3-8 黒き霊峰

 翌朝8時。皆、登山用の装備を整え、霊峰の登山口となるフェザーブルクの北端、霊峰フェザリールに登るためだけに設けられた街の門──霊峰門に集合していた。

 霊峰の足先とも言われるこの場所は、見上げれば眼前には巨大な塔とも見える山の姿が視界を覆い、天辺はすでに雲で見えない。

「今更なんだが、これを登るんだよな……」

 目の前にして、1週間前に登ったこの山岳地帯の傾斜が緩やかだと感じてしまうほど、ようやく霊峰の険しさを身に感じ、情けなくも軽く眩暈に襲われてしまった。

「うんまぁ……な」

 それはトールも同じらしく、少しうな垂れた感じだ。

「大丈夫ですよ。霊峰で山と空に対して敬意を表すために、私たちフェザニスも飛んで登ることを禁止されていました。なので、登山道はかなり整備されていたんです」

 登山道はほとんどが階段状になっていて、ある程度の高さまで登ると折り返して更に登るという、ジグザグに登るものであった。折り返しの踊り場となる段差には休憩所となる横穴が必ず掘られており、途中にもたまに横穴は空いているということだ。

 基本的には横穴に入って、アイスウォールを入口に展開してから壁を作り、黒い風をやり過ごす。ただし、これが出来ない場合はなるべく壁に張り付いてアイスウォールをドーム型で作ってやり過ごしながら、頂上を目指す。

 問題はネフェさんが紫髪のエクソシストと話していた時に言っていた、霊峰の封鎖状態についてだ。もうここが封鎖されてから数年は経っているらしく、その間に整備の手はほとんど入っていないと見ていいだろうと。

 登山口は現在、自治府の許可がないと入れないように巨大な鉄格子の門が設けられ、さらに格子の間から入れないように幾重にも鎖が網目状に這わせてある。

 門の両側には見張りの門番が立っており、手には剣や槍ではなく弓を持ち、背中には矢筒をを背負っている。これはこの門を越えて霊峰へ向かおうとするフェザニスたちを打ち落とすためのものらしい。

 どちらでも良かったのだが、なんとなく右の門番へ近づき、昨日貰った依頼書を見せた。

「話は窺っております。どうぞ」

 そういって門番は相方である反対側に立っている門番と目配せをし、それぞれの背後にあるレバーを動じに下げた。

 すると、ゴオン……ゴオン……門の隣に立てられた大きな支柱の中から、一定の間隔で響く音。それに合わせて門がゆっくりと開いていった。恐らくこの門の自動開閉を担う歯車が回る音なのだと理解した。

「貴方がたが通過した後に、この門は閉めさせていただきます。……どうか、ご武運を」

 街の保安上門を閉めることは理解できる。でもわざわざ言うということは、以前に何か問題があったのだろうか……。

 そうでなくても、入山後は後戻りを許されないような圧迫感ができるという部分もある。

 ここまで来て後戻りするわけにも行かない。

「分かりました。では」

 片道切符の死の行軍をはじめよう。

 天を貫く霊山へ一歩、また一歩と足を進めた。



 登山を開始してから2時間。現在は2合目と3合目の間。今のところは、まだ黒い風も吹くことなく順調に登っている。

 もちろんそんな順調がいつまでも続くことはない。

 ちょうど折り返しの踊り場に到達した時、ネフェさんの手首に付けられた探知の鈴が鳴り響きだした。まだ周囲には黒い風が来るような気配はなかったが、特殊術器である鈴を信じて、目の前の休憩用横穴へ駆け込んだ。

 登山道に設けられた踊り場には例外なく、休憩所を兼ねた横穴が空いている。休憩所はタイタニア以外の人種の成人男性が7~8人入れば窮屈と感じる程度の広さがあり、両側の壁には腰掛となる膝ぐらいまでの高さの石椅子が置かれ、俺たちなら快適に過ごせる場所だった。

 予定通りネフェさんが入口に向かってアイスウォールを放ち、氷の壁を作った。氷の壁は隙間無く、そして透明度の高い氷で作られており、登山道や崖下の景色もしっかりと見えるようになっている。

 それから1分後ぐらいすると、街の方から黒い風の到来を告げる金が鳴り響き、氷の壁の向こう側にいくつかの筋が通過するのが見えた。さらに1分後には、黒い風の本流のような強烈で黒の密度の濃い筋が何本も通過した。

 その間にもネフェさんの手首に巻かれている探知の鈴は風が近づくにつれて、比例するように大きな音を鳴らした。

「へぇ、ちゃんと鳴るんだね」

 ネフェさんの手首で鳴り響いている鈴を、カキョウがしげしげと見つめていた。

「そうですね。鳴り始めると、改めてこの鈴の術式の凄さが分かります」

 こういう小さな金属製品や宝飾品に複雑な魔術を込めることを魔術彫金と呼ぶ。魔術彫金にもいくつか種類があり、製品の裏側に直接魔方陣を掘り込むものや、金属そのものに魔術を埋め込むものがあるが、前者なら小さな金属への精密で正確な彫金能力が必要であり、後者は金属に対する知識や金属に見合った術式の組み上げ、調整などの技術が必要であるために、熟練の技が必要となる。

 範囲探知、探知範囲拡大、無音化、条件下における無音化解除、対象物接近による振動開始、接近距離による振動幅増減、これら6つの術式を綺麗に連結するための接続詞の合計7種類の魔術が、人差し指の指先から第一関節までの大きさ程度しかない鈴に込められているそうだ。

「一品に7つの魔術ねぇ。この小さな鈴だけで約60,000~70,000ベリオンってところかなー」

「見ただけで分かるのか?」

「見ただけというか、目安ってもんがあるから、歩きながら教えてやるさ」

 そういって、トールが氷の壁のほうを指差していた。黒い風はすっかり止み、ただの平穏な登山道へと戻っていた。

 気づいたネフェさんが長い杖で氷の壁をコツンと一回叩くと、そこから一気に放射状にヒビが入り、登山道のほうへ飛ぶように散らばった。散らばった氷は地面につくかつかないかぐらいの速さで解けていき、水分は空中へと消えていった。

 再び山頂へ歩き出し、トールが先ほどの続きを語ってくれた。

 魔術が込められた装飾品は商人ギルドによって、ある程度の相場が決められている。

 魔術1つに付き5,000ベリオン、そこに魔術彫金代、術式圧縮代、素材費を合計し、そこに売上として2割を上乗せする。

「んで、この探知の鈴は7つの魔術だから魔術費が35,000ベリオン。魔術彫金代と術式圧縮代は合わせてあることが多く、物の大きさにもよるけど大体10,000~20,000ベリオン。素材費は純度のいい金を使用しているけど、小さいから5,000ベリオンぐらい。

そして売上を上乗せすれば、大体そんな感じだな。

 といっても、これはあくまで市販用の価値計算だし、その鈴みたいに素材が一種類だけだから、この計算でいいだけ。これに石が入ってきたら、俺もさすがに分かんないね」

 トールが言う“石”とは、宝石のことだ。

 この世界の宝石は装飾するための飾り石だけではなく、マナが地中の成分と結合して結晶化した魔法物質である。魔力を流し込むと、流し込んだ魔力を増大させる魔力増幅器の効果がある。

 特に魔法や魔術、属性との相性がいい各種さまざまな色の宝石をつけると値段は跳ね上がるらしく、特に8大属性の純石と呼ばれる炎のルビー、光のダイヤモンド、水のアクアマリン、氷のサファイア、風のエメラルド、雷のペリドット、地のトパーズ、樹のアンバーはどんな大きさ、低純度であれ、最低価格が100,000ベリオンと言われているらしい。

 この8つの宝石はあくまでも8大属性を行使するにあたり最適の宝石というだけであって、それ以外の宝石や原石、天然石を利用してもいい。

「私のロッドの先には風と雷との相性がいい緑系天然石と水と氷用に青系天然石を埋め込んでいますね」

 特に自分の背丈を越す長さのロッドを使っている関係で、元々の素材費もそれなりにいい値段になるうえ、石も上等なものを選べば……と、青天井である。

 ルカの手に持っているワンドの先にも乳白色の天然石が埋め込まれている。

「そういや、アタシのこの子も刀身の素材に、石を粉末状にした奴を混ぜているはず」

 そう言ってカキョウが愛刀をほんの少し抜き出した。近くで見せてもらうと、刀身の背の部分には、うっすらと赤い粒子が見えなくもなかった。それぐらい、注意深く見ないと分からないほど、しっかりと刀身の素材になじんでいるように見える。

 俺とトールのはいわゆる既製品というやつで、探そうと思えばその辺りの店でも買える品である。

「俺も何か考えたほうがいいのだろうか……」

 何か、素の肉体強化系が刻まれた装飾品あたりか?

「今はまだいいんじゃないか? まぁ、まず歩き出そうか」

 そんな独り言のような小さな言葉に、トールが反応した。

 ただ、その反応は何か冷ややかな視線を持ち、こちらに何か言いたげな感じだ。

 トールが指差す外は、すでに黒い風もなくなっており、ネフェさんの持っている鈴も鳴り止んでいた。

 氷の壁を解いてもらい、周囲を確認するようにゆっくりと休憩所から身を乗り出した。

 周りの安全が確認できると、登山は鈴を持っているネフェさんが先頭を歩き、次にカキョウとルカ、俺とトールが殿を務める形で、改めて行軍を再開した。

 歩き出してすぐに「んで、さっきの話だけど」とトールから話しかけられた。

「そもそもさ。お前の場合、戦い方がそもそも攻撃的というわけじゃないよな」

 トールが言うに俺の動きは、大剣を薙ぐことで複数の対象を一度に攻撃することが主体とはなっているものの、実際は大きく薙ぐことで相手に距離を取らせ、接近させないことを目的とした動きだと。

 ただし、相手が巨人族(タイタニア)や大型生物なら話は変わる。

「その武器といい、出身といい、手合わせの相手は大方タイタニアだったんじゃないか?」

「分かるのか?」

「分かるというか、大型の相手なら打点も高くなるから、そんな握りの悪い武器でも“押せ”ば切り伏せられる。でも今は大型の相手ってのは少ないし、何より“引く”時にすっぽ抜ける可能性だってある」

 ちゃんと握れないということは、拳に力を込めることができないのと一緒であり、力も分散してしまう。

 今つけているグローブは、そういった抜けを軽減するために、手の平側はゴム製の素材で滑りにくくしてある。

「いいか? ちゃんと自分の身体と向き合うことって、戦士にとって見れば重要なことだ。

 ……無駄な矜持は仲間を殺すぞ」

 忠告だ。

 それは怒気も殺気ないが、とてつもなく冷ややかな言葉であり、身体の中心から冷えていくのを感じた。

 ルノアのトールの実家で長い鉄の棒を持った時、しっくりきていた。

 ……実際は、恐ろしいほどに。まるで元来の姿であると言わんばかりに。

 心のどこかでは分かっていた。

 でも、背けていた。

 認めたくなかった。

 受け入れたくなかった。

 自分が背負っているこの剣が、自分に合わない剣であり、自分のための剣ではないことに。

 それでもトールが言っていることは正しい。どんなに滑りにくいグローブをしていようと、完全に握りきることの出来ない以上は、指の開いた場所から滑りぬける可能性は大いに残る。

「そう……、だな。これが片付いたら、考えたい」

 口で認めようと、心では認めきれない。本音と建前なんていう次元の話ではない。

 一歩ずつ歩を進めることに、足元が崩れ去りそうになる。

 そんな自分の心にどんどん暗雲が広がっていこうとした時、後頭部に衝撃が走った。

 衝撃を与えてきたのは、横でクツクツと笑うトールだった。なぜか後頭部を鷲掴みされている。

「まぁ、気を落とすなって。その分、お前が努力してきたってのも分かる。てか、俺の手見てみろよ」

 そういって、トールは右手のグローブを半分ずらし、手の平の中心が見えるように、見せた。

 中心には何度も横にすれたような古い傷がいくつも入っていた。

 そして次は、右手を握り締めて見せた。

「俺って、狼のガルムスだけど、親父の血のせいなのか牙が短めで、爪が長いんだ」

 狼の牙獣族(ガルムス)は祖先となる狼の特徴を持ち、強靭な腱から繰り出される打撃と蹴撃を駆使した戦い方をする者が多い。一応、狼らしく、強靭な顎と牙も持ち合わせているが、二足歩行のヒト型となっている現代において、牙を使った戦い方は見苦しいものとして、ほとんど使われることは無くなった。

 そのことを思い出しながら、トールの見せてくれた右手の握りこぶしを見てみた。右手の指の先端は、全て中心の傷の位置に集結していた。

「恐らく親父は猫科が祖先の種族だったんだろう。ほら、爪見てみろよ」

 そういって今度は握りこぶしだった手をゆっくり解き、爪を見せてくれた。

 トールの爪は俺たち純人族(ホミノス)の爪のように肌の色が透けて見える柔らかい爪が少し長く、鋭利になっている状態だ。

 だがこの爪はあくまでも純人族(ホミノス)目線で鋭利な爪に見えて、純粋な猫科の牙獣族(ガルムス)たちからすれば、全然柔らかく、使い物にならない硬さであり、爪だけで戦闘すれば瞬く間に、爪は割れたり剥げたりしてしまうという。

「要するに俺って多種族から見れば純粋なガルムスに見えて、同種から見れば狼と猫科が半分ずつ入った半端者なんだ。

 で、話を戻すんだが、小さい頃は世話焼きの同種の客たちがいたんだ」

 その同種、つまり牙獣族(ガルムス)の中でも純粋な狼の者たちが5歳ぐらいのトールに色々教えようとしたらしい。

 しかし、彼の中途半端な爪のせいで、力の篭った握り拳をすると痛みが走り、うまく握れなかった。

『誇り高き狼の子なら、拳だろうが!』

 どんなに抵抗しても5歳の子供の力はでどうしようもならず、罵られながら無理やり握りこぶしをさせられ、手のひらは己が爪で傷つきり血が溢れた。

 そして終われば『よくやったな坊主!』と満足そうにする笑顔に、自分の住まいが客商売だと子供ながらも理解していたために、それが良い事だと信じ、母親には自分で怪我したと嘘と本当が混じった言葉で説明していた。

「だが、さすがにお袋も特定の客が来るたびに俺の手が傷だらけになるだろ? まー見事にお袋がブチ切れてな」

 それからは想像に難くなかった。大事な一人息子が、本人が嫌がるのを無視して、毎回傷を負っているのだから、あのヒトの堪忍袋の緒を切るに時間は掛からなかった。客であろうと家族を傷つけた奴は敵。問答無用で叩き出し、入店禁止、接触禁止を言い渡したそうだ。

 もちろん、相手側は『坊主のためにやってるんだ!』と、よくある善意の押し付けという無意識悪意全開で噛み付いてきたらしいが、それも『他人の口出し無用』『傷ついてまで得られる力が全てじゃない』と全面対抗。

 そんな状態で、相手方はとうとう『女がでしゃばるな』の最悪の一言を投げつけてきたもんだから、さー大変。ここは天下の歓楽街であり、女が主人公の晴れ舞台。その声を聞いた、キャストは言わずもがな。話を聞きつけた他店の子たちも眉間やこめかみに血管が浮き上がり、みな修羅の様相となった。

 その場は一応、相手側が女性陣の凄みに耐えかね、引いていったものの、トールの手にはしっかりと傷跡が残り、時間が経ちすぎていたのかすでに治療魔法での対処ができないものとなっていた。

 街の女帝に噛み付いた件と、彼女の息子に一生治らない傷を負わせたことで、その客は店どころか街にすら居れなくなったという。

「あんな店やってれば来る客も千差万別。いい客もいれば悪い客だっている。それに俺はもうこいつがいるから気にしていない」

 そういってトールは背中に担いでいたバルディッシュの収まっている皮袋を軽く小突き上げた。

 トールの手流血事件の後は、すでに店で働いていたオースンや他のスタッフたちが中心となって、武器を使った戦いかとを教えてくれた。

 オースンはウサギを祖先とする牙獣族(ガルムス)であり、自慢の脚力と聴力を生かした弓や投石などの“武器を使った”遠距離からの先手攻撃を得意としている。

 また、接近された時のための護身術も身に付けていたために、この護身術を中心にトールへの手ほどきをした。

 ここまで話を聞いている間に一つの疑問が起きた。

 トール自身は確かに自らの爪で攻撃する姿は見たことがない。

 が、一度だけ、自らの爪を武器として使った場面が一つだけあった。

「……! そういえば、森の研究所の地下で……!」

 キスカの森の中にあった洋館……実際は植物研究所だった建物の地下でエルフの女戦士と戦った時、俺たちが全身、蔦によって動けなくなった時に自分の指先をボロボロにしながら、ブラストネイルで全員の蔦を解いたのを思い出した。

 本来なら、あの魔法は武器に付与し、付与された武器を振りかぶったりすることで発生する気流の乱れを増幅し、無数のカマイタチか嵐を生み出すものだ。前者ならルカを助けたときにグローバスに放った無数の風の刃であり、植物研究所の地下でのは後者になる。

 しかし、あの時は腕を動かすことがほとんど出来ない状況だったので、辛うじて動かせた爪に無理やり付与し、指を動かした時に生まれた極小さな気流の乱れを増幅させて、嵐へと発展させたものだとようやく理解した。

 発生した気流の乱れなんてそこ手の周囲だけの物を、空間全体の蔦を引き剥がすだけの嵐を発生させるぐらいまでに無理やり増幅させたのだから、トールの身体にかかる負担は計り知れなかったはずだ。

「あー、バレた? あれは言わば、奥の手。そりゃーさっき説明したとおり、武器として使えば爪は剥がれるわ、指先ボロボロになるわで結構痛かったさ。だが、すぐに治してもらえたから、全然平気だし気にしてない」

 あっけらかんに言っているが、それは属性に対する種族的相性やら、魔術師の適正やらを抜きにしても、トールの精神的強さからなせるものだ。常人なら指先がボロボロになるだけで済まず、手首から先が消えてもおかしくはない。

 だからこその奥の手であり、あの場における賭けであり、彼は賭けに勝ったのだ。

「うんま、俺が言いたいのは、種族に囚われる必要はない。特に自分という存在が曖昧なら、なおさら。お前はお前なんだから」

 俺は俺。トールはトール。ヒトはヒト。

 極当たり前の言葉なのに、その言葉が身体を駆け巡り、満たし、まるで血が逆流してくるかのように、身体が熱くなっていく。

 それを理解しているからトールは自分の生き方を見出し、賭け時を見極め、在るがままの自己で立っていられるんだ。

「そうか……」

 自分は放逐された身であり、すでに国に縛られることのない“個”になったはずなのに、自分こそ国に、人種に、血に囚われている。

 多分、認めることは俺の過去を、俺自身を否定し、ものだと無意識に思っていたんだろう。

 むしろ過去を、俺自身を否定したくない“今”が存在し、過去が今につながっていることを感じているのかもしれない。

 隣を歩く男は、今を変えることが過去を否定することとは言っていない。

 過去があるから、今を良くする。

(俺に足りないのは、ただ踏み出す気持ち……)

 背中の剣は愛剣でありながら、愛剣とは程遠いもの。

 でも、使い慣れてきたの本当であり、俺の持つ事実。

「話は一気に戻すけど、その武器を別に捨てろとは言わんさ。せめて柄の部分だけでもそれより細いものへ改良できればいいんじゃないか」

 嗚呼、トールには本当に敵わない。

 確かに柄の部分さえ交換することができれば、俺はこの剣で戦い続けることができる。

 俺が俺のままと同じく、この剣が剣のまま装いを変えるだけなんだ。

「そうだな。ありがとう」

 感謝を口にすれば、再び頭をワシャワシャされた。



 次に黒い風の到来を告げたのは4合目で昼食を取り、進み始めた直後のことだった。

 今度も鈴が素早く反応してくれたおかげで、急いで引き返し、4合目の大きな踊り場に設けられた複数の休憩用横穴の一つに駆け込んだ。

 氷の壁の向こうでは、黒いインクのような筋が“登山道に沿って”降りていく。

「……ん?」

 それはまるで生き物のように、律儀にと言わんばかりの動きで降りていく。

 この踊り場は4合目という、大きな節目の踊り場であるために、広々と空間が取られている。 ただの風なら、通路を通ってきた風は障害物や新しい気流がない限り、折り返しなどせずそのまま真っ直ぐ進み、崖下へと降りていくはずだ。

 だがこの黒い風は、踊り場まで降りてくると最短の曲がり方をして折り返し、登山道沿いに下を目指す。3合目の時は話が弾んでいたので、外を見ていなかった。

「なんでしょう……黒い風って、とても律儀です、ね」

「いやぁ……律儀とは、違うと思うよ。なんていうか……生き物みたい」

 ルカとカキョウが言うように、この風はとても律儀に、そして生き物みたいに移動する。そう……黒い風の一筋ずつが、まるで群れを成した虫たちがにも見えはじめてきた。

「ですが、虫ではないんです……むしろ……虫であればどれだけ良かったか」

 虫であれば焼き殺すなり、殺虫系の毒霧を散布して一網打尽に出来るはずなのだ。

「ネフェさん……」

 だが相手は姿をつかむことができない風であり、尚且つ触れればこちらの死が待っている。

 むしろこうやって死そのモノが目の前を流れていくことに対し、恐怖しなければならないはずだが、この氷の壁のおかげでか、まだ恐怖を持たずに済んでいる。

「だからこそ、行きましょう。アレの正体を見に」

 氷の壁の向こうを見つめるネフェさんの眼は、ただ正体を暴きたいというより相手を見定めた後、この世から消し去りたいという今まで見たことのない怒気と殺意の篭った冷たい瞳だった。

 俺の中でネフェさんは、ただの頼れる年上の女性というより、人型をした完璧と勝利の具現体じゃないかというほど、人間味から少々かけ離れた存在に感じていた。

 だが、ルノアを出てからのネフェさんは、どこか暗く、それでいて俺たちが事実を知る度に悲しそうな表情を浮かべ、今は怒気と殺気を滲ませた、正に“人間らしい負の感情”を数多くするようになっている。

 だからこそ、嗚呼、この人も俺たちと同じなんだと、むしろ安心してしまった節がある。


──カサッ。

 

 黒い風が弱まってきたところで、耳の奥から何か聞こえてきた。

 耳にごみでも入ったのか、そんな気にしても仕方の無いような小さな音。


──カサッ。

 

 が、再び鳴った。

 おかしい。この穴に入った時には何もいなかったはず。

 だからこれは聞き間違いであって欲しい。


カサッ、カサカサッ。


 ああ、もう無理だ。それは何かの足音だと分かり、俺たち全員は振り返って穴の奥を見た。

 穴の奥にはここを掘ったときにできた岩盤の壁……の床に近い部分に、膝丈ぐらいの大きさの岩が一つ。

 その岩が小さくゆらゆらと揺れている。

 それを固唾を呑んで見つめながらも、じりじりと女性陣をかばう様に前に出る。

 揺れは徐々に大きくなり、ゴットン……と手前に倒れてきた。

 岩が鎮座していた場所の奥には、岩と同じ大きさの穴がぽっかり開いており、その中から足音の主が姿を現した。

「……ひ」

 交互に、しかしそれぞれバラバラに動く8本の足。

 その脚、身体を含めた全体に細かい毛が生え、闇に潜めながらも、赤く光る8つの点。

 それは穴よりわずかに小さいぐらい……純人族(ホミノス)の頭2個分という大きな蜘蛛だった。

 本来のソレらの大きさからすれば遥かに大きく、小さいからぼやけて見えていた姿は、大きさを伴って仔細な生態を押し出し、頭が醜悪と認識して、吐き気と全身の鳥肌を引き起こさせる。

「ひ、ヒギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 だが、それをもかき消す金切り声。

 こんな閉所で耳を劈くような大声を突然上げられると、それをこんな狭い洞窟内で、しかも入口も氷の壁で閉ざされている状況では、声の反響は完全に音による攻撃に近いものと言ってもいい。

 音波攻撃をするモンスターでも潜んでいたのかと思い急ぎ振り返ると、声の主は自分の背後にいる真紅の髪の少女──カキョウだった。

 目には涙を浮かべ、しゃがみこみ、俺のコートの裾を掴み、明らかにガタガタと身を震わしてうずくまっている。

「だ、大丈夫か!?」

 背負っている大剣をずらしてしゃがみこんでみれば、彼女は飛び込むように俺の胸の中に身を預け、すすり泣き始めた。

「ご、ごめ……!! あ……ア、アタシ、虫、駄目なの……!!」

 本人は駄目と言っているがこれはただの苦手とは明らかに違う。これまで見てきた凛々しくも、時折危なっかしい勇ましさが前に出ていた彼女とは程遠く、完全に恐怖によって心を支配されているただの力無き少女の姿だ。

「シャオラアアアアアアアアアア!!!」

 カキョウを抱きとめている間に、トールが頭に付いた耳を押さえながら蜘蛛の這い出す穴の前に倒れた岩を蹴り押し、元の塞がった状態へと戻した。穴を塞いだ時、半身を出していた蜘蛛がキシャァと声か身体が潰されたモノか分からない音を出し、真っ二つになっている。

 しかし、何匹かはすでに這い出しており、こちらへにじり寄ってきている。特に仲間の1匹を殺されたせいか、8つの瞳はその赤を紅へと変え、一心にこちらを見ている。

「アイスウォール!!」

 トールが後退した隙に、ネフェさんが蜘蛛との間に割り込むように氷の壁を展開させた。前後が氷の壁で塞がれたために、穴の中の気温がグッと下がり、顔など空気に触れている皮膚に痛みが走った。

「風も止んでますし、急いで出ましょう!」

 ネフェさんの言うとおり、入口側の氷の壁の向こうはすでに晴天の空とただの登山道だけとなっている。

 急ぎ入口側の氷の壁を解いてもらい、登山道を駆け上がった。その際に俺はうずくまっているカキョウを無理やり俵抱きで担ぎ上げた。

 それからは無我夢中で駆け上がったために、どれぐらい進んだのかわからなかったが、5合目ではないものの、休憩用の横穴の空いている小さめの踊り場に出たために、担いでいたカキョウを降ろした。

「あールカちゃん、悪いんだけど、耳治せる?」

 腰を下ろしていたトールは自分の耳を指差して見せた。

 牙獣族(ガルムス)は様々な動物を祖先としている種族であるために、元となっている動物の身体的特徴も受け継ぐ。

 トールの爪の話でもあったように、猫科の牙獣族(ガルムス)なら骨肉を切り裂くほどの鋭利な爪やしなやかな筋肉、犬科なら強靭な腱と優れた嗅覚、オースンのようなウサギ系なら強力な聴覚となる。

 元々動物は全体的に聴覚と嗅覚がヒトより優れていることが確認されているために、先述の種族的特徴とは別に牙獣族(ガルムス)は動物と同様に他種族に比べて聴覚と嗅覚が優れている。

 俺でも先ほどのカキョウの叫び声に耳鳴りをしていたために、俺たちより聴覚のいいトールにとっては本当に音波攻撃だったはずだ。実際、今もダメージが残っているということだ。

「は、はい! く、クリアーノイズ」

 頼まれたルカはしゃがみこむトールの前に膝をつき、彼の両耳に手をかざした。

 回復魔法のヒールと同じ淡い緑色の光が、トールの耳を包み込んだ。クリアーノイズは、超音波など聴覚に与えられた異常やダメージを取り除く医療系魔法の一つである。特殊な異常だけでなく、単純な耳鳴りや外耳炎といった鼓膜から外側に発生する日常的な耳の軽い疾患にも対応している。

 10秒ほどでかざした手を下ろすと、小さく「どう、でしょう……?」と自信なさそうに聞いていた。

「おう、ばっちり。ありがとな。もっと自信持っていいんだぞ?」

「あ……はい」

 褒められたのが嬉しかったのか、ルカの表情は柔らかく前よりもしっかりと笑みだと分かる表情になったと思った。

 それはとても良い事なのだが、今はそれ以上の問題について確認しなければいけなかった。

「カキョウ」

 しゃがみこんでいた彼女に声をかけると驚いたのか、それとも何かに恐れたのか、一瞬肩を跳ねさせ、居心地の悪そうな顔でこちらを見上げてきた。

「さっきは大声を出して、ごめんなさい」

「……聞かせてくれるな?」

 あれだけ叫び、拒絶したのだから、それなりに大きな事情を抱えているのは明白であり、カキョウは数秒ほど押し黙ったが、明らかに沈んだ声でゆっくりと語り始めた。

「…………昔、魔法が使えないことを理由にいじめられてて……」

 幼少の頃に母を無くし、すぐに継母が家に入ったことで、継母がすぐに入ったという事実だけが一人歩きし、周りの大人からは『置いていかれた可哀相な子』という目で見られていた。

 問題は、そのことを端で聞いていた子供たちのほうだった。

 母の死はいつの間にか消え去り、置いていかれた可哀相な子はやがて、炎の魔法が使えないから捨てられた子と置き換えられ、成長速度の遅い角も相まって欠陥児、異常者として見下されるようになった。

 特に子供は自分たちとは異なるものを嫌い、見下し、排除もしくは支配しようとする心がある。これがやがてイジメという形で物理的に発現するようになった。罵られる、泥や石を投げられる、物を隠されたり、奪われたり、壊されたりは当たり前であった。

 その中で、この虫に対する絶対的恐怖感が生まれた事件が起きた。

 いつものようにイジメっこたちに呼び出された。場所は少し土の柔らかい畑の一角。そこには見るからに落とし穴ですと雑に隠してあった穴があり、自分よりも年上で体格のいい地域のガキ大将的存在によって突き落とされた。

 穴は思いのほか深く、当時10歳ぐらいの背丈では自力で這い上がれないほどの高さだった。 そんな深さの穴に無理やり落とされたために脚をくじき、完全に身動きが取れない状態になっていた。

 そんな状況を嬉々と笑ったガキ大将は「コドクだーー!!」と叫び……、

「穴の中に大小様々な成虫、幼虫、蛇、ミミズ、タニシ、カエル。子供の手でかき集めれるだけのあらゆる気持ちの悪い生物たちをバケツ数杯分投げ入れてきたんだ」

 彼らが言ったコドクは蠱毒という文字であり、本来は様々な毒虫や毒蛇、毒蛙などを壷の中に入れ、共食いをさせた後に勝ち残った一匹を強者として崇め奉り神霊へと昇華させ、それを呪詛の素材に用いることで強力な呪詛を作り上げる禁術の一つである。

 が、先のとおり蠱毒は呪詛の素材を作る方法であり、彼らは虫責めのことを新しく知った言葉を使いたいという子供らしい感性を持って、色々と置き換えたようだ。

 だが、お前なんて共食いと一緒に食われてしまえという真意が含まれるのなら……と思うと、子供の無邪気と、加減を知らなさによって殺される可能性もあったわけだ。

 因みにこの事件は周りの大人たちも、子供たちが桑やバケツ、梯子といった道具を持ち寄って、畑の一角で何かせっせと一生懸命に穴を掘っているのは見ていたので気にかけており、時間の空いていた老人たちが一部始終を見ていたために、すぐに大人たちによって助け出された。

 幸い、死にいたるような毒を持った生き物は入っていなかったものの、部分麻痺やミミズ腫れ、炎症等を起していた為に、街の医者の下へ担ぎ込まれ、治療を受けた。

「それ以来……特に虫がダメになったの」

 話している間に、彼女も落ち着きを取り戻したようで、雰囲気も口調も俺が知っている彼女のものへ戻っていた。

 いや、実際は俺たちが知る“表のカキョウ”に戻っただけ。

 俺の中では突然露られた裏というか、“本来の彼女”にまだ戸惑いを覚えている。

 抱きとめて分かった、彼女の肩の小ささ。

 隣で座っていた時よりも遥かに小さかった。

「いや、それ駄目になったとか言う話じゃないよね!?」

 トールの言うとおりだ。それはただ単に駄目になったと片付けていい話ではない。

 今回は不意と閉所という場面だったから、彼女の恐怖心も増幅させられたのかもしれないが、この先でも、同じように虫等のモンスターが現れた時に、彼女はまともに対峙できるだろうか?

「あーーー、えーっとー、外の言葉で言う馬虎?」

 ああ、そうやってもう平気というような顔し、はぐらかそうとする。

 違うだろ。そんな重大なことを何故今まで黙っていたんだ?

「トラウマだ。……カキョウ、誤魔化さずに言え。どれぐらい辛いんだ?」

 単純に苦手というレベルなら俺たちが盾になればいい話しだが、先ほどの彼女の反応と過去の内容を聞く限り、盾にすらなれない。

 特定の敵に対して完全に身動きが取れなくなるのは、単純な戦力低下以上に不味い状態であり、今から先の行動にも大きく関わってくる。

 特にリーダーという大役を仰せつかったという重荷も乗っかり、俺は確実に焦っていた。

 しかもこれから死地に向かうこんな場面でという気持ちも乗っかったために、燻っていた焦りが彼女に対する怒りへと変ってしまってきている。

 その怒りは恐らく目に見えるような形で、顔に現れたのだろう。カキョウは俺に向けていた視線を咄嗟に下げ、まるで見たくもないようなそぶりを見せた。

「どれぐらいって……………………。じ、事前にここは出やすい地域ですとか言われてたら、ちゃんと身構えれるし、面と向かっても大丈夫。でも、あんな不意打ちで、逃げ場がない状況だと……」

 ゆっくりと答えた彼女の声は、再び泣いているかのような震えが混じり答えてくれた。

 だが、それが余計に癇に障った。

「ああやって、混乱状態に陥ると?」

「うん……」

 何がしおらしく「うん」だ。

 行動不能で思考停止まで陥る事態となれば、こちらも身の振り方を考えなければいけない。

「………………分かった。なら、カキョウは引き返せ」

「は!? なんで!」

 彼女の反応は、コレまでの彼女の行動など見ていれば当然とであり、分かりきっていた。

 だが、目の前に起きている問題は彼女が思っている以上に大きな事態になろうとしていることに気づいていない。俺自身もつい先ほど、彼女をここで降ろすまでは気づいていなかった。

「アレを見ろ」

 そう言って自分が指差した先には、奇妙な物体があった。

 カキョウを抱えて登っている最中から、視界の端に写っていた蜘蛛の糸を幾重にも織り重ねて作られたような球体状の物。

 4合目ぐらいまでは一切見なかったものだが、上方の登山道を見ると同じような物体が1つ、山肌側に鎮座している。

「俺はアレが、先ほどの蜘蛛の卵であり、山頂に近づくほど増えると考えている」

 彼女は指差された先に視線を送り、その球体を見て青ざめた。

 それが何なのかを理解しただけでも、俺から見て青ざめ絶句するほどの恐怖を持っているのだから、彼女の中に蔓延る恐怖心は根深いものだと考える。

「しかも俺たちはまだあの蜘蛛に襲われたわけでもないのに、こちらの自衛のために1匹の命を奪っていて、尚且つ数匹は氷の壁に閉じ込めてしまっている。蜘蛛に知性があるかは分からないが、状況としてはこちらが一方的に攻撃している状態だ。

 俺たちは襲われるに値する理由がある。攻撃される危険性が上がっている状況で、いつ、どんな状況で次に遭遇するのかも分からないんだ。

 情報があるからといっても、不意打ちされたのなら先ほどみたいにガタガタ震えて身動き取れなくなるんじゃないのか?」

「……………」

 否定も肯定もない沈黙が重くのしかかる。

 彼女から一向に出てこないある言葉。

 そのたった一言がほしいだけなのに何故、頑なに言わない?

「いいか、俺たちは一人ひとりで戦ってるんじゃ!」

「……ダイン、もういい加減に落ち着け」

 トールの声に現実に戻ってみれば、俺とカキョウの周りにはとてつもなく重苦しい雰囲気が漂い、3人の表情が一様に険しいものとなっている。それはどちらを攻めているのか分からないが、原因は俺たちに……いや、俺にあるんだ。

 俺だってやり過ぎているのは分かっているものの、自分でも訳の分からない感情で抑えることができなくなりつつあった。それは後にしてみれば、救いの手とも言うべき引止めだった。

「あのな、普通なら大きくても精々手の平サイズの生き物が突然、何十倍の大きさになって現れたら誰だって気持ち悪く思うし、びっくりするし、腰が抜ける奴だっている。

 カキョウちゃんがたまたま虫に対する大きなトラウマがあっただけなんだから、俺たちがフォローすればいい話だ。違うか?」

 そんなことは分かっているんだ。俺だって、あんな大きな虫は見たことないし、その四肢やはっきりと見て取れる全身の毛、ぎょろりとこちらを見る8個の眼。鳥肌物だった。蜘蛛どもの足音がまだ残っているんじゃないかと思うほど、耳の奥が気持ち悪い。

 だが、理解して欲しいのだ。

「違わない。だが、彼女は貴重な前衛であり戦力だ。なのに前衛の人数が減り、俺たち2人で女性3人を守るのは数的に無理が生じるだろう」

 俺は彼女を一人の前衛として、背中を預ける存在として、大きな戦力としてみている。

 正直、彼女の存在はかなり大きく、ただの戦力という言葉では推し量ることは出来ない。

 だからこそ、彼女の損失は重大であり、本当にパーティを瓦解させかねない事態なのだ。

 しかもこの件は今後も残る課題であるために、今出来ることをしようとしているだけなのだ。

「お前の言ってることはもっともだし、リーダーとして最善の判断だと思う。“普通なら”な」

 トールの引止めの手が肩ではなく、鎧の隙間に当たる二の腕をつかんでいる。それが彼の言葉一つずつ積み重ねるごとに、握る強さを増してきている。それはトールの実家で肩を掴まれた時と同じかそれ以上の力であり、やがて食い込む爪の痛みに、俺の頭は少しずつ冷えていった。

 だからこそ、トールの言葉がゆっくりとはっきりと身体の中に染み渡る。

「俺たちは鈴があるからこれまで黒い風を回避できてたんだぞ? ここで彼女だけに引き返せって、カキョウちゃんに“死ね”って言ってるのと同じだって、分かってないだろうが!」

 一瞬、世界が無音になり、トールの言葉が身体の芯を凍りつくした。

 今、何事も無く登山ができているのも、ネフェさんが持っている鈴と魔法のおかげであり、それが無くなれば黒い風の到来を知る手段はなくなる。

 黒い風の到来を告げる街の鐘も聞こえなくはないが、すでに下界となって距離の離れた鐘の音は遠くから鳴っている状態であり、鐘の音が聞こえた頃には自分たちの居る位置ではすでに黒い風が通過している最中がほとんどである。

 そう、俺は彼女に、遠まわしに死ねと告げていた事実に、今、はっきりと理解した。

「あ、あ……か、カキョウ、すまな……」

 もちろん、俺にそんなつもりはない。彼女に死んでなんか欲しくない。

 むしろ生きていて欲しいから叫んでいたのに、実際は死の命令を下しているようなものだ。

「大丈夫。ダインの判断は正しいから」

 それは言葉を言い切る前に遮られ、俺の今までの暴走を肯定してきた。

 先ほど食べた昼食が上がってきそうになっている。

 俺の中に彼女に対する冷酷な言葉が反芻し、それを是と答える彼女がそこにいる。

 今、自分がどんな表情をしているのかが分からなかったが、トールは俺の顔を見て、もういいだろうと言わんばかりに掴んでいた手を離し、ルカに治癒するように頼んだ。

 だが、今は受けたくなかったので、やんわりと断った。今はこの痛みだけが、俺を現実に繋ぎ止めている。

「少なくともこの山には大型の虫型モンスターがいる。カキョウちゃんもそれが分かれば不意打ちされない限りは戦えるんだな?」

 トールに問われれば、カキョウは下げていた頭をゆっくり、じんわりと上げた。

 そこにあった顔は生気など無く、見開かれた瞳からは感情の発露が一切ない、まるで人形のような不気味さを出している。

「……戦える。もう居るって分かってるんだ。……次は……ちゃんと、殺すから」

 言わせてしまったのは俺なのだ。

 そんな顔をさせたのも俺なのだ。

「ん、了解。だけど、また同じような状況になっても守りきれる保証はない。いいな?」

「それでいい。動けなくなったら、そのときは“そのとき”でいいから」

 そのときはそのときでいい……。曖昧に濁された言葉でありながら、意味ははっきりと“状況によっては切り捨てて構わない”と伝わってくる。

 それが一番嫌なのだ。そんな状況が一番見たくないのだ。

 そんな顔をして欲しくないのだ。

 俺はただ……カキョウを『**たかった』だけなのだ。

 腹の底で燻っているとても小さな感情が、少しずつ体感できるような大きさになりつつある。

 なのに分からない。判らない。解らない。

 得体の知れない感情と冷え切った心の底を抱えながら、歩みを戻さざる得なかった。



◇◆◇



 今日の彼は今までと違っていた。

 何が原因かは、なんとなく分かっている。

 彼はこの集団の長になり、判断を下す決裁者になった。だから変わった。

 今まで見たことのないような口数の多さに、こちらに向けられる圧に、正当なる理由に、もう何も言えなくなっていた。

 彼の言葉は明らかなる戦力外通告。

 分かっている。理解している。だって彼はこの集団の長となったのだから、集団の生存率をあげるための最善の結論を用意しなければならない立場であり、自分が完全なる足手まといだということも。

 これが炎を扱えていたのなら、どれだけ違っただろうか?

 ここで戦力外を受けることもなく、火だって血を使わずに自分で熾せ、いじめられることもなく、虫に対して拒絶反応をすることもなかった。

 無理を押し通してここまで来てしまったが、現状そのものがすでに足手まといである。

 この悪化した空気だって、原因はアタシなんだ。

 あそこで素直に引き返していればよかったのだろうけど、アタシ一人で安穏な場所でみんなの帰りを待つなんて嫌だ。ここまで一緒に来て、一人置いていかれるのは嫌だ。

 別に彼から山を降りろと言われた時、死ねと言われているとは考えもしていなかった。その点はアタシもトールに言われて初めて気づいたので、本当に問題はない。

 とにかく、自分にとっては迫った死より、戦力外として捨てられるほうが怖かった。

(だって……そのためにずっとがんばってきたのに)

 放逐するのを前提として、いつ放逐してもいいように育てられた過去に、体中の傷。

 なのに、放逐された先でこんな失態をしたのでは、今までの自分の過去の、傷たちの意味がない。

 だからこそ、自分にとって虫とは天敵であり、この世からいなくなって欲しい存在なのだ。駆逐するべき対象なのだ。

 アタシがアタシでいるために。

 アタシがここにいるために。

 証明しなければならない。

 右手が自然と刀の柄を撫でる。

 いつの頃からか分からないが、気づいた時には腰に挿した竹刀や木刀をこのように撫でていた。

 この子はアタシがアタシでいれる唯一の証。この子がいれば、アタシは戦える……。

「カキョウさん」

 進行方向を軽く見上げれば、先導で少し先を歩いていたネフェさんがこちらに視線をやっていた。それは悲壮とも、憐れみとも分からない、少しクシャリとした表情だった。

 一応、呼ばれたので歩く位置をネフェさんのそばまで合わせた。

「気を落とさないでください。ダインさんは、貴女のことを想って厳しい言葉になってしまっただけですよ。……彼も、色々と気を張りすぎて、余裕がないですからね」

「……はい」

 分かっているんだ。彼にも余裕がないことぐらい。

 この小さな集団の長というのは、ママゴトのような名ばかりのものではなく、行動指針から命のやり取りまでの全てが彼の最終判断によって決定され、その重責を背負う。

 だから彼も慎重になるのも分かるし、集団全体のことを考えた決断だったことも。

 その重責に必死に耐えようとしていることも。

 でもね……自分の中にはどうしても受け入れることの出来ないことがある。

 戦力外を受けた時点で、アタシの存在理由が無くなる。

 自負とかそういう問題の話ではなく、この身に持った戦える自分があるから、今ここに立っていられるんだ。

 ただでさえ、角が短くて、魔力もスッカラカンで炎も出せない。

 この傷物の身体と戦いしか能がない自分には、もう残されているモノは少なすぎるのだ。

 だからこそ……アタシから戦いを奪う存在を排除する。

 あの時のアレは不覚なんてものではない。ただの汚点だ。恥ずべき弱点だ。消さなければいけない欠点だ。

「だい、丈夫ですよ……次は、ちゃんとヤりますから」

 アレにあるのは恐怖ではない。心の底から湧き上がる憎悪。

 排除したい、駆逐したい、殲滅したい。

 様々な虫が自然を育む役割を持っているのは理解している。

 様々な虫が無害であることを分かってはいる。

 それでも……虫は、アタシの存在そのものを脅かす相容れぬものなのだ。

 アタシから存在意義を、居場所を奪わせない……。

「カキョウさんっ」

 急に腕を引かれ、立ち止まる形になってしまった。細身であるネフェさんからは想像できないほどの握力。痛いとは思わないが、立ち止まらずにはいられないほどの熱量。

 先ほどと同じように名前を呼ばれたが、声音が明らかに違う。

 静かに、でも力強く、ある意味怒っているようで、ある意味悔しがっているような、そんな目に力の篭った表情をしている。

「私は所謂“後衛”と呼ばれるポジショ……立ち位置です。魔法はどんなに小さく簡単なものでも、魔法を発動し終えるまではその行動に意識を集中しないといけません。その間は、ほとんど身動きが取れません」

 どんな小さく、簡単な魔法でも、完全なる結果として吐き出されるまでは不完全なものであり、傷を受けたりして集中が途切れると魔法が完成せず、失敗に終わる。

 もちろん、傷程度では集中が途切れないという強い精神力の持ち主や、薬物や他の魔法によって痛みを一時的に無効化して集中を途切れさせない方法も存在するために、近年では魔法の失敗率は下がってきている。

 しかし、薬物の中毒性や長期服用等による薬物抵抗性上昇、他の魔法を使用する余計な負担等を考えると、従来の素のまま集中する形式が良いという認識が今でも主流である。

「カキョウさんをはじめ、前衛の方々が守ってくださるから、私は私の戦い方ができるんです。でも、私の戦い方って前衛に守られていないと本当に何も出来ないんです」

 そういってネフェルトは自分の身体を見渡していた。

 長大な杖に、魔法が使えなければ意味の無い、地肌たっぷりの薄着。

 身に着けるあらゆるモノが“魔法”を扱うことに特化しており、逆に直接攻撃性や防御性を切り捨てた物たちばかりだ。つまり、“魔法”が使えなくなる状況は、ネフェさんにとって命の危険にも直結する最悪の状態である。

 だからこそ、自分で管理できる危険性の排除は最早、日常的な行動であると同時に、自分を守るための最大限にして最終手段でもある。

 そういう点では、こうやって前衛がちゃんといて、自分を守ってくれる集団に入れている分は、大いに楽をさせてもらっていると、彼女は語った。

「あ、あの……」

 視界の隅でゆったりと動く影。ルカが胸ぐらいの位置まで手を上げて、まるで発言権を求めるような仕草をしている。

 そんな必要はないのにと思いながら、彼女の言葉を聴くために振り向いた。

「わ、私も同じです。私はプリーストを目指しているので、あのエクソシストさんみたいに戦いながら、誰かを癒すことができません……」

 ルカはシスターと言う教会に属する者の名称を持っており、自分たちの旅の一番根っこの部分に当たる護衛対象であるが、実際はどんな役割を持っているのかはよく知らないのだ。

 そもそもコウエン国には自国の国教が存在し、鎖国を繰り返すような国家であるために、外部からの文化の流入があまりないために、教会と通称される聖サクリス教についてはほとんど知らなかった。ダインやトールの国では聖サクリス教が広く布教されているために、皆は特に疑問視することもなく当たり前の常識であるために、誰かに聞いたりすることも無い。

 なので、改めて聞いてみた。

 ルカの立ち位置は教会に所属する信徒(クレリック)であり、中でも女性信徒を意味するシスターである。ちなみに男性信徒はブラザーと呼ぶ。

 さらにその信徒(クレリック)でも“癒し手見習い”と呼ばれる者である。

 癒し手は傷の回復や解毒など、医療系統の魔法習得に特化した者を意味し、教会が最も多く抱えている分野の人々である。

 実はルカを含めた教会所属の癒し手は医学的知識については軽く持っている、もしくはまったく持っていないという状況であり、治療行為は完全に魔法でのみ行う。そのために一部の批判的な者たちからは“似非”“俄”“偽物”等と揶揄、もしくは罵倒されることもあり、医学を学んだ本職の者たちから軽蔑されることもある。

 とは言っても、癒し手と本職の医者とはかけ離れた存在である。癒し手は魔法によって自己治癒能力と免疫力向上を促進、もしくは補強による超高速回復現象を起して表面的な傷や疾患、疲労の治療を行う者である。古い言葉に表すなら外科学と呼ばれていた医学分野の一つだったが、それを魔法で補えてしまえるようになった。

 反対の言葉に内科学と呼ばれる内蔵に関係する疾患や病に対する治療することを現在は医者や本職と呼んでいる。本職の中には教会に一度入り、癒し手と同じく医療系統の魔法も学んでから再度独立したりして、自分たちの仕事に役立てる人たちが数多く居る。逆に本職から教会関係者へ完全転換する人もいる。

 先述した“癒し手見習い”とは、この医療系統魔法の使い手となることを目指している信徒(クレリック)を指す。

 癒し手見習いの信徒は、巡礼の旅を終えると司祭(プリースト)へと昇格することができる。

 昇格すると教会内での地位向上以外に、総本山である聖都アポリスへの移住を許されたり、地方教会の長もしくは副長に就任できる資格を取得できたり、総本山内でしか習得できない教会内秘伝の高位魔法の習得権などがある。

 巡礼の旅に出れる信徒は、季節毎に世界各地に散らばる各教会から信徒の推薦を受け付け、総本山で厳正な審査を経た後に、巡礼の旅へ出る資格を与える流れである。

 旅への許可は1季節ごとに1人が選出されるかどうかであり、許可が下りた時点で信徒としてはかなり名誉なことである。また、巡礼の旅を終えた暁には、更なる栄誉が待ち構えている。

 長くはなったが、ルカという人物は将来有望な癒し手の卵であり、総本山側も一目を置いている人物であるということが窺える。

 逆に“癒し手に特化”しているということは、戦闘面を大きく捨て医療系統魔法の習得に精を伸ばしてきた証でもある。

 癒すことしか出来ないと言っても、その場で治癒し、再び動けるように出来ること自体が“凄い”ことなのだが、この世界では彼女のような癒しに特化、もしくは少しかじっているヒトが当たり前のようにいるので、凄さが霞んでしまっているが。

 つまり、ネフェさんと同様にルカも生粋の“後衛”であり、前衛によって守られることを前提とした動きしか出来ない。

 だがそれが彼女の選んだ“戦い方”なんだ。

 ネフェさんやルカさんの戦い方を否定するつもりは無い。

 むしろ二人のような前衛同士の背中を預けるとは違った“戦術として背中を預けれる存在”は、前衛にとって心強いなんて言葉で片付けれるものではない。日頃から、言い尽くせないほどの感謝ばかりである。

 でも違う。あの時、アタシは完全に無防備な状態だった。

 言葉を並べられても、逆に明白になっていく自分の落ち度。前衛どころか戦士失格。心の弱い自分が悪い。仲間がいなければ、そのまま死んでいてもおかしくないのだ。

 そして心配されているのを理解しながら、心が全否定しようとする。

「カキョウさん……、もう少し周りを頼ってください。

 ヒトにはできないことがあって当たり前なんです。怖いものだってあります。カキョウさん一人が動けなくなったからって、本当は慌てる必要はないんです。その分、私が防御系統の魔法を多く使ったりして工夫すれば良いだけの話なんです」

「そう、です。たまには立ち止まって、頼ってください。私やネフェさんや……ダインさんにトールさんも」

 みんなの名前が出たから、みんなの顔を見てしまう。

 心配そうに見つめるルカにネフェさん、苦笑しているトール。気まずそうにしているダイン。

 嗚呼、みんな勘違いしている。

 アタシの悩みは、根本的に違うんだ。

これは、ただのトラウマではないんだ。

 これは、頼ってはいけないものなんだ。

 これは…………理解されないものなんだね。

 ……やっぱり嫌いだ。こんな半人前以下の身体も、心も。

「……分か、った。今度は、頼るかも。そのときは……」

 でも言うしかない。この場で臨まれる言葉を。

 でも最後まで言い切ることは出来なかった。

 だって、言ってしまえば、自分は役立たずという烙印を自分で押さなければいけないということだから。

 でも、皆はこの言葉だけでも十分望む答えを得られたようで、自分以外の空気は一応和らぎ、再び歩みだした。

 自分はこの晴れない心を引きずりながら……。



◇◆◇



「……分か、った。今度は、頼るかも。そのときは……」

 彼女から最後に出てきた言葉は歯切れが悪く、その言葉に本意が乗っかってきていないのは、全員が分かっている。

 だが、言わせてしまった以上はこちらからも手打ちということで、それ以上の追求も言葉も出なかった。

 だからこそ、再び歩き出した空気は少し軽くなったものの、次の出来事が起きるまでに誰一人しゃべる事はなかった。

 俺自身の気持ちも少し落ち着いてきて、ようやく自分なりの整理をつけることが出来始めた。

 俺は恐らく彼女に対して一種の最強幻想を抱いていただろう。

 彼女は、魔法が使えないハンデを十二分に埋めるだけの技量を持っていて、料理もでき、種族的なハンデを背負いながら見知らぬ土地でも明るく立派に立って突き進む姿が、俺にとっては見習うべき理想体だったのかもしれない。

 だからこそ、彼女の見せた姿は衝撃なものであり、勝手に抱いた幻想が崩れただった。

 でも、それで良かったのだ。

 何もかもが出来る完璧超人ではない。

 彼女だってヒトなのだから、弱点ぐらい有って当然なのだ。

 それが今回、露になっただけで俺は焦る必要もなんてなかったのだ。

 今更取り繕ったところで、過去の醜態を取り消すことは出来ない。今の俺に出来ることは、彼女が同じ状態に陥ってしまったとき、全力で守るだけなのだ。

 その答えに行き着いた途端、心の底が軽くなり、同時に何かで満たされていく感覚が起きた。

(ああ、そうか……俺はまだ“頼って”もらえる可能性があるんだな)

 一言で言うなら、安堵。

 だが、一言で纏めてしまってよい感情は存在しない。あくまでも大まかにくくっただけであり、自分はその感情から眼を背けているのかもしれない。

 現に、それ以上の気持ちに到達する前に、次のことへ意識が向き始めるのだ。

 そして今回も心に生まれた新しい感情を押し込めて、彼女の背を見ながら山頂を目指すのだ。

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