藍縁奇縁

咲良粉

古館梨花の場合 -序-

ずるずる、ぴちゃん。

ずるずる、ぴちょん。


何か重たいものを引きずるような音が後ろから聞こえてくる。本能的に振り向いてはいけないと理解し、足を前に出す。真っ暗な空間はもう見慣れてきたと言ってもいい。……また、あの夢だ。

雨上がりの外を駆けるような夢。アレはまだ近くまで来ていない。そう判断して走る。生暖かい水のような液体が足にはねる。

この頃何度も何かから逃げる夢を見る。きっと目が覚めたら何も覚えていないだろうけど、ここに来ると思い出すのだ。アレに捕まっては、いけない。

後ろを振り向いたことはない。振り向いてはいけない。暗い空間を走って、走って、逃げなければ。


ばしゃばしゃ。


いつもより水かさが増しているのか走ると大げさなほどこの空間に響く。引きずる音は迫ってきている。早く逃げ切らなければ。



―――ブーッブーッ


アラームのバイブレーションが部屋に響く。もぞり、布団から腕が生え、手慣れた様子でスマホの画面を操作して止める。

むくりと起き上がった彼女は寝癖を撫でつけながら時計をちらりと見た。


「……まだ寝られるじゃん。」


シンプルな内装の洋室に呟きは消える。長い髪をうっとおしげに首元でまとめ、起き上がった。ゆっくりとした動作でシーツや布団を整え、部屋を出た。

今日も良い天気だと廊下に差し込む朝日に目を細め、キッチンへ向かう。朝食用にと冷蔵庫から卵を取り出し、フライパンに火をつけ温める。ボウルに卵を割り入れかき混ぜる前にベーコンをフライパンへ投下。じゅわぁっと肉の焼ける香ばしい匂いがあたりに広がった。カチャカチャと卵をかき混ぜ、たまにベーコンをひっくり返しながら様子を見る。焦げ付く前にフライパンから皿へ移し、次は卵を投入。菜箸で時々混ぜながら簡単にくるむ。半熟の状態でこちらも皿へ。真っ白のプレートにバターロールと、レタス、ベーコンにオムレツを乗せ、ガラスのボウルにはヨーグルトと苺ジャムを。あっという間に朝食が完成し、テーブルへもっていく。


ポケットにいれたスマホがバイブレーションを起こす。無視。


テレビをつけ、朝食を口に運びながらニュースを流し見る。いつもと変わらない、遠い世界のような事件事故の話題に政治家の横領、芸能人の熱愛。

半分くらいまで食べ進めたところで再度バイブレーションを起こすスマホ。

これも無視。

ニュースは今日の天気へ話題が変わり、関東はゲリラ豪雨に注意だそう。ふむ、ならば今日は外で出歩くのは控えようかな、なんて思いながらヨーグルトの最後の一口を食べ終えキッチンへ戻る。

そのとき、またバイブレーションを起こすスマホになんだかおかしいぞ、とやっと取り出す。表示された画面は着信を知らせるもので。発信者は、幼馴染。


「もしもし。」

「だぁぁぁ!!!やっっっと出たなさくや!!!」


今までのバイブレーションはアラームじゃなくて幼馴染からだったらしい。

無視していた。


「寝てた。」

「嘘つけ!!!!」


朝から幼馴染は元気だなぁ、と若干の現実逃避。まだ電話の向こうでぎゃんぎゃん騒ぐ彼に流石に苛立ちを覚える。その苛立ちが伝わったのか、彼―――壮真そうまは少し声のボリュームを下げた。


「……ニュースみたか?」


低めの声で問う壮真に是と答える。


「……惨殺死体の発見現場さ、こっちに近づいてきてねぇか?」

「心配しすぎ。」

「でももし人間じゃないなら、危ないだろ。」

「まぁ、気にしすぎだと思うけどね。」


さくや、と心配げな声で名前を呼ぶ幼馴染に相変わらずだと笑みを浮かべる。


「壮真、大丈夫だよ。」

「……さくやが、そういうのなら。」


まだぶつぶつと何か言っているような彼に咳払いをして、聞く。


「で、本当の要件は?」

「今日の課題見せて下さいさくや様!!!!!」



体がなぜかだるい。何か夢を見たような気がするけど、わからない。でも、寝てたはずなのに体育の持久走を走った後みたいな体のだるさがときどき残る。


ぴちょん。

耳の奥で水が落ちたような音が聞こえた気がした。


伸びをして布団から起き上がるといつもの起床時間よりも早かった。最近、こんなことが多くて疲れが取れる気がしない。階下から聞こえる生活音にお母さんはすでに起きていることを知る。首を回すとぽきぽきと音が鳴った。起きてしまったものは仕方がない、そう思って部屋を出て階段を下る。


「あら梨花りんか、この頃早いじゃない。」

「んー、なんだか寝た気がしないんだ…。」


ふわぁっとあくびをもらしてお母さんに告げる。「新しい生活になったからストレスなんじゃない?」そうかも。何事もないようにうなずいて返事をする。先月中学事態にずっと志望していた高校へ入り、念願の女子高生デビューにちょっと疲れているのかもしれない。いつもどおり仏壇にお線香をあげて、仕事に向かうお父さんにひらひらと手を振る。テレビをつけるとここ最近ずっとやっている芸能人の熱愛報道と、連続殺人事件の話題。


「やだ、なんだか近くなってきてるわ。梨花気をつけてね。」

「平気だよ…そんな刑事ドラマじゃないんだから…。」


近いといっても二県隣の県境だ。お母さんの考えすぎである。朝ごはんを食べて身支度をし、ぽやっとスマホを弄りつつける。メッセージアプリには新しいクラスのグループトークが動いていた。朝から元気だわ…、クラスメイトの面々を思い出して苦笑する。進学校の一クラスにしては珍しくにぎやかな性格が集まったらしく、休み時間は当り前として授業中にも明るい声が絶えない。

ふとテレビの時間を見るといつもの家を出る時間だった。いってきます、キッチンにいるお母さんに声をかけて玄関を出る。いつも通りの道に、いつも会うご近所さん、同じ電車で同じ車両に乗る学生。いつもと変わらない日常がはじまる。


「……?」


はずだった。ホームに滑り込んで停車した電車に乗ると、同じ学校の生徒がいた。しかもきつめの美人さん。どこかで見覚えあるような、なんて首をかしげつつも校舎で見たことあったのかな、と自己完結をして視線を逸らす。でも、あんな美人さんだったら同じ電車使ってると見たことあると思うんだけど。うーん、思い出せない。まあいっか。リュックから単語帳をだして一限目の小テストに向けて復習を始める。

ぴちょん

どこか遠くで水が跳ねる音が聞こえた気がした。刹那、ぞわりと悪寒が走って背筋を震わす。風邪でもひいちゃったのかな。今日は暖かくして早く寝よう。内心そう思って単語帳をめくった。



「おはよー。」

「はよ、相変わらず梨花早いねぇ。」


教室で単語帳をめくっていると目の前の席に座った彼女が挨拶をする。そんなことないよ、と首を横に振っておくとどたどたとあわただしく廊下を駆けていく男子生徒がいた。走ったせいで教師にこら!と怒鳴られている。


「また壮真先輩怒られてる!」

「だれ?」


男子生徒のことを友達は知っていたらしい。知らないの!?と逆に驚かれてしまった。クラスメイトを覚えるので精一杯な私に他クラスしかも先輩なんてわかるはずないじゃない。むっとして彼女を見ると私の横にいつの間にか座っていた子が教えてくれた。睦月壮真むつきそうま先輩、3年生で副会長をしている。運動神経は抜群で明るい性格と爽やかなルックスも相俟って女子生徒から人気だそうだ。


「へー。」

「興味なしか。」


ぺちんと隣の彼女がおでこを叩く。力が入っていないそれに大げさに痛がると冷たい視線をもらった。ひどい。

そんなやり取りをしていると続々と教室には人が集まってきてSHRの時間が迫ってくる。担任は5分前に教室へきて、出席をとる。名前が呼ばれたときに居なかったら遅刻扱いをされてしまうのだ。まだ入学して1か月ということもあるのかクラスメイトは5分前には全員が着席している。まだざわざわと雑談を楽しんでいると担任が入ってきた。先生が来ると雑談は控えめになるが、静まるほどではない。先生はいつも通り名前の順に出席をとり、いくつかの連絡事項を伝えて去って行った。一限目の担当教科ではないのだ。こうしていつも通りの学校生活が始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

藍縁奇縁 咲良粉 @sakurakko036

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ