黒い風は一種の巨大な魔法であるにもかかわらず、霊峰の頂から麓のフェザーブルクまでの高さと距離に加え、フェザーブルク全体を覆うほどの広範囲に広がったにもかかわらず、黒い筋に触れただけで即死させる呪い(魔法の効力)が薄まることなく持続されていた。

 これも『風の大精霊の力①=超高圧縮されたマナ』を黒い山から抽出した呪いに合わせることで、呪いそのものの質量と濃度を上げた。また『風の大精霊の力②=魔法(人工的)ではない自然の風』を利用することで、風を発生させるための魔力や術式、マナを同時に用意する必要がなくなった。

 この二点こそ、目の前の大精霊が悪用された部分であり、黒い風の特異点である。

「囚われの身? 力の利用? 何を言ってるのですか? 貴方は自然そのものと言っていい存在。人間の魔法、魔術ごときに屈するとかあり得ません。何を言っているのですか?」

 自らが魔術師であるからこそ、ネフェルトはあえて“ごとき”という言葉を使ったのだろう。

 魔法や魔術といったモノは、あくまでも自然の力や現象を再現する術(すべ)であり、人間の尺度で再現された紛い物でしかない。逆に自然エネルギーを具現化した存在である精霊が放つ力は、本物の自然現象なのだ。加えて、現代の魔法は大戦以前に精霊によってもたらされた技術であるため、魔術師であるネフェルトは精霊に対する敬いを持っている。

 故にネフェルトの言葉は恨み言でもあると同時に、精霊が人間に屈したという現実が嘘であってほしい、本物が紛い物に負けてほしくないという尊重と願いが込められていた。

「だが事実なのだ。大戦時に多くの力を失い、マナの薄まった人間界で暮らすようになってから、力自体が弱まったせいもあるだろう。それを差し引いても、奴の放った魔術の中には、我ら精霊の本質を縛る強烈な文言が含まれたいたのだ」

 それでもなおも紡がれる言葉は、ネフェルトの願いを打ち壊すものだった。

「……頭が痛いです。大精霊を捉え、その力を自由に操る……、一体どんな文言や術式なのか、想像がつきません。……はぁ、まぁ、ともかく事情は分かりました……」

「本当に申し訳ない……」

 頭を抱え、盛大な溜息をこぼし、口では理解したと言っても、明らかにまだ煮え切っていない様子のネフェルトであるが、後悔や己に対する憤りを隠さず、人間味溢れる大精霊の苦々しい表情からも、これ以上の真実は出てきそうになく、彼女のなりの手打ちという感じなのだろう。

「これも超克の末に勝ち取った、人間の進化と歴史ということか」

「ちょう……こく」

「困難や苦しみに打ち勝ち、乗り越えること」

 言葉を聞いた途端は彫刻を想像したが、それを察したようにダインが正しい意味を教えてくれた。

 彼が選んだ言葉は正に、精霊が見捨てた後の世界や人間が生み出した技術によって、大戦前の前時代そのものに打ち勝ったことを意味し、人間の歴史が始まった新たな一歩を表す簡潔な一言だと感じた。

「んま、それが全て良いこととは限らないっていう例だったな」

 だが、トールの釘を刺すような言葉の通り、その新しい技術によって何万の命が奪われ、地域の生態系が壊れた。技術も使う人間次第とはよく言うが、今回のように完全なる悪意を持って行使されては、その技術の進歩が本当に必要だったのかが問われる。

(必要のない進化、か)

 ある意味で今回の出来事によって、自分は魔力を持つ人間に成長、進化したともいえる。自分の意志では悪用しようとは思わなくても、大精霊のように誰かに束縛や洗脳によって、不本意な使い方をしてしまうかもしれない。せめて自分の成長が、必要な進化だったと願うばかりだ。

 


「あ、あの……わ、私もお聞きしたいことがあるのですが、よ、よろしいですか?」

 さて、これまで沈黙気味だったルカが口を開いた。その表情は疑問というより、若干困惑めいており、どこか聞くこと自体をためらっているようにも見える。

「なんだね? 遠慮することはないよ」

 大精霊は先ほどまでの沈痛な面持ちを引きずりつつも、話題の切り替わりに乗る形で、新しい質問者であるルカのほうに振り向いた。

「えっと……過干渉が過ぎたとはいえ、あなた方が積極的な救助や復興の手助けを行った後に、干渉量を減らしていけば、よ、よかったのではないでしょうか?」

「ハッ、確かにそうですね。ちゃんとした配慮を行っていれば、ラファール様を含めた精霊全体が歴史に不名誉を刻むことも少なくなったはずですね」

 大精霊を名前と敬称で呼びつつ、ルカの疑問に相乗りする姿は、自分のよく知る落ち着きを払ったネフェルトそのものだった。ようやく“自分たちにとっての普通”が戻ってきたことに安堵した。

 ルカから出てきた新たなる疑問は、慈善事業を主体としている聖サクリス教の信徒だからこそ出てきたものだと思った。

 コウエン国の歴史書でもシンエン様以外の精霊が姿を見せなくなったのは、無彩色の世界からである。その後、マナや太陽が復活した後にも精霊に関する記述は一切ない。どの国でも共通ならば、太陽が復活した際以外は精霊に動き自体がないことになり、最終的な救済もマナと太陽の復活だけということだ。

 ならばルカの言葉通り、何らかの救済や復興の手助けを行えば、少なくとも後世に見捨てたと表現されるほどではないはず。

 また、大精霊の悔いた様子からも、基本的には人間に寄り添った考えをしている節が多く、積極的な配慮があってもおかしくない。矛盾と言ってしまうには大げさだが、少しの違和感は感じてしまう。

「うむ……やはり、そう思うのが自然だな。それについては……」

 そして当の大精霊は、まるで触れられたくなかったかのように歯切れが悪く、明らかに暗く沈んでいる。少しだった違和感は、この表情によって大きな違和感へと変わった。

「……簡単なことです。大精霊たちは聖サクリス様と“交渉”したのですよ。大精霊の罪と本性を隠す代わりに、新しい太陽とマナを与え、これらの功績を聖サクリス様へ譲ったのですよ」

 霊峰の頂に響き渡る、この場にいる誰のものでもない野太い男の声。それまでの和やかに近い雰囲気が、一気に緊張の冷たさへと変貌する。全員が山頂の入口に視線を向けつつ、各々の武器を構える姿勢となった。

 姿を現したのは恰幅と肉付きがよく、少々脂ぎった中年の男。詰襟からひざ下までぴっちりと着こまれた黒紫の男性修道服。以前の短いものと違って、長羽織に似た白地にゴテゴテした金刺繍をあしらった外套を羽織ったフェザーブルクの街にある大教会の司教(ビショップ)・マルコスだった。

 さらには、手には金銀宝飾をふんだんに使用した豪華絢爛と言わんばかりの長杖を携え、まるで権力者か富裕者を思わせる姿は、岩肌しかない霊峰の山頂では不釣り合いを超えて、不調和音と表現したほうがよいほどの気持ち悪い違和感を出している。

 加えて、マルコスの背後にはルカと同じように、聖サクリス教の修道服をまといつつも、手には鈍器、刀剣、杖を携えた男女合わせて二十人ほどの修道士(クレリック)たちも同行していた。

「マルコス様? どうして、ここに? それと、大精霊様の……罪と本性とは、どういうことですか?」

 ルカの発言どおり、この人物がここにいる理由が分からない。自分たちの任務を支援するにしては行動が若干遅く、その意思があるのなら昨日の登山開始の時点で同行の申し出などがあってもよかったはず。

 一応の顔見知りではあるものの、この違和感しかない状況に加え、自分の勘がこの男に対する危険信号を発しており、愛刀の柄から手が離せない。それは自分だけでなく、ルカを含めた全員が同じ気持ちのようであり、誰も構えを解かない。

「ハハハ……真実を語ったらどうですか? ラファール。聖と闇の大精霊は大戦のとき……、わざと人間を大量に殺して、その血肉、魂、魔力を貪っていたのだと」

 道化の笑いともいうべき気味の悪い語り口調から出てきた言葉は、この場を一瞬にして凍り付かせるほど、強烈なものだった。

「わ、わざと!?」

「精霊が、人間を……食った?」

「嘘だろ……」

「……」

 声を荒げた自分。驚きのあまりに言葉が途切れ途切れになったダイン。信じがたいと言わんばかりのトール。もはや言葉すら発さなくなったネフェルト。

 あまりにも突拍子もない発言に誰もが信じれず……否、信じたくないと脳が拒絶してる。

 しかし、こちらの希望を三度裏切るように、風の大精霊ラファールは明らかなる怒りと悔しさによって歪み切った顔で、発言者のマルコスを見ていた。

 その大精霊の表情からも、少なくとも聖と闇の大精霊は、意図的に人間を殺し、人間を食ったという部分は、信じたくないが真実とみてよいのだろう。

「マル……コス様……、ど、どういうことですか?」

 マルコスの正面に立ち、その道化にも似た笑いを一身に受けているルカは、足が生まれたての小鹿のように大きく震え、立つのもやっとなほど、精神的に来てしまっている様子である。

「聖魔大戦の際に、聖と闇は全面衝突によって多くの犠牲が出ました。正確に言えば、数百の大精霊級を失ったといえばいいでしょう。

 戦況が激化する中、彼らは残った個体の増強手段として、我々人間の血肉、魂、そして魔力を喰らいました。特に“死の直前”は、聖にとっては死へ抗おうとする生への執着が、闇にとっては死に対する恐怖と絶望が、それぞれの属性に応じた魔力の純度を……いや、味と質をより一層高めるらしいですよ」

 戦乱の中、魔法の流れ弾によって目の前で家族を奪われた者を、建物の崩落に巻き込まれ奇跡的に生き残れた者を、肉食獣が獲物に群がるように、強欲にまみれた人間が金品や権力に群がるように、多くの大精霊が人間を貪り食らったとマルコスは嬉々として語る。

 そもそも、人間、動物、魔物、植物など人間世界エリルに存在する全ての生命を構成する細胞の正体は、物質に変異したマナである。その証拠として、治癒魔法ではマナによる体組織の補充ができ、石化などの体組織変化魔法を受ければ体が石や鉱石、植物などの自然物へ変化し、逆に元に戻すこともできてしまう。

 また、何らかの形で死を迎えた生命は、個体情報を示す魂が体から離れ、情報が切り離された体は構成の維持ができなくなり、やがて砂の城のように崩れ去り、本来の姿であるマナに戻って、世界に溶け込む。

 この生命の循環中に、生物は時間を経るごとに成長が発生し、体を構成するマナ量が増加し、高濃度・高圧縮状態となる。人間でいえばちょうど二十歳前後の体が果物でいう熟した状態であるようで、人間の構成物質がマナと理解している精霊は、人間や動物など成熟速度と体積率の大きな生命を食らうのが、最も手っ取り早い回復行動であり、自身の増強手段となっていた。

 これが精霊の食人行動である。そして、今の世の中に生きる人々は、大戦時の食人行動から逃れることができた奇跡の生き残りの子孫なのだと。

「さて、もうお分かりですね? 彼らは無彩色の世界だけでなく、大戦中に行われた人間の大量殺戮と世界の大破壊もすべて、大精霊たちの意図によるものだったのです。

 そして生き残った大精霊たちは、この事実を聖サクリス様と交渉してでも隠したかったのです。当然ですね……人間という『家畜』にバレれば、反旗を翻すでしょう。大戦後の疲弊した大精霊級数百に対して、数が減ったとはいえ人間は国単位で何万といますからね。いくらマナを自由に扱える上位種とはいえ、数の暴力の前にはメンドクサイことこの上ない話です」

「私、たちが……家畜……」

 精霊の食人という表現からも薄々と感じていたが、はっきりとした単語で表現されると、目の前で口を押えながら地面に崩れたルカのように、自分も虚脱感によって膝を折りそうなる。

「そう! 我々は竜神と大精霊によって生み出され、繁殖を促され、利用され、最期まで美味しくいただかれる……まさに家畜! このエリルという人間世界は、大精霊にとっての巨大な牧場なのです」

 この男の言が正しければ、自分達の生とは、精霊たちによって生み出された都合の産物でしかなく、収穫の時を迎えれば、どんなに寿命が残っていようとも、大戦時のように無慈悲に食われるのだろう。

 それは人間が家畜に施している行為と、何ら変わりがない。家畜と分類される動物たちを力や技術でねじ伏せ、檻という世界に閉じ込め、育成計画に則った規定量の食事と仕事を与える。技術が自然の力に、檻が人間世界に、食事がマナに置き換わっているだけ。

(……本当に?)

 聖と闇の精霊が人間を食ったという話が事実だとしても、果たしてただの家畜に精霊に近い知性を与え、魔法という技術を渡す意味が見出せない。

 もし、本当に人間が家畜なら、寿命に到達する前に収穫してしまったほうが食べ物としては、正しいはずだ。

 加えて、なぜ家畜側であるはずのマルコスが嬉しそうに事実を語るのだろうか? 状況に悲観しているわけでもなく、まるで攻撃材料を見つけたイジメの主犯格のように嗤っている。大精霊に肩入れするつもりもないが、マルコスという男の言葉を信じることもできない。

「違う! それは誤解だと、何度も話したであろう! 我々は、竜神エリル様のお造りになられた世界を守る者! エリル様の愛したすべてを守る者! エリル様の愛し子たる人間を守る者である! 確かに聖と闇の者たちは、我々の戒律を破り、エリル様の愛し子たちに手をかけた……。それは許されることではなく、弁解しようもない事実。

 だからこそ、同族の犯した罪は残った我々が償わなければならない! 可能な限りの尽力を尽くすと! マナの供給量が少ないことに関しては、いまだに世界自体が不安定な状態にあり、今以上の供給を行えば、世界は再び均衡を失い、崩壊の危機に立たされるのだと何度言えば分かる!」

 風の大精霊ラファールが人間味に溢れる怒号を上げると、マルコスは薄ら笑いを浮かべながら、さらに言葉をつづけた。

「誰に伝えたというのだ? 私は聞いていない。前任者か? それとも自治区長か? 国王陛下か? それを世界の人々に伝えたのか? 違うだろう。説明を必要としているのは我々教会ではなく、世界中の人々なのだぞ?

 加えて、聖魔大戦そして我らが聖サクリス様の奇跡より、二〇〇年が経っていながら、いまだに姿を消したままの貴様らはマナ供給以外に何をしたというのだ? まさか過ぎたる干渉に加え、サクリス様に功績を譲ったのだから、自分たちは何もしなくてよいと思ったのか? 聖と闇の大精霊はどうした? 完全に全滅していたというわけではないだろう?

 貴様等にとっては、昨日の事かもしれない。だが我々は既にいくつも世代を重ね、ようやくここまで復興する事ができたんだぞ? 結局は、無彩色の世界のときと同じく、時の流れを理解しないまま、ただ人間が世代を重ねることで、精霊の罪を忘れることを待っているのではないか?

 分かるか? 貴様らはそうも疑われてもおかしくないほど、何もかもが遅すぎであり、何もかもが自分本位だ。この現代において貴様らの言葉など、誰が聞くか。誰が信じるか!」

 風の大精霊ラファールが語った聖魔大戦から無彩色の世界が終わるまでの歴史、世界の状態、精霊の罪と償い、そして精霊が人間を想う姿は、本物であると信じたかった。

 だが、聖と闇の精霊が人間を食べたという部分は、大精霊の口からも真実であることが分かった。なのに、その部分を先の説明に含めていなかった件については、自分たちの罪隠し、人間を騙していると捉えられても仕方がない。

「確かに、あの腐れ外道と化した聖と闇の者たちと同じと思われたくなかったために、この者たちに真実を伝えていなかった。それは認める」

 先ほどまで聖と闇の精霊に対しては、同族などと仲間意識めいた発言をしていたが、今では腐れ外道と言い表すあたり、これが風の大精霊ラファールの本音なのではないだろうか。

 自分だって見ず知らずの同族が犯した罪によって、同族というだけで犯罪者と同じ罰を受けなければならない道理はない。現存している精霊たちは、あくまでも消滅した罪人の代理でしかない。なれば、贖罪や救済を一方的に求める人間のほうが、厚かましいのではないだろうか?

 どっちにも肩入れするつもりはないと考えながらも、マルコスの嫌に強気な姿勢と罵詈雑言は、たとえ正しいことを言っていたとしても見苦しいことこの上ないため、どうも大精霊側が不憫に思えてくる。


「だが、自らの悪事を隠し、多くの他者を騙しているのは貴様とて同じ。あの蜘蛛と合体した男をこの山に放ち、我を封印し、黒き風たる災厄を発動させ、ウィンダリアにおける全生態系を破壊したのは、貴様ではないか! すべての元凶がよく吠える!!」

 

 風の大精霊の暴風にも似た怒号が、この場にいる全員から呼吸を忘れさせる。それぐらい、大精霊の口から出てきた新事実は、衝撃を通り越して激烈なものだった。

「……どう、いう……ことですか?」

 初めに声を上げたのは、もはやこの反応を唯一取っていい人物、ネフェルトだった。眼から生気は失われ、混沌に似たうつろな眼差しが、マルコスに向けられる。彼女の言葉に呼応するように空気が揺れ、痛みを伴う静電気が地肌を走る。魔力を獲得した今だからこそ、彼女の強烈なまでの静かな怒りが魔力に変換され、割れる寸前の水風船のように膨らんでいる。

「ハハハハ! 詭弁ですな。それこそ貴様がやったのではないか? 街全体を覆うほどの呪いとそれを広げるだけの風の力こそ、まさに大精霊の御業と言えまいか? 第一、私に何の利点があるというのだ? 私とて人間。あの風を受ければ、即座に命を失うというのに、そのような危険を冒して何を為す?

 そういう貴様こそ、自らがやっていたという証拠を消すため、そして自らの手を汚さないために、そこのホーンドの娘にわざわざ“火葬”させたのではないか?」

(……は? なんで火葬って知ってるの?)

 たったその一言に、世界から音が消え去る。自分の視線がマルコスに対して釘付けになる。

 おかしい。この男は、葬送の場に居合わせていない。七合目から山頂に上ってくるまでに、大精霊の補助があっても一時間は要したと聞いている。葬送自体が終わったのは一時間前なのに、マルコスは今山頂についた風をしていた。

 さらには……。

「……ねぇ……なんで、アレを見ていないのに、火葬したって分かるの? ……アンタ、ここにあったものが何か知ってるってこと?」

 これまでマルコスに抱いていた小さな違和感が、急速に膨らんでいく。頭の中に大太鼓の音に似たけたたましい警鐘が鳴り響く。柄を握る手が強まり、相手との距離を測りだす。

「いえいえ、そんなことはありませんよ。我々が昇っている最中に、貴女の美しく巨大な炎を見かけましたのでね。あのような攻撃性の無い炎なら、特別な何かを焼いたのではと。ならば、この山から帰らなかった方々を弔ったのではと考えたのです」

 確かに登山の最中でも、この山頂で行った火葬は見えていただろう。

 だが、マルコスの発言には、大きな矛盾が含まれている。

「ちがう……違う!! 帰ってこなかった人たちは、普通なら魔物に食べられていたり腐敗したりしてるから、肉体が残ることは少ないはず! それに山頂に遺体があるかなんて、“登ったことがある人じゃないと、絶対分からない”! アンタ、何の疑いもなく火葬って言葉を使ったってことは、人間の遺体があったことを知ってたってことでしょ!」

 それまでただの警鐘程度だった感覚が、銅鑼の音のように相手を滅すべき敵と駆り立て、愛刀を抜き放つ。もはや大精霊に対するものより、この目の前の司教に対する不信感で頭がはち切れそうだ。

「それだけではない。これまでの喧騒からも、風の大精霊とは完全に何度も顔を合わせているのだろう。一方的とはいえ、干渉を控えると誓約しているのだから、基本的に人間から赴かない限りは、そんな間柄になることはあり得ない」

 こちらのマルコスへの敵対行動を止めるでもなく、同じように大剣を構えるダイン。彼の眼はすでに確信を得たかのように、鋭利な眼光を持って敵を見据えている。

「あとなオッサン、ガルムスの嗅覚舐めんなよ。テメェが消臭っぽくドギツイ香水をまとうように、魔力や魔術、呪いを隠すための魔法をご自分に何重にも掛けて、逆に鼻がねじ曲がりそうなほど臭いっての。反吐が出そうだ。テメェ、何者だ?」

 トールもダインと同じく、バルディッシュの巨大な三日月上の刃を相手に向け、完全なる敵意と憎悪を向ける。

「…………ダメですね。ついつい、感情的になってしまった。なるほどいいでしょう。マーセナリーズ・ネスト所属チームEO。貴様らを厄災『黒い風』の実行犯及び証拠隠滅の疑いで、拘束させてもらいます」

「なっ!?」

「そう来たか」

「本性を現しやがったな」

 自分はマルコスの言葉に驚いたものの、男性陣はそれぞれ予期していたのか、二人ともドスの聞いた低い声で吐き捨て、武器を防戦用の前に置いた構えから、攻撃初動用の引き締めた構えに変えた。自分も二人に倣って腰を低く落とし、いつでも駆け出せるように武器を構えなおした。

 相対するマルコスは、とうとう嗤いを堪えきれなくなったのか、肩で大きく嗤いつつ、進撃の合図として右手を上げた直後に振り下ろした。

「……皆さん、どいてください。この下衆たちを消します」

 マルコスの後ろに控えていた総勢二十名の僧兵(エクソシスト)が隊列を崩すことなく前に進みつつあるとき、いつ爆発してもよいほど膨れ上がった魔力をまとうネフェルトが、自分たち前衛の前に進み出た。彼女から発せられる魔力の圧は、その立ち姿を歪めてしまうほど荒々しく、向けられるはずのないこちらも圧で目眩を起こしそうになる。それぐらいネフェルトを取り巻く魔力という名の憤怒は、消すという言葉の意味を、文字通り肉片すら残すつもりがない死を与えるとして理解させてきた。

「ま、待ってください!!」

 この場には、まだマルコスの言葉の真意を掴みきれていない人物がいた。ルカは、前衛陣の前に立つネフェルトよりもさらに前に出ると、マルコスの下卑た笑いとネフェルトの圧に潰されそうになりながらも、両者の間に割って入った。

「マルコス……様、嘘……ですよね? 私、たちは、世界中の人々に愛の手を、さ、差し伸べることが教え……。捧げる祈りや誓い……は、主である聖サクリス様と、お力添えいただいている精霊様のために行っている、のではないので、すか?」

 仲間の中で唯一、マルコスと同じ教祖を崇めるルカは、大ぶりの紫水晶をも思わせる瞳から涙を流しながら、ゆっくりと前へ歩いていく。

 当然だ。ルカにとってマルコスは、司教に上り詰めた敬虔なる信徒であり、尊敬に値する先輩なのだ。特に万人の救済を謳う聖サクリス教の信徒が、目的があるにせよ大量虐殺の元凶であるとは到底思えないし、思いたくもないだろう。

 だが、当のマルコスはそれを嘲笑うかのように、不気味な笑みでルカに語り掛ける。

「……シスター・ルカ、貴女は勘違いしています。教義の万人とは、我らとともに聖サクリス様を信じる仲間、信徒たちのことですよ。信じてもいない者に救いの手を差し伸べてどうします? 無意味じゃないですか。信じる者こそ救われるのです」

「む、い……み……」

 聖サクリス教の教義として知られている『万民に、愛と奇跡を』。字面だけなら、万民とはルカの言葉通り世界中の人々を指すだろう。自分が広報的な内容として教えられた教義も、宗教や思想の垣根を超えたすべての人々であると認識できる。

 だが、これらの言葉はあくまでも入信者を増やすための誇大広告としての謳い文句でしかなかったということだ。

「それと我々の誓いは、数多の精霊の“支配者”たる現在の教皇サクリス四世聖下に捧げられるものです。また、我々も祈りを捧げることによって、猊下の精霊に対する抑止力を強化する手助けを行っているのですよ? 精霊に捧げたところで、我々は大戦の時のように、ただ喰われるだけなのですから」

「せい、れいを……シハイ……」

「そうです。支配です。精霊どもが再び食人行動を行えば、ここまで復活した人口、文化、社会、経済、歴史といった、ありとあらゆるものが無に帰する。だから我々が御しなければならないのです。

 シスター・ルカ。貴女もこの大精霊をはじめ多くの者に騙されるところでした。ですが、もう大丈夫ですよ。貴女は教皇聖下のお導きの元、すべて許されるでしょう……こちらにおいでなさい」

 僧兵たちの谷の先で、緩やかに両手を広げるマルコス。その顔は微笑みに似つつも、薄っすらと下卑た光が滲み出る。

「どきなさい」

 しかし、ルカの答えが出るよりも早く、ネフェルトの冷徹な声と電流を帯びた純白の翼によって遮られた。

「それとも、敬愛する育ての親すら否定する男についていきますか?」

「……っ!」

 まだ様々な新事実などに打ちひしがれるルカにとって、ネフェルトの言葉は非情の一言だろう。しかし彼女の言葉通りに、マルコスの多くの者と示した言葉の中には、仲間である自分たちやこれまでに出会った人々、そして育ての親に等しいシュローズ教会の修道士長マイカも含まれる。いわば、ルカの過去や信条、生き様、信徒としての在り方すべてを否定している。

「ルカ」

 自分で動けないのなら、こちら側に無理やりでも戻すだけだと、立ち尽くすルカを強引に引き寄せた。

「……むい、み……わか、ら、ない……、私たちが、やっている……こと……なに?」

 焦点の定まらない眼にブツ切りに呟かれる言葉と、今のルカは意識の混濁と表現してよいほどの強い混乱状態に陥っている。マルコスが否定したものの中には、聖サクリス教の主要事業である貧民や難民への救済といった慈善事業も入る。もはや、何のための事業なのだろうか。



 だが、そのようなことを考えている暇はない。相手はすでに僧兵(エクソシスト)と呼ばれる聖サクリス教の保有する戦闘集団を、こちらの逃げ道を奪うよう扇型に展開している。

 自分たちの知っている僧兵(エクソシスト)といえば、不死者の大量徘徊騒動で訪れたキスカの森の洋館にいた紫髪の男性を思い出す。目立った武器は持っていなかったが、己の拳や他者の武器に固定の属性を付与することができる魔法や、光の鎖による拘束魔法を駆使するといった、魔法と物理が混在する高度な戦闘を行っていた。加えてルカと同じく治癒魔法を扱うことができた。

 相対する僧兵の数は二十人。この目の前の僧兵一人一人が紫髪の男性と同じく、高い戦闘能力と治癒魔法を持ち合わせているのであれば、戦術云々の前に数の暴力で瞬殺、もしくは治癒魔法の多重使用による長期戦で嬲り殺しにされるだろう。

(どうする……)

 そう頭で呟きながら、己の愛刀を握る手を見た。数時間前の七合目と同じく、自分の魔力を暴走させれば。

「カキョウよ、止めておけ」

 しかし、まるでこちらの心を読み取ったかのように、風の大精霊の制止が入った。実際は読み取られたのではなく、すでに自分の周囲の空間が渦を巻くように歪み始めていた。自分でも気づかなかったが、怒りが魔力となり、熱という形で既に滲み出ている。今止められなかったら、自分の意志とは関係なく……いや、思うが儘(殺人衝動)に暴れていたかもしれない。

「それは、ネフェルトと……我の役目だ」

 その答えに息を飲んだ。それはただの制止ではなく、精霊自身が立てた誓約を破棄するものを意味していた。

「ほう? 人間に対して不干渉を貫くのではなかったのか?」

「事情が変わった。貴様らの利己主義は人間社会の範疇を超え、自然や摂理、世界そのものをも侵した。貴様の行為は人間世界、自然双方をも壊す行為だ。もはや見過ごすことはできん」

 当然、マルコスが即座に噛みつくも、大精霊は毅然とした態度で反論した。黒い風の真実を聞かされ、容疑を擦り付けられようとする今なら、大精霊の言葉は正しく感じる。もはや精霊が沈黙を保つ時期は過ぎており、動かないわけにはいかない事態に直面している。

 そんな大精霊の意気込みを表すように、肌を伝う穏やかな春風が髪を水平に揺らすほどの強い横風に変わっていく。水平の彼方すら見えるほど晴れ渡っていた空は厚い雲に覆われ、足元から影が消え去った。

 そして時間が経つごとに輝きを増していく、ネフェルトから発せられる電流の発光。膨れ上がった魔力が、限界まで膨張した風船であり、破裂するその時を今か今かと待っている。まさに嵐の直前である。

「……ちょっと、いつまでかかってるのよ!!」

 その声は、マルコスと僧兵たちのさらに後ろから響き渡った。少しひしゃがれの入った女性の声であり、聞き覚えが若干だがある。その声に付随する記憶は、“不快”なものだった。

「も、モーザ、おばさま!?」

 僧兵の間をかき分け、この場の中心に出てきたひしゃがれ声の主は、ネフェルトにとって長年のお隣さんである、モーサだった。胴回りの貫禄と、撫でるだけと許した角を遠慮なくベタベタ触り続けれられた記憶はなかなか抜けきれない。

「なぜ……、あなたがここに」

 ネフェルトの動揺は、みんなの動揺と等しく、そもそも傭兵ですらない一般人のモーザがこの場にいること自体が理解不能である。加えて、『いつまでかかっているの』と、この場面の時間を気にするような発言は何なのか。

「この方はですね、協力者なのですよ。あなた方が霊峰に登ったと教えてくださったんです」

 下卑た笑いをさらに歪ませるマルコス。焦りと苛立ちが手に取るようにわかるモーサ。自分たちにとって敵と判断したマルコスに対する協力者ということは、自分たちにとっての裏切り者。

「どうして、そんなことを……」

 隣人の裏切りが解せないといったネフェルト。と、いいつつも、彼女を取り巻く魔力は臆して縮むことなく、むしろさらに膨れ上がり、抑えられなくなっている量は電流に加えて、冷気までもがにじみ出始めている。現にネフェルトの足元周囲には霜が発生し始めている。

「だ、だって、白い翼のフェザニスに、ホーンドよ! 買い手はたくさんいるんだもの! 仕方ないじゃない!!」

「「……………………は?」」

 沈黙の長さ、意味を介さない一言、すべてがネフェルトと同調した。同時にすべての謎が一気に解かれていく。

 いまさらになって思い出した。それは巡礼の旅での初めての夜、トールが話してくれたサイぺリア国の東側について。有翼族と有角族は人身売買の格好の商品だということを。モーザと初めて会った時、執拗に角に触れられたのも本物であることを確認するため。自分の懐に対するご利益のためだったのかと。

「ふっざけんじゃないわ!!! 何が仕方ないだ!! 誰が売り物だ! アタシはアンタの物じゃない!!」

 大精霊に止められたが、もはや関係がないとは言わせない事態だ。怒りによって自制が利かなくなっている。魔力が熱として排出され、ネフェルトが作った霜を溶かしている。

「ああ……だからなんですね……初めから私を狙って……だから時々鬱陶しいほど、うちの家を気にしていたんですね……!」

 それはネフェルトも同じであり、過去の様々な記憶がこの結末へと結びつき、紐解かれていく。彼女の怒りは冷気となって、こちらの熱に負けじと、水となったそばから氷柱が新しく生えていく。

「そうよ! 私がアンタ達に援助しなければ、アンタはここまで育たなかったわ! つまり、私がアンタを育てたのよ!」

 モーザの考えは、完全なる暴論でしかない。どのような援助があったのかは、ネフェルトしか知らないが、再会時や今の様子からしても要らぬ世話を焼き、必要以上に気をかけ、善意という断りづらい面を利用していたのだろう。

「そして、ようやくアンタを一人にできたと思ったら、とんだ邪魔が入ったわ!」

「……は? 一人、に、できた……? まさか…………まさか、父さんは」

 モーザが言葉を発するたびに一本、また一本と地面から氷柱が生える。すでに周りは見えておらず、自分たちの足元からも生え始めている。むしろ、怒りに我を忘れ、この臨界状態の魔力をいつ解き放ってもおかしくないのに、最後の真実を聞き届けるまではと、ネフェルトはギリギリの理性を保っている。

「そうよ、私が引きとめたのよ。アレク、慌てて帰っていったわ! 間に合わなかったけど。でも、ランシャも一緒に死んだって聞いた時は、ようやく天が私に味方したと思ったわ!!」

 その言葉が終わった瞬間、世界から音が消え、呼吸が止まり、時間が止まったかと思えるほど、体は衝撃を超えた言い知れぬ感覚に支配された。

『もう帰ってきてもいい時間なのに帰宅しない父』

『父が門の前で倒れており』

『突然黒い風が発生し、母の身体を通過しました』

『倒れ行く母を見ながら』

 ネフェルトの言葉が、次々と鮮明に思い出されていく。

(こいつ、わざと……!)

 加えて自分の手を汚さずにして、人を殺したのだ。偶発的とはいえ、二人亡くなっている。大切な仲間の大切な人たちが、外道の欲を満たすために。

 目が痛い。奥歯が痛い。愛刀を握る手が痛い。地面を踏み込む足が熱い。

「……けないで」

 他人である自分ですらこうなのに、当事者はどうなのだろうか。その答えに呼応するように曇天は黒天ともいうべきドス黒い雷雲に変わり果て、稲光が走るたびに耳の奥を震わせる轟音が鳴り響く。

「ふざけないで!! あなたの身勝手に私たち家族を振り回して……挙句に殺してっ……! 私たちが、何をしたっていうのよ!!」

 ネフェルトの怒号とともに視界すべてが白に染まり、鼓膜を引き裂かんばかりの落雷音によって、意識が持っていかれそうになる。

「ヒ、ヒャアアアアア!」

 恐らく狙ったであろうモーザは悲鳴を上げてその場に座り込むほど、まだ元気である。代わりにモーザとマルコスのそばに立っていた僧兵が二人、体中から湯気を発しながら地面に転がっていた。湯気はやがて冷気に充てられ、霜となって転がるものを覆いつくす。

(痛い……、でも……)

 たとえ、電流が鋭い痛みとなって体を駆け抜けても、冷気が肌を引き裂くほど強烈でも、彼女の心の痛みに比べれば全てが優しいほどだ。それを全員が感じているからこそ、誰も武器を片手に駆け出そうとせず、少しでも寄り添うように痛みを受け入れ、ネフェルトが役目を全うするその時を、もしくは協力を求めるその時を待っている。

「クッ……! 総員、密集隊形にて防御魔法術式を連結! 医務特化は負傷した者を優先せよ!」

 ネフェルトの放った雷撃は、魔法に対する防御魔法や強化魔法の上から、いともたやすく打ち貫き、マルコスの戦力予想をはるかに超えてきたのだろう。陣形を変えて防御密度を高めた行動に、それが表れていた。

 加えてこの場所は風の大精霊の御座、または聖域そのもの。支配者たる大精霊ラファールが彼女の心に寄り添うほど、加護の名のもとに雷鳴と稲光を激しくさせ、その容易さを底上げしていく。

 たとえ相手がどんなに魔法防御を強化し、術式に厚みを持たせたところで、今のネフェルトと風の大精霊の前にはチリ紙同然の薄さなのだ。

「ネフェルトよ、分かっているのか? 我々に手を出すということは、人権擁護法はおろか国家反逆の罪となるぞ!!」

 大精霊の加護があるとはいえ、たった一人から放たれる魔力(殺意)によって、圧倒的な戦力差が覆ろうととしている。そんな状況は面白くないどころか、顔を歪ませるほどの焦りに変わったマルコスは、苦し紛れともとれる痛々しい説得を試みてきた。

「……そんなの、どうでもいいです。どうせ、私含めて全員が極刑。よくて奴隷ってとこですか。そこに何の違いがありますか?」

 だが当然のごとく、マルコスの戯言はあっさりと一蹴され、ネフェルトの神経をさらに逆なでする結果となった。怒号が天雷を呼び、視界すべてが光に染まって、落雷音に混じってガラスが割れる音が聞こえる。一枚、また一枚と防御魔法が割れる音。

「ネフェさんの言う通りよ。だいたい、そっちが濡れ衣を被せてきたくせに、何を言ってんの」

 もとはと言えば、マルコス自身が一番初めにチームEO全体を指して罪人と言ってきたのだから、全員が待ち受ける運命が変わることはない。加えて、自分もネフェルト同様に人身売買の対象種族であるため、どのような結末をたどろうとも、解体処分か人権剥奪の道しか残されていない。その意思表示として、一度下げた愛刀を再びマルコスへ向けた。

「まったくだ、寝言は寝て言え。あと、てめぇと同じサイペリア国民ってだけで、反吐が出るんだが?」

 トールも愛用武器のバルディッシュを相手に向け、同意を示しつつ盛大に吐き捨てた。それは単なる同国民だからという嫌悪の表れだけではない。ルノアという東側の中でも種族間の繋がりが濃い街に生まれ、戦災孤児や元奴隷を従業員として雇い助ける家で育ち、傭兵として西も東も関係なく飛び回ってきたからこそ、彼の吐き捨てる嫌悪には限りなく高純度な侮蔑が含まれている。

「マル、コス……様」

 これまで真実に打ちひしがれ老木のように静かにたたずんでいたルカが、弱々しくも一歩また一歩と前に進み、再び自分と肩を並べた。

「聖サクリス教が、……教えが何なのか、何のためにあるのか、分からなくなり、ました。でも、……貴方が、許してはいけない悪であることは分かります!」

 紫水晶を思わせる瞳は零れんばかりの大粒の涙を抱えてはいるが、瞳には明らかな怒りと生気が宿り、目の前の悪を罰するための意思として、教会より支給された杖をマルコスに向けて構えた。

「……そういうわけだ。チームEOは、貴殿の発言に対し不服を申し上げ、全力で抵抗……いや、この場において徹底的に排除させてもらう」

 言葉を荒げる者を諫めるでもなく、武器を向ける者を咎めるでもなく、ダインは一団の長として静かに、だがはっきりと熱と圧と剣を持って総意(拒否)を言い渡した。

 ダインの拒絶宣言を総意と表現したが、明確な反抗と殲滅の意思は彼によってはじめて示された一個人の言葉である。

 だが、それに異を唱える者はおらず、むしろその言葉を開戦の狼煙(のろし)と判断して、自分とトールが先陣を切った。

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