第1章 始まりは、春風と潮風と

1ー1 外の世界は荒れ模様

 一度だけ、お屋敷を抜け出したときがあった。

 あの日からそう経ってもいない、同じ雨降りの日。空は薄暗く、やはり昼間なのに夕方のような明るさ。雨のカーテンが無慈悲に体温を奪っていく。

 一応、布団のシーツに使われていた白かった布を羽織っていたが、雨水を吸ってベージュ色になり果て、濡れた布は小さな体には重くのしかかった。

 行き先は、先日の棺桶が運ばれていった先。町の東にある土地神様を祭った教会だった。

 この国は海を隔てた大国の宗教がまだ馴染みないため、町にある大きな教会は土地神である大地と繁栄の大精霊「サルトゥス」を祀っている。

 そんな、とても古く、由緒正しい教会の裏にあるお墓たち。かつての人々が眠る場所。

 多くの墓石が並んだが、唯一真新しく、そして花の添えられた墓があった。

 近づいてみると、目星の名前が刻まれていた。

 この名前は、こうして墓に刻まれることによって、名前からかつて名前だったモノ、記号なんかに切り替わってしまう。その人がいた証として。

「ここにおられましたか」

 いつも後ろに立っていた男は、今日も後ろにいた。

 激しさを増す雨音に足音はかき消され、付けられていたことすら気づかなかった。

「僕は……過去なのでしょうか?」

 特別な名前が刻まれた墓から目を離すことができない。そこから目を離すことは、前も今もこれからも、永遠に自分という存在が否定されてしまう気がした。

 目が熱い。でもすぐ下の頬は突き刺さる冷たさをしている。

「いいえ、あなたは未来です。間違いなく、我々過ぎ行くものの希望です」

 暖かかった。

 互いに濡れた服同士で、肌は冷たくなっていたはずなのに、どうも暖かかった。

 体をすっぽりと包んだ大人の腕は、力が抜けそうな体をやさしく支えてくれた。

「さぁ……帰りましょう」

 雨は強くなり、少年の顔には雨なのか何なのか分からない筋がたくさんでき、雨音にかき消される声はかれるまで続いた。



 ぐらん……

 まるでゆっくり起こされるように、体を優しく揺さぶられる。

「今度は続きか……」

 本当に誕生日となれば、あの日の思い出を夢で再確認する毎年である。こうやって2度寝すれば、続きが再生される不親切な親切設計である。

 しかし、体が痛い。寝ているところもかなり硬く、床にでも寝ていたのだろうか? いや、それどころか妙に窮屈である。足は伸ばせず、体は強制的に折り曲げられている。

 眠り被った意識を徐々に覚まし、体を起こした。

「……なんだこれは」

 周囲は木の板に取り囲まれ、物が一緒にあるせいで足を曲げないと座れないほどの広さ。腕を伸ばせば簡単に天板へ手が届いてしまう。

 自分は小さいほうだったため、そこそこの空間があるが、普通の人なら抱え座りしないと入りそうに無いほどの木箱の中にいるということだった。

 壁面には対角線上に愛用していたブロードソードがあり、足元にはグリーブ、ガントレット、ネックガードがついたプレートメイル、お金が入った皮財布になめし革製のウエストポーチ、そして1通の手紙が置いてあった。

 手紙はつい昨日見たものと同じ、高級な羊皮紙で作られ、見間違えようの無い蝋印のされたものだった。

 ため息をつきながら蝋をはがし、ゆっくりと中身を取り出すと、3枚の本書が出てきた。



1枚目―― ダイン様へ

この手紙を読む頃には、もう遥か彼方でしょう。

貴方を迎えて以来、我が家は一層にぎやかに成りました。

娘しかいなかった自分としては、貴方を迎えられたことに

無償の喜びを感じたものです。

また、誇りにも感じました。


いつまでたっても“様”が抜け切きれず、

何度も苦笑いさせてしまいましたね。

此度敬意を表して、様付けすることをご容赦ください。


本来なら時間をかけて、ゆっくりと外を知りながらと思っておりましたが、

このような形での別れとなってしまったことが、本当悔しいところです。

これが今生の別れとならないよう、ダイン様のご武運をお祈り申し上げます。


グラファリス・シュタール



2枚目―― ダインへ

お久しぶりですね。

貴方のことを忘れた日は無く、

陰ながら貴方を見守ってまいりました。


貴方のためとはいえ、

貴方とこのような形でしかできない

至らない母でごめんなさい。


いつか、貴方が戻ってこれるのなら、

成長した姿を間近で見たいです。

その日が訪れることを祈ります。


エリナール・オブシディアン



3枚目――


貴殿を諸般の事情により、国外永久追放に処する。

なお、貴殿の保護に関し、下記の者に一任してある。

当書面を持参するよう。


行くかどうかは任せる。

好きにするがいい。

生きろ



 さらっと、3枚を読み終わった。

確かに外へ出たいという希望は出していた。

 わかったことは、「何らかの理由」でとうとう国外追放状態となったということだった。

 夜の襲撃が父の差し金でなければ、その何らかの理由と結びつくのかもしれないが、その理由がまったく分からない。

 手紙からは仕方なくという雰囲気がでている。

 ただ、何故仕方がないのか?

 何故、教えてもらえないのか?

 何故、監禁する必要があったのか?

 何故、保護してもらうアテがあるなら、最初から国外に出さなかったのか。

 分からない。

 分からない、分からない、わからない。

「ハ……ハハハ……ハハハハハハハハハハハハ……」

 乾いた笑いは、今の乾いた心そのものだった。

 何もかもが不本意で、何もかもが自分のことなのに、自分が一番分からないというこの状況は笑うしかない。

 不本意に死なされて、不本意に生かされて、不本意に放逐され、よく分からないまま本当に放られた。

 もし、神様が200年前に滅んでいなければ、この8年は善神からの試練だったのかもしれないし、悪神からの悪ふざけだったのかもしれない。

 しかし、それはない。人間が意図的に組んだもの。

 当事者だけが知らない観察ゲームだったのかもしれない。

 観察し終えた対象物は自然へと還されるがごとく、無責任な放逐という巨大な自由が与えられた。

「生きろ、か」

 好きにしろとか言いながら、最後に生きろとはどこまでもわからない人だ。

 ただ……、タイプライター印字だった最初の3行と違い、手書きで書かれた後の3行が、何か物語りたそうにしているようにも見えた。

 いつも来る手紙もタイプライター印字だったためだろうか……余計に何かが伝わりそうな気がして、しばらくその文字を見ていた。

 手紙にも飽きてきたので状況確認を開始した。

 まず着ている物。気になってはいたが、あの夜着ていた寝巻きではなかった。少し上品な麻で作られた部屋着の上下ではなく、シャツに青いロングコート、白地のパンツに鉄プレートでつま先を防護したレザーブーツと、どれも真新しく、丈夫で戦闘用アンダーに使えるような品々ばかりだった。

 鎧一式もきっちり磨き上げられた新品ではあったが、儀礼用の金銀ビラビラというわけではなく、鋼合板から直接作り上げられ、無駄な装飾も無い戦闘用のものだった。首回りまで防護するこのプレートメイルは、肩パーツと鎧本体が分離するセパレート形式を取っている。腰部分には装着者の動きを考慮してか、厚手のゴム帯で動きやすさと防御力を生み出している。

 これらの品々は、餞別というものだろうか。それとも贖罪なのだろうか。

 そんなことを考えながら手紙と一緒においてあったプレートメイルを掴んだ。

 メイルの肩パーツをはずし、ワンピース状になっている鎧本体を着込む。その後、肩パーツを装着し、関節を固定。

 メイルの装着が終わり、続いてグリーブをつける。脛当て式なので、あてがった後は脹脛と足首部分のベルトを止める。

 最後にガントレットを装着した。ガントレットはひじの先までカバーされた、ロングタイプだ。重厚感のあふれるデザインだが悪くない。

 最後にウェストポーチを付け、一通りの装備をつけ終わった。

 さすがに、木箱の中で座りながら鎧を着るのは辛かった。というか、外に出てから着ればよかったじゃないかと、自分に突っ込んでしまった……。

 思わずため息を漏らしながら天板を押し上げてみたが、普通に釘の打ちつけ梱包がされているようで、破壊しないといけないらしい。

 天板や横板を叩いてみると、比較的に軽い音が返ってきた。恐らく、保護することよりあけやすさを重視しての硬くなりすぎない木材を選んだのだろう。

 ならばと姿勢を変え、膝立ちになり、天板に手を突いて息を吸い込んだ。

「せっ、はぁ!」

 盛大な音を立てながら、天板を一気に破壊した。勢いがすごかったのか、予想以上に箱がもろかったのか、天板は木っ端微塵に成り、側面の上側もところどころ破壊してしまっている。

 そこは大小さまざまな木箱や布袋などが置かれた倉庫のような場所だった。あたりは薄暗く、窓一つも無いところを見ると、船体の一番下にある大型荷物用の船倉だった。運搬の荷物以外にもところどころにロープや浮き輪、釣竿などもある。

 ぐらん……またゆれた。手紙を読んでいる最中にも、小さな揺れが良くあったが波の揺れだったのか。

 漂ってくる不思議な香りは、生まれてはじめてかいだ潮の香りだった。内陸にあった首都にはない香りが状況の新鮮さを引き立たせる。

「……ちょ、ちょっと」

 ふと声がした。振り向くとひしめき合う荷物の間に、こちらを指差す一人の少女が立っていた。

 少女の姿は独特だった。

 肩に着く前に切りそろえられた真紅の髪に、同じ真紅の瞳。バスローブのような体の前で羽織り物を重ねとめる服を2枚重ね着て、平たく大きめの腰帯で留めるという服装だ。襟のような部分は赤く、鳥の模様が入っており、それが裾先まで続いている。

 特に目を引いたのが、頭の輪郭から少し飛び出る程度に生えている角と……

「小さい」

 自分の胸の高さぐらいだろうか? それぐらいぐっと小さな体をしていた。

 すると彼女は急に顔を赤らめて、胸元に腕を回した。

「こ、これでも普通にあるわよ!!」

 どうやら胸の話だと思われてしまったようだ。背のことだと指摘すると、彼女はさらに顔を赤らめた。

「わわわわ悪かったね! それでも普通よりやや小さいって程度なのよ! むしろ、あなたが明らかに大きいんでしょう!」

 俺が大きい? 確かに彼女からすれば大きいのだろうが、国では矮躯と言えるほど小さかったために、彼女の背丈はものすごく新鮮なものだった。

 しかも彼女は「自分は普通よりやや小さい」と言っていた。つまり……

「聞きたいことがいくつかあるんだがいいか?」

「な、何よ……」

「まず、その服装……コウエン国の人間か?」

 山脈を隔てた隣国のコウエンという国は、農耕を中心とし、ナイフやフォークではなく箸と呼ばれる小枝のような細い木を2本使って食事をする。建物もレンガや石造りではなく、木造でさらに土壁で補強するのが主流という。さらに普通なら加熱調理する魚を生で食べたりと変わった国である。

「そ、そうよ」

「ではコウエン国だと、君と俺の間ぐらいが普通の身長なのか?」

 その質問を投げかけると一転して考え込んだ表情になった。

「そうね。大人は大体そんな感じ。もちろんもっと小さい人もいれば、逆にすんごく大きい人もいるわ。でも隣の巨人の国みたいな人はほとんどいないけど」

「巨人の国? ……まさかティタニスのことか?」

「まさかも何も、巨人族(タイタニア)が作った唯一の国でしょ。そりゃ私も港とかで何度か見たけど……って、あなたティタニスから乗ったんじゃないの?」

 驚いた。俺は本当の井の中の蛙だったらしい。

 世界中は、自分が見てきた自分より大きい人々であふれかえっているものだと思っていたが、現実は自分が世界の普通に近いという。

 また、彼女の言う巨人が世界の共通認識なら、国内の人間はその認識を持っていないということか? いや、持っていても日常で使わないだけで、知ってはいるはずだ。一応諸外国との交易は普通に行われ、一般的な知識であるはず。

 となれば、自分は単純な出入禁止程度の監禁だけでなく、もっと多くの情報自体が遮断されていたということだろう。

 つまり、この18年間に覚えてきた知識以上のことが世界にはあふれ、自分は本当に世間知らずということになる。

「ねぇ」

 となれば、自分が旅に出たいと思っていたことも、かなり無謀なことだったのだろうか? 強制的とはいえ、願い自体はかなってしまったが、これはかなり危険なことでは?

「ねぇ、ちょっと聞いてる?」

 考えにふけ込んでいたせいで、目の前の少女をかなりほっといてしまったらしく、むくれあがっていた。

「もういいよ……それより何で箱の中から出てきたの?」

 ……正直に言っていいものだろうか?

 実際、箱の中から出てきたところを見られている以上は、それ以上もそれ以外もないんだが、初対面の人に「気がついたら箱詰めされてました」と言ったところで信じてもらえるのだろうか?

 だが、うだうだ考えても仕方がない。

「それがだな……俺自身よくわからない。起きたら既に箱に閉じ込められていた」

「は、はい? 何それ……誘拐かなにか?」

「いや、少し違ってだな……」

 やはり初対面の人に、追い出されましたなんて、いい大人が言えるわけがない。

「悲しいことに、彼、勘当されちゃったんですよ」

 そんなこちらの悩みをあっさり言ってしまった声があった。

 振り向くと、自分よりやや背の低めで、海のような透き通った水色の髪と中性的な面立ちの青年がいた。耳にはまるで魚のヒレのような変形し、腰まで伸びきった髪は尾ビレのようなしなやかさを感じた。

「はじめまして、ダイン。僕は君の運送を任されたラディス=ヴィロリスって言います。ラディスって呼んでください」

 スッと差し出された手は、指の付け根が水かきのように平たく薄い膜が張られていた。彼女が言っていた通り、自分よりもやや低いものの、彼女の言う「普通」という分類の身長だった。

「あのぉ……まさか箱の中から握手するつもり?」

 と、少女に突っ込まれてしまったので、木箱の側面をちょいと破壊して外に出た。

 ラディスに近づくと、やはり自分よりも小さいことと、はじめてみる魚人族(シープル)に驚きながらも、彼の手を掴み握手した。

 年齢は自分とさほど変わらなさそうな感じだったが、中性的な顔に細身の体、自分より小さな手から、初見で一応男とは認識したものの、声さえもう少し高ければ、女性と間違えてしまうほど、美が付くほどの青年だ。

 おまけに、さわやかな笑顔がとても似合っており、ここまでくると賞賛の念が出てくる。

「運送を任されたと言っていたが」

「そう。サイペリア領のポートアレアへの運送と、ちょっとした旅始めについての説明をと依頼されたんだ」

「なるほど……手厚いのか、手荒なのかよくわからないな」

「確かに」とラディスがクスクスっと笑い出した。その笑顔もまた絵になるようなものだった。

「ところでが、彼女はお付か何か?」

 視線を向けられた少女は何か、息を呑むような緊張感を出し始め、顔がゆっくりとゆがみ始め、自分を守るような姿勢になっている。

「いや、俺もさっき会ったばかりというか、すでにここにいた」

「なるほど……一応確認するけど、乗船券は持ってる?」

 彼女の顔は見る見る青ざめていき、顔もどんどん下へ下へと下がっていった。

「……お願い、突き出さないで。アタシ、帰りたくない」

 彼女の立ち居地が人目につきにくく、動きづらい荷物の間だった時点で、見回りの者や乗客でないことは分かっていた。後は、誘拐されてきたか密航などして乗り込んだかと予測したが、あまりよろしくない後者だった。

「帰りたくないって……もしかして家出して、その勢いで密航した?」

 少女はうつむきながら、こくんとうなづいた。

 自分も唐突の勘当が木箱によってというのも変だが、1人の少女が家出の勢いで出国、密航をやるものだろうか?

「まぁ、お金払えば問題ないとは思うけど……」

 と、二人で視線を向けてみると、ノーという感じでフリフリと顔が横に振られた。

「ラディス、いくらだ?」

「え? 1人3,200ベリオンだけど……」

「ならこれで足りるか」

 腰ポシェットの中からご丁寧に用意されていた財布を取り出し、中から1,000ベリオン札を4枚取り出した。

「すまないけど、俺と彼女の事情を説明してきてくれないか?」

「わ、わかった」

 手渡したお金を受け取り、ラディスは船倉から出て行った。

 1人分だけ渡したが足りないとは言われなかった。恐らく、俺の分の乗船料はすでに支払われているだろうし、そのあたりもラディスが管理しているだろう。

 まぁ、どんな説明をしてくるのかは、少し気になるところだ。

「あ、あの!」

 振り向けば、彼女は目を皿にして、慄いた様子だった。初見の男が突然、自分の乗船料を支払ったから、当然の話だ。

「これも何かの縁だと思ってだ。気にしないでくれ」

「じゃ、じゃぁ何かお礼させて! って言ってもお金とかないし……」

 慌てふためいている彼女をよくよく見てみると、後ろの壁に1本の刀と呼ばれるコウエン国独特の細身の曲剣が立てかけてあった。

「その刀は?」

「こ、これはあたしのだけど……」

 刀を手に取ると大事そうに見つめていた。

「取り上げるつもりはない。ただ、扱えるのかなと思っただけさ」

「人はまだ斬ったこと無いけど、何度も熊や猪とやり合ってきたわ。これはその相棒なの」

 目つきが変わった。今まで涙で揺れていた真紅の瞳は、自信と気迫に満ちた力強いものになっていた。

 なるほど、嘘のないまっすぐな瞳。それだけで十分だった。

「では、礼は付き人になってもらうでどうか?」

「付き人?」

「そう、サイペリア国の首都まで行かなければならないんだが、ラディスは港までだから一人になる。さっき君と話している中で、自分がかなりの世間知らずということも分かったし、君みたいな腕に自信のある人と行ければいろんな意味で安全かなと思ってな」

 他にも、ティタニスの女性とは違い、俺から見て非常に小柄な彼女が放つ「熊と戦う自信の剣技」を見てみたいという欲があった。

 彼女はほんの少し考えただけで、簡単に結論を出した。

「わかった。お礼はしたいし、どうせ行き先なんてなかったしさ。私はカキョウ。紅崎華梗っていうんだけど、こっちだとカキョウ=クレサキかな?」

 なるほど、コウエン国の場合、個人をあらわす名は後に来るのか。

 そんな思考をめぐらせながら、少しばつの悪そうな笑顔をした少女・カキョウに手を差し伸べた。

「俺はダイン=オーニクス。ダインでいい。これからよろしく」

 差し伸べられた手を取ろうと少しよってきた彼女の手は、やはりとても小さく見えた。

 グゴゴゴゴゴォ……

 船が大きな軋みと共に揺れた、というより傾いた。少しバランスを崩しそうになり、近くの柱に手をかけた。カキョウも俺の手を握る前に大きくバランスを崩し、壁に叩きつけられた。

「いっつぁ……何なのよこれ……!」

 揺れは収まりつつあるが、未だに大きく柱から手が離せない。

 会話している最中にも何度も不自然な小さな揺れは感じていたが、これはただの波の揺れと思い過ごせるようなものじゃない。

「二人とも大丈夫!?」

 そこへラディスがあわてて駆け込んできた。腕に擦り傷が見えるあたり、先ほどの大きな揺れで転んだのだろう。

「大丈夫だが、どうした?」

「二人とも急いで甲板に出て!」

 今の揺れのことだというのは一目瞭然。問題は今の揺れが何を意味しているのか。

 言われるがまま、甲板へ急いだ。



 船は乗客・船員も合わせて60人ぐらいが乗れる程度の中規模の帆船で、乗客にはそれぞれの個室が与えられる長期航行用のものだった。

 通路は個室の確保のためにやや狭く二人がすれ違えるほどしかない。

 すれ違う船員たちは、カキョウの言った「世界の普通」に値する身長のようだった。大柄な人でも自分より少し高いかなと思えるほどだ。

 中にはラディスのようなエラ耳が目立つ魚鱗族の人や、動物の耳や尻尾をした人もいた。動物の耳や尻尾をした人は牙獣族(ガルムス)と呼ばれ、俊敏性やパワーなど純人族(ホミノス)よりもどこかが突出した筋肉を持っている種族だったはず。

 甲板に着くと水平線まで続く、どこまでも大きな……青くない曇天の空が広がっていた。

 水面もまた青い海と呼べるものでもなく、光の無い無彩色に近いネイビーと表現したほうがいい。「海とは!」というような青い空、青い海を心のどこかで期待していたので、それまで見たことの無い人々とテンションが少し下がってしまった。

入り乱れる船員と乗客たちが右往左往していた。

「ちょっと、さっきの揺れはアレのせいなの!?」

「おおお、落ち着いてください! まだ姿は確認できてないんです!」

 乗客と思わしき恰幅のいいおばさんが、近場にいた船員に詰め寄っていた。それに同調したほかの乗客もあれよあれよと詰め寄られた船員のもとへ集まりだした。

「ラディス、アレとは?」

「最近このあたりを荒らしている例の海竜のことだよ」

 ネヴィアが話してくれた噂話を思い出した。

 ティタニスとサイペリアの間にある広大な海に、突如現れた海竜。最初は航路からかなり離れた距離で確認された程度だったが、徐々に定期船の航路付近で出現しだし、最近では自身が作り出した大波で船を襲うという。

 目撃されている大きさは長さだけでも100メルトといわれ、船よりも速いスピードで泳ぐことができるため、怒りを買って回り込まれては、沈められたなんて話もあったらしい。

「あたしも聞いたことあるけど、実際20隻ぐらい沈められてるんだっ……ひぃ!」

 カキョウが言いかけの言葉止めたのは、目の前に写り始めた光景に対して、言葉が発せ無くなったからだった。

 丁度進行方向から波間を漂って、通り過ぎていく無数の木屑。時には木箱、時には柱のような太い木。いつ人が流れてきてもおかしくない、異様な風景だった。

 自分たちの進む方向には明らかにアレがいる。座礁するような岩肌なんてない、海のど真ん中にいる以上、それ以外の要素は見つからなかった。

 水面の変化に気づいた先ほどのおばさんも、焦りの大声から大音量の奇声へと変わり、同調することでしか自分を保てない周囲にも簡単に伝染した。甲板が阿鼻叫喚に包まれ、甲板の異変に気づいて出てきたほかの乗客たちも同様に、近くの船員に詰めよりはじめた。

 船員たちも海の藻屑となっていく船の残骸に動転しており、乗客をなだめるので精一杯の様子だった。

「あーあー、皆様落ち着いてくだせぇ! この船は予定通りポートアレアを目指します!」

 メガホンと呼ばれる声を拡張させる魔法が付いた三角錐の筒で拡張された野太い声が、阿鼻叫喚だった地獄を静寂の甲板と変えた。

 後部甲板の2階部分、舵の前に立っているメガホン男は、襟のあがったネイビーブルーのコートを引っ掛ける形で着ている、海の男!といわんばかりの筋骨隆々なシープルだった。羽織っているコートの肩口にこの船の船旗と同じ文様が刻まれているあたり、この人が船長だろう。

「そんな!! このまま海竜に突っ込むというの!?」

 船長風の人に突っかかったのは、先程船員に詰め寄り、甲板を阿鼻叫喚に仕立て上げた最初の張本人である恰幅のいい女性だった。

 人ごみで見づらかったが、服装は控えめながら絹や金細工が施されたドレスローブだったが、なんとなく無理してきているんだろうか?と、何故か着ている物と中身に差のあるなと思ってしまった。

 船長さんは女性のにらみに対し、ふふん♪と鼻で笑って見せた。

「ミューバーレンの研究機関の調べでは、海竜が同じ海域に再出現までは1日かかるとの報告が出ておりやす。ゆえに! このまま最大速度で突っ切り、一気に駆け抜けるつもりであります」

 自信に満ち溢れた顔が余計に気に障ったらしく、回りが見ても明らかに歪んだ顔へ変貌した女性から、瘴気にも似た怒気がもれ出ていた。

「おだまらっしゃい!! シープルごときの研究機関? 聞いたことありませんし、信用できませんわ! 襲撃が1回と限らないじゃない! こっちはお金を払ってるんですから! すぐに回頭して引き返して頂戴!!」

 女性の口から非常に差別的な言葉がでたことで、胸の奥に何か重いモノが置かれたような圧迫感を覚えた。……矮躯。

(違う……あれじゃない。あいつではない)

 みんなと違う自分。見下ろされた大人たちのゆがんだ顔がずらりと並ぶ。お労しいだの、呪いだの、矮躯だのと、本人たちは小声のつもりで言っているんだろうが、好奇心の高い子供の耳にはどんな音も良く入るものだ。

 耳の奥にこびりついた声は、もう聞かなくなってから何年も経ったというのに、ふと思い出すとそれらが繰り返されてしまう。

 「大丈夫?」

 くいっと袖が引っ張られた。顔を向けると心配そうこちらを見るカキョウがいた。恐らく、この居づらい状況に耐えかね、こっちを見たんだろうが、見たら見たで眉間に皺を寄せまくっている俺がいたというわけだろう。

 助かった。カキョウが呼びかけてくれなければ、自分は延々と嫌な思い出に包まれていただろう。

 大丈夫とうなづき、再び女性と船長のやり取りに目を向けた。

「む~……シープルごときかぁ……あんた見たところ王都民だろうが、海のことはちーっともわからんだろ? ま、ここは海に生きる我らに任せといてくだせぇ。なーに、必ず送り届けますぜ」

 少々は困ったような表情を浮かべた船長だったが、話しているうちに先ほどまでの自信のある表情へと写っていった。それが更に気に食わなかったのか、女性の顔は茹蛸といわんばかりに赤くなっていた。

「ふざけないで下さる!? 私を誰だと思っているの!」

「ご婦人」

「何よ、うるさ……!!」

「ご婦人、もうお良しになってはいかがですか?」

 気づいたときには、自分は恰幅のいい女性の隣まで歩いていた。

 内心、先ほどの差別的な言葉とこの女性の叫び声は耳障りだった。みんな状況は同じであり、海に不慣れな人間が噛み付いたところで状況は変わらない。ましてや、人を簡単に見下すような言葉をこれ以上聞きたくない。

 回りからも「おいおい、勝手なこというなよ」「戻られたら商談までに間に合わないぞ」など、時間に合わせた行程を組んでる人たちの小言が聞こえていた。

 静止された女性は反駁したように口をパクパクさせていたが、激高させていた顔は次第に落ち着き、先ほどとはまた少し違った感じで頬を赤らめ始めた。目も少しトロン……となり、こちらを見つめているような気がした。黙ってくれたのはよかったが、何か寒気を感じずにはいられなかった。

「船長、逆に今から引き返したとして、海竜が引き返した先に現れる可能性は?」

 寒気を無視するように、船長を見上げた。船長は僅かにだが口角を上げ、一瞬「勝った」といわんばかりの表情になった。

「正直、突っ切るよりも出現する確率のほうがある。海魔調査委員会の調べじゃ、いまんとこ1つの海域で襲った場合、再襲撃は最低でも1日あくらしい。どれぐらいの範囲が海竜自身が区切る海域なのかはまだ不明だが、向こうさんにとって引き返した先は別の海域ということはあるらしく実際、引き返して襲われたという報告もちらほらある。

 また、1つの海域で襲われるのはどんな集団を組んでも大抵1隻だという話だ」

「1隻だけですか?」

「ああ、何度か海竜を警戒して戦艦を交えた調査船団で動いたことがあったが、どれも襲われたのは1隻だけらしくな。ああもちろん、相手を攻撃した場合はみんな狙われるがな」

 触らぬ神にたたり無し。しかし、必ず1隻は襲われるのではたたりがあったようなものだ。

 ただ、この海竜はまるで襲うのに規則性どころか計画性のあるような不気味な動きの海竜だと思ってしまった。

 動物は自然界のバランスを保った食事をするという。絶滅しない程度の捕食を行い、縄張り内の食の量を保ちつつ、取りすぎて縄張り内の獲物が減れば別の場所へ移動する。計画性というならこれに似たモノかと思ったが、恐らく捕食目的ではない。捕食目的なら船団のすべてを飲み込んだほうが効率的だろうし、そもそも大半が無機質なもので出来た集団を襲うメリットがない。

 大小問わず1隻のような口ぶりだったので、余計に海竜の動向が不気味めいてるな……と、違和感について考えてみたが、今自分が考えたところで何も変わるわけでもなく、小うるさい女性に黙ってもらうことが大事だった。

「いかがでしょうか? ここは船長殿に任せてみては」

 小うるさかった女性は船長の説明に腹立たしそうながらも、周囲の目と共に納得せざる得ないと、身をプルプルしながら静かに切れていた。

「そ、それだけの根拠があるのならさっさと言えばいいものを……! 部屋に戻ります!!」

 そう言い放つと、女性はドレスの裾を持ち上げ、ズンズンと船室へ戻っていった。回りで見ていた人たちも、少し安堵したのか各々の船室へ下がった。

「いやぁ! 助かりましたぁ!」

 2階部分にいた船長さんはヒョイッっと柵を飛び越え、目の前にズドンと着地してみせた。

 背はさほど変わらないようだが、盛り上がった筋肉が自分より大柄な印章を持たせた。

「船長、彼が例の箱の」

 と、振りかえればラディスとカキョウが寄ってきていた。「いきなりびっくりしたよ」とカキョウに言われたが、自分でも何で行動できたのかは驚いている。

「なーるほどぉ……あんたがあの“謎箱”の中身さんか。よーさん寝とったな!」

「謎箱と言われていたんですか」

「ああ、中身が人だってのは聞かされていたが、どんな人がいるとかは見せてくれんかったけんな、謎の人物が入ってるってことで謎箱とな」

 届ける荷物の中には、中身を見ておきたいものもあるだろう。

「そんでお嬢さんが密航者か」

 船長が視線を向けると、カキョウはバツが悪そうに半歩俺の後ろに隠れてしまった。

「なーに金は貰ったからな。お嬢さんも残りちっとだが、船旅を楽しんでくれ! って、こんな風景じゃちと無理か!」

 ガハハハハとこの風景を笑い飛ばした。それだけここからポートアレアまでの航海に自信があるようにも思えた。

 まるでそれに答えるかのように、曇天だった空が急に晴れ始め、噂に聞いていた青い海、青い空が顔を見せ始めた。見たことも無いほど澄み渡った上下の青が、水平の彼方で線を作っている。スカイブルーと呼ばれる水平に向かって白くなっていく空。マリンブルーと呼ばれるどこまでも色あせない海。青い世界に魅了される人々が今も多いのは、この綺麗な世界を知っているからだろう。

「そうだ、これから人が流れてくることもあるだろうから、ちっと手貸してくれないか?」

 俺たちは喜んで、船長からの指示を受けることにした。

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