第2話釧路から阿寒温泉へ

Episode2 釧路から阿寒温泉へ



 どこかで機械的な甲高い音が鳴り響いている。

 それが目覚ましのアラーム音だと気づいた時には、それはすでに消されていた。

「…ん」僕の左隣でアヤがもぞもぞ動きだすのがわかる。「コウジ…」

 僕はアヤに向けて背中を向けて寝ている格好だ。

 眠りに落ちた頃には互いの息が頬に当たることを「恥ずかしいね」なんて言っていたのに、寝ている間に寝がえりを打っていたらしい。

 まどろむ意識の中、アヤが僕をぎゅっと抱き寄せた。

「コウジ…?」僕はもう少し寝たふりをすることにした。「…まだ寝てるの?」

 アヤも目覚めたところらしい。

 囁くような甘い声。それが僕の耳に心地よかった。

「ねえ、ねえってば」

 僕の肩をゆすりだしたアヤ。

 さすがにこれ以上はかわいそうだと思い、僕も目覚めることにした。

「ん…アヤ、おはよ」

「もー」結構わざとらしかったかな、と思ったがアヤは全く疑わない。「ホントに寝起き悪すぎ」

「だってさー」僕は体を起こした。「アヤと一緒に寝てると、暖かくて気持ち良かったから」

 途端にトマトのように真っ赤になるアヤ。

「ま、またそんなこと言ってー!」

「本当のことだから」

 僕はまっすぐにアヤを見つめる。

「今まで付き合ってきた人にもそうやって言ってきたのー?」

「いいや」悪戯っぽく見つめ返す彼女をまっすぐに見て、僕は答えた。「アヤにだけだよ」

「男の人なんて、みんなにそう言うんだよ」

「今までアヤがどんな人と付き合ってきたか知らないけどさ」僕はふっとため息を一つついて続ける。「僕は本当はあんな歯の浮くようなセリフはあんまり言えないんだ。でも、アヤにだけなら言える。だって、アヤは照れ笑いはするけど、本当に笑ったりしないでちゃんと聞いてくれるから。アヤがちゃんと聞いてくれるから、僕は正直に自分の気持ちを言えるんだよ。それに…」

「それに?」

「アヤのことが好きだから。アヤに僕の気持ちを全部伝えたいんだ」

「おバカ」アヤは布団に顔をうずめて、上目づかいに僕を見上げた。「でも、嬉しい」


 初めてキミと朝を迎えたね。

 実はキミが眠りに落ちた後、しばらく君の寝顔を眺めていたんだ。初めて会った僕のとなりで安心しきった顔で眠るキミ。すごくドキドキしたことを覚えてる。

 あの時ちょっと意地悪してみたけど、その困った様子が可愛らしくてもっと意地悪してみたくなるんだ。

 ごめんね。



「今日はどこに連れて行ってくれるんだっけ?」

 ドライヤーで髪を乾かしながらアヤが言う。明るい栗色の髪が次第に温風に乾かされ、やわらかく浮かび上がる。

 その度にアヤから甘い香りがして僕はくらくらした。

「まずは釧路市湿原展望台に行こうと思うんだ」動揺を悟られないように、何でもないふりをして言う。「見てみたい、って言ってたから」

「うん」アヤが振り返る。「キタキツネ見れるかなぁ」

「見せてあげたいよ、可愛いから」ただしかし、僕は一点だけアヤに念押ししておく。「もしそばに来ても触っちゃだめなんだよ。エキノコックスっていう寄生虫がいるからね」

「えー」

 アヤは落胆の声をあげるが、そこは譲れない。

「えー、じゃないの。湿原を見た後は鶴居村に行って丹頂鶴を見て、それから摩周湖だね」

「前にメールで言ってた摩周ブルーっていうソフトクリーム食べるんだよね」

「そうそう、気に入ってもらえると嬉しいけど」

「アヤ、アイス好きだから楽しみ!」

「で、夜は釧路まで戻ってきて晩御飯食べて、阿寒湖温泉に向かうよ」

「温泉!お肌すべすべになるかな」

「十分アヤの肌はすべすべだったと思うけど?」

 僕は悪戯っぽく言った。

「…おバカ」


「ガソリン入れていかなきゃ」

 エンジンを回して気づいた。湿原展望台までは何とかたどり着けるだろうが、このままではその後摩周湖までたどり着けないであろうほどにガソリンが減っていた。

 考えてみれば当然だ。昨晩、千歳から釧路まで給油なしで走ったのだから。

「結構ヤバい?」

 となりでアヤが心配そうに言う。

「まあ、もたないだろうね」僕はおどけて言った。さしたる問題ではない。「駅前のスタンドで入れていくよ」


 釧路市湿原展望台までは釧路市内から一時間もかからない。

 僕たちは途中のコンビニでお茶や煙草などを買って、一路展望台を目指した。

 道東最大の都市を自負する釧路市だが、市内の都市部を抜けるとすぐに一面の雪景色と白樺の林へとその景色を変えてゆく。

 その道中、アヤはしきりに助手席の窓から外を気にしていた。

「何をそんなに真剣に見てるの?」

「え?」アヤは子どものようにわくわくした目をこちらに向ける。「キタキツネがいるかなぁ、って思って」

「ああ」僕はハンドルを握りながら苦笑した。「もしかしたらひょっこり顔出してくれるかもね。その辺にキツネの足跡見えるから」

「ええ、どれどれ?」

「ほら、時々雪の上にちっちゃなちょこちょこした足跡が見えない?それがキツネの足跡」

 するとすぐにアヤは助手席の窓からきょろきょろあたりを見回す。

「あ、あるある!」

「会えたらいいね」


 結局キミとキタキツネを会わせてあげることはできなかったね。すっごく可愛いんだよ。

 でも、子どものようにはしゃぐキミのことを、ずっと可愛いと思っていたことは内緒です。



 国道53号線を行くと、小高い山の上に茶色い建物が見えてくる。釧路市湿原展望台だ。

 釧路湿原は釧路地方に広がる日本最大の湿原で、水鳥を食物連鎖の頂点とする湿地の保全を目的としたラムサール条約登録湿地である。

 車を駐車場に止めて、アヤに降りるように促す。

「あ、デジカメ用意しなくちゃ」

 アヤが鞄をごそごそ探り出す。

「楽しみにしてたもんな」

「うん」満面の笑顔でこちらを向くアヤ。しかし、途端にその表情にかすかな陰りがさす。「もちろん、釧路湿原に来たぞ、って言う記念もあるけど…証拠作りもあるかな」

「証拠?」

「うん、旦那さんに何か言われた時にちゃんと行ってきたんだよ、っていう証拠」

「ああ、そういうことか」

 僕は納得した。

 しかし、その一方で複雑な気分もあった。

 何度も触れるが、僕には妻がいてアヤには夫がいる。彼女と昨日初めて会って以来、互いにその相手の存在を忘れるように愛を確かめ合って、まるで独身カップルのようにふるまってきた。

 しかしアヤの口から「旦那さん」という言葉が紡がれる度に、アヤは僕の彼女でいてくれてはいるものの、「人妻」であるという実感が、そろりそろりと僕の背筋の一番冷たい部分を撫でていった。

 嫉妬、というにはふさわしくない感情。

 でもきっと、この名も無い感情は僕だけのものではないだろう。

 彼女だって感じているはず。


「すっごいね」車から降りたアヤが両手を広げながら感嘆の声をあげた。「一面の雪景色!真っ白!」

「真冬の北海道だからね」

 僕は車を施錠しながら答えた。

「この雪の上で腹すべりしたーい」

「まるでアザラシだね」

「何それー」アヤはぷくっと頬を膨らませて言う。「体がアザラシさんみたいだ、ってこと?」

「違うよ」僕は笑って答える「アザラシさんみたいに可愛いね、ってこと」

「ホントにー?」

 まだ疑いのまなざしを逸らさないアヤに、僕はなだめるように言った。

「いつまでもここにいても寒いから、展望台の中に入ろう」

「なんかごまかしてない?」

「してないしてない」

「へー、ほー、そうですかい」

 なおも食い下がろうとするアヤの手をとって、僕は歩き出す。

「ほら、行こう」

「…ま、いっか」


 久しぶりにこの展望台に上った。前に上ったのは何年前だっけ。

 アヤはといえば、広大な原生湿地にしきりに目を輝かせている。

「やっぱり大自然はいいねー」そう言ってアヤは今にも展望台から身を乗り出さんばかり。「空気がすごく澄んでる」

 アヤは眼を閉じて深呼吸した。

 僕はその横顔を見つめていた。見とれていた。

 そしてアヤが大きく息をつき、再び目を開けたとき、思わずどきりとした。

 横から見るアヤの眼。それはそれは、まるで清流の澄み切った水をそのまま閉じ込めたかのような透明な瞳だった。

 僕はそれと同じ澄み切った瞳を見たことがある。

 それは僕が大学生だったころ、教員免許を取得するために教育実習に行ったときに見た子どもの瞳。当時は小学二年生のクラスに入ったのだが、穢れを知らない子どもの瞳は何よりも澄んでいて感動した覚えがある。

 それと同じ瞳を、アヤは持っていた。

「何、さっきから見つめちゃって」アヤの声にふと我に返る。「照れるよ…」


 展望台から見た釧路湿原は、まるで初めて見る景色のようだった。

 今までも何度か来たことはあったけれど、キミと見た雄大な湿原は、まるで時を閉じ込めているかのようだったんだ。

 このまま、僕とキミの時間も閉じ込めてくれたらいいのに、なんて考えてたんだ。

 僕たち以外に誰もいない展望台にキミとふたりで。

 ずっと。



 釧路湿原を出発した僕らは、一路鶴居村を目指した。

 鶴居村は釧路地方唯一の「村」で、釧路湿原の一部にその地を寄せている。

 その名の示す通り、この村には丹頂鶴が生息し、観光客の目を楽しませている。その中でも「鶴見台」と呼ばれる繁殖地が特に有名で、僕たちもそこに向かっていた。

 鶴見台には三十羽はいようかというほど、丹頂鶴が羽を休めていた。中には甲高い鳴き声を発し、異性に求愛をする者もいれば、つがいで仲良く餌をついばむ者もいる。

 僕とアヤは互いにデジタルカメラを手に、鶴を撮影した。

 そして初めて、二人で写真を撮った。

 僕がカメラを逆に持ち、アヤがとなりでふんわり笑う。

 それだけで幸せだった。


 鶴居村と言えば、丹頂鶴ももちろん有名だが、乳製品の製造でも全国的に名をとどろかせているらしい。中でも特にチーズが有名だとか。

 僕とアヤは国道を挟んで鶴見台とは反対側に位置する売店でチーズを買った。それは一口大にカットされていて、運転手を務める僕でも容易に食べられそうだ。

「あ、すぐに食べたいので袋に切れ込み入れておいてもらっていいですか」アヤが機転を利かし、店員に伝えた。「そうしてもらえると、すぐに袋開けられていいよね」

「ああ、賢いね、アヤ」

「へっへー」

 僕たちはすぐに売店をあとにして、車へと向かう。

 そんな僕たちを冷たい冬の北海道の風が包んだ。

「寒いー」

 アヤが身を縮めて僕にしがみついてきた。

「もっとくっついておいで」

 そう言って抱きしめたアヤの肩はすっかり冷えていて、かわいそうなくらいだった。つないだ手も、まるで氷のように冷たい。

 僕はそんな彼女の右手を、ありったけの温もりを込めて両手で包んだ。


「美味しい!このチーズ」サイドブレーキを落とし、まさにアクセルを踏み込もうとする僕のとなりでアヤが感嘆の声を上げる。「ねね、食べてみてよ」

「ちょっと待って」国道へと車を寄せ始めていたので、すぐには手が出ない。「走りはじめたらもらうから」

「だめー、早く食べてみて」そう言ってアヤは僕の目の前にカットされたチーズを差し出す。「ほら、あーんして」

「え?」

 僕はうろたえた。

 運転中であることと、小さな頃に母親にされて以来女の人に「あーん」なんて言われたことがなかったことに。

 しかしアヤはそんな僕にお構いなしに繰り返す。

「あーん、して」

 僕は黙って口を開けた。

 すかさずアヤがチーズを押し込む。

「どうどう、美味しいでしょ?」

「うん、美味しい」

「へへへ」アヤが横目でもわかるくらいににやにやしている。「餌付けしちゃった」

「え、僕ってアヤに飼われてるの?」

「うん、そうだよー」


 あの時、僕の唇にかすかに触れたキミの手。

 柔らかくて、ひんやりと冷たくて。

 でも、暖かくて。

 左手でずっと触れていたのとは違う感触にすごくドキドキしたんだ。



 摩周湖は北海道東部、阿寒国立公園弟子屈町にある湖である。

 その透明度は日本で最も高いとされ、世界規模で見るとバイカル湖についで第二位である。その湖底は急激に深くなっていることと、その透明度から青以外の光の反射が少なく、よく晴れた日に見る者の目を奪う深い群青色は「摩周ブルー」と呼ばれていた。


 その日は平日ということもあり、摩周第一展望台は観光客の姿も少なかった。

「ここでコウジおすすめのソフトクリーム食べるんだよね」

 アヤがうきうきしながら助手席から降りる。

「そうだよ、すごく美味しいから気に入ってもらえると思う」

「楽しみ」

「ホントにアイス好きだね」

「好きだよ、だってホントに美味しいもん」

 そう言って笑うアヤを連れて展望台内の売店へと向かった。

 摩周湖まで来たのは何年ぶりだろう。もしかしたら軽く5,6年は過ぎているかもしれない。僕の記憶の限りでは、大学の研修で来て以来だった。

 僕たちはまず売店を抜け、摩周湖の一望が見下ろせる展望台を目指した。

 防寒のためのフードをくぐると、一面に摩周湖が広がる。

「わー、きれい」

 アヤは寒さに身を縮ませながら言った。

「今日はよく晴れてる」ここで僕はニヤッと笑って言った。「摩周湖は普段あまりにも霧に包まれてることが多くて、湖面が見えないことが結構あるんだ。そのせいかな、初めて見た摩周湖が晴れていたら婚期が5年遅れるなんて言われてる」

「そうなんだ」少し寂しそうな表情を見せながら相槌を打ったかと思えば、アヤはすぐに笑い飛ばした。「そんなの、私達に関係なーい」

「そうだね」

 悪い冗談を言った、と僕は後悔した。


「綺麗な色のソフトクリームだね」アヤがうずうずした表情で目の前にソフトクリームを掲げる。「摩周ブルー、だっけ?」

「そうそう」

 そのソフトクリームは摩周湖の湖面の色彩の名を冠していた。その名にふさわしいパステルブルーのその色はさわやかな印象を持たせる。

 僕自身、何年も前に来たときに食べて感動した味だった、とだけは覚えていたので、ぜひアイス好きの彼女にも食べてみてほしかったのだ。

「最初に食べていいの?」

「いいよ」僕は笑った。「昨日みたいに溶かしちゃう前に食べな」

「そういうこと言う?」アヤも笑う。「じゃあ遠慮なく、いただきます!」

「どうぞ」

「…な、何これ!」摩周ブルーの先端を一口ほおばったアヤが、目を見開いて僕とソフトクリームを交互に見つめる。「すっごく美味しいんですけど!」

「でっしょー」

 数年間忘れていたにもかかわらず、僕は得意顔だ。

「なんて言うかなんて言うか!すごくさわやかな味!ソーダ系の味とも違うし、とにかく美味しい!」

「そんなに気に入ってもらえるとは」

「気に行っちゃうよ、ほらコウジも食べて」

 そう言ってアヤは僕に摩周ブルーを差し出す。僕は素直に受け取ったのだが、ふとあることに気がつく。

「そう言えば、新千歳の時みたいに『間接キスだ』とか言わないの?」

「おバカ」アヤがはにかむ。「…いまさらじゃない?」

「…確かに」


 前にも食べたことのある摩周ブルーのソフトクリーム。

 まるで初めて食べたような味がした。

 キミと一緒に食べたからだろうか、それとも?

 僕たちはこれから、どんどん「初めて」を作っていくんだね。



 それから僕たちは時間が余ったので、予定していなかった屈斜路湖をめぐって釧路市内へと戻ってきた。

 平日の屈斜路湖は摩周湖と同様で人出は少なく、多くの白鳥が湖面で羽を休めていた。

 白鳥達は観光客が餌をくれるものだと学習しているのだろう、僕たちの姿を認めると一斉に駆け寄ってきた。

 近くで見てみると思ったよりも大きな白鳥に、アヤはおっかなびっくりしていたっけ。

 また、屈斜路湖の売店で売っていた北海道のおやつ「いもだんご」にアヤはハマった。

「これ、美味しい!向こうに帰っても作りたい」

 そんなことを言ってはしゃいでいた。


 僕たちが目的の炉端「煉瓦」へとたどり着いた頃には、すでに日が落ちてからだいぶ時間がたったころだった。

 辺りはすっかりと暗くなり、街灯が煌々と街を照らしている。

「イクラたくさん食べるぞー」

 僕が車のエンジンを切ると、アヤは宣言した。

「楽しみにしてたもんな、アヤ」

「うん、イクラ大好き!それも北海道の本場のものだなんて…口いっぱいに詰め込んでプチプチしたい」

「こぼすなよ。じゃあ行こうか」

「うん」

 そう言ってお互いドアを開けた瞬間、強烈な風が僕たちを襲う。

 そう言えば、前日までの低気圧の影響で全道的に風が強いと天気予報で言っていた。

「す、すごい風!」

「飛ばされるなよ」

「何それ」風に暴れるコートと格闘しながら薄めで僕を見つめるアヤ。「嫌味?」

「違うよ」僕は手招きした。「こっちおいで」

 途端にアヤはぱっと嬉しそうな顔をしたが、一瞬思いとどまったような顔に変化する。

「くっつきたいけど、お店の中に早く入った方がよくない?」

「それもそうか」

 ね、と僕をなだめるアヤの手をとって店内へと入った。


 釧路では炉端と呼ばれるジャンルの飲食店が非常に多い。

 漁港でとれた新せんな魚介類が豊富だからだ。

 中でもこの「煉瓦」は釧路では有名な店舗で、釧路の空の玄関口である釧路空港でも旅客を迎える到着ロビーに大きな看板がある。

 また、運営もマルア阿部商店という釧路でも大きな水産加工会社が行っているので、味・鮮度共に保障されている。

「ねえねえ」アヤがメニューをぱらぱらめくりながら言う。「アヤ、お酒飲んでいい?」

「いいけど、酔っぱらうなよ」

「泥酔しない程度にするから大丈夫。でも酔っ払っちゃったらよろしくね」

「おいおい、食べたら阿寒まで行かなきゃならないの忘れるなよ」

「はーい」


 今回の旅は食べてばっかりだね、なんて笑うキミ。

 キミは僕が連れて行った所のものを本当に美味しそうに食べてくれたね。

 それがすごく嬉しくて、こっちまで幸せな気分にしてくれるんだ。



「あははー、ちょっと酔っ払っちゃった」

「だから言わんこっちゃない」

 顔をほんのり紅に染めたアヤの手を取りながら僕は車に向かって歩いた。

 相変わらず外は冷たい風が吹き荒れている。

「あ」不意にアヤの足が止まる。「ねえ、この建物って」

 アヤが指さす方向にはMOOと呼ばれる黄色い建物があった。

「…ああ」やっぱり気づいたか、という思いで僕は答えた。「MOOだよ、お土産物屋がたくさん入ってる」

「そんなこと知ってるしー」頬をぷーっと膨らませてアヤが言う。「あの子と来た所でしょーよ」

 アヤが言う「あの子」とは、かつて僕がアヤに話したことがある大学時代に知り合ったある女性のことである。

「ふーんだ」

「昔の話だろ」

「そーですねー」

 そう言ってアヤはすたすたとその建物へと向かって歩き出した。

「どうしたんだよ」僕は慌てて追いかける。「横断歩道も無いのに」

「アヤも行く!」

「え?」

「コウジのあの子と思い出、アヤが塗りつぶしてやるんだ。コウジにどんな過去があっても、コウジの中にアヤ以外の女がいるなんて許せない」


 結局、閉館時間間近であったため中を散策することはできなかったが、エントランスにだけは入ることができた。

 そこは釧路市の施設であったため、数年前から教育委員会が入っているのだが、その看板をアヤが殴りつけたとき、さすがに焦った。

 何とか車に戻ってアヤをなだめようと試みたのだが、アヤはしばらく頬を膨らませたままだった。

 釧路新道を抜けて阿寒方面へと向かう道道に入ったころ、隣のアヤがうつらうつらし始める。

「眠い?」

「うん、ちょっとね」

「寝ててもいいよ、初めての土地で疲れただろ」

「寝ないし!」

 アヤの強い口調に少し驚きながら、僕はアヤをうかがった。

「どうして?まだ阿寒までは一時間くらいかかるよ」

「だって…」アヤはそこで一瞬言葉を詰まらせた。「もったいないもん…ずっと一緒にいられるわけじゃないし、寝ちゃったらその分お話しできない」

「…わかったよ、無理はするなよ」

「ねえ」アヤは僕の左腕に絡みつくようにしがみつき、頭を僕の肩に預けた。「アヤが一番?コウジにとっての一番?」

「もちろん」僕はアヤの温もりに答えるように姿勢をずらし、肩に乗せられたアヤの頭に頬をくっつける。「アヤが僕の一番だ」

「あの子よりも?」

「当たり前」

 ここで妻より、と言わないのは、僕と妻の現状を知っているアヤだからこそであろう。しかし、「あの子」との思い出は懐かしくもあり甘酸っぱいものだったということを伝えていたから、なおのこと気になるのだ。

 妻との現在は冷え切っているが、「あの子」との過去は綺麗な思い出として語ってしまったから。

「今まで出会ったどんな人よりも、アヤが一番好きだよ」

「…ホントに?」

「ああ」僕はアヤを安心させるように、頬でアヤの頭を撫でた。「アヤはホントに素敵な女性だよ。どんな言葉で表現していいかわからないくらい。ホントに愛してる」

「…よかった」

 僕たちを乗せた車は、車道を照らす明かり以外何もない道を走った。

 重なり合う想いを乗せて、雪原の中を。


 いつの間にかキミは眠っていた。

 僕の肩に頭をうずめたまま眠りに落ちたキミを起こさないよう、何度も頭を、柔らかい手を撫でた。

 その全てが、本来は僕のものではない。

 でもこの瞬間だけは僕のものであってほしい。そう願った。

 その髪の柔らかさも香りも、キミの温もりも。

 キミは何も心配いらないよ。

 僕の全ては、キミのものだから。



「もうすぐ着くよ」

 僕はアヤをゆり起した。

 この峠を越えると、すぐに今日の宿がある阿寒の温泉街だ。

「…ん」重たい瞼をこすりながらアヤが目覚める。「どこ?」

「もう阿寒市街だよ」

「ごめん、寝ちゃった」うん、と伸びをしてアヤは慌てて口元に手をやる。「よだれ、たれてなかった?」

「それはそれは、たくさん」

「嘘っ」

「嘘だよ」僕はくくっと笑った。「ぐっすりだったね」

「嘘つきはきらーい」アヤもつられて笑う。「でもよかった。アヤ、よく寝ながらよだれたれてるんだ」


 その温泉宿に到着した頃にはすでに9時を回っていた。

 その日にチェックインする宿泊客の中で僕たちは最後の客であったらしく、フロントには受付要員一人しかいなかった。

「ではこちらに必要事項をご記入ください」

 手渡されたのはどこの宿でもホテルでも当たり前のように書く受付用紙である。

 当然、昨日釧路で泊ったホテルでも書いた。

 しかしこの宿のものが前日のホテルのそれとは違ったのは同伴客の氏名を書く欄までがあったことである。

 僕は一瞬迷った末に「川内浩志・川内亜弥香」と記入した。

 ふと隣のアヤを見上げるとそんな僕のささやかな行為に気づかず、きょろきょろと辺りを物珍しそうに眺めているだけだった。


「なかなかいい部屋だね。広いし、落ち着く雰囲気もいいし」

 荷物を置いたアヤは嬉しそうに声をあげた。

「値段の割にはね」僕も荷物を落ち着かせて、さっそく茶器に手を伸ばす。「喉渇いたろ、いまお茶入れるから」

「え?」

 アヤが驚いたように僕を見る。そのアヤの表情に、僕もオウムのように「え?」と返すしかなかった。

「ちょっと待って、普段からそうしてるの?」

「普段から、って?」

「運転で疲れた人がお茶を入れて、助手席の奥さんがのんびりしてるの?ってこと」

「ああ、特に気にしたことないかな」

「それって変だよ」アヤが肩を怒らせながら僕から茶器を奪い取る。「これって奥さんが本来やることだし。ここではアヤが淹れるからコウジはその辺でどっしりしてて」

「どっしり、って…」

 僕は部屋を見回した。

 予想外に広くて、そう言われても僕はどこに身を据えるべきか迷う。とりあえず座布団が敷かれている所に座ることにした。


 そう言えば、キミは会う前にメールで「北海道にアヤがいる間はアヤが奥さんになる」って言っていたね。

 台帳に僕がキミのことを「奥さん」にしたことを気づかなかったみたいだけど、これも「奥さん」になろうとしてのことだったのかな。

 だとしたら、とても嬉しい。

 キミが本当に「奥さん」だったら、なんて、何度考えたことか。



 アヤが淹れてくれたお茶で一服した後、僕たちは宿内の温泉に入ることにした。

 浴衣に着替えてバスタオルなどを用意していると、アヤが「あっ」と声をあげた。

「旦那さんに電話しなくちゃ…」

「ああ、そうだね」僕は思わず大きくため息をついた。「僕も…さすがに一回くらいは嫁さんに連絡入れとこうかな」

「むー、何だかんだ言ってコウジも奥さんにちゃんと連絡は入れるんだ」

 そう言ってアヤが頬を膨らませる。

「そんなこと言ったって、変に怪しまれたら面倒だろ」

「そーですねー」

「じゃあ、僕は部屋の外で電話するから、アヤは中で電話すればいい」

 僕は携帯電話を手に取り、スリッパに履き替えて部屋のドアに手をかけた。

 するとそんな僕の浴衣の裾をアヤが引っ張る。

「部屋の中で話せばいいじゃんか」アヤは相変わらず頬を膨らませたままだ。「それとも聞かれたくない会話でもするの?実は『好きだよ』とか言っちゃってるんじゃ…」

「そんな言葉、アイツにはもう何か月も言ってない」僕は真顔で伝えた。「確かにアイツとの会話を聞かれたくない、ってのはあるよ。でもそれはアイツと話す時の僕のキツイ言葉を聞かせたくないってのと、携帯からこぼれるアイツの声をアヤに聞かせたくないってのがある。それに、やっぱり僕もアヤと旦那さんの話してる所は見たくないから…」

「そっか」アヤはうなだれて、僕の浴衣の裾を放した。「確かにアヤも見たくないし、聞きたくないかも」

「でしょ?」

「ごめんね」

「いいんだ」僕はうなだれたままのアヤの頭に手を置いた。「仕方ない」

「じゃあ、電話終わったら教えるから」

「わかった、僕は部屋の外にいるから」

「うん」

 僕はアヤを部屋に残し、廊下に出た。すぐに部屋に鍵がかけられる音が静かな廊下に響いた。

 この鍵がかかっている間はアヤが電話中だというサインである。

 万が一にでも、僕の声が部屋の中に届かないように少し廊下を歩いて、通話ボタンを押した。


 お互いに5分も経たず電話を終え、僕たちは大浴場へと向かった。

 大浴場は男湯と女湯が天井近くでつながっていた。

「アヤー、聞こえるー?」

 浴室特有の湿った響きで僕の声がアヤに届く。

「聞こえるよー」

 女湯の方からも、お湯があふれる音とともにアヤの声が響いてきた。

「そっちはアヤだけー?」

「うんー、誰もいないよー」

「そっかー、よかったー」

「なんでー?」

「いやー実はね、こんな風に男湯と女湯で話すの夢だったんだー」

「じゃーアヤが初めてー?」

「そうだよー」

「なんか嬉しいー」アヤのふわふわした声がはじけた。「またもう一つ『初めて』だねー」


 実はあの時、男湯には僕以外にも先客がいたことを僕は内緒にしていた。

 だって、キミとの「初めて」が減るのが嫌だったんだ。

 後からそのことを話すと、キミは本気で恥ずかしがっていたね。

 ごめんね。


10


 僕はなぜか不意に目覚めた。

 枕元に置いた腕時計を確かめると、時刻は深夜3時をまわった頃だった。

 就寝灯の淡いオレンジ色の光が部屋全体を優しく包んでいる。

 ふと隣に視線を落とすと、アヤの安心しきった寝顔がすぐそばにぼんやりと見えた。

 静かな夜だ。

 ゆっくりと上下するアヤの布団。まるで寝息すら聞こえてきそうなくらいに。

 ほんの少し肩が布団から出て、見た目にも寒そうだったのでかけ直す。

 何度も何度も、その横顔を見つめた。

 柔らかい曲線を描く頬を、ぷっくりとした唇を、優しく閉じられた目とまつ毛を、かすかに揺れる鷲色の前髪を。

 そのアヤを形作る物すべては、何度見つめても飽きることなどなかった。

 僕は一人、胸を握りしめていた。

 そうしなければ、この胸の鼓動が、響きが、アヤを起こしてしまいそうで。

 そして、僕はそっと自分の布団から抜け出した。


 凍てついて開くことのない窓の霜を手でぬぐうと、満月が全面真っ白い雪と氷で覆われた阿寒湖を蒼く照らしている。

 眠りについた温泉街が幻想的な湯けむりを上げて、月に照らされていた。

 ぬぐったガラスの隙間から、その月光が部屋に差し込む。

 その光は、ちょうどアヤがいる辺りをうっすらと照らし、就寝灯のオレンジと混合して薄い紫色へと変化した。

 今、この色の寝顔を見ることができるのは自分だけだと自覚した時、えも言えぬ感情が湧きあがる。


 この人のすべてを盗みたい。

 かすかに漏れる、その寝息まで。


 いつかは永遠に失うことがあるのだろうか。

 それは死が二人を分かつまで?

 それとも…?


 この想いを貫こうとすればするほど、人が作りだした「制度」が憎らしくなってくる。

 その「制度」は愛する者同士を結び付けるものではなかったのか。

 愛する者同士の間にそびえたつ壁だったのか。


 ひとつの想いだけを貫こうとすればするほど、愛とはほど遠い力に、激しく揺さぶられる。


 しかし、ただ一つはっきりとしているのはアヤのことを誰よりも愛しているということ。

 その安心しきった寝顔を守っていきたい。

 すべての不安から。


 そんな僕の密かな思いとは対極的に、アヤは時々笑顔を浮かべながら眠っていた。

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