Memory 1 赤い光と迎える事なき三百年

1P〜 初日

 大通りを脇に逸れて小道を抜ける。転がるごみと、欠伸をする猫。ずっと先に灰色のドアが立っている。何の変哲もないアパートメントのようだが、節々に見られるアンティーク調の銀細工や、蔦の巻き付いたようなデザインの窓はこの建物がある程度の歴史を有するものだと感じさせる。古いだけではないようだ、と値踏みをするように目を細める。郵便受けは黒く錆びている。埃が溜まって、その上何故か枯れた葉っぱと大量の手紙が積み上げられ今にも落ちそうだ。表札の名前も掠れて全く読めない。人の気配を感じない建物だ。備え付けられた階段にも埃が積もり、塗装は剥げて痛々しい。それに足を踏み入れる。張った蜘蛛の巣の糸を横目で眺めながら登っていく。ところどころ地面に散らばっているのは時間が経って黄ばんだメモ用紙だ。手帳のページを破ったものや、広告の裏に殴り書きされた文言がいくつか目にとまる。英語ではない言語。

 彼が目配せをする。顎を引いて応じ、一歩下がる。彼は拳を掲げ、軽くノックを三回。

「こんにちは、ミスタアンデルセン。倫敦ロンドン警察だ、開けてもらえるかね?」

 反応はない。「ハロー、ミスタ?」もう一度、と声をかけたが、やはり反応はない。ふむ、と首肯し、彼はドアノブに手を掛ける。白い手袋に覆われた無骨な手が錆びた突起をひねる。何の抵抗もなく、その硬い門は開かれた。光が射す。


こんにちはGoededag.


 グーデダッハ…………明らかに英語ではない。訛りでもない。特徴的な声は透き通るようだったが、上から降り注ぐ高圧的なものを感じさせる。立場、階級、生まれに育ち。歩んできたものがまるきり違うことを、別の世界に立つ人物であることを一瞬で嫌というほど教えられる、そんな声、喋り方、アクセント。はなから雲上の者であると、理解させられる。内開きの扉が部屋から吹き込む風に押されて独りでに大きく開いた。

 はためく白いカーテン、そして窓。射す光は逆光になって、話しかける人物の影のみを映し出す。


お会いできて光栄ですAangenaam kennis te maken.


 太陽が雲の下に隠れた。光が和らぎ、その姿があらわになる。長く細い脚を組み、アンティーク調のダイニングチェアに腰を下ろして肘置きに腕をのせている。蝋のように白い肌と、黒曜石の瞳と同じ色の、ふわふわとしている髪。黒の手袋。大きく胸元を開いた黒のシャツはランタン袖。長い首に際立つ黒い皮製のチョーカー。黒を、黒だけを見に纏い、まるで彼そのものが影であるかのように、不敵に笑っている。伸びた背に衒いはない。

 空気が違う、と思った。

 ほんの少し先が異世界であるかのようだ。白く淀んだ大通りの風を攫う。…………?

「何故青空が見えるんだ」

 そう、何せこの国は年中霧に覆われている。雨のやたら多いため、青空が見える日の方が少ないくらいで。しかも産業革命だのなんだので汚い排煙がそこらに満ちている。そんな中で、青空に太陽光など。

 喉の奥で笑う音が響いた。

「まあ、細かい事は気にしないでいただきたい。なんせここはイングランドじゃあない」

 ついさっきまで異国の言葉を発していた男は突如流暢な英語を操り、両手を大きく広げた。猫のような瞳を曲げて、アンデルセンは笑う。

「ああ、自己紹介を忘れていました。私はヨハネス・クリスチャン・アンデルセン、お気軽にヨハンとお呼びください」

 あなたは? そういうようにして、彼は二人の招かれた客人に手を差し出す。はっとした顔ののち、扉を開けた彼が重く口を開いた。

「倫敦警察、レイカール・リーヴェシェラン。警部だ。彼は私の部下で、今回同じ任務についている。名前をアイザーン・マクファーレン」

 頭を下げる。四十五度の儀式的な大振りの会釈はお気に召されたようだ。にこりと口角を上げて、アンデルセンは肘掛の上の手を組む。

「君のリクエストに最大限応じた結果だがね。如何かな?」

「完璧です、ミスタリーヴェシェラン。私は全時代的なお年を召されたお方は不得意なので。円滑なコミュニケーションが築けそうだ」

「だといいがね。彼は彼で見た目によらず堅物だ」

「外見は重要ですよ。だから私もこうして、見様見真似で探偵らしき服装を纏っている」

「潜入捜査には向かなそうだがな」

「特に不都合ありません。私の専門は頭脳労働ですので」

「ではその頭脳労働をして貰おうか」

 小脇に抱えた鞄から資料を取り出し、彼は紙の束を差し出しながら足を組む探偵に近付いた。手を伸ばして受け取り、足を組み替える。ざらりと目を通しているのだろう、ページを捲る手は緩やかだが、しかし雑だ。右に、左にと流れる瞳はどこかつまらなそうに見えた。最後まで目を通してから、ふん、と息を吐いて紙の束を右手で掴み左手の掌で叩く。

「なるほど、なるほど。ある程度はわかりました、ある程度は。これはお返しします」

 探偵は束をレイカールに向ける。それを受け取って、鞄にしまい直した。

 探偵は先ほどと一片たりとも変わらぬ笑顔で笑ってこう言った。

「さて、それでは一から説明をお願いします」

「どうしてそうなる…」

「紙面上の文言は簡潔ですが、そこに感情が見られません。私はあなたの感情が知りたい」

 組んだ足を解いて、地に下ろす。膝のあたりに肘を置き、前屈みになる。そうして組んだ手の甲の上に顎を乗せ、アンデルセンは含み笑いをした。

「謎を解くのは探偵の領分に決まっていますから」

 ひゅっ、と。レイカールの喉から奇妙な音がした。

 彼は瞳を重く閉じて、深く息を吐く。そして後頭部を乱暴に引っ掻いた。

「俺は根っからの警察官なもんで、仕事に私情は突っ込まない。それでもいうならこいつを連れて行ってくれ」

 左手の親指が背後に向けられる。それが己に向けられているのだと認識できたのは、しばらくしてからだった。いや、認識はできていた。できてはいたが、脳が処理をしなかったのだ。

「元々そのつもりだったんだろう。この事件に関連する資料、後は仲介。それが、が事件に関わった場合のの役割だ」

「有り難い。言葉の通じる相手で助かります」

「なんとでも言え」

 レイカールは振り向いた。諦めを含んだ顔。参ったと言いたげな表情。竦めた肩。

 出だしの自分にはわからないルールのようなものが、あるのだろう。

 与えられた役割があるならば、それをこなすのみ。

 後は任せたと、そういうことだろうか。

「それではマクファーレン警部。犯行現場に案内して下さい」

 片目を眇めた特徴的な笑い方の探偵は、正義のかけらも浮かばせず、笑うという名の無表情を貼り付けたまま、右足の爪先で床を叩いた。

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