第4話十勝川温泉から小樽、そして千歳へ

Episode4 十勝川温泉から小樽、そして千歳へ



 次の日は朝から快晴であった。

 凛と澄みわたった冬の朝の空気に、くっきりと大雪連峰が浮かび上がっている。

 僕とアヤは朝食を軽くすませ、車に荷物を積み込んでいた。

「とうとう、千歳に逆戻りするんだね」

 アヤがぽつりと言う。

「そう…だね」

 アヤを新千歳空港に迎えに行ったあの日、彼女を乗せてそのまま釧路へと一気に東へ下った。その道中当然この帯広市も通ったわけで、これからは一気にその道を逆に走っていくことになる。

 そして、明日にはアヤは自分の街へと帰っていく。

 荷物を積み終え、僕とアヤは車内に収まった。

「今日は思いっきり楽しむんだー」

 アヤはそう宣言する。

 その表情は何かを振り切るようでもあり、自分に言い聞かせているようでもあった。

「そうだね」僕も車のエンジンに火を入れながら応じた。「今回の旅を最高の思い出にしてもらわないと」

「何だよー」アヤがむっとしながら言う。「もう次が無いみたいな言い方して」

「違うよ」僕は入れかけたギアを慌てて元に戻す。「できれば僕だってこれからもアヤとたくさん思い出を重ねていきたいな、って思ってるよ」

「だったらそんな言い方しないの」

「ん…ごめん」

 アヤは「判ればよし」と笑った。

 僕はギアを再び入れ直す。そしてサイドブレーキを落として、車をゆっくりと走らせた。

 

 音更町から十勝大橋を越え、帯広市に入る。

 朝の国道は比較的交通量は少なく、若干寝不足の頭でもすいすい走ることができた。

 国道からすこし街中に入ると、アヤが急に左腕に絡みついてくる。

 僕はシフトレバーを握る手をアヤの手に移動し、応じた。


 「とかちむら」は近年オープンした、十勝地方の食を堪能できる総合商業施設である。古くからある「ばんえい競馬場」に併設されるように建設され、相乗効果を狙った立地となっている。

 僕はそれが完成してからというもの、気にはなっていたがこれまでに行く機会がなく、今回アヤを連れて初めて行ってみようと思い立ったのだ。

「今日こそ帯広名物の豚丼が食べられるんだね」

 アヤがうきうきしながら言う。

 帯広市と言えば、全道的に豚丼が有名だ。

 甘辛いたれに漬け込んだ豚バラ肉を炭火でじっくりと焼き上げ、これまたたれを十分にしみ込ませたご飯の上に乗せて出される丼ものである。

 開拓時代に入植してきた人々が、家畜として連れて来た豚をそのようにして食べたのが始まりだと言われている。

 全国津々浦々にある観光地の名物同様、帯広市内には豚丼の専門店が乱立していた。

 その中の一店に昨日向かったのだが、到着したのが昼食時から大幅に遅れてしまっていたのでその店は閉まっていた。

 そして今日、とかちむらで食べようとアヤと約束していたのだ。


「美味しかったけど…」アヤはお腹をさすりさすり僕に付いて店から出て来た。「もう満腹ー。ごめんね、食べきれなかった分食べてもらって」

「いいよ、僕は一人前じゃ足りなかったし」

「やさしいね、そう言ってくれて」

 アヤがにっこり笑う。

 その甘い声と、ふんわり笑顔で十分満足だった。

「あ」突然アヤが声を上げる。「今お馬さん見えた!」

「馬?」僕もアヤが見ていた方を振り返る。「ああ、隣は競馬場だからね」

「その馬じゃなくて、着ぐるみのお馬さん」

「え?」

 僕は改めて辺りを見回す。すると確かに、とかち村からばんえい競馬場へと至る入場門のあたりに愛嬌のある馬の着ぐるみが楽しげに行き交う人々に手を振っていた。

「可愛いねー、お馬さん」アヤが思わず走り出す。「こっち向いてー」

 僕とアヤはたいして歳は離れていないはずだが、時折小さい子どものような一面を彼女は見せる。

 そんなアヤの後ろ姿が、愛おしかった。

「アヤもこっち向いて」僕はデジカメをかまえた。「写真撮ってあげる」

「えー」アヤは明らかに顔を真っ赤にして照れている。「可愛く撮ってね」

「元が可愛いから大丈夫」

 僕もいつの間にかこんな歯の浮くようなセリフをよく平気で言えるようになったものだ。アヤと出会う前の僕であれば考えられない。

 きっと今までは、そんなことを言えば相手が引くであろうという恐れを持っていたのだ。いや、実際引くだろう。

 しかしアヤはそんなことは一切なく、むしろいちいち顔を真っ赤にして照れてくれる。

 僕の想いや言葉をすべて受け止めてくれる。

 そんな安心感から、僕は素直に思ったことを口にすることができるのだ。

 僕は改めてデジカメのレンズをアヤに向けた。

 そしてシャッターを押す。


 今回の旅で、僕は何枚もキミの写真を撮ろうと思っていた。

 再び離れ離れになってしまった後で、少しでもキミのことを感じることができるように。

 でも、結局はそんなに多くは撮らなかった。

 それはキミにカメラを向けている時間すらもったいなかったから。

 キミのことを、見ていたかったから。



 ばんえい競馬には通常の競馬とは違う点がいくつかある。

 第一に、馬が走るコースが一直線であること。通常の競馬では馬が走るコースが楕円形なのに対して、ばんえい競馬は起伏のある直線状のコースを馬が走る。

 第二に、その馬上に騎手はまたがらないということ。ばんえい競馬では騎手は馬が引くそりの先端に立ち、またそのそりには重しが載っている。ゆえに馬は通常の競馬のように颯爽と駆け抜けることはなく、起伏のあるコースを必死で上り下りしながらその順位を競うのだ。

 通常の競馬では見られない、馬達の真剣そのものな表情が観客達の心をつかむらしい。

「ごめんね、ちょっとトイレ行ってくる」アヤが僕に荷物を預けた。「寒くって、ちょっとおなか冷えちゃったみたい」

「わかった、待ってるよ」

するとアヤは僕の耳に囁くように言った。「大きい方じゃないからね」

「そんなこといちいち言わなくていいよ」

 アヤは「あはは」と笑いながらトイレへと消えていく。

 僕はそんなアヤの後ろ姿を眺めながら思わず笑ってしまった。

 初日のよそよそしさなどどこ吹く風、といったように僕たちは急速に接近していった。

 確かに僕たちは、新千歳で初めて顔を合わせてからたかだか4日目。

たったの4日間だ。

それなのに、今では長年つき添ってきた恋人同士のような空気を感じる。

そもそも、メールや電話といったツールを最大限に活用してきたので、直接顔を合わせるのは今回が初めてとは言え、もっと前から気持ちは通じ始めていたのだから、単に4日間とはひとくくりにできないのかもしれないが。

 まだまだ、これからも続いていくような気がする。

 いや、終わらせることなど到底できないのだ。

 それほどまでに、僕はアヤに惹かれている。

 もう後には戻れない。


「そろそろ帯広を出ないと、千歳に着くのが遅くなる」

 トイレから戻ってきたアヤに僕はそう告げた。

「何だよー」アヤは不満顔だ。「そんなに早くアヤと離れたいんかー?」

「いや、そういう意味じゃ…僕だってアヤと離れたくないよ」

 僕がそう言うと、アヤは一気に満面の笑みを見せる。

「知ってるー」

「な…」

「へへ、意地悪言ってみただけだよ。ごめんね」

「もし僕が『そうだ』って言ったらどうするのさ」

「そんなこと言われたら…」うーん、と思考を巡らせるアヤ。そして唇を尖らせて言った。「アヤ、競馬場の真ん中に立ってお馬さんにふんづけられて死ぬ」


 僕とアヤを乗せた車は、音更帯広インターより道東自動車道へと進んでいった。

 この日、気温は冬の北海道らしく低いものの、十勝管内は特に雪が降ることもなく視界は良好。非常に運転がしやすかった。

 ところがそれも束の間、道東自動車道が日高山脈を貫くトンネルを抜けた途端、あたりは一面の雪景色。それどころか猛吹雪と言っていいほどの雪が吹きすさんでいた。

 まるで川端康成の名著「雪國」のようだった。

 ただし、猛吹雪の中アヤを乗せてハンドルを握る僕にとっては「雪國」のような感傷に浸る余裕はない。雪にタイヤを取られないよう、視界を遮られないよう、細心の注意を払う。

「すごい雪だね」

 僕とは正反対に、アヤは弾んだ声を上げる。

「うん、久しぶりかも、こんな吹雪の中運転するの」

「大丈夫?」途端に心配そうな声を出すアヤ。「どこかで休憩する?」

「そうだね、さすがに疲れてきたし…」

「いいよ、千歳に着くのが少しくらい遅くなっても」

 そう言ってアヤはシフトレバーを握る僕の左手に柔らかく手を重ねた。彼女の手のひらから伝わる温もりはどこまでも優しく、温かい。

 どこまでもアヤに包み込まれているような、ホッとする感覚。

「お言葉に甘えて、次の駐車スペースでちょっと休憩するよ」

 僕は視線だけをアヤに向けて言った。

「そうしなー」ふんわりと笑顔を向けてくれるアヤ。「先はまだ長いんだし」


 それからほどなくして見つけたスノーチェーン着脱用の駐車スペースに僕は車を止めた。

 サイドブレーキを引くのとほぼ同時にリクライニングレバーを引き、運転席を一気に倒す。

「疲れたー」

「お疲れ様、運転ありがとうね」

「なんもなんも」労わるように僕を覗きこむアヤを見上げ名がら、僕は手のひらをひらひら振った。「遠い所来てくれたんだし、これくらいは僕ががんばらないと」

 アヤは「ありがとう」とにっこり笑った。

 僕にはそれだけで十分だった。

 とはいえ、気持ちの上での疲労と体の疲労は別物だ。シートを倒した時から、体の至る所から疲れがにじみ出るようだった。

「ごめんけど、ちょっとだけ寝ていいかな」

「うん、いいよ」アヤはそう言うと、はっとした表情を見せた。「ごめん、そんなに疲れてたなんて全然気づかなかった」

「謝ることないよ」

「でも…」

 それでも心配そうに僕を覗きこむから、僕は思わず笑った。

「疲れてるのを忘れるくらい楽しいんだ、アヤとおしゃべりするの」

「そう言ってくれて嬉しいけど…しっかり今休んでね」

「うん、ありがと」そう言って僕はそっと目を閉じた。「5分だけ寝かせて」

「任せて」

そう言うと、アヤは何かを思いついたようにバッグの中を探り出した。

 そして僕に一枚のハンドタオルを差し出す。

「これ使ってね。外、眩しいでしょ?」

「ああ」初め僕はどういう意図でアヤが僕にそのタオルを渡してきたのかわからなかったが、すぐに理解した。「ありがとう、ホントにアヤは優しいね」

「コウジだからだよー。他の人にはこの半分も優しくしないんだからね」そう言って悪戯っぽく笑うアヤ。「いいから、ゆっくり休んで?」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 僕はタオルを顔にかけて、目を閉じた。

 そしてあっという間に眠りに落ちる。


 自分の車のエンジン音の向こう側に聞こえる、行き交う車の音。

 夢現の意識の向こうで聞こえてくる。

 彼らはどこへ向かうのだろう。

 誰かの元へか、それとも仕事へ向かう途中か。

 真っ白な世界の中で、僕らふたりの乗った車だけがぽつんと浮かび上がっていた。

 それでもキミは僕の手を離さなかった。その温もりが嬉しくて、僕も離さなかった。

 いつまでこの手を繋いでいられるのだろう。



「今回の旅、なかなか計画通りにいかなかったね、ゴメン」僕はハンドルを握りながらアヤの横顔に謝った。「こんなに時間がつまるなんて思いもしなかった」

 道東自動車道からようやく千歳へと向かう道央自動車道に乗ったのだが、辺りはすでに暗くなってしまっている。

冬の北海道は実に落日が速い。

かつて僕自身が北海道で初めて冬を経験したときにも驚いたものだった。僕の地元では冬とは言えまだ夕方であろう時刻には、もうすでに星たちが瞬いていたのだから。

「仕方ないよ」ふと笑いながらアヤが言う。「この次に期待だね」

 僕たちは本来、計画の段階ではこの後札幌に向かい、札幌の都会を満喫したり北海道の鎮守である北海道神宮にお参りしたりする予定を立てていた。

 しかし、今夜の宿の予約の時間が迫っていたこともあり、札幌入りは断念せざるを得ない。

 車のヘッドライトが、降りやまない雪を照らし続けている。

「じゃあ、せめて小樽には行ってみない?」

「小樽?」

「うん」僕はアヤに提案を続ける。「有名な小樽運河って知ってるかな。冬の運河はすっごくきれいなんだ」

「どんなふうに綺麗なの?」

明らかにアヤの声は弾みを取り戻した。

僕はそれに手ごたえを感じ、続ける。

「昔はものを船で運ぶために作られた運河みたいだけど、今は有名な観光スポットで、わきの散策路には雪が積もって、運河の水面にはランプが浮かんでライトアップされてるんだ。それもぎらぎらした下品なライトじゃなくて、オレンジ色のろうそくのような温かい光なんだよ」

「へえ…」

 急にアヤの声が沈む。

「どうした?」視線は前に向けたまま、アヤの様子をうかがった。「あんまり興味ない?」

「ううん、そんなことないよ」そう言って、アヤはそっと僕の左手に柔らかな手を重ねた。そしてわずかに力を込める。「詳しいな、って思って」

「そりゃあ、北海道に住んで長いからね」

「そうじゃなくて…」アヤの声に不安の色が混ざる。「誰かと行ったことあるのかな、って…」

「大丈夫」僕はアヤの手をぎゅっと握り返して、か弱い小さな子に言い聞かせるように努めて穏やかに言った。「確かに一度だけ小樽には行ったことがあるよ。でもそれは僕が大学受験に来た時の話。札幌の大学に受験に来たときに、ちょっと立ち寄っただけだよ」

「ホント?」

 直接アヤを見なくても、アヤが不安げに僕の横顔を見上げるのがわかる。

「ああ。だから僕にとっては初めてじゃないけど、『誰か』と行くのはアヤが初めて。アヤが初めての人だよ」

「…奥さんとも、行ったことないの?」

 きっとアヤが本当に確かめたかったのはこれなのだ。

阿寒からの帰り道に立ち寄ったアイスクリーム店でのことを気にしていたのだろう。

 今回の旅を通してわかったことだが、アヤは僕の妻のことに過剰に反応する。

 いや、こんな関係だからであろう。僕だって、アヤの夫のことを気にしていないといえば嘘になる。

 アヤの思いや不安は、痛いほどわかった。

「もちろん、行ったことない」アヤが安心できるなら、何度でも言おう。「さっきも言ったように、ひとりでは来たことがあるけど、嫁さんはもちろん、他の誰とも行ったことないよ」

「よかった…」

 アヤは心底安心したように、ホッと息をつく。

「じゃあ、行ってみる?」

「うん」

 僕は小樽へと続く札樽自動車道に向かうように、カーナビを入力し直した。


 確かに降雪の勢いは先ほどまでより強まっている。積雪も厚みを増し、タイヤを通じて感じる雪の感触は、油断するとスリップしそうなくらいだ。

 それにしても、小樽まで目前という地点で札樽自動車道がまさか通行止めになるとは思わなかった。

 途端にみじめな気分が僕を襲う。

 とてつもない勇気と、危険を冒してまで遥々北海道まで会いに来てくれた愛しい人との限られた時間を、プラン建てミスのみならず天候にも邪魔をされるなんて。

 しかしこれ以上高速道路を走るわけにもいかず、僕は最寄りのインターチェンジで一般道へとハンドルを切った。

「とりあえず小樽市内には入ったけど…どうしようか」土地勘のないアヤに聞いても仕方ないことはわかっていながらも、アヤに伺う。「千歳までもどる?」

「アヤはいいよ、一般道でも」そんな僕を包み込むように、アヤは言う。「のんびり行こうよ」


 小樽に近づくほどに深みを増す積雪に、キミは歓声をあげていたね。

 地元じゃめったに雪が降らない、降ってもこんなに積もらない、って。

 北海道に来る前から、キミは北海道の雪にあこがれていた。だからたくさんの雪を見せてあげたかった。

 僕がかつて惚れた、北海道の雪を。



 重ねて渋滞ときた。

 嫌なことは重なるものだ。

 僕は一向に進まない赤いテールランプの列に心の中で悪態をつく。

「なかなか進まないね」

 アヤは明るく言う。しかし今までとは違い、疲労の色は隠せない。

「そうだね…札樽道が通行止めになったから、車が全部こっちに流れてきたんだろうね」

 僕は焦っていた。

 車がなかなか進まない苛立ち、それもあったが、アヤを振り回してしまっているのではないか、そんな不安。

 僕に会うこととともに、北海道にくること自体を楽しみにしていたアヤ。だからこそ僕は、アヤと一緒にいることができる限られた時間の中で、アヤに「たくさんの北海道」を見せてあげたかった。

 僕が惚れた北海道を。

 しかしそれは僕のわがままかもしれない。

 慣れない土地で、電話やメールでずっと連絡を取り合っていたとはいえ、「初対面」の僕と四六時中一緒にいることは、少なからず身も心も疲れさすだろう。

「アヤ、おなかすいちゃった」アヤは腹部をさすりながら、えへへと恥ずかしそうに言う。「ごめんね、食い意地はってて」

「そんなことないよ」僕はアヤの方へ視線をやる。幸か不幸か、車は動かない。「僕もおなかすいてきた。運河まで行く前にどこかでご飯食べていこう」

 僕はナビを操作し、この道の先に何か食事ができそうなところがないか検索を始める。

「なんだかゴメンね」

アヤが不安そうな声で僕の手を握る。

「何が?」

「なんだか嫌われちゃいそうで…」

 その声は今までに聞いたことがないくらいにか細く、どこか申し訳なさそうだった。

 一方の僕はというと、アヤがなぜそんなことを思うのか不思議だった。僕の無計画さや不運を責められこそはすれど、僕がアヤに対して不満を持つ要素はない。

「どうしてそんなこと思ったの?」

「だって…コウジは一生懸命運転してくれてるのに隣で〝おなかすいた〟なんてワガママ言っちゃって…。言ってからなんだか恥ずかしいし、申し訳ないし。それに…」

「それに…?」

 アヤは言ってから口元をもごもごさせている。まるで言っていいことなのかどうか迷っているようだった。

「それに…なんだかコウジ、怒ってない?」

 意を決して出た彼女のその言葉に僕は虚を突かれた。

「だって、さっきから時々黙っちゃって…なんだか怖いよ」

「え?」そんなつもりはなかったのだが。「そんなに怖い顔してたかな」

「ううん、違うの」アヤは頭を振った。「静かな時間が怖くて…コウジは絶対そんなことは言わないけど、実は内心アヤのことあきれてるんじゃないか、とか、嫌な女だな、とか思ってるんじゃないかって…」

「そんなこと思ってないよ」僕は慌てて否定した。「むしろびっくりしたよ、アヤがそんな風に不安に思ってるだなんて」

「だって…」そう言ってうつむくアヤ。「…ほんの少しだけだったとしても、嫌われたくない。マイナスに思われたくない」

 その言葉を聞いた僕は、思わず車をどこかに止めてアヤを抱きしめたくなるくらいに胸が締めつけられた。

 これほどまでに、誰かに想われたことがあっただろうか。

 僕はシフトレバーに添えていた左手で、アヤの柔らかな頭を肩に引き寄せる。

「ごめんな、不安にさせて」言ってからさらに左手に力を込め、頬と肩でアヤの頭を抱きしめる。「アヤのことをほんの少しでも嫌いだなんて、思ってないよ。アヤのこと嫌えるわけがない」

「じゃあ何考えてたの?」

「うん…こう言ったら変かもしれないけど…」

「いいよ、何でも言って」

「ありがとう」僕は先ほどの焦りや不安をアヤに漏らす。「実は、急に僕も不安になったんだ。今回の旅が思い通りうまくいかなかったことでアヤにあきれられてないかな、とか、アヤのことを振り回してるんじゃないかな、とか」

「あきれてなんかいないよ?」アヤが僕の肩に頭を預けながら言う。「だってコウジ、アヤのためにいろいろ考えてくれたもん。うまくいかないことだって時にはあるよ」

「そう…かな」

「うん。北海道ではね、コウジしか頼れる人いないんだよ?」

「北海道だけ?」

 僕は少しいじわるっぽく言った。

 こういうときにも悪戯心が出てきてしまうのが、僕の悪い癖かもしれない。

「そうじゃないでしょ」ムッとしながらアヤは続けた。「もしも許されるなら、アヤはコウジにどこまでもついていきたい。そう思ってるんだから」

 再び僕の胸がぎゅうっと締めつけられる。

 どうしてこの女性は、僕の心をここまでつかむことができるのだろう。

 何とも言えないむず痒い空気が、暖かで熱い想いが、車内を包む。


 相手にいかに想われているか。それを測るものさしはない。

 でも、キミからもらう「言葉」は何よりも僕に「キミに想われている」という実感をくれたんだ。

 キミが口にする不安が僕に対する想いで、不安に思うほどに僕のことを考えてくれているんだな、って思わせてくれる。

 できればキミの不安をすべて取り除いてあげたいけれど、なんだか嬉しいんだ。



 ウイングベイ小樽というショッピングモールは、札樽道が通行止めにさえなっていなければ小樽インターチェンジを降りてすぐ、という好立地にあった。

 海沿いの一般道を走ってきた僕たちは、夜の海沿いのヨットハーバーに目を奪われていたが、大きな建物に隣接されている巨大な観覧車が見えたとき、そこがショッピングモールだと気付いた。

 その観覧車は冬にもかかわらず、ネオンを輝かせゆっくりと回転している。営業はしているようだった。

 ここにならすぐにでも食事のできる店くらいあるだろうと思い、僕はすぐに立体駐車場に車をすべり込ませる。

「ここに六花亭ってお店あるかな」車から降りながらアヤが尋ねる。「コウジは六花亭ってお菓子屋さん知ってる?」

「もちろん」僕も車を降りて、施錠する。「でも、六花亭がどうかしたの」

 六花亭は、おそらく道民なら誰でも知っているであろう、北海道を代表する製菓店だ。道民でなくとも、全国的に有名な北海道土産『白い恋人』を製造販売する石屋製菓とともに知名度は高い。

 本社工場を道東の帯広市に構え、僕の住む釧路市やその近隣には特に店舗数は多い。

「あのね、またコウジの気分を悪くさせるかもしれないけど…」そう言って、アヤは申し訳なさそうにうつむく。「うちの旦那さんがバターサンドっていうお菓子食べたいから買ってきて、だって」

 そういうことか。

 何度目だろう、すうっと僕の背中に「現実」が冷たく這いよる。

 今はどうしても消え去ることのない「現実」。

「そっか…」

 何とも言えないその感情に、僕はそんな反応しかできなかった。

「ごめんね、ホントにごめん」そんな僕を見て、アヤはあわてだす。「だって、買って帰らないと何言われるか…。証拠作りでもあるんだよ、お願い、わかって」

 わかってる、わかってるんだ。

 アヤには「現実」がある。

 もちろん、僕にだって。

 ただ、北海道に来ているアヤとは違い、僕には証拠作りの必要もないだけなのだ。

 僕はすうっと、ひとつ深呼吸をして平常心を取り戻そうとした。いつまでもアヤに不平等な不快感を与えるわけにはいかない。

「わかったよ、六花亭があるか、ここではまずそれを探してみよう」たぶん僕は力なく笑っていただろう。「その後はすぐに晩御飯だよ」


 幸いにも、ウイングベイ小樽には六花亭の常設売り場があり、六花亭の代表商品である「マルセイバターサンド」はすぐに見つかった。

 ホッとした顔で会計を済ませるアヤを見ては、お腹のあたりがちくりと痛む。

 理屈ではわかっていた。

 いや、わかっていた「つもり」なのかもしれない。

 アヤの口から「旦那さん」、そして僕の口から「嫁さん」という言葉が出るたびに、僕とアヤの間に重苦しい空気が流れる。

 そのたびに、僕とアヤは「不倫関係」なのだと実感させられた。

 どれだけお互いに愛し合い、純粋に想い合っていても、この関係を形容する言葉はそれなのだ。

 そして、明日にはアヤは夫の待つ街へ帰る。

 きっとそのことが余計に僕の心をかき乱すのだ。


 インターネット上で初めて知り合ってから、およそ二か月。

 初めてそばにキミを感じることができてから、四日間。

 こうして考えると、キミとの時間はまだまだ始まったばかりだね。

 だけど、それでも僕は、できることならキミとこれからもずっと一緒にいたい、って思うんだ。

 「これからもずっと」っていうのは、死が二人を別つまで、ってことだよ。

 でもそれよりも、明日の「サヨナラ」がなんだか怖い。

 お互い、次にいつ会えるかわからない「現実」と、社会的にも保障されたパートナーの元へとキミを帰すことが。

 移住するまでに惚れこんだ北海道の物を、大好きなキミが買って帰り、「あの人」と食べていることを、どうしても想像してしまう。

 キミを帰したくない。

 このまま、ふたりどこか誰も知らないところへ行きたかった。



 新千歳空港でアヤと初めて会う前から、僕たちはお互いにチャンスがあった時によく電話をしていた。

 とは言え、そのチャンスはそうやすやすと来るものではなく、特にアヤは専業主婦であるが故、夫が仕事から帰る前や飲み会等で帰りが遅い時などに限られる。

 僕はと言えば日中仕事がある。当然、アヤの夫の仕事の時間ともかぶることがほとんどであった。よって平日は十数分しか話せないことなんてざらだった。

 一方、アヤの夫が夜遅くならなければ帰らない時は、僕が妻に「仕事で帰りが遅くなる」とでも言って家に帰らず、車の中などで携帯電話が熱くなるほどに話した。

 となると、大きな問題が出てくる。

 通話料金だ。

 世の中の遠距離恋愛を貫くカップルの例にもれず、僕たちにもそれは大問題であった。

しかも僕とアヤが利用する携帯電話会社は違っていたので、通話料金はほぼ満額かかってしまう。

かと言って、好きな時にちょっとしたことでも連絡が自由にとれるわけでもないので、長く話せるときは貴重だった。

 そんなときに時間の許す限りの会話をすることを放棄するなどという選択肢は、僕たちの間にはなかった。


「そう言えばコウジって」アヤが石焼焼きそばをふうふうしながら言う。「よく奥さんと離婚したい、って前から言ってたよね」

 六花亭での買い物を終えた僕たちは、ウイングベイ小樽内にあった中華料理店で遅めの夕食を取っていた。

 アヤよりも先に自分のメニューを平らげていた僕は、水を一口含んで答えた。

「うん、言ってたよ」

「でもね、アヤ思うんだ」

 アヤは手に持っている箸で焼きそばを小突く。しかし、それを口に運ぶことをやめた。

 僕は沈黙をもって、言葉の続きを促した。

「なんだかんだ言ってもね」そう言って、アヤは苦笑いを僕に向ける。「結局コウジは奥さんと離婚しないと思う」

 聞いた瞬間、僕の心臓はどきりと大きく跳ね上がった。

 それはアヤの言っていることが的を射ぬいたからではもちろんない。

 アヤがそんな風に思っていたことに対してだ。


 僕は自分の妻とは遅かれ早かれ、離婚することを真剣に考えていた。

 妻とは大学時代からの付き合いだったのだが、その時間を加算すると十年近い年月になる。

 確かに、僕は妻に真剣に恋をしていた。

 しかし年月とは残酷なもので、かつてはあんなに愛しかった妻は、今ではもはや、ただ同居する他人となっていた。

 このまま「結婚生活」を続けていくことの意味をなくしたまま、僕は一生を終えるのか。否、そんなことは耐えられない。

 そんなことを考え始めたころ、僕の目の前に新たな光がさした気がした。

 それがアヤだった。

 いつしか僕の心の中には、半分の「妻との離婚」そしてもう半分の「アヤとの未来」でいっぱいになっていた。

 だからこそ、アヤの言葉は僕の胸に突き刺さる。


「なんでそんなこと思ったの」

「具体的に…こうだから、っていうのはなかなか言えないけどさ」アヤはしばらく目を伏せて考え込むと、ふと思いついたように言う。「例えば、携帯電話かな」

「携帯電話?」

「うん。コウジってさ、ドコモの携帯使ってるでしょ」

「うん」僕はテーブルに置いていた自分の携帯電話に視線を落とす。「初めて携帯を持ったころからずっとドコモだったからね」

「前にコウジの親族はみんなドコモだ、って言ってたよね?」

 アヤは一つ一つ確認するように問う。

 僕はそんなアヤの真意をつかみきれずにいた。

「…ということは、奥さんもドコモだよね。アヤはiPhoneだからソフトバンクなのに」

 そこまで聞いて、僕はハッとした。

「アヤがもし逆の立場だったら、すぐにソフトバンクに変えるよ?ソフトバンク同士だったらタダともだから、ほとんど通話料気にせずに話せるし…それにコウジ、前にiPhoneに興味ある、って言ってじゃん」

 何も返せないでいる僕を一瞥して、アヤは続けた。

「もちろん、家族割とかいろんな事情があるのはわかるよ、アヤだってばかじゃないし。でも…そういう所でなんとなく…なんとなくだよ、アヤとの繋がりより奥さんとの〝繋がり〟が捨てきれないのかな、なんて思っちゃう」

 そう言ってまっすぐに僕を見つめるアヤ。

 それは、きっとアヤが初めて僕に本気でぶつかってきた瞬間だった。

 アヤが正面切って僕に不満をぶつけてくる。

 初めて二人の間に流れる不穏な空気はもちろん心地のいいものではなかった。しかし、どこかでそれを嬉しく思った僕がいる。

 嫌なことは嫌だと、初めてアヤが僕に言ってくれたのだ。

 しかし、ただ喜んでいては本物の大ばか者である。

 本気には本気で返さなくてはならない。

「わかった」僕もアヤをまっすぐに見つめ返す。「僕もソフトバンクにする。アヤと同じiPhoneにする」

「無理しなくても、いいんだよ…?」どこか悲しそうな顔で僕を上目づかいで見つめるあや。「アヤに言われたからって、いやいやそうされても嫌だし…それに」

「それに?」

「わがままな女だなんて思われて嫌われたくない…」

 まったく、この人は。

 どこまで僕の心をかき乱せば気が済むのだろう。

「確か、さっきこの建物のどこかでソフトバンクのショップを見つけたんだ。そこで機種変更するよ」

 え、と驚いた表情に変わるアヤ。

「い、いきなり?」

「うん、だってこのままじゃアヤがさっきみたいに思うのも仕方ないって思った。アヤのことをわがままだなんて思ってないよ。本気でぶつかってきてくれたことが嬉しかったんだ。だから、僕もアヤに本気を見せるよ」

「そうしてくれると…気持ち的にも金銭的にも嬉しいけど、大丈夫?」

 不安そうに僕を見つめ返すアヤに、僕は続けた。

「大丈夫かどうかは…正直わからない。アヤも知ってる通り、うちはみんなドコモだから、ソフトバンクに変えるっていうことは僕一人だけがいきなり家族割から抜けることになるし、嫁さんへの説明も必要だよ。だって、出張って言って出かけて、家に帰ったらいきなり携帯が変わってるなんておかしいから」

 アヤは返事に困っているようだった。

 まさか自分が言い出したことが一気に動き出すなんて思ってもいなかったのだろう。

「そうと決まれば、早く食べちゃってショップに行くよ」

 僕はそんなアヤに余計な不安を与えてしまわないように、にかっと笑ってそう宣言した。


 僕たちの関係を形容する言葉はいろいろとある。

 誰が何と言おうと、そのうちのひとつが「不倫」だが、キミはその言葉を使うことを嫌ったね。

 ―――不倫は不倫だけど、アヤは「本気の恋」だから不倫だなんて言いたくないんだ…。

 それは僕も同じだった。

 また、他の言葉で表現するなら「遠距離恋愛」。

 北海道と本州の真ん中では、そうそう気軽に会いに行くこともできない。ましてや「不倫」なら。

 だからこそキミと僕は「繋がり」を求めた。

 今まではパソコンのメール、携帯のメール、そして携帯電話での通話で満足していたのかもしれないね。

 でも、同じ携帯電話なんて素敵じゃないか。

 ありがとう、僕の背中を押してくれて。



「だから、前から欲しかったiPhoneに携帯を変えたいんだ、って」僕は携帯に向かって語気を荒げた。「札幌のショップに立ち寄ったら安かったんだ」

携帯の向こうの妻に、この四日間で何度目かわからない嘘をついた。

今僕がいるのは小樽であって、札幌ではない。

札幌に出張だ、と言って、今アヤといるのだから。

 そのアヤはといえば、僕から少し離れたところでショウケースに並んだソフトバンクの新型携帯電話をためつすがめつしている。

「とにかく、機種変して帰るからな」

 そう言って、僕は一方的に通話を切った。

 それに気づいたアヤが僕の方に向かって歩いてくる。

「…どうだった?」

「まあ、一筋縄ではいかないだろうけど何とかなるさ」不安そうなアヤを安心させるように穏やかに言う。「とりあえず話はしたんだし、機種変して帰ったら諦めるだろうよ」


 さっそく僕はアヤを伴い窓口に向かったのだが、時間が遅すぎたようだ。携帯電話の機種変更の手続きはおろか、キャリアの変更受付時間もとうに過ぎていることを受け付けの女性に告げられた。

「ダメだったね」

 アヤが心底残念そうに言う。

「仕方ないよ、遅すぎた」

「…どうするの?」

「明日になったらもう一度挑戦するよ」

「明日になったら…」アヤは一瞬考え込み、落胆した。「…アヤは一緒にショップに行けないね」

 そうだった。

 アヤは明日の朝一番の羽田空港行きの飛行機で自分の街へと帰るのだ。

 ショップの開店時間には、すでにアヤは空の上のはず。

「iPhoneに変えたら、すぐにメールするよ。誰よりも一番早くに」僕は力を込めてアヤを慰める。「アヤのために変える携帯なんだから、初めてのメールもアヤがいい」

「飛行機の中じゃメール返せないよ?」

「飛行機を降りたら返してくれればいい」

「すぐに旦那さんと合流したら、もっと遅くなるかも…」

「いいよ、待ってるから」

 僕はアヤの両手を握った。

 言葉だけでなく、僕の本気がこの手を通じてアヤに届くことを願って。

「…ありがとう」僕を見上げたアヤの顔に笑顔が戻る。「アヤのために」

「いいんだ」僕も最大限の笑顔で答えた。「アヤとのためだから」


 僕とアヤは手を繋いだまま、ショッピングモールをぶらぶら歩いていた。

 ちょっとした屋内広場ではとある自動車メーカーの新車が展示してあり、ふたりで「もしふたりの間に子どもができたらどんな車がいいか」なんて話題で盛り上がったり、「その車でどこにでかけたいか」などと真剣に話し合ったりした。

 そのようにあてもなく歩いていると、いつの間にか駐車場とは反対側のショッピングモールの出入り口付近にまで来ていた。

「端っこまで来ちゃったね」アヤが可笑しそうに笑う。「そろそろここも出よっか」

「そうだね」

 そう答えて、車をどのあたりに止めたかを思い出そうとしたその時、ふと僕の頭に浮かんだものがあった。

 観覧車だ。

「ねえアヤ、ちょっとお願いがあるんだけど」

「ん、なーに?」

「外に観覧車があったの覚えてる?」

「そう言えばあったねー」

「一緒に乗ってくれない?」

 そう言うとアヤは一瞬困ったような表情を見せた。

「…アヤ、高い所苦手なんだ」

「そうなの?」

「うん…それにさー」そして突然歯切れが悪くなるアヤ。「観覧車、っていったら定番のデートスポットじゃんか」

 初めはアヤが何を言わんとしているのかわからなかったが、僕はすぐに気づいた。

 小樽に行こう、と僕が提案した時ときっと同じだ。

「観覧車なんて、子どものころにひとりでか家族としか乗ったことないよ」

「ホントに?」

「うん。でも昔から〝彼女〟と乗ってみたいな、って夢はあったんだ」

 アヤは何と答えていいかわからないようだった。それも仕方ない、そうでなくとも高い所が苦手だと表明しているのだから。

「高い所が嫌かもしれないけど、僕の人生初めての観覧車デートしてくれないかな、〝彼女〟として」

 それでもしばらく考え込むアヤ。しかし意を決したように僕の手をぎゅっと握り直し言う。

「いいよ、コウジがそこまで言うならアヤ、ついて行く」


 観覧車に乗ったアヤは寒さもあいまってすぐに震えだした。

 眼下に広がる、冬の小樽の夜景に視線をやる余裕もないらしい。

 震えを抑えてあげようと僕がアヤの隣に行こうとすると、「揺れてるー!」と悲鳴を上げた。

「ホントに高い所苦手なんだね」

 僕がそうからかうと、アヤは全力で訴える。

「だから言ったじゃんかー…」

「なんだかゴメンね、無理やり付き合わせちゃって」

「そんなことないよ。コウジがしたいこと、何でも一緒にしてあげたいから」

 そう言って力なく笑うアヤ。

 本当は怖くて怖くて仕方ないのに、僕のことだけを考えてついてきてくれた。

 隠し切れないほど震えているのに、僕の願いをかなえるために。

 そう思った時、僕の心は何者かに締め上げられたかのようにぎゅう、と痛んだ。しかしそれは不快な痛みではない。呼吸をすることすら忘れるほどに、アヤに目を奪われる。

「アヤってさ」きっと僕は苦悶の表情をしていただろう。「何度僕を恋に落とせば気が済むの…?」

 そして僕はなるべくゴンドラを揺らさないように、そうっとアヤの正面に膝立ちをした。自然と僕の視線はアヤの顔を見上げる形になる。

 やがて僕たちを乗せたゴンドラは、観覧車の頂上付近に差し掛かった。

「アヤ」

 こんなにも誰かのことを愛しいと思った恋は、僕の今までの人生の中であっただろうか。

 こんなにも愛しいと思った人が、今までにいただろうか。

「いつになるかわからないけど、いつか…いつかさ、何も気にしなくて済む〝その時〟が来たら、僕と一緒になってくれないか」

「はっきりと言えることではないけど」そう前置きをして、アヤは精いっぱいの笑顔で答えてくれた。「アヤもおんなじ気もちだよ」

 僕とアヤは、ゴンドラの中でこれでもかと言うほどに力いっぱい抱きしめあった。


 本当は結婚してほしい、と言いたかった。

 でも今の僕の立場では言えることではなかった。

 キミにも、そして僕にも、そうするためには超えなくてはならないハードルが多すぎて、高すぎる。

 だから精いっぱいの思いで、一緒になってくれないか、とだけお願いしたんだ。

 もちろん、真意を込めて。



 僕は千歳市内に向けてナビを設定した。事前に予約してあった今晩のホテルまではおよそ一時間。

 車を立体駐車場から出した途端、来た時よりも勢いが強くなった雪がフロントガラスを覆う。

「これが今回の旅で最後のドライブになるのかな」

 アヤがさみしそうに言う。

「そう…だね」

 アヤがそんなことを言うものだから、僕の背中にも「明日の別れ」が実感としてそろりと背中を撫でる。

 朝九時の飛行機で帰るアヤのために、僕は新千歳空港からなるべく近いホテルを予約していた。

 車でおよそ十分。

 そんなものはドライブとは呼べないし、何より朝はバタつくであろう。

 明日もアヤと「おはよう」を言えるが、明日は「一日」ではないのだ。

「ごめんね」アヤは申し訳なさそうにうつむく。「空港から家まで帰ることを考えたら、朝一番の飛行機で帰るのがいいと思って…」

 アヤも同じことを考えていたらしい。

「気にしないで」僕はぎゅっとこらえて答えた。「明日は僕も釧路まで帰らなくちゃならないから」


 車を札樽道の高架沿いに走らせていると、雪を幾分か避けることができた。

 今僕たちが走っている一般道を、高架上を走る札樽道の水銀灯がオレンジ色に照らしている。その光に照らされて雪がオレンジ色に輝くものだから、街全体が物悲しい雰囲気に包まれていた。

「ねえ…」アヤが握ったままの僕の左手を揺らす。「お願いがあるんだけど」

「何?」

「シートベルト、外しちゃダメかな」

 おずおずと聞くアヤ。

「どうして?お腹でも苦しいの?」

「ばっきゃろー」そう言ってアヤは先ほどまでとは打って変わってけらけら笑い出した。「そんなにお腹出てないよー」

「ごめん、そういう意味じゃないよ」僕もつられて笑う。「じゃあどうして」

「あのね、遠いんだ」

「何が」

「ホントに鈍ちん」くっくっくと笑いながら僕を小突くアヤ。「コウジが、に決まってるでしょ」

 そう言って、すぐにアヤは真顔に戻る。

「なんだか時間がもったいないんだ。こうして助手席にいるのもいいんだけど、もっとくっつきたい」

 アヤの可愛らしい懇願ではあるが、それはすぐには承諾できない。

 いろんな意味で危険だ。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど」僕はアヤをなだめるように言う。「雪道だし危ないよ。それに、僕は一応は公務員だからね。違反がばれると色々うるさいんだ」

「ちょっとくらいいいじゃん…」落胆するアヤ。「それとも、アヤとはくっつきたくないんだ…」

「そんなことないよ」

 僕は力を込めて否定する。

 そう思われるのだけは不本意だ。

「いいよ、ちょっとくらいなら」

「ホント?」

 アヤは声を弾ませて、さっそくシートベルトを解除し始めた。そして僕の左腕に絡みついてくる。

 これまでは、アヤは助手席にいる時にはいつも僕の左肩に頭を預けていた。僕もアヤが無理な態勢にならないように体を助手席側にできるだけずらしていたものだ。

 アヤはこうしているのが好きだという。

 自分の頭がちょうどよくすっぽりと収まるのだそうだ。

 そうしていると、高さ的にも僕の左側の頬がアヤのふんわりとした髪に密着するのだが、その柔らかな髪の感触や香りも僕は気に入っていた。

 アヤが一度僕から離れる。

 何をしようとしているのか僕が疑問に思っていると、アヤは助手席の上に正座し始めた。

 そして顔を僕の目の前に出す。

 視界がふさがれて危険を感じたのもつかの間、僕の唇にアヤの唇が重なる。

 その口づけは何度も何度も繰り返され、そのたびに僕の頭はくらくらした。

「ずっと…こうしたかった」

 アヤが唇を離して切なげにつぶやく。

「アヤ…嬉しいけど、危ないよ」

「じゃあ、こうすればちゃんと前見える?」

 そう言ってアヤは頭を斜めにして、自らの頭で僕の視界をふさぐことの内容にする。

 そして、口づけの再開。

「誰かに見られちゃうよ」そう言いながらも、僕もアヤの口づけに応じる。「いいの?」

「見られても、どうせ二度と会わないら?」

 おかしそうに悪戯っぽく笑うアヤ。

 そんなアヤがいとおしくて、僕からも口づけの応戦。


 その時、僕の意識はぐっちゃぐちゃだったんだ。

 危ないのはわかっていた。

 だって降りやまない雪の中、運転もしていたんだからね。

 視界では何とか道路をとらえていたけども、結構ハラハラしながらハンドルを握っていたんだよ。

 でも…、すごくうれしかった。

 キミにどれだけ想われているのか、わかった気がする。

 嬉しすぎて、アクセルを思いっきり踏み込んでしまいたい気持ちを抑えるのに必死だったんだ。



「やっと着いたね」疲れ切った声を上げながら、アヤはベッドに座り込んだ。「今日もすっごい距離走ったねー」

「ゴメンな、遅くまで」

 この部屋のダブルベッドは思ったよりも広く、ふたりで両手を広げても十分な広さがあるように思える。

 僕は自分のキャリーバッグを部屋の隅に据えると、カーテンを開けてみた。

 丁度JR千歳駅のそばにこのホテルはあるらしく、眼下には駅前の明るい街並みが見下ろせる。

 この街が、今回の僕たち最後の街になる。

 そう思うと感慨深い。

「何見てるの?」

 いつまでもひとりで窓の外を眺めていると、アヤも僕の隣に立った。

「今日はお疲れ様」

 僕はアヤの肩を抱き寄せる。

 するとアヤも従って僕にぴったりと身を寄せた。

「コウジの方こそ、運転お疲れ様だね」

「大丈夫だよ」一層力を込める。「アヤがずっと隣にいてくれたからね」

「うん」

 僕はふと腕時計を見た。

 時刻はすでに十一時を回っている。

「もうすぐ今日が終わるね」アヤも僕の時計を覗き込んだ。「コウジといると時間があっという間。ホントに早く過ぎちゃう」

 それは僕も同感で、アヤといると一日がいつもの半分ほどの時間しかないようだった。

 そしてそれは、残酷なまでにアヤとの別れを加速する。

「もう…一日も一緒にいれないんだな」

 僕が思わずそうつぶやくと、アヤはいきなり僕から体を離したかと思うと僕の頬を両手でつまんだ。

「おバカ」

「な、何で」

「そんなさみしいこと言わないの!」そう言葉を荒げて言ったかと思うと、アヤはすぐにいつものふんわりとした笑顔に戻る。「あと何時間かは一緒にいられるでしょ」

「そうだね」


 新千歳空港でアヤを出迎えた四日前。

 二人とも少しでも早く、長く会いたかったから、僕が新千歳空港まで車で迎えに行った。

 そうすると決まるまでは、思えば紆余曲折あった。

 初めはアヤが釧路まで来る予定だった。平日だと僕が仕事があるために、アヤは新千歳空港から特急電車に乗って釧路まで来て、彼女のみ釧路市内のホテルで一泊してから会う予定だったのだ。

 それに、釧路には僕の妻もいる。

 いろいろと対策を練らなくてはならなかった。

 それでも、釧路駅のどのあたりでアヤを迎える、だとか、迎えたらアヤだけがどこのホテルに泊まる、などの話で盛り上がった。

 計画を練るだけでも、「その日」が早く来るような気がしたのだ。

 僕は入念な計画を立てて、待ちきれずに何度も釧路駅に行ってはひとりでアヤを迎えるシミュレーションをした。

 しかしそれでは、アヤがせっかく釧路という手の届くところにいるのにもかかわらず、一緒にいられる時間が一日減ってしまう。

 そこで日を変えて、僕がある程度休みを取れる冬休みの期間に合わせてアヤが新千歳空港まで来ることになったのだ。

 ただ、その計画をふたりで立てていたのは、年末。

 年末から年始にかけて、と言えば所帯持ちならばどうしても避けることのできないことがある。

 そう、クリスマスに正月だ。

 僕と妻はふたりとも地元から遠く離れているために実家めぐりなどは暗黙の了解で免除されていた。しかしアヤはそうはいかなかった。

 アヤと夫は同じ地元で出会い、結婚し、地元に住んでいる。ましてやアヤは「長男の嫁」だった。年末年始は互いの実家にあいさつ回りをしなくてはならなかったし、お互いの実家に宿泊しなければならなかった。

 その間、僕とアヤは一切の連絡を絶つ。絶たなければならない。

 わかってはいるものの、アヤの想いを信じてはいたものの、その間僕は不安に押し潰されそうだった。


 このまま連絡が取れなくなったらどうしよう。

 クリスマス、そこで夫との間に何かあったら…。

 家族と触れ合ううちに心変わりしてしまったら。

 長男の嫁であるがゆえに、「早く子どもを」なんてよく言われていたみたいだし…。


 ようやくアヤから連絡が入ったのは、アヤが北海道まで来る前日だった。

「連絡できなくて寂しかった」そんなアヤのか細い声が僕の心をかき乱した。「アヤと連絡できない間に奥さんと〝浮気〟してない?」

「してないよ」僕もそれまでの寂しさを全てぶつけるように言った。「アヤがいるのに…できるわけない。このまま連絡来なかったらどうしよう、って本気で不安だった」

「そんなことするわけないよ」僕に呼応するようにアヤも強く言った。「まだ会ったこともないけど、コウジがいない毎日なんて考えられない」


 アヤが北海道に来るその日。つまりは四日前だ。

 はやる気持ちを抑えきれず、アヤの乗る飛行機がむこうを飛び立つ前に僕はすでに新千歳空港に到着していた。

 そろそろアヤも飛行機に乗ったころかな、なんて考えながらも一切心は落ち着かず、車の中で携帯電話をいじくっていたその時、アヤからの電話着信があった。

 それはそれは驚いたものだった。

 事前の打ち合わせでは、アヤは夫に空港まで送ってもらっているはず。

 ということは、僕に電話はおろかメールもできないはずだったのに。

 何はともあれ、僕は電話にでる。

「どうした?」

「今ね、空港なんだけど」携帯電話の向こうのアヤの声は、まるで内緒話でもするようにひそひそ声だった。「トイレに行く、って言って、今女子トイレの中なんだ」

「そうなんだ」つられて僕も小さな声になる。「大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないよー」

 今にも泣きそうな声でアヤが言うものだから、僕はあわてた。

 何かトラブルでもあったのか、それとも飛行機が飛ばないのか。

「飛行機に乗る緊張と、コウジに会う緊張で吐きそう…」

 僕はひとり、車の中でずっこける。

「大丈夫だよ、飛行機は世界一安全な乗り物だから」

「そんなこと言ったってー」

「それに、僕はもう新千歳空港にいるよ。両手広げて待ってるから」

「え?」今度はアヤが驚いていた。「もう着いたの?」

「うん、待ちきれなくてさっさと運転してたら着いちゃった」

「ええー、どうしよう…」

「どうしようって…」いつもの悪戯心が目を覚ます。「来るのやめる?」

「やめないしっ!行くしっ!」いつもの調子でアヤはそう返したが、すぐに少し落胆したような口調に変わる。「それとも、会うの嫌になっちゃった?」

「そんなわけないよ、だからこんなにも早くに新千歳についたんだから」

「ばっきゃろー、これ以上不安にさせるなよぉ」

 今にも泣きそうな声でアヤが言う。

「ごめんごめん。でも、あと数時間でそばに来てくれるんだね」

「そうだよ、アヤにあえるの嬉しい?」

「もちろん!」

「よかった…。旦那さんに怪しまれちゃアレだから、そろそろトイレ出て飛行機に乗るね」

「わかった、待ってるよ」

「うん、じゃあ〝あとで〟」


 そうして、アヤと僕とは初めての「出会い」を果たしたのだった。

 たった四日前のことなのに、ずいぶん遠い昔のような気がする。逆にこれからもこうしてアヤと毎日ずっと一緒にいられるような錯覚に陥っていた。

 そんなアヤとも、明日再び離れ離れになる。

 僕の頬をつまんでいたアヤの両手を離し、握った。

「次に会えるのはいつになるかな」

「そうだねー」アヤはじっと僕の目を見つめ返しながら言う。「次はコウジにアヤの街に来てほしいな」

「アヤの街か、行ってみたいよ」

「ぜひ」

「でも、そうなると夏休み頃になるかな…。まとまって休みが取れるのもその頃じゃないと」

「そっか…」笑顔のような泣き顔のような、複雑なまなざしを向けるアヤ。「じゃあ、半年後くらいになっちゃうね」

「うん…ごめんね」

「いいよ、こんなふたりが〝会える〟だけでも良しとしなきゃ」

「アヤ」

 僕はそっとアヤを抱き寄せた。

 優しく、まるで壊れ物を包み込むように。

 その瞬間、鼻の奥がツンと痛む。

「僕と歩いた雪の、雪鳴りの音を忘れないで。一緒に見た雪を忘れないで」

「ホントにおバカだなー」そんな僕の頭をアヤはそっと撫でる。「もう二度と会えないみたいなこと言わないで?」



 部屋に備え付けられているワーキングデスクの上には、ふたつのコンセントにそれぞれ充電器でつながれている携帯電話が並んでいる。

 一つはiPhone、もう一つはドコモの携帯。

 僕のそれは無造作に置いたのだが、意識してか無意識か、アヤが自分のiPhoneを充電器につないだ時に二つをきちんと並べて置いたのだった。

 半年後、なんて言ったものの、次にこうして二つの携帯電話が出会うのはいつのことだろう。

 いや、この二つの携帯電話が並ぶことはもうないかもしれない。

 僕は早ければ明日、携帯電話をアヤと同じiPhoneに変えるのだから。

 僕たちを今まで繋ぎ止めてくれていた携帯電話が僕たちとは違い、二度と出会うことはないと考えると、それはそれで感慨深い。

 また、漠然と「半年」という時間で表現されたものの、はっきりと日付が確定しているわけではない。それが僕に一抹の不安を残した。


「もう寝ようか」時刻はすでに午前三時を回っていた。「明日も早いんだ」

「そうだね、寝ちゃうのがちょっぴりもったいないけどー」

 あれから僕たちはふたりでお風呂に入った。

 このホテルはビジネスホテルには珍しくユニットバスではなく、ふたりでも十分にゆったりと入浴することができた。

 思えば今回の旅で初めてのことだ。

 そして今回の旅では最後のことでもある。

 お風呂上りのふたりは備え付けのバスローブ姿であったのだが、今ではベッドの中でお互いに何も着ていない。

「いろんなところに行ったね」アヤが僕の方に体ごと向けて笑う。「たくさん連れて行ってくれてありがとう」

「ううん」僕はアヤの髪を撫でた。「こちらこそ来てくれてありがとう、だよ。それに、もっともっといろんなところに連れて行ってあげたい。僕が大好きになった北海道のいろんなところに」

「アヤはそんなにたくさん来れないかもだけど、楽しみにしてるね」

 僕はアヤの頭の下に左腕を差し込んだ。

 アヤは素直に従い、僕に腕枕される。

「次はアヤの街のいろんなところに連れていって」

「うん」

「楽しみだけど、半年後か」

 僕はできるだけ重い雰囲気を作らないように、軽い口調で言ったつもりだった。

 半年後、つまり一年の半分であるが、それが途方もない時間だということは知っている。

 だからこそ、その「途方もなさ」を感じさせないように。

 半年後なんてすぐだ、というつもりに。

「そうだね」

 ふと笑ったかと思うと、アヤは笑顔のまま涙を一筋こぼした。

 それは見る見るうちに溢れ出してくる。

「あ、あれ?…」アヤは両手で目じりを抑える。「なんで?」

 そして声を上げて、まるで子どもの様に泣きじゃくり始めた。

「え、笑顔でいようと思ってたのに…最後の夜くらい、ふたりで笑顔でいようと思ったのに!」

 なんて綺麗な涙なんだろう。

 誰かのために流すアヤの涙が、こんなにも綺麗だなんて。

 そしてそれは、僕に向けられている。

 自然と僕の頬にも熱いものが伝わるのを感じた。

「泣けば…いいんじゃないかな?」嗚咽交じりに僕も言う。「素直なアヤでいてくれて…い、いいんだよ…」

「コウジ…コウジ!」

 アヤが涙でぐしゃぐしゃになった顔を、僕の胸に押し付けた。

「何?」

 僕も負けじと、強く、強く抱きしめる。

「半年なんて…長すぎるよぉ」

「でも…でも、待っててな。次は必ず僕が会いに行くから」

「もっと傍にいたかった、傍にいてあげたかった」

「僕もだよ。ずっと傍にいたい…」僕の胸は、アヤの涙でじっとり濡れていた。「どうして一緒にいられないんだろな…もっと早く、お互い結婚する前に出会いたかった」

「うん…うん!」

 止めようとしても止められない涙を、僕もアヤの髪に浸透させるようにアヤの頭をかき抱く。

「ゴメンね、僕の方こそ、男のくせに泣き虫で」

「ううん」アヤが僕の胸から顔をあげた。そして上目づかいで言う。「アヤ、こういう時の男の人の涙って嫌いじゃないよ」

「…そう?」

 意外だった。

「うん」涙で真っ赤になった瞳のままでアヤは言った。「ましてやコウジの涙なら。だって、それだけ…泣いちゃうくらいアヤのこと好きでいてくれてるんだ、って実感する」

 そしていつものふんわり笑顔。

 ダメだよ、いまこのタイミングでそんな顔されたら。

 明日にはこの笑顔が手が届かないところに帰ってしまう。どんなにアヤが泣いていても、その頭をなでてやることも、抱きしめてやることも、手を握ることもできなくなる。

 そう思うと、一層涙があふれ出してきた。

 自分でも、ここまで泣けてくるのかと驚くくらいに。

「えへへ…コウジの泣き虫」アヤが僕の髪をくしゃくしゃに撫でる。「ホントに大好き。愛してる」

「僕もだよ…?」

「知ってる」そして優しいキス。「ありがとう、こんなアヤのこと、いっぱい好きになってくれて」


 遠距離恋愛。

 僕らはそう呼んでいたけど、こんなにも辛いものだなんて思いもしなかったんだ。

 それが単なる遠距離恋愛じゃないのなら、なおさらだ。

 四日前は、手が届くところにキミがいることが信じられなかったのに、今では、キミが手が届かないところに帰ってしまうことが信じられなくて。

 こんなにも傍にいるのに。

 こんなにも愛しているのに。


10


 およそ一か月半前のことだ。

 僕はたまたま立ち寄った大手家電量販店でデータ通信端末を購入した。それはパソコンのUSBに挿入するだけでインターネットにつなぐことができるという代物で、当時自分のパソコンを持ってはいたもののインターネットに接続していなかった僕にとっては夢の道具に思えた。

 これで自分で作曲した曲をネットで公開できるぞ。

 動画投稿サイトに公開しようか。

 あ、はやりのブログなんて解説するのもいいかも。

 端末を購入して、家に帰るまで気分はウキウキしていたのを覚えている。

 帰宅すると、僕はさっそく端末をパソコンに接続して、とあるサイトに登録した。

そのサイトは曲を作る者やイラストを描く者、そして動画を編集する者などが集まり、単に自分の作品を公開するだけではなく、お互いの得意分野を生かして協力して作品作りができるという所だった。

僕はさっそくそれまでに作った曲を投稿し、反応をうかがう。

いろんな反応があり、それだけでも楽しかったのだが、いつしか欲を出すようになる。


―――自分はイラストを描けないので、描ける人を募って自分の曲を中心とした動画が作りたい。―――


 そこでそのサイトの中にある「コラボ活動」のページに一曲アップロードして、イラストを描いてくれる人を募集した。

 その曲は、時期的にもクリスマスが近かったので、歌詞の主人公の女の子がクリスマス前に意中の男の子に告白し、楽しいくもちょっぴり恥ずかしいクリスマスを過ごす、といった曲だ。

 反応はすぐにあり、何人か応募してきてくれた。

 ほとんどが中高生くらいの若い子ばかりだったのだが、その中の一人に、僕と歳が近い女性がいた。

 彼女とはサイト内において、イラストについての打ち合わせを頻繁にしているうちに他愛もない会話もするようになった。

 それこそ、今日は何をして一日過ごしただとか、どこにでかけた、など。

 そして彼女は、少し前に開設した僕のブログも覗いてくれるようになる。

 仲を深めていくのに、そう時間はかからなかった。

 ただ、彼女と僕はサイト内で知り合ったころには、すでにお互い結婚していることを明かしていたので、それ以上の関係にはならないだろうと思っていた。

 しかしある時、彼女から提案があった。


「チャットしよう。その方がたくさん話せるし」


 そのころの僕は、チャットについてあまりいいイメージを持っていなかったことと、やり方がわからないこと、そして自分も相手も妻や夫がいる身なので、丁重に断った。

 それから携帯で連絡を取り合いたい、との提案もあったがそれも断った。

 すると今度は「パソコンのメールなら大丈夫?」と彼女の方から聞いてきた。

 初めは迷ったが、パソコンならそんなに問題ないだろうと思い、承諾する。作品作りをしていくうえで、パソコンのメールでやり取りできると便利だと思ったから、というのもある。

 しかし、一人の女性として彼女のことを気にしていなかったか、と言えば嘘になる。


 いつしか、自分の方から彼女に携帯電話の連絡先を聞いていた。



「びっくりしたよ」僕は車の中で電話の向こうに話しかけた。「アヤって、すっごい美人さんだったんだね」

 携帯電話にイヤホンマイクを挿し、ハンズフリー機能で話しているので、今僕の手の中には彼女の写メが写っていた。

「もしかして、写真見ながら話してる?」

「うん」

「恥ずかしいっ」彼女はあわてた。「プリクラ写真なんて送るんじゃなかったよー。実物の五割増しくらいだからね」

「僕の方こそ、イケメンでなくてごめんね」

「アヤ、イケメン嫌―い。イケメンってなんだかチャラそうで…。でもその点安心した。コウジってなんだかくまさんみたいで可愛い」

「その点安心した、ってのがちょっと気になるけど…」

「気にしなーい」そう言ってころころ笑う彼女。「でも、これで会ったときにすぐに誰がコウジだかわかるから良かった」

「そうだね」僕は空っぽの助手席を見つめる。「あと二週間でこの助手席にアヤが座ってくれるんだね」

「そうだよー」嬉しそうに笑ったかと思うと、声のトーンを急に下げる彼女。「それまで奥さん乗せちゃだめだよ」

「乗せないよ」僕も真剣に答えた。「あいつと車に乗ってどこかに出かけるなんてしばらくしてないからね」

「ならよし」


 明け方近くになって、ようやく眠りに落ちたアヤの手を握りながら、そんなことを思い出していた。

 たった一か月半ほどの時間の中でいろんなことがあった。

 まさかこんなに愛しいと思える人に出会えるなんて思ってもいなかったし、その人がこうして隣で眠ってくれるだなんて。

 でもそれも今回で一度終わり。

 僕はひとり、ベッドの中で再び泣いた。

 すると眠っているはずのアヤが僕を引き寄せる。

 本当は起きてるんじゃないか。

 そう思ったが、安心しきったその寝顔は完全に夢の中である。


 行くなよ。

 帰るなよ。

 

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