Eternal Oath(先行版)

神崎シキ

プロローグ

 神様は消えた。

 天上に聖、地底に闇、四方を火風地水の精霊界で囲まれ、神と精霊の愛(=魔法物質マナ)に満ち溢れていたエリルという人界は、創造から800年でその愛を失うことになった。

 悲劇は一人の嘆きから始まった。愛する者を奪われた男は嘆き、血の涙を持って世界の破滅を望んだ。望みは闇軍を呼び、保たれた6つのマナの均衡が綻びだした。

 これを危機と取った聖軍も、天より地上へ降り立ち、相反するものを打つべく進軍を開始。 結果、相反する属性の者たちは互いの存在自体を憎み、互いが相手の消滅を望み、地上を戦場とした終末戦争へと発展。両軍の大将である太陽と月が直接衝突し、激闘の末、地上の多くに爪あとを残しながら、2柱の神が消滅した。

 聖闇両軍はそれぞれの領域へと撤退し境界面を封印。四方の精霊界も戦火を逃れるべく世界を閉ざした。

 人界は全てから断絶された。断絶の影響はすぐにマナの流れは急速低下で現れた。

 自然の源であるマナの減退は自然を徐々に蝕み、地震や火山噴火、水の枯渇、植物の腐食と世界そのものの崩壊へと進んでいた。

 ヒトを含めた生物は神々の戦争に巻き込まれ多くが死滅した。残った人々はまだ助かる命を助けようと、今までと同じように癒しの魔法を使おうとも、あふれていたはずのマナを感じれず、行使することも出来なくなっていた。

 また、太陽と月の神をなくしたことにより、太陽と月が一緒に消滅したため昼と夜の境界が消え、色鮮やかだった世界は一転して無彩色が世界へとなってしまった。

 残された人々は愛の消えた無彩色の世界に死と崩壊と破滅と絶望を覚えた。

 しかし、希望は絶たれてはいなかった。

 愛された子と自称する者が現れた。手をかざせば傷が癒え、手を振れば枯れた木々が息を吹き返し、池に触れれば水が戻った。

 彼が天に向かって手をかざすと強烈な光があふれ、無彩色だった世界は徐々に色を取り戻していった。光は天へと昇り、新たな太陽となった。

 彼は夜になると、天を仰ぐことで戦火で亡くなった人々の魂を空へ送り、星と月を作った。

 徐々に以前の世界が戻っていく。そこで人々は彼に願った。魔法を、マナを戻して欲しいと。

 彼はその願いに答えた。

 彼が言葉を口ずさむと、彼から優しい風が生まれ、人々を自然を世界を包み込む。体に満ち溢れる感覚。失われていたのはほんのひと時だったのに、永遠の喪失を思った人々は嗚咽に似た涙を流したという。

 人々が涙している間に愛された子は姿を消した。

 人々は彼のことを語り継ぐと決意した。彼こそ奇跡の体現。彼こそ真の神であると。彼を語り継ぎたい者たちは集まり、一つのコミュニティを作って、「聖フェオネシアの奇跡」として語り継いでいった。



 悪夢と奇跡の出来事から200年経った。ちょうどミレニアムな年にはよく何かが起こるといわれる。

 しかし、すでに竜暦が1000歳に達してからもう3ヶ月が経ったが、世界的に、国的に特に先の終末戦争のような大きな出来事は、一切無かった。

 それは世界も、ここも同じ。暖かく、優しく、衣食住が絶対的に保たれた鳥篭。

 しかし鳥篭である以上は、自分から外に出ることは出来ない。

 平和で、平穏で、変化が無く、時間だけが残酷に過ぎていく。昨日、今日と続き、明日へと変わらない日々が続いていく。

 自分から変えられないから、変化を待っているのかもしれない。

 ……本当に自分から変えられないのだろうか?

 出来はするだろうが、あまりにもリスクが大きすぎる。また、余計に制約が増えてしまうだけだろう。

 だからこそ、向こうからやって来る変化は戸惑いと共に、嬉々としたものとなるだろう。

 死んでいた心が脈を打ち、錆付いていた感情が音を立てながら動き出す。フル回転しだした感情がようやく本当の時間を進ませる。

 そんな願いを、叶うかどうかわからないものを、18回目の誕生日に馳せていたのかもしれない。


◇◇◇


 新緑の風が中庭を駆け抜け、いよいよ花を咲かせようとしていた。日陰ではまだ冬の肌寒さが残りつつも、日向では小春日和のような温かみのある晴れた竜暦1000年芽月22日の朝。

 蒼白の石レンガで作られたお屋敷は、いつ見ても華やかとは言いがたい兵隊の詰め所みたいな作りをしている。中庭も花や植え込みでつられた庭園ではなく、芝生がちらほら残る程度のはげた土庭であった。

 ここでは毎朝の恒例となっている荒々しい呼吸と金属のぶつかり合う音が響いていた。

 音の発生元で動いている二つの人影。

 音の限りは拮抗しているように聞こえるが、ぶつかり合う影はまるで親と子供かと思うぐらい、ちぐはぐな大きさだった。

「お前の力はそんなもんかぁ!!」

 大きな人影はやや野太い女性の声だった。鉄製の胸当てに、ノンスリーブの白いワンピースと皮のロングブーツと書かれれば幾分清楚ぽく感じるが、ワンピースには大きくスリットが入っており、そこから見える健康的な褐色の足とブロードソードを颯爽と振り回す姿が、いかにも女戦士という風貌である。流れる赤銅色の長髪がたなびくたびに、こちらへ猛ラッシュが浴びせられる。

 一方、小さな人影と揶揄している自分は、同じ鉄製の胸当てに白いシャツ、ジーンズにペコスブーツといかにも練習スタイルでいた。顔と体の比率でいうなら8頭身と長身的バランスなのだが、小さな人影と表現するように、俺の背丈は戦っている女性の胸位置ぐらいしかなく、まるで呪いで縮尺だけを小さくされたかのような姿である。

 手にしているのは、相手と同じサイズのブロードソードで、柄をつかむ指が輪を描ききることがなく、刀身が自分の背丈の3分の2ほど。本来、片手剣として扱うブロードソードも自分にとっては大剣に等しく、当然両手で持っていた。

 明らかな不釣合いの剣でラッシュを確実に受け止め、または受け流す。

 先に言ったとおり、親と子供と見えるほど確実な体格差から繰り出される攻撃はかなり重く、一打一打を受けるたびに足は地にわずかながらもめり込み、後ずさりしている。

「どうしたダイン!!」

 不意に名前を呼ばれ、少し気が緩んだ瞬間、上段から強烈な一撃が来た。体格差もあってか、勢い任せの袈裟斬りは重く、全身を衝撃を走った。毎日同じ打ち込みをしているため、衝撃自体は慣れたものだが、体重をかけて上から迫ってくるこの体制は、こちらがのけぞる形になるので腰に来るし、そのうち押し倒されない。

 ここで、受け止めた刃をわずかにずらし、受け流すことで勢いを利用したまま体勢を崩させる。そこへ膝蹴りを入れるも、大きな女性はバランスを取り直し、バックステップで後退した。

 距離を取り直し剣を構えなおすと、互いに目が合った。次で決める。

 女性は大剣を前に構え、ゆっくりと腰を落とした。自分も前に構えていた剣を腰の右側に移動させ、刃が自分の後ろに流れるように構えなおす。

 わずかな空白。中庭を完全な静寂が支配する。

 春風がさらっと通ったその時、お互い懇親の力でドッと距離を詰めにかかった。

 あと3歩という位置で、大きな人影の女性は剣を上段に構え、刀身が青白い稲妻を帯び始めた。雷系統の物理汎用技クイックショッカーと呼ばれる、刀身を一気に加速させ、素早い1撃を放つ技だ。威力を殺した素早い攻撃を主軸におき、相手を切り裂いた時や相打ちの鍔迫り合いとなったとき、数秒程度全身を麻痺らせる効果を持つ。

 麻痺狙いの素早い叩き込みということが分かった時点で、こちらも魔力を剣に流し込み、白く光り輝きだした刀身を強制加速させる。技は同じような武器を加速させる技だが、こちらは加速と遠心によって威力と攻撃速度を上げる大型武器用の振り上げ技を発動させる。

 この世界では、技同士や魔法同士はぶつかり合うと、威力の低いほうがかき消される。これならこちらの技の威力が高い分、麻痺の効果が及ぶ前に技を消すことができる。

 後はこちらの攻撃が間に合うかどうか!

「グラインドアッパー!」

 腰をさらに沈め、胴が大きく開けてしまうのも承知で輝く白刃を大きく振り上げた。グラインドの名の通り、光り輝く白刃が美しい弧を描く。

 ソレに反応した大きな人影の女性も、青雷を帯びた剣を一気に振り下ろされる。

「クイックショッカー!」

 中庭が瞬間的な発光と激しい金属の激突音に包まれた。

 ギィン! と、宙高く舞い上がったブロードソードが重たい音を立てて地面に落ちた。

「――っああああ、いったぁあああ!! 押し負けたああああ!」

 光が収束して、ようやく視界がまともになると、目の前でしりもちをついている大きな人影の女性――ネヴィアがいた。先程吹き飛ばされたのはネヴィアの剣であり、自分の剣は手の中にまだいる。

 恐らく、クイックショッカーは誘いの一つで、もう一度上段から攻めて、完全に押し込もうというただのリベンジゲームだったようだ。

 どのみち、素早さが負けていればこちらは麻痺になり押し倒され、威力が足りなければ、普通に押し倒されるか、やはり麻痺という結果にしかならない。

 こちらも負ける気はなかったので、思いっきり力を出し切ってみた。そのせいか、技と力の反発による衝撃で、麻痺とは違ったしびれを受けたようだ。手がジガジガする。

 ネヴィアも同じようで痛みを紛らわすために、手を可愛らしく?振っていた。

 互いの皮手袋からは湯気が立ち、ところどころに焦げたような後があった。

 双方の魔力がぶつかることで激しい火花が散るのだが、皮手袋を焦がすほどの魔力が発生したのかと驚くほどだった。

「俺も前髪が少しこげたな」

「元から焦げ気味の色だからわかんないよ」

 余計なお世話だと思いながら手袋を脱ぎ始めた。時々吹く春風がどっと疲れた体を癒し、気持ちの悪い汗を優しくぬぐってくれる。

「なかなかでしたよ、ダイン殿、ネヴィア」

 そこへネヴィアと白髪の混じった同じ赤銅色の髪が印象的な中年の男性がやってきた。もちろんダインとの身長差は圧倒的で、ネヴィアよりも更に頭半分ほど高い。

 着ている黒に近いダークバイオレットのコートに、裾や袖口にあしらわれた少な目の金装飾、切りそろえられた髭が彼の気品を引き立てていた。

「と、父さん!? もう帰ってきたの?」

 ネヴィアが口走ったとおり、このお方はネヴィアの父にして、俺を引き取ってくれた養父のグラフ殿である。

 今朝は早朝から宮廷議会に出席しており、二人で勝手に実剣稽古をしようと誘われた。実剣稽古はなるべくグラフ殿がいる時にといわれているので、状況的にあまりよろしくない。

 結果についても先程のとおりで、ネヴィアにとって見れば顔は伏せたいものだろう。

 親なだけに、どっちが行動を起こしたかも手に取るようで、ネヴィアを見る目も少し厳しい。

 と、二人を観察していると、ぶわっと白いタオルが視界を覆った。分かっていたからこそ、用意してくれ、特に何も言わないグラフ殿は本当にお優しい方である。

 軽くお礼を述べると、少し呆れたような、それでいて何か見守るような苦笑を見せた。

 そんな、グラフ殿が一つの宛名のない手紙が差し出してきた。

 普通の封筒は、幅が手の平と同じぐらいのものだろうが、チビの自分にはチラシや新聞のように丸めたら棍棒になるかもしれないほどの大きさだった。

 来る手紙は一度グラフ殿が中身を確認するために、全て開封済みである。

 こんな見るからに高級羊皮紙で作られた手紙を出す人は、1人しかいない。差出人がわかっている上で、グラフ殿は俺に手紙を渡そうとしている。

 手紙を受け取り、中身を確認してみると案の定だった。


明日の立志については

シュタール将爵に任せるものとする。

  その後の内容については報告せよ。

「相変わらずの文章ですね」

 思わずため息が出てしまうのも毎度のことである。報告せよと書かれてはいるが、書くのは俺ではなく、グラフ殿が報告をまとめる。

 こんな短絡的で一方的で、こちらのことはお構い無しの文章をよこすのは実父である。この一方通行なやり取りがもう8年も続いている。

 というのも、俺が生まれてからまともに実父と会話したことはあまり無い。5歳の時には元の家族から遠ざけられ、10歳の時にはこの家に貰われる形となった。

 元の家族は別に貧しいというわけではない。むしろ貧しかったら大問題なんだが……。

 ただ、単純に俺が必要と無くなり、家に置いておいても何の生産性もないと判断した父により捨てられたのだと思っている。

 養父のグラフ殿には「特殊な事情だった」としか聞いていない。

 それを裏付けるように何か行事があれば、こんな一方的な手紙を送ってくる。受け取る本人を無視したかのような文章。なのに、蝋印に刻まれた文様は俺と父をつなぐという、なんとも変なものだった。

 手紙を元の封筒に入れ、グラフ殿に手紙を返した。

「さてグラフ殿、どうしますか?」

「明日は通常通りの立志式を行います。その後については、ダイン殿のご希望に沿って調整していこうかと思っております」

 立志式とは、満18歳となる誕生日に成人として、全面的に大人となる儀礼のことである。 この日を境に、法律上でも完全な成人として扱われ、飲酒や賭博といったものも自己責任になり、刑罰も子供だからという軽減もなくなる。

 また、親の保護監視権がなくなり、本当の一個人として扱われるようになる日という意味合いが極めて大きい。

 この軟禁生活も成人であることと、保護監視権の終了ということで、名目上は終わる予定であるらしい。が、あくまでも名目上であり、別の圧力のためどうなるかは分からないとのこと。

 いつまでも悩みの種が残り続ける人生に辟易してしまう。

 もし望めるのなら、自分の足で歩く人生。人によっては流されるほうが楽かもしれないだろう。しかし、そんな人生の何が楽しいのだろうか? 小さな取捨の選択はできても、自分の根幹を決める選択は許されない。希望を言ったところで、果たしてどこまでかなうかどうか……。

「希望は以前も話していました通りです。外を見てみたい、世界に触れてみたい……ただ、それだけです」

 グラフ殿は苦笑に近い笑みを浮かべながら「お伝えしておきましょう」と言うと、中庭から去って行った。恐らく、返信の文を書くのだろう。

「ダイン、お前はそれでいいのか?」

 俺とグラフ殿の会話を座ったまま聞いていたネヴィア。俺より大きいくせに、座って見上げてくると数%ほど可愛らしくみえる……かもしれなかった。ただ単に、自分よりも背の低いものに反応するのは、自分の矮躯を呪うようになってからの性格だった。

「じゃあ他に何があると?」

「なんつーか、こう、お前の顔を殴らせろとか、殴り合いみたいな男の親子っぽいことさせろとか?」

「俺は暴行罪でつかまりたくない。それに、あの人は俺に会いたくないだろうし、俺もなるべく会いたくないんだ」

 ネヴィアが物騒なことを言ったが、実際会ってしまったら詰め寄ってしまいそうで、できるなら中途半端に関わらずほっといて欲しかった。

「ま、明日は誕生日だ。ルシアさんも腕を揮うってさ。私も手伝うから、楽しみにしとけ!」

 ネヴィアはメイドのルシアさんに料理を習っているが、どうも性格的に料理のような作業があわないようで、味付けや盛り付けが非常に大雑把である。それでも食べれないレベルというわけでもなく、本人が楽しんでいる様子だから特に何も言わないようにしている。

「そうさせてもらおう。ネヴィア、あと2回ぐらい付き合え」

 汗をぬぐい、タオルを窓のサッシにかけ、再びブロードソードを手にした。

「今度はあたしが勝つからな」

 ネヴィアも同意とタオルを投げ捨て、剣を構えた。

 中庭は再び、夕暮れ時になるまで金属のぶつかり合う音に包まれることになった。



 ソレは人目をはばかるように行われていた。

「寒そうですね……」

 まだ、春の暖かさが戻ってくる少し前のこの時期。日陰や雨に当たれば、体温はたちまち奪われ、冬のような冷たさにさえ感じるほど、変わり行こうとしている季節の最中の今日。

 まだ日中だというのに雲が一切の光を通さず、大滝のような雨が窓の外に広がっていた。

 見下げれば、顔がすっぽり隠れるほど大きなフード付の黒いコートを纏った4人が、自分たちより二回りも小さな棺を担ぎながら、教会のほうへ進んでいた。

「ねぇ、どうしてこんな雨の日に葬儀が行われているのですか?」

 眼下に見える棺桶を見つめながら、窓越しに写る背後の中年の男に問いかけた。

「たまたま……本日が雨だったからでしょう」

 予定日だったために行ったとはいえ、普通なら晴れた日に延期したりするものではないのだろうか? 窓に映りこんだ背後の男も自ら口にした返事に苦い顔をしていた。

 晴れの日ならさぞ目立ったであるはずの葬列だが、こんな雨の日では人の気は少なく、とても送り出すという雰囲気はない。大滝の雨は故人の人生をひそかに洗い去り、その跡形すら奪うのではなかと。

 それでも天へ担がれた棺は、雨ざらしになりながらも大事に教会へ進んでいく。

「寂しいですね……雨で、お花もなくて、人もいなくて……」

 葬式とは、祭りとはまた違った雰囲気でたくさんの花や白と黒のリボンでモノトーンに彩られ、多くの人々が集まることにより、その故人が死後も孤独にさらされることなく、天へ導かれてほしいという願いをこめるのだと教わった。

 しかし、その葬列は、黒いリボンで束ねられた白い花束が一つ、棺桶の中心に雨ざらしで置かれている程度で、それ以外は何も無かった。弔う人間も棺桶を担いでいる4人だけで、それ以外の関係者などの姿は一切なく、雨のため通りに出ている人間もいない。

 一応、首都内でもそれなりに大きめの分類にはいる通りを小さな棺桶を担いだ4人だけが歩く姿は、滑稽というよりただ荷物を大事に運んでいる程度の風景にさえ思えた。

「変なものですね。自分の葬式を見るのは……」

 眼下の一行が見えなくなるまで、ずっと窓の外を見ていた。


 

「……またこれか」

 何度も見る夢。生まれの日が近づくにつれ、毎年のように見る夢。

 その夢の光景は、色あせるどころか徐々に色が増していった。

 何度も忘れようとしても、決して忘れてはいけないと、体に刻み付けるように。

 お前は死んでいるのだと言い聞かせるように。

 サイドチェストの時計を見ると、針はあと5分で12時になろうとしていた。

 あれから昼ごはんを挟んで計5回も対戦し、夕食後どっと疲れが出てきて、ベッドに倒れこんだまでは覚えている。

 よく寝たもんだと思いながら、別段いつもと変わらないその刻が来るのをぼーっと待っていた。

 横目であたりを見渡すと、8年過ごした部屋とは思えないほど簡素どころか殺風景な部屋だった。

 月明かりに照らされた部屋には、学習机にクローゼット、姿見の鏡にベッドがあるぐらいで、趣味の物や年頃の青年が持っていそうなものはほぼ一切ない。

 8年前、この屋敷につれてこられ、人目を忍ぶような軟禁生活がはじまった。軟禁の内容はとにかく屋敷の外へ出てはいけないことで、一人では当然買い物に行くことができないので、必然とモノが少ない。

 一応、欲しい物とか聞かれたりはするが、ある意味貰われっ子な状態でもあるため遠慮してしまう。正直、衣食住と勉学さえできればどこでもよかった。

 そんな、自分が発する衣擦れ以外の物音が立ちそうにもない部屋だが、今晩は違った。

 虫の音や風の音もなく、気持ち悪いほど静まり返っていた。静寂より無音あまりにも気味が悪くなり、起き上がろうとした。

「動くな。叫ぶな」

 喉に接しなくても、その鋭利さが伝わるほど、突き刺さるような冷徹。後ろから聞こえる布を通したような声。言葉を聞くまで感じなかった気配。

 息をするのが辛いほど、背筋は凍りついていた。

「とうとう殺しにきたのか?」

 よりにもよって、1人の成人となる18回目直前とは、なんともわざとらしく、あざとく感じた。

 夏でもないのにつたわる汗が、いやおうなく自分の焦りを増長させる。

「我々は連れて行くだけだ。大人しくしろ」

 連れて行くだけ? この俺にまだ何か用があるというのか?

 ――あの人のやり方にしては回りくどい。となれば、別の人物が仕向けたのか?

「……誰の命令だ?」

 数拍の沈黙。案の定、返答はない。

 目だけを下にやると、月明かりで照らされる黒い物体があった。血の色が目立たないと言われる暗殺用の黒刀。

 しかし、サイズがおかしかった。

 そのナイフは、矮躯といわれた俺の手に合うような小ささで、ソレを握っている手もまた、あっているような大きさ。

 まるで自分と同じ、矮躯として生まれてきた者たちなのだろうか……?

 一気に膨れ上がった好奇心は、ゆっくりと体を振り返らせる。そこには自分と背格好が変わらない黒装束の男がいた。

「動くなといっただろう」

 男は持っていたナイフを首に押し当てた。血は出ていないものの、冷たい刃が皮膚に当たる感覚が否応無しに生気を抜いてくる……。って、本当に生気を抜かれているかのように、視界がぼやけ始め、けだるくなってきた。

「効いてきたようだな」

 男はマスク越しにも分かる笑みを浮かべ、ナイフを持った手とは逆の、左手の握りこぶしを開いて見せた。

 そこには手のひらに収まってしまうほど、小さな布袋があった。

「遅効性だが、タイタニアではないお前なら、すぐに効くだろうな」

 それがにおい袋の一種だというのは分かったが、タイタニア? 聞きなれない言葉だが、何か体質的なものを指しているのだろうか……?

 グラり……視界がゆがむ。けだるさもさらに増し、だんだん眠気まで出てきた。

 落ちてゆく。

 はっきりと目の前に闇が広がっていく……。

「ダイン様!!」

 沈み行く意識の中、グラフの叫び声が聞こえてきた。

 俺から離れ、男が応戦に向かうが、部屋へ駆け込んできたグラフの素早い抜刀により、一瞬のうちにドサッっと男が崩れ落ちた。

「すぐ……せ。場所は……」

 もはや意識は闇のふちまで来ていた。落ちる中、最後に聞こえたグラフの声は、冷静さを失いそうな悲壮が混じり、その顔は夢の雨の日と同じようであった。

 そして、再び雨の日の夢へと戻るのであった。

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