ep.36 利用価値
二年前の嫌な感覚に襲われつつも、まだ大丈夫、と自分を奮い立たせる。でも、今日のところは退散、でも良いのかもしれない。
「……じゃ、あたし帰るわ」
「待ってください、優里乃さん」
弟子に、制止される。
「何?」
「頬、腫れてます。……冷やした方がいいかも」
「こんくらい大丈夫よ」
「でも、顔ですから! ムリしないでください」
春樹くんの顔が、少し悲しそうに歪む。
「俺んち、ここから近いんで。……もし良ければ、手当てしますけど」
女性を部屋に上げる意味、分かっていないのかな。
「本当に大したことないし」
「だったら、今すぐ病院行きましょう」
いや、どれだけ過保護なのよ。
「じゃあ、春樹くんちでいいや、よろしく」
半ば投げやり。だってもう、本当に何でもどうでもいいもん。
「……って訳で、いずれにしてもお暇致します! じゃあね!」
もう二度と、お前らなんか会いたくねー! ……とまで言い切るのは難しいけれど、会わなくたって後悔しねー! なら、平気で言える。……バイト、結局辞めるのかな、あたし。
二人で、しばらく無言で歩いていた。ふいに、熱をもった頬が、ひんやりとした。
「冷え性なんで」
春樹くんが、ぶっきらぼうに呟いた。彼の手は、冷たくて、赤くて、少し震えていた。
「明日から、12月だよ」
「……優里乃さんが卒業するまであと4ヶ月」
タイムリミットを突きつけられて、正体不明の焦りを覚えた。
――あたし、まだきっと後悔しているんだ。
――まだ、解決してないことがあるんだ。
明確ではない、何か――
❄️ ☃️ 🌨️
「お邪魔します」
「お邪魔されます」
春樹くんの部屋は、お世辞にも片付いているとは言いがたかった。ベッドの横に座らされる。
氷の入ったパックをタオルにくるみ、渡してくれた。あたしはそれを頬に当て、目を閉じた。そんなあたしの横に腰を下ろし、顔を覗き込んでくる。
「ありがとう」
「いえ」
「なんで春樹くん、あそこにいたの」
「……優里乃さんの話を聴いて、不安になった。なにか起こるんじゃないかって。だから、バイトのシフト周辺は、あの付近に居ようって。そしたら、案の定でした」
じゃあ、3時間ほどあそこにいたんだ。すっげぇ根性。
「あたし、春樹くんの師匠なのかな?」
「は?」
「だって、弟子なんでしょ」
「あー、……あれか」
春樹くんは、ちょっと困ったような顔をして、ため息をついた。
「……俺らの関係が何なのかって問い、ぶっちゃけムズくないですか」
「師弟関係……?」
「そう言っておけば、訳わからないけれど無難、だと判断したまでです」
じゃあ、本当の関係は? ――心の中でくすぶり続ける、謎。
「そういえば、サシ飲みの話、忘れてません?」
「……言われてみれば」
「ぶっちゃけ、迷惑だったりしましたか」
「そんなことない。本当に忘れてただけだから」
「それなら、良かったです。……あの」
春樹くんは春樹くんで、何か言いたいことがあるようで。
「優里乃さんと居ると、たまに寂しい」
「あたしと一緒に居ると……?」
「いつか、終わりが来る時間だとか、近づくほど遠く感じる距離とか」
なんだか、なぞなぞみたいな言葉遣いだ。でも、少なくとも前半は理解できる。
「4ヶ月、ねぇ……」
「変な質問してもいいですか。――俺ら、優里乃さんが卒業したら、会ってないと思いますか」
「どうだろう? 春樹くんが必要だと感じるなら、会ってるんじゃない」
「俺が?」
「うん。春樹くんにとって、あたしが利用価値が有るんだとしたら、ね」
「利用価値……?」
予想外の言葉に驚いた様子。
「そう。利用価値。勉強習えるとか、就職の話聞ける、とかね」
何でだろう。利用されるのが、一番嫌いなのに。自分が損して、他人だけが得をするのが、許せないはずなのに。
春樹くん相手だったら、そんな関係でも仕方ないんじゃないかって、そんな気がしてしまったんだ。今でも、そんな歪んだ関係に、甘んじている。
「……俺、そんなつもりで優里乃さんと居たんじゃないです」
「そう、ありがと。……でも、初めて声をかけたときは、ぶっちゃけそういうつもり、だったでしょ?」
「……違う、」
絞り出すような声。
「あのときの態度、そのまま受け取ってもらったら……困ります」
そして、あたしのことをまっすぐに見つめる。
「……体に触れても、いいですか」
突然、何だろう。勿体ぶるほどのアレでもないけど、さ。
「いいけど」
「……」
そして、抱きしめられる。
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