第3話阿寒温泉から十勝川温泉へ

Episode3 阿寒温泉から十勝川温泉へ



「他のお客さん、もうとっくに朝ごはん食べたのかな」

 アヤが辺りを見回しながら言う。

 雪原と化した阿寒湖を一望できる、全面ガラス張りの食堂には僕たち以外宿泊客の姿は見当たらなかった。

 それもそのはずだ。

 現在の時刻はすでに9時前。この宿のチェックアウト時間は10時なので、皆朝食を済ませて出発準備に取り掛かっている頃だろう。

 僕とアヤは盛大に寝坊したのだ。

「僕たちも早く食べて準備しなきゃね」

「うー、でも朝ごはんはゆっくり食べたいよ」アヤが恨めしそうに言う。「そうでなくてもアヤ、とろいから」

「僕は別にかまわないけどさ」僕は思わず苦笑いした。「アヤがお化粧する時間がなくなるよ?」

「それは困る…」

「じゃあがんばって食べよう」

「はーい」


 というやりとりはあったものの、やはりアヤはマイペースに箸を進めているように見える。きっとこれが彼女なりの精一杯なのであろう。

 アヤは時々「遅い?」と言っては僕の顔色をうかがっていたが、僕はその度に「そんなことないよ」と答えた。実際、特段遅いとも思わなかったから。

 僕にはゆっくりと箸を進めているようにも見えるその様子も、普段どちらかと言うとせっかちな僕の心をほぐしてくれていた。

 先に膳を平らげた僕はじっとアヤを見つめる。

 するとその視線に気づいたアヤは照れくさそうに眼を伏せた。

「そんなに見られると、何だか恥ずかしい」

「そう?ごめんね」そんなアヤに思わず頬が緩む。「何だか変な感じだね」

「ん?何が」

「昨日はホテルだったから、普通の服を着て一緒に朝ごはんを食べたけど、今日は浴衣で一緒にいる。それに昨日は釧路までの長旅が大変だったし、一日が慌ただしかったからね」

「…それがどうかしたの?」

 アヤは僕が何を言わんとしているのか、量りきれないような不思議な表情をしていた。

「つまりさ」僕は端的に説明し直した。「アヤとふたりっきりで旅行してるんだな、って実感と、あんなに遠く感じてたアヤが今はこんなに近くにいるんだな、って実感してるってこと」

「そうだね」アヤは箸を一度置き、まっすぐに僕を見つめ返した。「近くにいるよ。コウジのすぐそばにいるよ」

 アヤがあんまりにも真剣に、僕に言い聞かせてくれるように言うものだから、僕はどきりとした。

 まるでアヤの瞳が僕の心臓を撃ち抜いたかのようだった。

 僕はそんな動揺を隠すように言った。

「浴衣、すっごく似合ってるよ。可愛い」

「ホント、アヤバカ」慌てて箸を握り直し、食事を再開するアヤ。「…照れるじゃん、急に」


 僕は朝を迎えるたびに、キミに恋をした。

 隣にキミの寝顔を見る奇跡と、キミに起こされる奇跡。

 その一瞬一瞬に、恋に落ちたんだ。



 朝食を食べ終え僕は部屋の片づけを、アヤは化粧をしているときに不意に備え付けの電話機が呼び出し音を響かせた。

「もしかして、時間?」

 アヤがピアスをつけながら僕を見上げる。

「たぶんね」僕はアヤに苦笑いを見せて、受話器を取った。「もしもし?」

「お客様、チェックアウトのお時間ですが、まだかかりますか?」

「ああ、もうそんな時間ですか」そうわざとらしくとぼけながら、アヤに目配せをする。「もうすぐ出ます。ご迷惑をおかけしました」

 するとアヤがそそくさと化粧の続きを始めた。


 阿寒湖温泉はの歴史は比較的浅く、その発見は日本史で言う江戸時代後期の頃だと言われている。当時は道東一帯に和人は少なく、アイヌの人々が冷えた体を暖めるのに利用していたようだ。

 観光客対象の旅館ができたのが明治45年だった。それから昭和9年に阿寒国立公園の指定を受けてからというもの、観光の拠点として発展していくこととなる。


「さっむーい!」

 アヤが上着の中に体を埋めるように縮こまり、歩道中に張った氷に足を取られないように慎重に歩いている。

「ずっとそればっかり」僕はつないだアヤの右手をそっと冷たい風から守った。「北海道に憧れてたんじゃなかったっけ?」

「憧れてたけど…寒いのは苦手」

「あはは、滑らないようにだけは気をつけて」

「うん」アヤは相変わらず足元に細心の注意を払っている。「こっちに来る前に、ガイドブックで氷の歩き方を予習してきたから」

「氷の歩き方?」

「そう」まるで小さな行進のように、アヤは足を垂直に上げては再び垂直におろして歩いていた。「まっすぐに氷の上に足をおろせば滑らないんだって」

「ああ、そう言うこと」僕は納得した。「そんなに大げさにしなくたって、普通の道みたいに踵から降ろさなければ大丈夫だよ」

「え?そうなの」

 きょとんとした顔でアヤが僕の顔を見上げた。

「そうだよ。踵から降ろすからずりっと足が前にすべって転ぶんだ」

「へー、そうなんだ」アヤは嬉しそうに再び背筋を伸ばし、僕の手を取って歩き出した。「でも転ばないようにしっかり支えててね」


 僕たちは昨夜過ごした旅館に車を預け、阿寒湖温泉街を散策していた。

 と言うのも、かつて僕が阿寒湖温泉を訪れた時にある温泉旅館の内部を携帯電話のカメラで撮影し、その写真をアヤに送ったことがある。

 その温泉旅館ではお昼過ぎに蒸かしたじゃがいもを訪れた客に振舞うイベントが毎日のように催されていた。

 その様子も撮影しアヤに送った所、「いいなー、おいも食べたい」という感想が返ってきたので、せっかくだら連れて行こうと考えたのだ。

 道すがら、阿寒の土産物店が立ち並ぶ通りを通ってきた。

 阿寒はかつてアイヌコタンと呼ばれるアイヌ人の集落があった地で、アイヌ文様の木彫りが名産品である。

 寒風吹きすさぶ中その温泉旅館に到着したのだが、生憎時間が早すぎたのか所定の場所に蒸かしいもは無かった。

 がっくりした僕を、彼女は「仕方ないね」と笑う。

「でもせっかくだから、何かお土産もの買いたいな」

「お土産もの?」僕の心はぴくりと反応する。「もしかして…旦那さんに?」

「おバカだなー」そんな僕に、アヤは声をあげて笑った。「せっかくだから、アヤとコウジでお揃いのものが欲しい、ってことだよ」

 少し恥ずかしそうに、どこかもじもじしながら言うアヤ。

 僕は一気に顔に血が上る音を聞いた気がした。


 それから僕たちは、数件の木彫り店に入り互いに気に入る物を探した。

 するとある店で僕とアヤの目を引くキーホルダーを見つけた。

 それはナキウサギをかたどったキーホルダーで、どこかとぼけた顔に僕とアヤは笑う。

 いくつか並んだそれは、よく見れば一つ一つの表情が微妙に違った。

 それはそうだ。アイヌの木彫りと言えば、全てが手づくりで、それが売りの一つだったのだから。

「これ、可愛いね」

「ああ、気に入った?」

「うん」

「じゃあさ」僕は頭に浮かんだ考えをアヤに提案した。「互いに気に入ったものを選んで交換しようか」

「いいねー、それ」

 そしてさっそくいくつかを手に取り、僕とアヤは真剣に選び始める。

 その時、僕とアヤの会話を聞きつけた店員がのっそりと奥から出てきて、僕たちに声をかけてきた。

「よければ裏に名前、彫りますよ」

「え?」

 僕とアヤは思わず顔を見合わせた。

 それは非常に魅力的な申し出のように思えたのだが、僕たちの「交換する」という前提のもとでは話が違った。

 互いの名前を彫ってもらい、それを交換する。

 互いの妻や夫にそれを見られたら。

 考えただけでその後の展開は容易に想像がつく。

 そこで僕は店員の申し出に、少し修正案を加えた。

「あの、イニシャル一文字でもかまいませんか?」


 あの時に互いに交換したナキウサギ。

 次に再会するのはいつだろうね、なんてキミは笑っていたね。

 できるだけ早くに会わせてあげたいな、なんて僕は答えたけど、それはつまりなるべく早くキミと会いたい、ってことだよ。



 阿寒湖から次の目的地である十勝方面へ向かうには、一度釧路に戻るのが僕にとって一番わかりやすい道だった。もしかすると、他にも道はあったのかもしれないが真冬の北海道である。慣れ親しんだ道の方が運転するのにもありがたい。

 ましてや助手席にはアヤがいる。

 道に迷ったり、事故を起こしたりなどの無様な姿は見せられない。

「また釧路に戻るんだね」そんな僕の緊張感など知ってか知らずか、アヤがどこか弾んだ声を上げる。「ここもまだ釧路の一部みたいだけど…釧路はもうアヤ達にとっても思い出の街だね」

「そうだね」そんなアヤの様子に少し笑ってしまった。「これから阿寒に行くたびにアヤのこと思い出すよ」

「阿寒に行った時だけ?」

 アヤは不満げに頬を膨らませる。

「ごめん、嘘。いつも、だよ。いつもアヤのこと考えてる」

「それでいいの」助手席で今度は満足げにうんうんと頷くアヤ。「アヤなんて、毎日寝る前にコウジのこと考えて…寝不足なんだからね」

「寝るときだけ?」

 僕は逆襲に打って出た。

「…アヤはいいの」

「なんだそれ」

「言わなくてもわかるでしょ」

「えー、わからん」

「…アヤだっていつも考えてるもん」

 顔を真っ赤にして俯くアヤ。

 僕は返事をする代わりに、それまでシフトレバーに添えていた左手でアヤの右手をぎゅっと握った。


「そういえばさ」僕は運転しながら思いだした。「この釧路に向かう道の途中で、美味しいアイス屋さんがあるんだけど」

「えー、行きたい!」

 アヤの表情が一段と明るくなる。

「だろうな、って思った」僕は得意げに言った。「あっかんべぇ、っていう有名なアイス屋さんがあるんだ。ただのソフトクリームも濃厚で美味しいし、ジェラートもたくさんの種類がある」

「それはそれは…アイス好きとしては行かないわけにはいきませんねぇ」

 今にもよだれをたらしそうな表情でアヤが言う。

「僕も前に行ったことがあって、ぜひ食べさせてあげたいって思ってたんだ」

「へー」途端にアヤの表情が曇りだす。「…誰と行ったんだよぉ」

「誰って…」そんなことを聞かれることなど予想もしていなかった僕は少しうろたえた。「同僚との職員旅行とか…」

「とか?」

 アヤは聞き逃さない。

「…嫁さんと」僕は観念した。ここで変に隠しても仕方がない。「でも、だいぶ前のことだよ」

「いーけどねー!」アヤが風船のように頬を膨らませたまま小さく叫ぶ。「アイスに罪はないし、材料のお乳を出してくれた牛さんにも罪はないしねー」

「なんか、ごめんね?」

「いいですよーだ」

 そう言うアヤの頬はしばらく膨らんだままだった。


 その一見するとただの民家にも見えなくもない店舗は、阿寒と釧路を結ぶ道道のおよそ中間地点にあった。

 周りをジャガイモ畑と酪農地帯に囲まれたその建物はこじんまりとしているが、確かな存在感を放っている。

 僕は車を止め、アヤに降りるように促した。

「小さくて可愛いお店だね」

 いつの間にか機嫌を直したアヤははしゃいだ声を上げた。

「初めて来たときは一回見逃したんだ」そんなアヤにホッとしながら僕はアヤの手を引く。「さ、入ろう」

 みた目以上にせまい店舗の中は5人も入れば狭く感じるくらいだった。

 エントランスをくぐると、すぐにジェラートのショウケースがあり、中年の女性が一人店番をしていた。

「どれにしますか?」

「コウジは何がオススメ?」

「そうだなー」僕はざっとジェラートを見回す。「どれも美味しいだろうけど、さっきも言ったように普通のソフトクリームもいいよ」

 そう僕が説明をしていると、店番の女性が声をかけてきた。

「ダブルもできますよ」

「え?」すかさずアヤが目を輝かせる。「ダブル!?」

 アヤは迷いに迷った挙句、ナッツがふんだんに使われたジェラートとラムレーズンのジェラートを注文した。


 ジェラートがカップに形作られていく様子を子どものようにわくわくした表情で見つめるアヤ。そんな彼女の様子を見て、店員の女性はふふっと小さく笑った。

「ご旅行ですか?」

「はい」アヤは一瞬答えに迷ったようだった。「そんな所です」

「どちらから?」

「僕は釧路市内なんです」僕はそんなアヤの迷いに気づかず、浮かれて言っていた。「で、彼女は道外から」

 アヤがはっとして僕を見上げる。

「じゃあなかなか会えないんじゃないですか?」出来上がったジェラートのカップをアヤに手渡しながら、女性は言った。「さみしいですね」

「そうですね…」僕はアヤの視線を感じながら、代金を支払う。「まあ、こうして何度か会えますから」


 あの女性はきっと僕たちのことを遠距離恋愛中の「恋人」同士だと思ったんだろうね。

 あの時僕とキミは「恋人」同士に確かになったかもしれない。でも、それは今は僕たちの間だけ、あるいは僕たちのことを何も知らない人だけに通じる関係なんだ。

 だから、せめてあの女性にくらいは自慢したっていいじゃないか。

 キミのことを誰かに自慢したかったんだ。

 こんなにも可愛い子が僕の「恋人」なんだぞ、って。



 道道はやがて釧路新道へと再び接続する。

 釧路新道を西へと走っていくと、太平洋沿いの国道38号線へと姿を変えた。

 北海道らしいまっすぐでのんびりした道を、僕はアヤを隣に乗せてハンドルを握り続ける。

「ちょっと寄り道していい?」

「うん、運転疲れた?」

「ちょっとね」

 言ってからすぐ、あくびが僕の口にぷっかりと浮かんだ。

「そんなに疲れてたのなら言ってくれればよかったのに」そう言うアヤの声には心配がにじみ出ていた。「無理はしないでね」

「ありがと」僕は眠気で少し重たくなってきた瞼をこすりながら返事をする。「もうすぐ道の駅だから、そこで少し休憩するよ」


 国道38号線を少し走ると、やがて道の駅「白糠恋問」が見えてきた。

 釧路から十勝方面へと抜けていく時に必ず立ち寄ってきた道の駅である。

 ここには白糠の特産品であるタコをはじめとした海産物や、紫蘇を使った土産物などが多数そろえられていた。

 また、道の駅自体にレストランが設置されているだけでなく、コンビニエンスストアも併設されているので、トラックのドライバーなどもよく体を休めていた。

 僕は海沿いの駐車場へと車を止め、シートベルトをはずして解放された体をシート深くに沈みこませた。

「ごめんな、ちょっと休憩」

「いいよ」アヤが優しくふんわりと笑い、僕を見降ろす。「運転お疲れ様、ありがとう。ゆっくり休んで」

 そんなアヤの表情を下から見ていると、僕の心臓は疲れた体と反比例してどくどくと強く高鳴りだした。

 どうして、アヤはこんなにも愛情深い笑顔を僕に見せてくれるのだろう。

いや、本当はその答えを知ってはいるのだが、彼女の愛情に応えられるだけのものを僕は持っているのだろうか。

時間をかけてじっくりとアヤと向き合っていきたい。その中で、ほんの少しだけでも彼女の愛情に報いることができれば。

そんなことを考えていると、どうしようもない「現実」が僕の心の目の前に立ちふさがる。


アヤはいつまでも僕のそばにいることはできない。


 アヤは僕の「恋人」である以前から他人の「妻」なのだ。

 明後日には、左手の薬指に揃いの指輪をつけた人の元に帰っていく。

 明後日。

 二日後。

 今日を入れて残り、二日。

「あと二日なんだな…」

 思わず口をついて出てしまった言葉。それは二度と戻ってこない。

 言ってからはっとした。

「…早いね」優しかったアヤの笑顔が、一瞬にして寂しげに曇る。「ホント、あっという間」

「ああ」

「コウジに会いに北海道に行く、って決めてから実際に会えるまであれだけ一日一日が長く感じたのに、会ってからの一日ってすぐに終わっちゃう」

「帰したく…ないな」

「アヤだって…帰りたくない」アヤが俯く。「このまま北海道にいて、ずっとコウジと一緒にいたい」

「僕だって…」

 そう言ってから、僕の頭の中ではアヤを新千歳空港に迎えに行ってから今までのアヤのころころ変わる表情が駆け巡っていった。

 互いに第一印象を探りあっては、なかなか素が出せなくてどうしていいかわからない表情。

 ソフトクリームをこぼして、恥ずかしそうな表情。

 場を和ませようと、フリスクをかじっていた表情。

 悪戯っぽく笑う笑顔。

 真っ赤にして照れた顔。

 ちょっぴりへそを曲げて、頬を膨らませた怒り顔。

 ベッドの上での切なげな表情。

 その全てが、僕の心を締め付けた。

 あと二日で、また離れてしまうなんて。

 不意に目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと痛い。

「泣いてるの?」

 アヤが心配する。

「泣いてないよ」

 僕は強がる。

「ダメだよ、泣いちゃ」アヤがつとめて笑顔を見せた。「笑顔で楽しかったね、って言えるようにしなきゃ」

「そう、だね」

「そうだよ、せっかく北海道まで会いに来たんだもん」そう言うアヤも何かを必死でこらえているように見えた。「楽しい思い出だけを持って帰りたいし」


 僕は最近結構涙もろくなったらしい。

 歳のせいだ、なんて周りには言っているけど、テレビのドキュメンタリーでもすぐに涙腺が緩んでしまうんだ。

 でもね、誰かのために涙がこぼれてしまいそうになったのは初めてかも。

 愛しい、っていう気持ちが形となってあふれたのはキミが最初だよ。

 こんなにもキミのことを愛してる。

 ホントだよ。



 国道38号線を、一昨日千歳から来た道をまた戻るように西へとおよそ2時間。

 やがて車は帯広市へと入った。

 帯広市は近年発展が目覚ましく、道東最大の都市を誇っていた釧路市を今や凌駕している。

 それまでは十勝の畑作地帯を縫うように走っていた国道は、一気に都会の雰囲気を醸し出した。

「今日泊る十勝川温泉って、ここからまだかかる?」

「すぐだよ」僕はハンドルを右に切った。「この十勝大橋を渡ったら、すぐに十勝川温泉の温泉街だから」

「美人の湯なんだよね」うきうきしながらアヤが言う。「たっのしみー」

 帯広市に隣接する音更町にある十勝川温泉は、その名の通り十勝平野を悠然と流れる十勝川の河畔を中心に広がっている。

 その泉質は世界にもめずらしいモール泉であった。

 モール泉とは、地下深くで石炭の形成途上であり炭化が進んでいない泥炭や亜炭層から源泉をくみ上げるため、植物起源の有機物を含んでおり、肌に触れるとつるつるとした感触が楽しめる。

 ゆえに観光ガイドブック等では「美人の湯」とも紹介しているものが多い。

 まだメールや電話でしかつながりがなかった時にアヤに紹介すると、「ぜひ行きたい!」との反応が返ってきたものだった。

 かく言う僕も、十勝方面へはよく遊びに来ていたものの十勝川温泉に仕事以外で泊りに来たのは初めてだったので、楽しみにしていた。


「昨日の阿寒のお宿よりは劣るものの、結構いいお部屋だね」

 アヤは荷物を降ろし、さっそくお茶を淹れる準備に取り掛かった。

「そうだね」昨日のこともあるので、僕はアヤが急須にお湯を入れる様子を座ったまま眺めていた。「やっぱり温泉宿と言えば和室が落ち着く」

 今回のために予約していた宿は、昨日の阿寒の宿の部屋よりは一回り狭く、設備も古めかしいもので、値段相応といった感じだった。

 窓から外を眺めると、少し先に十勝川にかかり帯広市と音更町を結ぶ十勝大橋が見えた。

 少し傾きかけた太陽がほのかに朱に染まり、遥かに見える大雪連峰と十勝大橋と見事なコントラストを描いていた。

「おなかすいちゃったね」アヤが湯呑みを並べながら言う。「今日の晩御飯はお寿司だっけ」

「そうだよ、アヤの大好きな」

「やったー」

 そう言って立ち上がるアヤ。

 ちょうどその時、アヤと夕日が重なりあう。

 アヤの茶色くふわふわの髪の毛が、収穫前の稲穂色に輝いた。

「アヤ」

 僕はアヤを手招きした。

 急須をちゃぶ台に置き、素直にアヤは僕に従った。

 黙って僕はアヤを抱きしめる。

 強く、強く、アヤがどこにも行かないように、と願いながら。

 アヤはと言えば、負けじと僕にしがみついてくる。

 初めはそっと触れる程度だったのが、次第に強く。

 まるでどちらの力が強いか、どちらの想いの方が強いかを確かめ合うように。

 僕は少し力を緩めた。「アヤ」

アヤも僕から顔だけを離し、僕を見上げる。「ん?」

「キス…しよ」

 そんな僕の懇願に、アヤはキスで答えた。

「もっと」

 何度も何度も、アヤはキスで答えてくれた。

 僕はアヤを畳の上にそっと寝かせる。

「まだ足りない」

 今度は僕の方からキスをした。

「もっと」

「もっと…」

「もっと!」


 キミが僕の元へと来てくれる、と決めた時から一カ月。あれだけ長かったのに、新千歳空港でキミの顔を見た瞬間会えなかった時間は一気に吹き飛んだ。

 それなのに、キミと過ごす日々はあっという間に過ぎていき、もうすでに折り返しを過ぎていた。

 隣にキミがいてくれると実感する度にキミに恋に落ち、キミに見つめられる度に愛しさが増していき、キミに触れる度にキミを離したくないと思ったんだ。

 キミをまた何千キロも先の「帰る場所」に帰したくないと。

 手を伸ばせばいつでも届く距離から、どれだけ手を伸ばそうとも届かない、どれだけ声をあげようとも届かない場所になんか。



 あれから僕とアヤは何度も何度もキスを交わした。

 会えなかった今までを埋めるように、再び会えなくなるこれからを耐えられるように。

 何度目だろう。もはや数え切れなくなったころにアヤが切なげに言う。

「もっとたくさんしていたいけど、お寿司屋さん閉まっちゃうよ…?」

「そう…だね」

 とろんとしたまなざしのまま僕を見上げるアヤを見て、もう一度キスをしてから僕はアヤを離した。

「そろそろ行こうか」

「うん…」


 「まつりや」は根室発祥の回転ずしチェーン店である。

 根室の本店は「祭囃子」というのだが、釧路市内にチェーン店を展開し始めてからチェーン店舗は「まつりや」と名を変えていった。

 今では帯広市内にも二店舗展開していた。

 僕はそのうちの音更店を選択した。


「今のうちに電話しとこうかな」駐車場に車を止めた途端にアヤが複雑な表情で言う。「旦那さんに」

「今日は早いんだね」いつもならもっと遅い時間、例えばお風呂に入る前や寝る前なのに今日に限ってこんな夕暮れに電話するなんて。「どうして?」

「だってさ」アヤがもじもじしながら言う。「あとあとラブラブしてる時に邪魔されちゃイヤじゃん…。だったら先手を打って、こっちからかけちゃえ、って思って」

「なるほどね」

「それに、どれだけ仕方ないって言ってても、旦那さんからの電話がかかってきた瞬間にコウジの顔が曇るんだもん」

 そう言って俯くアヤ。

 僕は思わず自分の顔を手で押さえた。

 表情に出てしまわないように、と気をつけていたものの微妙な変化が出てしまっていたのだろうか。

「いいんだよ?」アヤがぽつりと言う。「アヤだって嫌だもん、コウジの携帯に奥さんからの着信があると」

「…ごめん」

「だから、いいんだってば」

 そう言って笑顔を見せるアヤ。

 何だか痛々しい笑顔だった。

「わかったよ。じゃあ僕も外で嫁さんに電話入れとくよ。同じように邪魔が入らないように」

「うん、そうしてて」

「終わったら車から降りておいで」

 僕はそう言い残し、ひとり車から降りた。

 途端に冷たい風が頬を突き刺す。十勝平野の冬の風は、釧路のそれよりも乾燥しているが故に更に痛かった。

 助手席のアヤが携帯電話を耳にあてているのを確認して、僕も妻に電話をかける。何度目かのコール音ののち「…もしもし」といかにも眠そうな妻の声が聞こえてきた。


 僕は妻に「札幌で同僚とともに飲みに行ってくる」とだけ伝えて早々に電話を切った。

 もちろんここは十勝であるし、札幌なんてほど遠い。

 妻にはこの数日間のことを札幌での出張と伝えてあるのだ。

 アヤはまだ出てこない。携帯を耳にあてた姿勢のまま口が動いているので、まだ話は終わっていないのであろう。

 僕はふと、通りの歩道まで進んでみた。行き交う車のヘッドライトとテールランプが、通りを乳白色と赤に染めては去っていく。

 そんな明かりに交じって時折見える行き交う車内には、家族連れもあれば恋人同士であろうか、仲良く肩を寄せ合う者もいる。

 半年、いや一年ほども前であろうか。僕と妻も同様であった。

 助手席には妻が座り、僕がハンドルを握る。それが当然であった。

 しかしいつしか、僕の中で妻への「想い」が「思い」へと変わり、変容していった。それはまるでろうそくの炎のよう。安定して燃え続けていた炎は、燃え上がることも無くやがてそこにあった「蝋」をすべて燃やしつくし、小さくなり、消えた。

 その瞬間、僕は「夫」ではなく、「保護者」へと名を変えた。

 「保護対象」は安寧の日々のぬるま湯にどっぷりとつかり、燭台までもが冷えていくのに気づかない。

 僕は孤独であった。

 それからしばらくして、僕はアヤと出会う。

 初めは「孤独」から彼女へと「支え」を求めていたのかと思っていたが、彼女がくれる言葉や想いに次第に惹かれていった。

 新千歳空港で初めて直接アヤに出会うまで、日本のほぼ真ん中に住む彼女とは文字や電気信号化された声でしかコミュニケーションを取ることはできなかった。しかしそれでもアヤは誰よりも僕のそばにいて、誰よりも愛を僕に与えてくれた。

 心の底から、彼女を僕は愛した。

 手をつなぐどころか、触れることもできなかったアヤを。

 それが今や、僕の車の助手席に座っている。

 それだけで、その助手席は特別なものになった。

 他の誰にも座らせたくない。

 当然、妻であろうとも。


 キミだけを、愛している。



 夕餉の時間にはまだ少し早い時間だからであろうか、店内にはまだそんなに客は入っていなかった。

 まつりやは形式としてはごく一般的な回転ずし店である。

 しかしネタの大きさや新鮮さには定評があり、かつて全国ネットのテレビ番組に紹介されたほどである。

 十勝にチェーン展開する前に、釧路に店舗がオープンしていて、学生のころからよく食べに行っていた。ただ、十勝の店舗に入るのは僕も今回が初めてである。

 店員に案内され、カウンターの一角に僕らは腰を据えた。

「ねえねえ、何がオススメ?」おしぼりで両手を丹念に拭きながら、アヤが尋ねてくる。「流れてくるの全部美味しそうで迷っちゃうよー」

「そうだなー」僕も流れてくる寿司を眺めながら考える。「やっぱりサーモンかな」

「サーモン?」首をかしげるアヤ。「鮭だよね」

 アヤは意外そうに眼をぱちくりさせている。

「きっとイクラとかカニとか、いかにも北海道ですって感じのヤツ想像したんだろ」僕はにやりとして続けた。「全国どこにでもあるような鮭なんてって思っただろ?」

「うん」

「これがまた違うんだよ。すごく脂がのってて、美味しいんだぜ―」

「へー」アヤの目が一瞬にして輝きだす。「じゃあそれにしよ!」


「ほんっとに美味しいねー!」

 とろけそうな笑顔でアヤが言う。まるでマンガのように頬に手まで当てて。

「だろ?北海道の海の幸は格別」

「うんうん!」

「しっかし…ホントに美味しそうに食べるね」

「えー?」アヤが恥ずかしそうに上目づかいで言う。「そう…かな?」

「うん、美味しいよー幸せだよーってのがビシビシ伝わってくる」

 きっと僕の方こそとろけた顔をしていることであろう。

 アヤが幸せそうに北海道のものを食べている様子を見ているだけで僕は幸せだったから。

 彼女の幸せが僕の幸せだった。

「もー、サーモンとイクラと生タラバガニが絶品!」

「よかった、それでこそ連れてきがいがあるってもんだ」

「ねぇねぇ、シメにいも団子食べていい?」

 まるで子どものように懇願してくる。

「いいけど…ホントにいも団子気に入ったんだね」

「だって、ホントに美味しくて!」まるで演説でもするかのようにアヤが言う。「北海道は食の宝庫ですから!」

 その口調は北海道知事選挙にでも出馬するかのようだった。

 思わず僕にも笑みがこぼれる。

「僕はいつもまつりやのシメはグレープフルーツって決めてるんだ」

「どうして?」アヤが不思議そうに首をかしげる。「お寿司の後に?」

「うん、口の中がさっぱり爽やかになるからね」

 僕はそのままカウンターの中の板前にいも団子とグレープフルーツを注文した。

 その様子を眺めていたアヤは、急に周りを見渡しだす。

 そう言えばいつの間にか他の客が少しずつ増えてきたようだ。

「お客さん増えてきたね」きょろきょろしているアヤに声をかける。「晩御飯どきだからかな」

「そうだね」

 アヤの返事はどこか上の空だ。

 増えてきた客に驚いて、というわけではないらしい。

「ねえ」

 アヤが急に僕を振り返る。

「ん?」

「やっぱり北海道の人って肌が白い人多いねー」

「ああ、北国の人って白いイメージあるな」何を見ていたのかと思えば、そんな所に注目してたのか。「アヤだって十分白い綺麗な肌してるよ?」

「アヤのは単なる色白」半ば自嘲的に言うアヤ。「北海道の人は…何て言うか肌の透明感が違う」

「そんなもんかな?」

 僕は思わずアヤと他の客を見比べた。言われてみれば、反対側のカウンターに座る女性客の肌は単なる色白とは少し違うような気もするが、アヤが言うほどの違いはあまりわからなかった。

 そのとき不意にアヤが僕の膝に手を置く。

「アヤ以外の女の人、見ちゃだめ!」


 キミはよく「アヤのことだけ見てて」と言う。

 そんなこと、言われなくてもそうしてるよ。いや、どうしてもそうなっちゃうんだ。

 キミから目をそらすことなんて僕にはできないんだ。

 離れていても近くにいても、キミにこの双眸はくぎ付けだから。



「やっぱり恥ずかしいよぉ」

「何をいまさら…」

 小さく薄暗い部屋に、僕とアヤの声がこだまする。

「だってぇ…照れちゃう…!」

「ほら、早く入れて?」

 僕とアヤはまつりやを出た後、帯広市のカラオケ店に来ていた。

 これも予定のうちで、僕もアヤもカラオケ好きという点で一致し、アヤが北海道に来たときには必ず行こうと約束していたのだった。

「やっぱりコウジが先に入れてよー」

 そう言って真っ赤になったアヤが僕にリモコンとマイクを押しつけてきた。


 互いに何曲か歌った後、少しの休憩を入れることにした。

「やっぱり何だか恥ずかしいね」アヤが上気した表情で照れくさそうに言う。「初対面で歌を披露するのって」

「何言ってんの、ノリノリで歌ってたのに」

「だって…カラオケ大好きなんだもん」

「でも…」僕はまっすぐにアヤを見つめて言った。「歌、上手だね。びっくりした」

 するとアヤは顔を手で覆って、まるでイヤイヤをするように悶えはじめる。

「ま、またそんなこと言って!アヤなんてまだまだだよっ!」

 そうは言っているが、覆った掌の人差指と中指の間はバッチリ開いていて、しっかりとこちらを見ている。

 そんなアヤの様子がおかしくて、僕はまだ意地悪したくなった。

「ホントだよ、声も可愛かったし」

「っひゃあ!」今度は両足までジタバタしだす。「は、恥ずかしいっ!」


 それまで僕とアヤはテーブルをはさんで向かい合うような格好であった。

「ねえ」

 不意にアヤが声をかける。

「何、どうした?」

「となり、行っていい?」

 急に照れくさそうに伏し目がちで言うものだから、僕は一瞬言葉に詰まってしまった。

 しかしそれは僕にとっても嬉しい申し出だったので、断る理由はどこにもない。

 断るわけがない。

「…いいよ?」きっと僕もものすごく照れた顔をしていただろう。「こっちにおいで」

「よかった!」アヤが嬉しそうにテーブルを回り、僕のとなりにちょこんと座る。「嫌だ、なんて言われたら泣いちゃうし」

「言うわけないし」

「ずっと、こうしてくっついていたいな」

 アヤがそのふんわりした頭を僕の肩に預ける。

 僕もそっと彼女を肩を抱く。

 その瞬間、アヤの甘い香りが僕の鼻をくすぐるように漂ってきた。

 こんな時間がいつまでも続いて欲しい。そう思った。


「そうだ」

 アヤが急に頭を起こす。

「何?」

「会ってカラオケ行ったら絶対に歌ってあげようと思ってた曲があるの」

「へえ、誰の何て曲?」

「西野カナって知ってる?」

「それくらい知ってるよ、僕だってまだ若いからね」

 実は名前だけはテレビなどでよく見かけるので知っている、という程度で、彼女が歌う曲をまともに聞いたことはなかったのだが。

「西野カナの『Dear…』って歌なの。聞いたことある?」

 当然僕は知らなかった。黙ってかぶりを振る。

「この曲ね、何だかまるでアヤとコウジのこと歌った歌みたいなんだよ」そう言いながら、アヤはカラオケのリモコンを操作する。「遠距離の歌なんだー」

「へぇ、それはぜひ聞いてみたいな」

「えへへ、あんまり上手じゃないかもしれないけど、この歌の歌詞がアヤのキモチだから」

 アヤがリモコンの送信ボタンを押すと、すぐに前奏が始まった。


「じゃあね」って言ってからまだ5分もたってないのに

すぐに会いたくてもう一度 oh baby ギュッとしてほしくて boy, miss you


もしも二人帰る場所が同じだったら時計に邪魔されなくてもいい oh no no

おかえりもオヤスミも そばで言えたらどんなに幸せだろ?

Just want to stay with you


でもね、ケータイに君の名前が光るたびに いつだって一人じゃないんだよって

教えてくれる


会えない時間にも愛しすぎて 目を閉じればいつでも君がいるよ

ただそれだけで強くなれるよ 二人一緒ならこの先も

どんなことでも乗り越えられるよ 変わらない愛で繋いでいくよ

ずっと君だけの私でいるから 君に届けたい言葉

Always love you


友達のノロケ話で またちょっとセツナクなって oh no no

「今から迎えにきて」なんて言えたら どんなに幸せだろ?

Just want you to stay with me


でもね、やっぱりワガママは言えない 困らせたくない

いつだってがんばってる君の笑顔が 大好きだから


会えない時間にも愛しすぎて 目を閉じればいつでも君がいるよ

ただそれだけで強くなれるよ 二人一緒ならこの先も


どんなことでも乗り越えられるよ 変わらない愛で繋いでいくよ

ずっと君だけの私でいるから 君に届けたい言葉

Always love you


“平気だよ”って 言ったらウソになるけど

“大丈夫”って思えるのは 君だから


会えない時間にも愛しすぎて 目を閉じればいつでも君がいるよ

ただそれだけで強くなれるよ 二人一緒ならこの先も


どんなことでも乗り越えられるよ 変わらない愛で繋いでいくよ

ずっと君だけの私でいるから 君に届けたい言葉

Always love you


誰よりも君のこと 愛してるよ。



 アヤは時折目を閉じて、何かをかみしめるように歌っていた。

 他のどんな歌手よりも、僕だけの心にこんなに響いて届く歌。

 これほどまでに清らかでまっすぐな歌声を、僕はこれまでに聞いたことがなかった。

 これほどまでに心を揺さぶる歌声を。



 僕とアヤはカラオケをあとにした。

 今はすでに車に乗って、今晩の宿へと向かっている。

 十勝川を越え、音更町へ抜けていく。帯広市では夜でも街の明かりがまぶしかったのだが、音更町に入ると途端に夜の闇が車道を覆っていった。

 静かな畑の間を走っていると、まるでこの夜空の下、二人きりでいるようだった。

「そうだ」

 僕は車を車道の隅に止めた。

「どうしたの?」

 不思議そうに僕を見つめるアヤをいざない、僕は車から出る。

 何だかわからない、といった様子だったが、アヤも素直に僕に従い助手席から降りた。

「ほら、見てみ?」

 僕はとなりに来たアヤに夜空を指さして見せた。

「え?」ふと夜空を見上げるアヤ。すぐに驚嘆の声を漏らす。「…うっわー、綺麗!」

 それはまさに満点の星空であった。

 北海道の澄んだ冬の空気に、はっきりと星々がその存在感を主張していた。

 まるでプラネタリウムのように、一つ一つの星が輝き、手の届きそうなほどに天球にぶら下がっている。

「アヤ、アレわかるかな」僕はひとつの星座を指差した。「オリオン座」

「あ!」アヤもその星座を指さしてはしゃぐ。「わかるよ!とうとう一緒に見れたね!」

 僕とアヤはかつて同時にオリオン座を見上げたことがある。

 同時に、とは言っても今のように隣あってではない。電話で話しながら、遠く離れた地で共に夜空を見上げた、ということだ。

 あの頃の僕たちは、まだ互いの顔を携帯電話やパソコンの写真でしか知らなかった。

 それでもメールや電話で互いに交わす言葉や声に恋に落ち、少しでもそばにいる幻想を抱いていた。

 その中で、僕が釧路川の上空にオリオン座を見つけた際、アヤも自宅の窓から共に同じ星座を眺めた。

 同じものを同じ時に、電話といえども言葉を交わしながら見ることができたというのはとても嬉しかったことを覚えてる。

 しかしそれでもどうしても足りなかったものがある。

それは、圧倒的な存在感。

 そして、温もり。

 電波を介して、遠く離れたアヤの声は僕の耳に届き、確かにこの世のどこかにアヤが存在しているという実感はあった。でもそれは「どこか」であって、僕の隣ではない。彼女の息遣いも感じることが無ければ、やわらかな髪に触れることもできない。温もりを感じることもできない。

 しかし今は、まさに僕のとなりで同じ星座を見つめている。

 あれだけ圧倒的な距離に身をじらされていたのが嘘のように、そこにアヤがいる。

 アヤが吐く白い息と僕のそれが重なりあっては、夜空に消えていく。

 圧倒的な存在感を放って。

 僕は思わずアヤを後ろから抱きしめた。

 今ここにいるアヤの存在感のすべてを抱きしめるように。

「…コウジ?」

「ホントに…」僕はなんと言っていいかわからなかった。「…会いに来てくれてありがとう」

「ううん」アヤは後ろから絡められた僕の腕をそっと抱きしめる。「アヤも会いたかったから、だから来たんだよ?」

 僕はアヤを抱きしめる腕の力が自然と強くなっていくのを感じた。まるで自分のものではないかのように勝手に強くアヤを抱きしめる。

 きっと、僕自身の意思もあるだろうが、本能的にアヤを離してはならないような気がしたのだろう。

 離したくなかったのだろう。

 いつまでも同じものを見て、同じように感じていたい。

 ずっとふたりで。


 これほどまでに人を愛しいと思ったのは初めてかもしれない。

 キミがこんな気持ちを僕に教えてくれたんだ。

 愛しさは時に何よりも暖かく、熱く、そして切ない。

 その全てが、キミに恋をしているということ。


10


「乾杯」

 アヤの掛け声で、二つのグラスが重なりあう綺麗な音色が部屋に響きわたる。

 お酒があまり得意ではない僕は梅酒を、アヤは乳酸飲料をベースとしたチューハイを、それぞれ客室に備え付けてあったささやかなグラスに移し替えたのだ。

 僕は普段は決して晩酌などしない。

 そんなことせずともいつでもぐっすり眠ることができたし、寝る前にアルコールを摂取したいとも思わなかった。

 しかし一緒にお酒が飲みたいとのアヤの申し出を断る理由はなかった。

「今日と明日、寝ちゃうともうバイバイなんだね」アヤがグラスに口をつけながらしみじみと言う。「やっぱり、寂しいね」

「それ、今言うかー」ちょっとのアルコールですぐにふわふわした気分になってしまう僕。「笑ってバイバイしよう、って言ったのアヤなのに」

「そうだけど…」

 アヤがそう言いながら、足元を崩す。

 途端に浴衣の隙間から、アヤの白い肌があらわになった。

「アヤ…それ、ちょっと刺激強すぎる」

「ちょ!」アヤが慌てて浴衣の崩れを直す。「えっちー!このえろすけ!」

「ひどいなあ、そこまで言わなくても」

「…でも、そんなコウジも大好きだよ?」

 アルコールでほんのり桜色に染まった頬と、潤んだ大きな瞳で見つめられながらそんなことを言われると、僕は急にどぎまぎしてしまった。

 からかったつもりが、逆にアヤにやられてしまった。

 僕はどうしていいかわからずに、手に持っていたグラスを一気にあおる。「…知ってる」

「ねえ」アヤが僕たちの後ろを視線で示す。「これ、このままじゃさみしい」

 アヤが示した先には、二組の和布団がきっちり敷かれていた。

 僕たちが出かけていた間に、仲居さんが用意してくれていたのだろう。ちょっとくらいの寝像の悪さなら、隣に寝ている相手に迷惑をかけない程度に二組の布団は離れていた。

「せっかくふたりでいるのに、離れ離れで寝るなんてヤだな…」

「そうだね」僕はグラスを置き、立ち上がる。「こうすればどう?」

 僕は二つの敷布団をぴったりとくっつけ、敷布団と掛け布団を垂直になるようにかけ直した。そうすることで、どちらかが寝像が悪くても、決して敷布団の隙間に落ちることはまずないだろう。

「いいねー、コウジ、あったまイイ!」

 アヤが歓喜の声を上げる。

 僕はそんなアヤに満足して、布団の上に寝転がった。

「コウジ?」

「いやぁ、普段滅多に飲まないから、少し気持ち悪くなっちゃった」くらくらする視界の中で、アヤに懇願した。「少し横になってていい?」

「大丈夫?」アヤが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。「お水、飲む?」

「ああ、欲しいな」

 僕は重たい体を何とか起こそうとした。

 しかしすぐにアヤに制止される。

「いいからそのまま寝てて。アヤが飲ませてあげる」

 そう言ってアヤは洗面所にグラスを持っていき、水をくんですぐに戻ってきた。

「ありがと、アヤ」

 今度こそは体を起こさなければ、せっかくアヤが水をくんで来てくれても飲むことはできない。

 しかしそれすらもアヤに制止された。

「いいから寝てて、って言ったでしょー」

 アヤはそう言ってくんできた水を自ら口に含んだ。

「え?」一体アヤが何をしようとしているのか、わけがわからなくなった。「僕にくれるん…」

 しかし、僕の言葉は最後まで出てくることはなかった。

 アヤが僕の唇を、彼女の唇でふさいだのだ。

 ただのキスとは違う。

 アヤの唇がそっと僕の唇を開き、少しずつひんやりした水を注ぐ。

 僕は初め驚いたが、アヤが何をしようとしていたのか理解すると、全てをアヤに任せた。

 一筋、僕の唇から水が漏れ、頬を伝って落ちていく。

 そんなのは構わない。

 アヤから注がれる甘い水を、僕は体中にしみ渡らせるようにゆっくりと飲んだ。


 まるでキミの想いをそのまま飲みほしているようだった。

 キミそのものを飲みほしているようだった。

 キミが僕の中にすうっと入ってきて、優しくやわらかにしみわたっていく。

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