6P〜 三日目 午前
ぐわり。体が傾いた。そのまま窓を通り、体が宙に投げ出される。捕らえられた手に体がついていく。
わかってはいたことだ。出入り口が塞がれている以上窓からしか逃げられない。となると、必然的に窓から地面へダイブすることになる。いや全く訳がわからない。わかる、わかるし思考ルーチンも共感できないわけではない、しかしここは少なくとも一階や二階ではないのであって、下手をすれば頭を打って逃げるどころの問題ではない。しかも
足先が窓を超えた瞬間、息を吸う音がした。
「平伏せ愚民ども!」
途端、錯覚だろうか、地面がぼこりと凹み、探偵と俺の体を受け止める。背中に当たる感触は決して地面のものではなかった。革を張った何かにぶつかったような感触。
突然空から降ってきた人間に、通行者達はどよめく。騒ぎが大きくなればすぐに警官も駆けつけよう、どうするつもりかと探偵を見れば、彼は着地した瞬間に立ち上がり、手を掲げていた。
「
言い終わったその時から、向けられていた注意が散漫した。ふふん。探偵が笑う。
「さあ、これで歩いて目的地に行ける。よしよし、ぼくは頭脳労働専門だ。走るなんて以ての外! そもそも優雅じゃない。あくせく走ってねずみみたいにこそこそするなんて全く考えらんないね。周りが馬鹿者なら尚更さ!」
「な、…………もしや、貴方の異能、《与太話》は」
探偵は俺の手をぐいと引っ張り、立てと促す。それに従い立ち上がると、彼は大きく胸をそり、傲慢な表情でこう告げた。
「ふふん。まあわかるだろうとは思ってたけどな。でもまだネタバレは禁止だ、とっておきはクライマックスにとっておくものだぜ?」
それからぐるりと周りを見渡す。ふむ、ふむ、と頷いてから探偵は「ナア、アイザーンよ。お前は倫敦に詳しいか?」首をひねった。
「まあ、それなりには。」
「それじゃあレドゥンホールに向かう。案内しろ」
「横暴な」
「できない訳じゃなかろう? 色々と揃えるものもある。警察から足抜けしたからにはいつまでも制服を着るには行くまい」
「非合法組織に居たかのような物言いをしないでくれたまえ」
「時間はたっぷりあるんだ。何せ向こうは絶対にぼくとお前を見つけられない」
「とことんまで話を聞かないのだな」
「何を言う。民の言葉に耳傾けずして人の上に君臨などできないぞ」
なるほど、俺は民ではないということらしい。
「当然だろう。お前はぼくの助手だ」
「貴方の助手になった覚えは無い」
「ふふん、お前の人権はぼくの手を取った瞬間にぼくに譲渡された。感涙に噎び泣け」
「丁重にお断りする」
「ところでアイザーンよ」
「何かね」
「身長はいくらだ」
レドゥンホール。倫敦きっての商店街であり、古い歴史を持つと言われている。倫敦に訪れた観光客などは立ち寄って土産物を見物するし、地元の人々にも愛されるしでなかなかに盛況だ。量産品が出回る世の中で、手工業製品も取り扱う店が多いのも理由だろうか。
「前払いだ受け取れ、今すぐこれを用意しろ。グーデダッハ、ロビン」
「挨拶と要件の順番が逆でございますねミスタ? 相変わらずの上から目線で心の底から安心しました、客じゃなかったら店の外に叩き出してましたよチクショウめ。こんな夜更けに来るんじゃねえ」
探偵は地下へ続く階段を下り、重厚な扉を開けて中に入るなり作業をしている男の机の上に懐から取り出したメモと中身が詰まった黒の巾着を遠慮なしにどしりと置いた。男は大きなため息をつきながらぶつくさと何かを小声で呟いている。亜麻色の髪を無造作に後頭部で引っくくり、赤身の滲む白人の肌をした細身の男性だ。ちらり、と俺を見る。
「ようこそ。アンタも災難だね。俺はロビン・グッドフェロー、愛称はパック。よろしくミスタ」
「作業中失礼する。私はアイザーン・マクファーレン。よろしく頼む、あー、…………パック」
「よろしくアイザーン。ま、深い事は聞かねえよ。深入りしたくてたまらんが、俺は当事者にゃなりたくねんだ。その辺に座って待ってろ、取ってくる」
「言われずとも」
口を挟んだ探偵にパックは「知ってるよ」肩をすくめて、更に地面へ続く階段を降りていく。探偵は備え付けられていた、恐らくは客人用の待合椅子に腰掛け少し顎を上に向ける。
ぐるりと部屋を見渡す。隅から隅まで伸びるなにかのツタ、生える葉、地面を這う根。作業台は応接も兼ねているのか、出入り口のすぐ隣に位置付けられていた。入ってすぐに長椅子がある。ここに座れという意志を感じる位置付けだ。紙やら本やら巻物やら、革やら布やら金具やら、油指しに、あれはもしや火薬の瓶だろうか。あらゆるものが置いてある。奥にはくすんだガラス戸の棚があり、かすかに見えるあれはマスケット銃だろうか。遮るための仕切りがいくつか視界を阻む。企業秘密なのだろう。となれば、先程パックが降りていった階段が倉庫か。一体ここは何屋なのだろう。
「待たせたなアイザーン。アンタの相棒のクソ探偵の見立てがあんまりにもアバウトすぎて時間がかかっちまった。なんとなく合いそうなやつってオーダーする客はこいつ以外に見た事ねえよ」
ひょこりと顔を出したパックが持っていたのは、白いファーのついた濃灰色のコート、形状は同じで黒の色違いがもう一つ、同じく白いファーの、しかし赤いレザーのジャケット、黒のコルセットとベルト、赤のハーフフィンガーグローブ。微妙にデザインの違うどれも黒を基調としたブーツ。あとは首元まで覆う白のシャツ、赤色の同様のもの。諸々。諸々。…………なんだ、この量。なんだこれ。あとなんでどれもこれも腹筋が出るスタイルなんだ。俺の腹筋は見せつけるものじゃない。感情が顔に出ていたのか、パックは首を傾げてその山を差し出した。
「防寒対策はばっちりだぜ」
いやそういうことではない。病気は生まれてこの方あまり経験したことがないほど頑健な体を持っているがそういうことではない。
「いい感じだ。やはりお前の見立ては最高だ、ところでこの制服引き取る気はないか?」
俺が金を出す訳ではないからどんなものでも文句を言う筋合いはないのだが、いやそれにしても公然わいせつ罪とかに問われないだろうか。俺の社会的地位の保護を約束してほしい。あと俺の制服を取引材料にしないで欲しい。
「お、倫敦警察の制服はあんまり手に入らないんだよな。名前と番号は、入ってるか。まあいいや刺繍だしあとで外そう。いや別に外さなくても…………。おまけのバッグでもいる?」
なんだこれ。なんなんだこれ。
「白シャツ。赤のレザージャケットとグローブ。大振りの金のバックルの黒ベルト。黒のショルダーアーマーベルト。股上浅い、そうそれ、その黒のパンツ。ピアスは金の」
「ピアスは嫌だ」
断固反対した。
「ピアスは嫌だ」
「…………」
「ピアスは嫌だ」
大事なことだから三回言った。
「じゃあ、ピアスは無しで」
探偵が折れた。
パックは探偵の言った品物を取り分けて、それを俺に渡す。「奥で着替えてきな」なるほどついたての向こうはそういうスペースだった。
「あと、別にバッグは要らないようだから」
ワインレッドのリボンを差し出された。はて、と首をひねる。
「髪留めに使えよ。アンタは立派なブロンズだから、靡かせたら人目を惹く。かといって黒だの白だのじゃあ色が霞む。おまけだ、とっときな」
「ありがとう。君の気遣いに心から感謝する。それにそんな風に褒められたのは、久しぶりだ」
リボンは服やら靴やらの上に置かれた。両手が塞がった俺への配慮だろう。
「そりゃあよかった。ほら、早く」
背中を押される。
身なりに気を使うことは職業柄日常的ではあったが、こんな風に服を選んでもらうことはあまりなかった、いやほとんどなかったように思う。こんな時にと非常識かもしれないが、どこか心が沸き立っている。
ついたてで隠すようにして、服を着替える。白シャツは意外に分厚い生地で出来ていた。金の刺繍は洗練されて美しい。襟元を締めると不思議な安心感がした。パンツにも違和感がない。赤いジャケットなど似合うはずがないと割り切っていたが、何故かずっと昔に来ていたような感覚がするほどしっくりしていた。グローブは銃を使うためのものだろうか。薬指と小指は覆われておらず、扱い易さを感じる。うん、全体的に、こう、服に着られている感がある予感がしたのだが、何故か、こう、似合っている、気が、する。仕上げに赤のリボンで髪をくくり、制服を持って二人の前に出た。
「うん。いい感じだな。さすがぼくの助手だ、ぼくは豪華なのは好きだ! 制服はこいつに渡せ」
褒められている気がしない。
「お疲れさん。ああ、ちょっと待て、後ろ」
「後ろとは」
「そんなに引っ張ったら髪が抜けるぞ。禿げたいのか? あーほらもう、いいか、固く縛ってから、柔らかく蝶を作る。いいな? リボンは伸縮性が高い。そんなに軽く抜けやしねえよ」
「じゃあぼくは寝るぞおやすみ」
自由人か。
「こいつはほっとけ、完全な王様気質なだけだ。アンタも軽く寝なよ、体が資本だぜ」
パックの言葉に甘える。長椅子は探偵に占領されているから部屋の隅で膝を抱えることにした。せめてもと毛布を差し出される。有り難く受け取った。
「ああ言い忘れてた。アンタの銃、ちょっと弄っていいか」
「構わない。しかしどうするつもりだ」
「こいつは量産品だからな。精度を上げておく、あとその靴に装備できるようにしておいてやる」
いま、聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。
「靴に装備」
「あれ、言ってなかったっけ。その靴、踵に銃を収めることができるやつなんだ」
何それ聞いてないって。
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