第5話千歳から新千歳空港へ、そして…
Episode5 千歳から新千歳空港へ、そして…
1
朝は毎日平等にやってくる。
どれだけ夜が明けなければいいと願っても、残酷なほどに。
そもそも僕は朝が苦手な方で、今朝は特にそう願わずにはいられなかった。
夜通しタイムリミットまで速度を変えずに時刻を刻む時計と、アヤの寝顔を何度も交互に眺めていた。
「そろそろ起きなきゃ」
あれからほとんど眠ることができなかった僕は、隣のアヤを揺り起こす。
アヤが乗る予定の飛行機が飛び立つまで、あとおよそ二時間。
「…うん」アヤものっそりと起き出す。「うー、まぶたが腫れぼったい…」
「確かに」僕はアヤのまぶたをそっと撫でながら言った。「たくさん泣いてたからね」
「誰かさんにたくさん泣かされたからねー」
そう言って悪戯っぽく微笑むアヤ。
「それはお互い様」
僕はアヤのまぶたを撫でていた手を、そのままアヤの頭に回してきゅっと抱きしめた。
なぜだろう、アヤと一緒にいられるタイムリミットはあと約二時間とわかっているのに、こうしてアヤと話をしていると実感が薄れていく。
ずっとこうしてアヤの声を直接聞いていられるような、アヤの温もりを全身で感じていられるような、そんな気がした。
「ねえコウジ」僕の胸の中でアヤがつぶやく。「アヤのこと…忘れちゃいやだよ?」
「ばっきゃろー」アヤの口癖をまねて僕は答えた。「忘れるわけないし、忘れられるわけないよ」
「ありがと…」
「それに」アヤの柔らかい髪に口づけしながら続ける。「どこの誰だっけ、二度と会えないみたいな言い方しないで、って言ってたのは」
「そうだったね」僕の胸の中でくっくっくと可笑しそうにアヤが笑う。「次はコウジが会いに来てくれるんだもんねー」
「そうだよ」
そう言って、僕はアヤの顔を胸から離して柔らかな唇にそっと口づけした。
「もう一回」
アヤが唇を突き出す。
僕はそれに応えた。
「もう一回」
それでもやめないアヤ。
僕は何度も何度も応えた。
キミの唇はいつもなんだか甘かった。
キモチ的なものもあるのだろうが、味覚的な意味でも甘い。
砂糖を舐めたような攻撃的な甘さではなく、子どものころに吸った花の蜜のような懐かしくもある甘さだ。
僕はキミとのキスが大好きで、口づけするたびに頭の芯がしびれるような感覚に陥る。
だから何度も僕からもキスをした。
「コウジといると、リップクリームの減りが速い」
そう言ってキミは笑っていた。
確かにキミは、釧路のコンビニででリップを一本追加で買っていたね。
2
何気なくテレビを見ている時。
本を読んでいる時。
一人でいる時。
アヤのことをまだ知らなかった時。
そして、新千歳空港でアヤを待っている時。
そんな「時」の二時間は緩慢に流れていくのに、アヤと一緒にいる「時」のそれは時間が流れていくのも忘れるほどに、そして驚くほど速く過ぎていく。
「もっとこうしてくっついていたいけど」僕から体を離しながらアヤが残念そうに言う。「もうそろそろ支度しないと」
僕は時計を見た。
まだ十分間ほどしか経っていないと思っていた時間が、すでに三十分を過ぎている。
残り、一時間半。
「もう…こんな時間か」
昨晩、ホテルのフロントに問い合わせたところ、ここから新千歳空港までは車で十分から十五分程度で着くという。
だからと言ってあまりのんびりはしていられない。
万が一にも搭乗手続きの時間に遅れてしまって、アヤが飛行機に乗れないなんてことはあってはならない。
「アヤはメイクとかしなくちゃならないもんな」
「うん、ごめんね」心底申し訳なさそうにアヤは言う。「でも、今からじゃがっつりメイクはできないから眉毛描くだけにしとく」
「それで大丈夫なの?」
するとアヤは自嘲気味に言った。
「誰もアヤの顔なんて見ないら?」
「僕が見るよ」
「コウジにはすっぴんも何もかも見せてるから」
「それもそうか」
つられて僕も笑う。
なんでもない朝の風景。
これがいつも生活している部屋で、いつも隣にいられる者同士なら。
そうであれば、あたかもこれからふたりでちょっとお出かけ、のような会話だ。
ふたりでどこかに出かけて、休日を満喫して再び同じ部屋に帰ってくる。そんな日常の朝。
しかし僕たちは今日この部屋を出ると、ここには帰ってこない。
僕はカーテンを開いた。
どんよりとした雪雲がいまだに空を覆ってはいるが、朝の柔らかな日差しが部屋中を優しく包み込む。
雪はいつの間にかやんでいた。
眼下に見える千歳の街は昨夜とは打って変わってきらびやかな雰囲気は息をひそめ、いまだに目覚めを拒否しているようだった。
しかしそんな雰囲気をよそに、街を行き交うトラックはすでに働いていた。
航空貨物と書かれたコンテナを背負ったトラックが多いのは、新千歳空港が近いからなのだろう。
この中のどれか一つくらいは、アヤと同じ街へと向かうのだろうか。
「コウジ」不意にアヤの声が僕の背中に届く。「何考えてるの?」
振り返ると、アヤは鏡の前でメイク道具を手に持ったまま不安げに僕を見上げていた。
「たいしたことじゃないよ」僕はアヤの背中を抱く。「空港行きのトラックがたくさんいてさ。あの中の荷物のどれか一つくらいはアヤの街まで行くのかな、なんて考えてた」
「北海道からの荷物ねー」すると突然アヤはおかしそうに笑いだした。「コウジと知り合ってから、スーパーとかで買い物してるとついつい〝北海道産〟って言葉に目がいっちゃうんだ」
「そう言えば前にも言ってたね。テレビで釧路川のシシャモ漁が映ってた、とか」
「そうそう!」
「びっくりしたよ、そっちでも釧路川が映るだなんて。しかも僕の家のそばだったし」
「ねー」相槌を打ちながら懐かしそうに目を閉じるアヤ。「アヤ、ホントに釧路まで行ったんだね」
「そうだよ」僕はアヤの頬に軽くキスをして、ぽんっとアヤの肩をたたく。「ほら、早く支度しないと」
改めて考えると、やっぱりすごいことなんだね。
時代が時代なら僕たちは決して出会うことはなかった。
きっとお互いの存在を一度たりとて認識することなく、それぞれの生活を営み、それぞれの人生を終えていたことだろう。
でも、僕たちは出会えた。
キミと出会えたことで、キミの住む街は僕にとって身近なものとなったんだ。
だって、それまでは特に気にも留めていなかったのだから。
お茶なんて京都産が最高だと思っていたし、魚介も北海道が一番だと思っていたしね。方言も知らなかった。
それが今じゃ地元や北海道に次いで一番詳しくなったかも。
でも、やっぱり遠い。
せめて北海道の物や釧路の物が、キミの元にたくさん届くように。
僕からキミに何かを送ることはできないけど、せめてこの街を行き交うトラックたち、そして飛行機なんかがキミに届けてくれるといいな。
そんなことを考えていたんだよ。
3
「ごめんね、時間かかっちゃって」
アヤが慌ててコートに袖を通す。
僕はすでにいつでも出られるように準備はできていた。
「大丈夫だから落ち着いて」
「大丈夫じゃないよぉ」今にも泣きだしそうな声のアヤ。「朝ごはんゆっくり食べたかった!」
「仕方ないね、できるだけ急いで食べよう」
残り時間はおよそ一時間となっていた。
新千歳空港まで車ですぐとは言え、チェックインや手荷物預かりなどのことを考えると、あまりゆっくりはしていられない。
最後に、五日前に来た時と同じブーツを履いたアヤはぐるりと部屋を見渡す。
「忘れ物は…ないね」
「さっき確認したよ」
「そっか」
そう言って、アヤはもう一度部屋を見渡した。
そしてふっとため息をひとつつく。
「どうしたの?」
僕はアヤの背中に話しかける。
「ううん」背中を僕に向けたまま、アヤは小さく頭を振った。「もう、ここには帰ってこないんだな、って思ったらなんだか寂しくなっちゃって」
「そうだね」僕もアヤに共感する。「一晩だけだったけど、思い出の部屋だ」
そう、今回の旅でいくつかの宿に泊まったが、僕にとってはこの部屋がきっと一番思い出深い部屋になる。
初めて一緒に入ったお風呂もこの部屋だし、初めてアヤの本気の涙を見たのもこの部屋だ。
そして、今回最後の夜を過ごしたという意味でも。
初めてのアヤとの「出会い」を締めくくる、記念の部屋なのだ。
きっとアヤも同じことを考えているのだろう。
アヤはもう一度大きくため息をつくとキャリーバックを引き、僕に向き直る。
「行こう、遅れちゃう」
このホテルは幸いにも宿泊費が前払い制だったので、すでに清算は済ませてあった。
したがって簡単なチェックアウトの確認だけで手続きは終わった。
すぐに僕とアヤは朝食が用意されているレストランへと向かう。
二つのキャリーバッグを傍に並べて、僕とアヤはテーブルについた。
「最後に一緒に食べるごはんがこんなにあわただしいなんて、ちょっと残念」
「そうだね」そう言いながら僕はさっそくスクランブルエッグをかきこむ。「ほら、早く食べちゃわないと」
「なんだか食欲なくて」そう言ってお腹をさするアヤ。「アヤの分も食べていいよ」
「どうしたの、アヤらしくない」
「だって」アヤは軽く頬を膨らませた。「朝ごはん、そんなに急いで食べれないんだもん」
大急ぎで朝食を済ませた僕とアヤは、駐車場に止めてある僕の車に向かった。
シルバーのスポーツワゴンタイプのその車体は、連日の長距離ドライブでうっすら汚れている。車輪が跳ね上げた泥まじりの雪が車体側面に走った距離と比例して付着するのだ。
雪深い地方ではごく当たり前のことで、忌々しいことでもあった。
しかしこの汚れの分だけアヤと一緒にいたこと、アヤとたくさんこの車でドライブしたことを思うと、なんだか今は大切なものに思える。
アヤと一緒にいた証なのだ。
「だいぶ汚れちゃったね、車」
アヤがそっと助手席のドアを撫でながら言った。
「そうだね」僕はトランクを開けながら応える。「でも多分しばらく洗車できないな」
「どうして?」
「だってアヤと一緒にドライブした証だよ」アヤのキャリーバッグをトランクに詰め込む。「洗えるわけない」
「でもいつかはちゃんと洗いなよー、車が可哀そう」
キミは僕の車にたくさんの物を残していった。
持ってきたものの使うことのなかったカイロ。
ふたりで買ったけど食べきれずに残したグミ。
助手席のドアにシートベルトの金具をはさんじゃってキミが付けた、僕がこの車に乗り換えて初めての傷痕。
そして思い出。
キミと初めて会ったあの日以来、一度も助手席に妻は乗せていない。
だってこの五日間でこの助手席はキミの指定席になったのだから。
4
新千歳空港へは、ホテルのフロントの言うとおり約十分で着いた。
しかしあまりのんびりしている時間はない。
車を降り、僕はアヤのキャリーバッグを引いて駐車場と空港ビルへと昇るエスカレーターを目指した。
心なしかアヤのキャリーバッグは来た時よりも重くなっている気がする。
いや、実際に重くなっているのだろう。
家への土産物も、ふたりで出かけた先でいくつか買っていたし、何より思い出の重さがある。
いざエスカレーターに乗ろうとしたその時、アヤがふと立ち止まる。
「ここって」
「ん?」
アヤの声に気づいて僕も立ち止まり、アヤを振り返った。
するとアヤはおかしそうに笑いながら言った。
「アヤが花畑牧場のソフトクリームを溶かしてこぼした所だよね」
「そうそう、会っていきなりのおもしろエピソード」
「また」すると、寂しそうな声に変わるアヤ。「戻ってきちゃったんだね」
そう、この新千歳空港で今回のふたりの旅は始まり、そしてこれからここで終わりを迎えようとしている。
僕は空いた方の手でアヤの手を握った。
「帰っちゃやだなぁ」
「アヤだって帰りたくないよぉ…」
「もっと、いろんなところに連れていってあげたかったな」
「うん…行きたかった」
「次はたくさん、アヤの地元を案内して?」
「うん…いろいろ考えとくね」
「さて」僕はアヤの髪をくしゃっと一撫でした。「行こう」
搭乗手続きを終え、キャリーバッグを預けた僕たちは一気に身軽になった。
アヤが保安検査を受けなければならないタイムリミットまで、あとおよそ十分。
それまでに僕はどうしてもアヤを連れて行きたいところがあった。
「ねえ、どこに行くの?」
アヤは不思議そうな顔でついてくる。
「着いたらわかるよ」
おそらくほとんどの空港がそうであるように、新千歳空港は二階が出発ロビーになっていて、一階に到着ロビーがある。
僕はアヤの手を引いてエスカレーターに乗り、一階を目指した。
一階に到着して少し歩くと、とある売店が目に入ってくる。
「ここって…」
アヤも気付いたようだ。
「そう、アヤが靴の滑り止めを買ったところだよ」
「うわー、ほんの五日前のことなのになんだか懐かしい」
アヤが目を輝かせながら早足に歩く。
「僕はあの時のアヤの態度から、僕にがっかりしたんじゃないか、って思った」
「まだ言う?」可笑しそうに笑いながら振り返るアヤ。「だから緊張してたんだって」
「一生言うから」そんなアヤに対して悪戯っぽく返す。「言い続けてやる」
「今、一生って言った?」にやりと笑うアヤ。「言ったよね」
「言ったよ」
その僕の言葉を聞いて嬉しそうにアヤが笑う。
「それはプロポーズとして受け取っていいんですかー?」
「どう受け取るかは任せるよ」
「へー」心なしか足取りがさらに軽くなるアヤ。「じゃあ任せてもらうことにしよう」
「うん、よろしく」
そう言って、僕はアヤの手を引き方向を変える。
売店を背にしてする形になると、目の前にあるのは飛行機に乗ってきた人たちが吐き出される、とある到着口だ。
早い時間帯もあってかガラスの向こうの中は閑散としていて、数人いる係員しか見えない。
「僕はね」アヤの手を強く握る。「ここでアヤが来るのをこうして待ってたんだよ」
「知ってる」アヤも強く握り返す。「見えてたもん」
「アヤなら飛行機を降りたときから携帯で連絡してくれると思ってたから、必死でiPhoneを持ってる女の人を探したんだ」
アヤは黙って聞いている。
「そしたらやっぱりすぐに電話してくれたね。だから話しながら必死で探した。でもすぐには姿が見えなかったよね」
「だって…恥ずかしかったから」
「うん。そしたら柱の陰に隠れてるって言うんだから」僕はその時のアヤを思い出して、思わず噴き出した。「で、〝顔見せて〟って言ったら、一瞬だけひょいって顔出したね」
「やめて、恥ずかしい」
そう言ってアヤは空いた手で顔を隠していやいやをする。
「あの時のアヤ、もぐら叩きみたいでホントに可愛かった」
僕は構わず続けた。
今を逃すと、この心の中にある思いを直接アヤに話すことができるのは半年後になってしまう。
「好きになるキモチって見た目だけじゃないけど、アヤは僕のどストライクだったよ。初めは顔も知らない姿も知らないで始まった恋だけど、アヤの姿を見た瞬間に改めてもう一回アヤに恋に落ちた。落とされたんだ」
「もー、ホントにアヤばかっ!」アヤはつないだ手をぶんぶん振る。「でも嬉しい、そんな風に思ってくれて」
「アヤ」
僕は改めてアヤをまっすぐに見た。
アヤもその雰囲気を察したのか、僕を正面に見つめ返す。
「この五日間、ホントに楽しかったよ。会いに来てくれてありがとう。アヤと実際に会って、ますます好きになった。毎日アヤのことを好きになったよ」
「アヤも勇気を出して会いに来てよかったよ。アヤも楽しかった。コウジのこと思ってた以上の人だったよ」
その時、館内放送が響き渡る。
それはアヤが乗る飛行機の保安検査の最終案内であった。
タイムリミットだ。
僕とアヤは再び二階へと向かうエスカレーターに乗った。
ここを昇りきってしまうと、保安検査場は目の前だ。保安検査場に入ってしまうと、目の前にアヤがいるのに一切触れることすらできなくなってしまう。
エスカレーターの半分ほどまで上がった時、僕はアヤにお願いした。
「キスさせて、最後のキス」
「う…恥ずかしいよ、誰かに見られちゃう」
あと五メートル。
「誰もいないよ」
「でも…」
あと三メートル。
僕はアヤの左頬にそっとキスした。
「うっひゃあ!」
そして僕たちはエスカレーターを昇り切った。
離れたくない。
返したくない。
またキミに触れることすらできないなんて…嫌だよ。
5
「富士山静岡空港へご出発のお客様の保安検査場はこちらになります」
アヤが係員の女性にいざなわれて、保安検査場に向かう。
僕たちが思っていた以上に時間は切迫していたようだ。
もしかしたらアヤが最後の搭乗客なのかもしれない。
僕は保安検査場のぎりぎりのところまでアヤと手を繋いで行った。
そしていよいよ検査場入口のゲート直前の所で、見送り客の限界まで来てしまう。
「コウジ…」アヤは手を離そうとしない。「体、大事にしてね」
「うん」
「あんまりタバコ吸いすぎちゃだめだよ」
「うん」
「釧路までの帰り道、アヤは隣にいてあげられないけど気をつけてね」
「ああ…」
「コウジ」はっと顔をあげると、アヤはムッとした顔で僕を見つめていた。「これで最後じゃないんだから、笑ってバイバイしよ?」
そう言ってからふんわり笑うアヤ。
しかしその目だけは今にも泣きそうだった。
「そう…だね」僕も笑う。「アヤ、元気でな」
「うん」
「アヤが乗る飛行機、見送ってから帰るから」
「え?」アヤはあわてて頭を振る。「そんな、いいよ。これから一人で長く運転しなくちゃならないのに」
「大丈夫だよ。携帯の機種変してから帰るんだから、そんなに時間は変わらないから」
「…そう?」申し訳なさそうに上目づかいで僕を見ると、すぐに嬉しそうに笑う。「じゃあ、お願いしようかな」
本当ならば、もうこの手は離さなくてはならない。
送り出さなくてはならない。
しかし、僕からはどうしてもできなかった。
「コウジ…」
「アヤ」
「コウジ…、もう行くね」
「ああ…」
アヤがそっと僕の手から自分の手を抜き取る。
その指先が離れる瞬間、もう一度アヤの手をつかみたくなる衝動を僕は必死で抑えた。
「行ってきます」
アヤは確かにそう言った。「帰る」や「またね」ではなく、「行ってきます」と。
「ホント鈍感」僕がその真意を測りかねていると、アヤが拗ねたように言う。「今のアヤとコウジがどんな形や関係であれ、アヤが帰りたい、って思うのはコウジの隣なんだよ?」
僕がハッとしていると、もう一度アヤは繰り返した。
「行ってきます」
今度は僕も迷わない。
「行ってらっしゃい」
そしてアヤは踵を返し、保安検査場へと入っていった。
アヤが金属探知機をくぐり、手荷物のエックス線検査を通過したのを見届けると、一気に実感がわいてくる。
今こんなに目の前にいるのに、もうこの手はアヤに届かない。
声を出せば届くであろう距離にいるのに、アヤに触れることはできない。
次にアヤの柔らかな手を握ることができるのは半年後。
胸の中に大きな石の塊でもつまったかのような閉塞感を感じた。これで二度と会えないわけじゃないのに、小さな絶望感が僕の体にじわりと広がっていく。
アヤはそんな僕の気を知ってか知らずか、もう一度僕の方を振り返り、小さく手を振った。
僕も何とか笑顔で手を振りかえす。
そしてアヤは出発ロビーの奥へと姿を消した。
僕はすぐに振り返り、保安検査場前を後にする。
そして早歩きで空港の三階へと向かった。
以前、新千歳空港に来た時に三階に展望デッキを見かけた記憶があったからだ。そこからなら、アヤが乗った飛行機が見えるはず。
飛行機が飛び立つまであと十分。
僕は急いで三階へ向かうエスカレーターを目指した。
エスカレーターに着いた僕は、まるで子どもが階段を駆け上がるかのようにエスカレーターを駆け上がった。
初めて会って、初めてキミとドライブをした五日前。
本当に初めて会った気がしなかった。
キミといると何もかもが満たされて、いつもの僕でいることができたんだ。
そんなだからかな、もうしばらくはキミと会うことができないなんて信じられなかった。
また少し時間が開けば、「トイレ行ってきた」くらいの軽い感じで、キミがひょっこり出てきてくれるような…そんな気さえしてたんだ。
6
しかし。
『冬季期間中、安全のために展望デッキ閉鎖』
無機質なフォントで書かれた看板が、展望デッキ入口の扉にぶら下がっていた。
一瞬目の前が真っ暗になった気がした。
これではアヤとの約束が果たせない…。
僕は弾かれたようにその場を後にする。
どこか、どこかにアヤの乗った飛行機が見えるところはないか。
僕は必死で探した。
そしてふと思い出す。
花畑牧場の喫茶スペース。そう言えばアヤとソフトクリームを食べたときに夜の滑走路の明かりが見えていた。
そこしかない。
僕は思わず駆け出す。
時間がある程度経ち、空港内には人出も増えてきていたので僕はその人々の間を縫うように走った。
途中、何度も誰かにぶつかりそうになる。
そんなこと、構わない。
アヤ…、アヤ…。…アヤ!
心の中で何度も名前を叫んだ。
ところが、だ。
不幸は不幸を呼ぶらしい。
花畑牧場は開店前で、その店の入り口には人間の侵入を拒むようにロープが張られている。
万策尽きた。
これ以上、滑走路を眺めることができるところはなかった。
駐車場に向かって歩いていた。
空港に入る際、アヤのキャリーバッグを持つ関係で自分の荷物は何も持ってきていない。飛行機に乗ることのない僕にとって、何も必要なかったというのもある。
ついさっきまで持っていた物の重みがない。
ついさっきまで隣にいてくれた人がいない。
ついさっきまで握っていた手がない。
それだけで僕の心は喪失感でいっぱいだった。
そしてそれを実感した瞬間、胸の奥がぎゅっとつまり、涙となって両目にたまり出す。鼻の奥も痛い。
だけど僕は必死でこらえた。
僕とすれ違った家族連れの少女が僕の顔を見て振り返った気がしたが、気にしていられなかった。
そしてターミナルビルを出ると、目の前には駐車場へと降りるエスカレーターがある。
このエスカレーターに乗るのは四回目だな…。
そんなことを考えていた。
一回目はアヤを迎えに行くとき。
二回目はアヤを迎えて車に向かうとき。
三回目はついさっき。アヤを送るまえだ。
そして四回目。
こんなにもひとりって…さみしいもんだったかな。
エスカレーターを降りて車に向かう。
歩きながらターミナルビルをふと振り返って見た。
滑走路は巨大なターミナルビルをはさんで、この屋外駐車場の反対側にある。
当然滑走路はおろか、飛行機の機影すら臨むことはできない。
幸いにもエスカレーターのそばの駐車スペースを見つけて車を止めていたので、すぐに自分の車を見つけることができた。
丁度僕は助手席側に向かって歩いている。
当たり前なのだが、助手席には誰もいない。
空っぽだ。
ついさっきまで、そこにアヤがいたのに。
そんなことを考えながら運転席側に回り、開錠してドアに手をかけたその瞬間。
空全体をびりびりと震わせるような、低い轟音が辺りに響き渡る。
その轟音は次第に大きくなり、僕の体をも揺さぶり始めた。
僕は思わず時計を見る。
アヤが乗る飛行機の離陸予定時刻だった。
何度も飛行機に乗って地元と北海道を往復してきたのでわかる。このうなりは飛行機が滑走路の入り口に立ち、飛び立つために一気にエンジンをふかしている音だ。
僕は飛行機の姿も見えない空を見上げた。
相変わらずどんよりと曇っている。
そして轟音は爆音へと変わり、次第に離れていく。
この音とともに、アヤは空へと飛び立っているんだ。自分の街へと。
飛行機が地上にいる間なら、もしかするとキャンセルすればアヤは降りることができたかもしれない。しかし飛行機が一度浮かび上がってしまうとそれは絶対にかなわない。
気が付けば、堪えきれずに僕は泣いていた。
もう、届かない。
半年後なんて、やはり遠すぎる。
僕は運転席に体を落ち着け、声を上げて泣いた。
「アヤ…!」
助手席を眺めるとやはり空っぽ。
ついさっきまでそこにアヤがいた気配だけが残されている。
あの時は泣いたな…。
これほどまでに泣けるのか、と思うくらい。
キミがそばにいないということが、こんなにも辛いなんて会う前は考えたこともなかった。
こんなにも誰かのために泣いたことなんてなかったよ。
7
いつまでも泣いてなどいられない。
釧路に帰るまでにやらなくてはならないことが一つある。
そう、携帯電話の機種変更だ。できることならばアヤの飛行機が着陸するまでに済ませておきたい。
僕はエンジンをかけ、車を発進させる。
一人分の重さが減った車は相変わらず軽やかに走り出す。
千歳市内に戻った僕は、さっそく携帯電話も扱うディスカウントショップに入った。
そしてすぐにiPhoneを探し、店員に注文する。
確認してもらったところ、僕が今まで使っていたドコモの携帯電話は二年間継続契約中で、解約してiPhoneに変更するには違約金を払わなくてはならないらしい。
それは仕方ない。
僕はアヤが使っていたiPhoneの形状を思い出しながら、それが欲しい旨を店員に伝えた。
「それはきっと前の機種ですね」
「そうなんですか?」
「ええ、その背中が丸い形状のiPhoneはもう取り扱っていないんですよ」
「え?」
淡々と説明するその男性店員を思わず見つめた。
それではアヤとお揃いのiPhoneを持つことができない。
「今では最新機種のiPhone4しかありませんが…」彼は僕の動揺を目ざとくも見抜いたらしい。「いかがしますか?」
僕は悩んだ。
アヤとおそろいの機種がやはり欲しい。
しかしそんなこと言っていても無いものは無いだろう。
それにここでiPhoneを買わずに帰るとアヤとの約束を破ることになるし、何より昨日見せたアヤの「本気」に応えたことにならないだろう。
少なくともアヤは僕が応えたように思わないだろうし、僕自身納得しない。
それに通話料金の問題もある。
ソフトバンク同士になれば通話料金はほぼタダ同然になるし、そのサービス時間外でもiPhoneであればスカイプなどを使って無料で話すことができる。
僕は決心した。
結局、ドコモからソフトバンクへの移行や違約金支払いの手続き、その他もろもろ手間どってしまい、僕がiPhoneを手にするまでにかかった時間は一時間くらい。
受け取った紙袋を手に、ふと空を見上げる。
幾分か雲が薄くなった気がした。
今頃アヤが乗った飛行機はどのあたりを飛んでいるんだろう。
もう何百キロもアヤが遠くにいるなんて信じられなかった。
アヤと離れたことは実感していながらも、また明日にでもひょっこり顔を出してくれるんじゃないかと、そんな気がする。
それほどまでこの五日間の間にアヤの存在感は僕の中で大きくなっていた。
車の中でiPhoneのパッケージを開いて、僕は驚いた。
今まで持ってきた携帯電話のパッケージよりも小さいな、とは思っていたものの、中にはiPhone本体とイヤフォン、充電器とそれにつなぐケーブルしか入っていなかった。
本来あるべき物が入っていない。
そう、取扱説明書が入っていないのだ。
昨夜のことだ。
小樽から千歳のホテルに入って一息つくと、僕はアヤのiPhoneにふと興味がわいた。
もともと新しい物好きというのもあったし、以前からiPhoneに少しは興味もあった。
「まず電源を入れると、ロック画面が出てくるの」
アヤは僕に嬉々として使用法を教えてくれた。僕がiPhoneを持つことを決心したことがやはり嬉しかったらしい。
僕自身もアヤと同じ携帯を持つことができるということが嬉しかった。
「それでね、この〝ロック解除〟っていうのを横にスライドさせると…」
アヤが教えてくれたことを思い出しながら、僕はiPhoneの電源を入れる。
ロックを解除すると、今まで使ってきたどの携帯電話とも共通しない画面が現れた。
僕はまずメール画面を見つけることに苦労した。
しかし、どうしても千歳を出る前にアヤにメールを送りたい。
アヤは飛行機の中だからおそらく電源を切っているだろう。すぐに僕からのメールを見ることはできない。
しかし、アヤのために買ったこのiPhoneから送る初めてのメールはアヤに送りたかった。
初めてのiPhoneと格闘することおよそ三十分。
ようやく一通のメールをアヤに送ることができた。
きっとアヤは飛行機を降りたらすぐに気づく。
しかしアヤは空港まで夫が迎えに来る予定だと言っていた。すぐには返事は来ないだろう。
それでもかまわない。
アヤからの返事が入るまで、携帯が変わったことは誰にも言わないでおこう。仮に誰かが僕にメールを送ろうとして僕に届かないとわかった時点で、急ぎの用事なら電話に切り替えるだろう。
携帯電話事業者がソフトバンクに変わったことで、当然ドメインも何もかも変わったのでメールは今までのアドレスでは僕に届かない。
しかし電話番号は変えずに済んだので、電話着信ならば受け取ることができる。
初めて受け取るメールも、アヤからがいい。
8
さて、そろそろ釧路に向けて出発しなくてはならない。
時刻はすでに昼近くになっていた。
しかし燃料メーターを見てみると、釧路まで一気に走るには心もとない残量になっていたので、僕はひとまず近くでガソリンスタンドを探すことにした。
幸いにも少し車を走らせたところにセルフスタンドがあったので、僕は迷わず車をそこへ滑り込ませる。
セルフスタンドなので当然自分でガソリンを車に充填するのだが、まさにノズルを握って注入しているその時にiPhoneが震えだした。
空いている手で画面を見てみると、通話着信だ。
発信者は唯一登録してある名前。
「マキハラ アヤカ」
僕は思わず手に持ったiPhoneを落としそうになって慌てた。
メールなら何とかなるかもしれないが、電話なんてかかってくるはずがない。
現実が信じられない気持ちと、再びアヤの声が聞ける喜びとが混ざった不思議な気分で、アヤからの着信を繋いだ。
「もしもし、アヤ?」
「うん、アヤだよー」
たった二時間ほどしか離れていないのに、すでにその声は懐かしかった。
ついさっきまでは直接聞いていた声を久しぶりに電話越しに聞いた、というのもその懐かしさに拍車をかける。
「今どこにいるのさ」
「空港だよ。さっき飛行機が着いたの」そう言ってアヤは嬉しそうな声で続けた。「メールありがとうね。アドレスがぐっちゃぐちゃで最初誰かわからなかったけど、中身見てコウジってわかったからすごく嬉しかったよ」
「よかった、わかってもらえて」
「ホントに早速iPhoneに変えてくれたんだね」
「もちろん。約束したし、早くアヤと揃えたかったから」そして僕は申し訳ない気持ちを込めて声のトーンを落とした。「でもゴメン。正真正銘のお揃いじゃなくて、僕のはiPhone4なんだ。アヤと同じのはもう売ってないって」
「えー、いいなー。アヤのより新しいやつだら?」
「ゴメンな」
「いいですよーだ」きっと電話の向こうでアヤは悪戯っぽいあの笑顔なのだろう。「でもホントに嬉しかったよ。ちゃんとしたアドレス設定する前にアヤに最初にメールくれたんでしょ?」
「もちろん」僕は給油ノズルを握ったまま胸を張った。「やっぱり初めてはアヤがいいからね。アヤがこうして電話くれたから、電話着信もアヤが初めてだよ」
「やったね!」アヤは声を弾ませる。「話変わるけど、今どこにいるの?」
「まだ千歳だよ。さっき携帯変えたばっかりで、いま釧路に戻るためにガソリン入れてるところ」
「え!まだ千歳だったの?」驚きの声をあげるアヤ。そしてすぐに申し訳なさそうな声に変わる。「なんかゴメンね…。アヤは空港出たらもうすぐ家に着いちゃう」
「気にしないで」そんなアヤに思わず笑ってしまう。「早くおうちに帰ってゆっくりしな」
「なんだよー、そんなにアヤを早く帰したいんかー」
「そういうわけじゃないけど、アヤも慣れない飛行機の旅に疲れてるだろ?」
「疲れてないって言ったら嘘になるね」アヤもおかしそうに笑った。しかしすぐに再び申し訳なさそうな声に変わる。「それに、今あんまり長く話せないの。今はまだ到着ロビーにいて預けた荷物を待ってる状態なんだけど、その隙にまたトイレで話してるの。荷物が来ちゃったらすぐに出ていかないと旦那さんに怪しまれちゃう」
「それは…仕方ないね」
「うん、ゴメンね」
「いいんだ、気にすんな」
僕はできるだけ穏やかに言ったつもりだった。
そのことに不平不満を言ったって仕方ないことはわかっているし、言ったところでアヤの心の負担になることは明らかだ。
しかしアヤは不安に思ったらしい。
「怒ってる…?」
「怒ってないよ、大丈夫だから」
「ホントに?」
「うん」アヤには見えていないことはわかっているのだが、思わず笑顔で言った。「ホントに」
「顔が見えないってさ」アヤがさみしそうに応える。「どんな顔して話してるかわからないから不安になるね…。変だね、顔も知らなかった時期があったのにね」
「そうだね」
僕にもアヤがどんな顔をして話しているかわからない。
離れているということはこういうことなのだ。
寂しそうにしていても、アヤが不安を感じていても、自分の手で安心させてあげることはできない。
自分の言葉と、アヤ自身の気持ちの切り替えに委ねなくてはならない部分が多すぎる。
「申し訳なかったんだけど」そう前置きして、僕はぽつりと話しだした。「結局アヤが乗った飛行機、見れなかったんだ。デッキが閉鎖されてて」
「やっぱりそうだったんだ」アヤはくすくす笑いながら答える。「アヤも飛行機の窓からすっごいコウジのこと探したんだけど、誰もいないからもしかして、って思ってたよ」
「で、あきらめて車に戻った時、ちょうどアヤが乗った飛行機が飛び立つ音だけが駐車場に聞こえて来て」僕はよほどのことを告白するかのように言葉を一度区切る。「その音で泣いた」
「また泣いちゃったの?ホントに泣き虫さんだね」
「ほっとけ」
「でもね…」何かをかみしめるようにしみじみ言うアヤ。「アヤもね、飛行機の中で泣いちゃった。飛行機が飛び立つ瞬間、ぶわっ、て。タオルで必死に隠したけど、隣のおじさんに見られてたかも」
「アヤも人のこと言えないね」
そうして、ふたりでどれだけ泣いたかという話題で盛り上がる。
思えば変な話だ。
「あ」アヤが急に声を上げた。「手荷物…来ちゃったみたい」
今日二回目のタイムリミットだ。
「じゃあ、もう〝行く〟ね」
その瞬間、先ほどの新千歳空港での別れがフラッシュバックする。
「うん、〝行って〟らっしゃい。僕ももう釧路に〝行く〟から」
「運転、ホントに気をつけてね」
「ありがとう。釧路に着いたらまたメールするよ」
「わかった。じゃあまたあとでね、コウジ」
そして電話は切断された。
9
釧路での日々は、驚くほどに元通りであった。
違ったことと言えば、アヤと離れて釧路にもどってすぐ妻とディズニーランドに出かけたくらいだ。
本当は行きたくなかったのだが、アヤと知り合う三か月ほど前から予約を入れていたので仕方ない。ディズニーランド自体には興味はなかったが、会えることはなくとも少しでもアヤのそばに行くことができるという思いだけで僕は飛行機に乗った。
もちろん、そんなこと妻に感じ取られるわけにはいかない。
表面上、ディズニーランド楽しんでいるというフリをすることだけに意識を注いでいた。
その間も、少しでも妻が離れればアヤへの連絡は欠かさない。
日中、アヤの夫は仕事に出かけているはずなので、僕はともかくアヤはいつでも連絡が取れる状態にあったから。
しかしアヤと話している時に妻がそばまで来ていたことに気づかなかったあの時だけは本当に焦った。
僕が〝アヤ〟と話していることには気づかなかったようだが、念のために「仕事の電話だった」とだけ付け加えた。
その日の夜、妻に「喫煙所に行ってくる」と言って泊まっている部屋を出た。このディズニーランド提携のホテルは全室禁煙らしく、喫煙所は一回のロビーのそばにしかない。
エレベーターを降り、喫煙所に着くと僕はすぐにアヤに電話をかけた。
直前にアヤから来たメールによると、夫はまだ帰ってきていないらしい。
ワンコールの後にアヤが電話に出る。
「電話取るの早いな」一本目の煙草に火をつける前だった。「お待たせ」
「だってさっきメールもらってからずっと待ってたもん…」
心なしか、アヤの声は沈んでいる。
「どうした、なんか元気ないね」
「元気なわけないやないかーい」そして拗ねた声に変わる。「だって奥さんとディズニーランド楽しんでたんでしょ…」
「そういうことか…」
僕はなんだか申し訳ない気分になる。
ほぼ不可抗力とは言え、アヤにとってはいい気分ではないだろう。
もしも逆の立場だったら、僕は嫉妬に狂っていたに違いない。
「ゴメンね…」
「どうせ奥さんとアトラクション乗ってる時は、アヤのことなんて忘れてたんだろうねー!」
「そんなことないよ」僕は全力で否定した。「何しててもアヤのこと考えてたよ!いつか…アヤと来ることがあればどんなアトラクションに乗ろうかとか、そんなことばかり考えてた」
「ホントに…?」それに対しておずおずと問いかけるアヤ。「ホントにアヤのこと考えてくれてた…?」
「うん」まるで幼子に言い聞かせるように僕は穏やかに言う。「アヤのことしか考えられないよ」
「よかった…。信じてるからね、コウジ」
「大丈夫だよ、信じてて」
それから僕たちは共に過ごした五日間の思い出話を交わした。
そのどれもがまるで昨日のことのように思い出され、ほんの数日前のことなのにすでに懐かしい。
思い出を共有するとはこういうことなのだ。
同じ話題で盛り上がり、笑いあう。それがどれだけ幸せなことか。
「そだそだ、そう言えば一緒に作ってた歌の歌詞できたよー」
「ホント?早いね」
僕とアヤは初めてふたりで一つの物を作り上げようとしていた。
僕が作った曲に、アヤが歌詞とイラストをつける。そしてそれを僕がネット上にアップしようという計画である。
「どんな歌詞になったの?」
「えっとね」アヤは電話の向こうで大仰にコホンと咳払いをして続けた。「コウジと知り合って、会いに行くと決めてからの期待と不安、それと実際に会って思ったことをそのまま歌詞にしてみました」
「へー」それを聞いた僕の心は跳ね上がりそうなほど歓喜に震えた。「早く見てみたいな」
「携帯に送ってみる?」
「うんうん、そうして」
「じゃあ、やってみるね」
そう言ってアヤは電話の向こうでパソコンをいじり出す。
すぐにアヤのパソコンからの着信があったのだが、アヤが送ってきた添付ファイル形式では僕の方で見ることはできなかった。
「読めないな…」
「そっかー、じゃあ別の方法で何とか送ってみるよ。あ…」
不意にアヤの言葉が濁る。
何事かとアヤに尋ねると、夫からのキャッチがアヤの携帯に入ったようだった。
「ゴメンね、もう帰ってくるみたい…」
「そっか、わかったよ」僕は煙草の煙を大きく吐いた。「こっちもあんまり喫煙所にこもってると何か言われるかもしれないしね」
「じゃあ…他の方法でコウジの携帯に送れたら送るね。でも、なかなかチャンスが無かったら遅くなるかも」
「いいよ、僕もなかなか見れないかもしれないし」
「お互い大変だね」そう言ってアヤは自嘲気味に笑った。「じゃあ、またあとでメールでね」
「うん、じゃあね」
アヤとの電話が終わると、僕はすぐに部屋に戻った。
妻はテレビをつけたまま、ベッドでディズニーランドの地図を眺めている。
「遅かったね」
念願だったディズニーランドにいることがよほど嬉しかったのか、すこぶる上機嫌だ。
「ああ、部屋で吸えない分、吸い溜めしておかないとね」
そう言って僕は部屋のベランダに出た。
目の前には夜の東京湾が広がっている。
遠くに見えるのは大都会東京の灯りだろうか。時々頭上を飛び交う飛行機は羽田空港から飛び立つ飛行機だろうか。
そう言えば、昼間に景色を眺めていたら、遥かに富士山のうっすらとしていてそれでも確かな存在感を持った姿がかすかに見えた。
あの麓にアヤがいるのだ。
その日、だいぶ遅くなってアヤからの着信があった。
大体いつも通りの時間だ。
いつもアヤは夫が寝静まってから僕にメールを送ってくるのだ。
メールを開封すると、今度は確かにアヤが書いた歌詞が見ることができた。
ふたりで考えたその歌のタイトル。
『北へ~Way to the north~』。
10
僕には耐えがたいことがいくつかある。
そのうちの一つが、妻に対して「保護者」であり続けること。
先日のディズニーランドをきっかけに英気を養って生活態度を改めてくれれば、などという微かな期待は見事に打ち砕かれた。
妻に対して何の期待もしてはいなかったのだが、「同居」している以上は「同居人」として、妻としての最低限の役割を果たしてほしかった。
しかし相変わらず平穏の上に胡坐をかいているような状態だった。
僕はますます自分のものであるはずの家から逃げるようになった。
できるだけ仕事を遅く終えるようになっていったし、早く終わった時でも近所の喫茶店で数時間過ごしてから帰るようになった。
僕が爆発するのは時間の問題であった。
アヤと離れてからおよそ一か月後のことである。
そして僕は妻との別居に踏み切った。
金銭的な問題から一か月という期限付きではあるが、一人で借りたマンスリーマンションは非常に居心地がいい。
「いいなー、一人暮らし」電話からこぼれるほどに大きく、アヤは羨望の声を上げた。「奥さんやアヤがいないからって、他の女の人連れ込んじゃだめだよ!」
「するか、そんなこと!」
「そんなことしたら」脅すように言うアヤ。「即お別れだからねー」
「わかってるし、アヤ以外に連れ込みたい人なんていないし」
「信じてるよー」そう言って、アヤははっと思い出したように言った。「元の家には全然帰ってないの?」
「ああ、帰るわけないよ」言ってから、妻が僕に先日メールで伝えてきたことを思い出す。「でも来週あたりにあいつの地元で友達の結婚式があるって言ってたから、いない間にちょっと荷物を取りに行こうかな」
「え?」アヤは驚きの声をあげる。「奥さん、その間釧路からいなくなるの?」
「そうなるね」
「そっか…」
そう言ってしばらくアヤは無言になった。
何やら思考を巡らせているらしい。
そして意を決して口を開く。
「ねえ…」
「ん?どうした、アヤ」
「その間、アヤそっちに行ってもいい?」
「…へ?」
自分でも間抜けな声を上げたと思う。それほどまでに彼女の発した言葉の意味を僕はつかみ損ねていた。
「だから、アヤが釧路に行ってコウジの部屋に泊まってもいい?」
「もし…そうしてくれるなら僕は仕事休めないからそっちに行けない分嬉しいけど…、お金大丈夫?」
アヤの住む街から釧路まで来ようとすると前回と同様に飛行機を利用することになるが、その往復の航空チケット代はバカにならない。
アヤは夫との暮らしの中で財布の紐を握っている立場らしいので、金銭の出し入れに苦労することはないだろう。しかし限界はある。
「大丈夫、とは正直言えない…」そして一息ついてアヤは続けた。「でもコウジの部屋に泊まればホテル代いらないし、それに…厚かましいかもしれないけど、そっちにいる間にかかるお金だけでもコウジが出してくれれば助かるよ」
アヤが出す飛行機代に比べれば、それは天秤にかけていいのかと思うくらい微々たるものだったが、アヤに会えるのなら四の五の言っていられない。
「いいよそれくらい。アヤに会えるなら」
「ホントに?厚かましい女だとか思ってない?」
「全然!」
「よかった…」電話越しでもわかるくらいに、アヤはほっと溜息をつく。「じゃあ…さっそく飛行機予約しちゃうからね」
そうして僕たちは再会の約束を交わした。
あの新千歳空港での別れからほぼ一か月。
半年後、なんて言っていたのが嘘のようだった。
そして僕は一週間後、車を走らせていた。
今度は新千歳空港へではなく、釧路空港へ。
北へ〜way to the north〜 ヒデ。 @hide0594
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