5P〜 二日目 午後
「今、…………一連のと言いましたか」
「おお、言ったとも。前言は違えないのがモットーだ」
窓の外からけたたましい声が聞こえる。足音がいやに喧しい。流れ込む空気が煙臭い。白く濁って肺に溜まる。喉に溜まる。気道を圧迫されているような、感覚。
青空は見えない。
白い空気が赤い血の匂いと混じって雑臭になる。吐き気すらこみ上げる異臭だ。
足を引いた。思わず踵が乾いたカーペットを轢く。血で濡れて、そして乾いた毛は元の柔らかさを失って、ばり、と音を立てる。ぱきぱきぱき。これは何の音だ。なんの音だ。
自分の口が震えているのだと、アイザーンは初めて認識する。
「あなたは、何を知っているんですか」
目の前の探偵は口の片端を吊り上げ、唇の中に隠された八重歯を覗かせる。ふん、と大きく胸を張り、足を開け、腰に手を当て、顎を上げて彼は堂々と、尊大に笑った。
「色々」
ふわり。
風が髪を撫でる。はっきりと意識したことのなかった自分の金色の髪が視界の端をさまよう。
「さあ、それじゃあここで選択肢をお前に与えてやろう」
探偵は大きく腕を開いた。
抱きしめるかのように。
「具体的に言うと二つだ。一つは警察におとなしく捕まって人体実験の被験者になる。一つはここで逃れて完全に犯人になる。どっちがいい」
「じんたい……実験」
「そうとも、お前も聞いたことがあるだろう? 眉唾、あるいは単なる噂話として片付けられているが、それもじきに真実だと知らしめられる。そうでなくては、ぼくが呼ばれる意味がない」
目が回る。ぐるぐると。頭が軋む。重い。頭が重い。なんだ、なんの話をしている? 先が見えない。まるで何も、何も。
初めからなかったかのように。
「名もなき《偉大な男》の手により、それが生み出された。この世のありとあらゆる伝承、男の元来の妄想を詰めた途方もない量のそれだ。男が死んだ後でさえ、いや死んだ後だからこそ、それらは感情を持ち人々に寄生する。するとどうなる? それの本来の
「少し───少し待って下さい。何の話をしていらっしゃるのですか。理解が追いつきません、不可能です」
「いいや。お前は既に知っている」
探偵は窓に近付く。足取りはしっかりとしている。ゆっくりと、芝居掛かった動きで細く長い足が血濡れたカーペットを踏む。ばりばり、ばりばり。何の音だ。何の音だ。何の音だ。
どこかで、知っている音だ。
探偵は窓枠を掴み、身を乗り出して灰色の街を見下ろしている。そして顎を一度引いてから、口角を上げた。「ザルだな。やはり倫敦警察は信用できない」その呟きはどこかへ掠れて消えてしまったが。
腰を下ろし、彼はこちらを向いた。
「与太話…………お前の父親は、《与太話》に寄生され常人とは思えない力を得た後に《悪役》となった何者かに殺されたんだよ」
灰色の街を覆う、白く濁った空気。この部屋に満ちる赤い血の匂いと、腐食した肩の重み。
「ナア、アイザーンよ。真実に辿り着きたいか? 父親を殺した者を取っ捕まえて豚箱に放り込みたいか? それとも憐れむか? その人生を、その境遇を。好きにすればいいさ。ただし」
彼の体の半分が宙にある。片足を外へ放り出して、右手は彼の頭の上の庇を掴んでいる。
「ぼくは勘弁被るね。柔らかな生ぬるい天国なんかクソ食らえだ。君主は支配されるのではなく支配する側だからな。まあそれはそれとして」
左手は俺に伸ばされた。
「ぼくとダンスをする気は無いか?」
ノックを三回。
返事はない。
ノック三回を、もう一度。
やはり返事はない。
ノブを回す。
そこでようやく彼は気が付いた。
「くそ、してやられた…………!」
その部屋の主人であった人の形を留めていない死体だけが、取り残されたように、影もなく佇んでいたことを。
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