北へ〜way to the north〜
ヒデ。
第1話新千歳空港から釧路へ
Episode1 新千歳空港から釧路へ
新千歳空港国内線ターミナルビルの向こう側、ここからは見えない滑走路の方から地鳴りのような爆音が響いて、僕の耳に届いた。
車のドアに手をかけようとしていた僕は、思わず振り返り空を見上げる。
どんよりとした曇り空に、その機影を見つけることはできなかった。
しかし、次第に遠くなりつつあるエンジン音は、その音の距離とは反比例するように僕の体を、心を揺さぶる。
気づけば、僕は泣いていた。
1
その日がやってくるにつれて、僕は何度も天気予報を気にして見るようになった。普段であれば、その日の天気はその日の朝に空を見上げて判断する程度であったにもかかわらず、だ。
「新千歳空港、雪で着陸できないなんてことあるのかな」携帯電話の向こうで、か細い声が響く。「不安だよ…」
「大丈夫だよ」僕は努めて明るく答えた。「今の所、降水確率は50%みたいだから。それくらいなら新千歳じゃしっかり滑走路の除雪して、がんばってくれるから。北海道の空港でちょっとやそっとの雪くらいで閉鎖してたら、商売あがったりだよ」
「…そうだよね、大丈夫だよね」
「ああ、何の心配もいらないから安心しておいで」
「うん、わかった」
「楽しみにしてるよ、会えるの」
「夢みたい…明日の今ごろには、隣にいるんだね」
「そうだよ、やっと手の届く所にいれるんだ」
「…うん。そうだね。やっとだね」そう言って、一拍タイミングを置いてアヤは続ける。「そろそろ帰らなくて奥さん大丈夫?」
「そうだな…」僕は腕時計に目を落とした。「もう11時だからな…そろそろうるさいかも」
「じゃあ電話切るね。今無理しなくても、明日には会えるんだから」
「わかった、気をつけてな。おやすみ」
「おやすみなさい」
夜の挨拶をすませると、僕は携帯をぱたんと閉じた。そして車のサイドブレーキを落とし、家路へとハンドルを切る。
釧路の冬の夜空に、オリオン座が輝いていた。
次の日、釧路は朝から晴れていた。冷たい冬の空気に、街全体が澄み渡っているようだった。
僕は使いもしないスーツと、5日間分の着替えを車に積み込み終えると、もう一度アパートの部屋に戻る。
「じゃあ、出張行ってくるから」
「…ん」
寝床にしている和室から、妻の渇いた返事だけが返ってきた。
僕は少々乱暴にドアを閉め、改めて靴を履きなおす。そして再び車に戻ると、エンジンをかけた。
釧路から新千歳空港まで。
この距離を車で走ったことは今までにも何度かある。いや、それよりもう少し先の札幌までも。それは仕事であったり、自分の用事のためでもあった。
一方、「誰か」のために走ったことはないし、走ろうと思ったことも無い。何しろ、広大な北海道をほぼ横断するようなものだから。ましてや、寒さと雪の厳しい真冬に差し掛かろうとするこの時期などもっての外だった。
しかも、いまだに釧路のある道東方面から、札幌や千歳を結ぶ高速道路は全面開通しておらず、途中で途切れている。一度高速道路から降りて、山の中をかける一般道を走らなければならないのだ。
しかし今日の気分は違った。
早く新千歳空港に着きたいというはやる気持ちと、緊張感とが混ざった複雑な気持ち。
悪くはなかった。
もうすぐ、キミに会えるんだ。
2
その飛行機は到着予定時刻に10分遅れて新千歳空港に着陸した。
管理区域から到着ロビーへと次々に吐き出されてくる乗客の中にキミはいた。どこか気恥かしそうに緊張した笑顔を見せるキミは以前もらった写真のままで、また、口元をもごもごさせた表情が僕の背中をちりちりとしびれさせ、僕はドキドキしたんだ。
「お疲れ様」きっと僕の声は震えていただろう。「遠かったでしょ」
「うん」電話で聞いてきた、あの愛しい声でアヤは答える。「疲れたー」
そう言ってふんわり笑うキミは写真のままで、いやそれ以上に魅力的で、途端に胸がぎゅうっと締め付けられる。
大きく真っ黒の瞳、やわらかな質感の髪、ぷっくりとした下唇、僕よりもほんのちょっと小さな背…その全てが僕の心を揺さぶった。
すぐにでも抱きしめたい衝動にかられたが、思うように身動きができない。
冗談めかして、いや半分以上本気で「到着ロビーから出てきた瞬間に抱きしめてやる」なんて言っていたもの、この僕がそんなことをしていいものかと思うくらい、キミは魅力的だったんだ。
「ねえねえ、さっそくで悪いんだけど、靴の滑り止め買いたいんだ」
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、アヤはまるで昨日も遊んだ友達であるかのように振舞う。
僕は心の中でふきだした。
「それならそこの売店で売ってたよ、ちゃんとチェック済み」
「ありがと」
そう言ってアヤは僕にトランクを預け、そそくさと売店へと走って行った。
その後ろ姿をぼんやりと眺め、僕はひそかに自嘲する。
…気に入ってもらえなかったかな。
現代の携帯電話には便利かつ合理的な機能がほぼすべての機種に備わっている。すなわち写真撮影機能だ。
初めて彼女の写真を送ってもらって以来頻繁に送ってもらっていた。それは僕が何度もせがんだからだ。それに「恥ずかしいなぁ」と言うものの、彼女はまめに近況報告がてら送ってくれていたのだった。
初めて写真で見た彼女はどこか凛々しい女性という雰囲気だった。
僕も交換条件という了解のもと、慌てて家の鏡越しに撮った写真を送ったのだが、到底彼女と釣り合うような男ではないだろうな、と一人がっくりしながら送信したのを覚えている。
写真ですらそうなのだから、実物の僕を見てよりがっかりさせたのかもしれない。
アヤはなかなか売店から出てこない。
ふとレジの方を覗き込むと、アヤが店員と何やら話しこんでいるのが見えた。
「何してるの」
「あ、コウジ」アヤが助かったという表情で見上げる。「どれにしようか迷っちゃって」
「どれどれ」
アヤと店員はレジの上に乗った靴の滑り止めシート数種類を矯めつ眇めつしていた。
「ブーツ自体がそれなりに大きいから、男性用の方がいいのかな。それともあくまで女性用がいいのかな」
アヤがまるでトランプのババ抜きのようにシートを僕の鼻先につきだす。
「んー、サイズがどうのこうのだったら、靴に巻きつけるタイプなんかどう。向こうに帰るときに外せるよ」
「それはいやー」まるで子どものように頭をぶんぶん振ってアヤは答える。「だってせっかくの可愛いブーツなんだもん」
「じゃあ女の子なんだから、女性用にしたら」
「うーん、やっぱそうか」
アヤは決心したように財布を取り出し、「これ下さい」と言って女性用のシートを店員に差し出した。
「あ、そうだ」会計をしながら、アヤが急に思い出したように言う。「花畑牧場!」
「そうだった、楽しみにしてたもんな」
花畑牧場とは、タレント活動を兼ねるある酪農家が北海道東部十勝地方で営み、ノースプレインファームのレシピをもとにした『生キャラメル』が有名な牧場である。
十勝の本店が冬期間休業中ということで、アヤたっての希望で新千歳空港内の店舗を訪れることになっていたのだ。
「生キャラメルソフトクリームー」
「はいはい、ちゃんと場所もチェック済みだよ」
「さっすがー」
そう言って無邪気にはしゃぐキミを見て、僕はキミの喜ぶ顔が見れるならどんなことでもしようとひそかに決意したんだ。
3
「ここはアヤが払うね」
うきうきしながらアヤはレジの店員に「生キャラメルソフトひとつ下さい」と注文した。
代金と引き換えに差し出されたソフトクリームを嬉しそうにアヤは受け取る。
僕たちは店舗内のテーブルの一つに体を落ち着けた。
「じゃあいっただっきまーす」
そう言ってソフトクリームに口をつけようとしたアヤだったが、すぐにその動きを止める。
「…ねえ」
「ん」
「これって…間接チュウになっちゃうかな」
僕は思わず水を吹き出しそうになった。
「そんな、子どもじゃあるまいし」
「だってー、何だか恥ずかしいじゃん。どこかにスプーンでも無いかな」
「そんなの、僕は気にしないのに」
「アヤが気にするのっ」アヤは顔をぷくっと膨らませながら辺りを見回す。「あ、あった」
アヤの視線の先にプラスチックのスプーンがたくさん備え付けてあったので、ソフトクリームを抱える彼女の代わりに僕が取りに行った。
「ほら」
「ありがとう」スプーンを受け取り、そそくさとソフトクリームをすくうアヤ。「今度こそいっただっきまーす」
ソフトクリームを一口、口に入れた途端とろけるアヤの表情。
それはまるで時間と共に溶けていくソフトクリームそのものだった。
「どう、おいしい?」
「んー、すっごくおいしいよぉ。あまーい」
「それはよかった。北海道でしたいこと、まずひとつ達成だね」
「うん」
「あ、そうだ」ソフトクリームを半分ほど食べた頃、アヤは鞄をごそごそしだした。「これってもういらないのかな」
そう言ってアヤは二枚の紙を取り出し、テーブルに並べはじめる。
それらは航空チケットと引き換えに渡される座席指定の用紙と、手荷物引換証だった。
「ああ、それは飛行機に乗るときと飛行機を降りるときに必要なだけだから。もういらないよ」
「そうなんだ、じゃああげるね」
「はい?」
手渡された座席指定用紙と手荷物引換証を困惑しながら受け取る。
改めてそれらを見てみると、しっかりと「マキハラ アヤカ様」と印刷されているのを見つけた。
彼女の名前が印刷されているのを見ると、何だか急にそれらの紙が愛しいものに思えてきたから不思議なものだ。
「わかった、もらっとくよ」僕は少し悪戯っぽい視線をアヤに向ける。「記念になるしね」
「えー」途端にアヤの可愛らしい頬がほんにり茜に染まった。「いいけど…、奥さんに見つからないようにね」
「ああ」
僕はそそくさと二つの紙を鞄へとしまう。
アヤの気が変わらないうちに。
ただ、あまりその心配はないようだ。アヤは夢中になってソフトクリームをなめている。
僕はその幸せそうなアヤの顔を眺めているだけで幸せだった。何故なら、今まで彼女の「顔」は知っていても「表情」は知らなかったのだから。
どれだけアヤの「表情」を求めていたことだろう。
また、電話の声やメールの文章から「感情」を推測することは今までもできていたが、それもあくまでも推測であって実物ではない。
しかし今は違う。
直にアヤの「表情」を見ることができるし、「感情」を感じることができる。
何より手を伸ばせばすぐそこに、アヤの温もりを感じることができる。
僕がそんなことを考えながらアヤを見つめていると、その視線に気づいた彼女が言う。
「もう、コウジも欲しいなら欲しいってちゃんと言いなよ」
「別にそう言うつもりで見てたわけじゃ…」
僕は少々の否定をしてみたが、素直に受け取ることにした。
「ちゃんとスプーン使うんだよ」
「はいはい、わかったよ」
本格的な夜が新千歳空港を覆いはじめる。
滑走路にはいつの間にか、航空機の誘導灯が鮮やかな色彩を放っていた。
これから僕たちは僕の住む街釧路へと向かうことになっている。僕にとって今日は釧路と新千歳空港の往復日。長い北海道暮らしとは言え、一日の中でこんなに短い時間の中車で往復するのは初めてのことであった。
前日にたっぷり睡眠をとっていたとは言え、総じて10時間以上の運転である。
しかし疲れは残っていなかった。
と、言うよりもアヤと会えたことが疲れを吹き飛ばしたのだった。
ほんのちょっぴり残してテイクアウトしたソフトクリームを、キミが溶かしちゃってこぼしたのを見たとき、僕は何だかホッとしたんだ。
初めは凛とした第一印象だったけど、そういうちょっと抜けたところがイメージ通りで、余計に胸の中をくすぐられるようだった、なんて言うと、キミは怒るかな。
でもホントにそうだったんだ。
4
「たくさんお菓子持って来たんだよ」そう言って助手席でアヤは鞄をまさぐる。「100均なんだけどね」
「そうなんだ」僕はハンドルを握ったまま、アヤへと視線を向けた。「何持ってきたの?」
「じゃーん」
そう言ってアヤが取りだしたのは、幼いころによく食べていたイチゴ型のチョコレートや梅昆布、フリスクなどだった。
イチゴ型のチョコレートなど、子どものころ以来見るのも久しぶりだった。
「ねえねえ、横で食べてていい?」
アヤはまるで幼い子どものように懇願してくる。
「どうぞ」僕は思わず笑いながら承諾した。「先は長いからね」
「やった」
アヤの歓喜の声を左に聞きながら僕はハンドルを切って、車をいよいよ道央自動車道へと進めた。ここからはおよそ300キロにわたる長いドライブである。
正直に言おう。
僕は緊張していた。
携帯やパソコンのメール、電話などではこれまでにたくさんコミュニケーションをとってきた。これまでに、アヤ以外にこれほど通信手段を用いてコミュニケーションを取ったことなどない。
それは、そうするより他ないからだ。
アヤは北海道在住ではなく、ここから遠く離れた本州のある県に住んでいる。
そんな彼女と僕はインターネットを通じて出会った。ただし、いわゆる「出会い系サイト」ではない。互いの趣味で健全に出会い、交流を深めていったのだった。
たがいに住んでいる場所があまりに違いすぎるために、ネットワークを通じた交流にとどまっていた。
しかも互いに配偶者がいる。つまり僕には妻が、アヤには夫が。ゆえに僕たちは通信を用いた交流を活用するしか他に手立てはなかったのだ。
しかし、僕と妻の関係は冷え切っており、アヤと夫の関係も同様であるという。
互いに惹かれていくのにさほど時間は必要なかった。
通信を用いて十分すぎるほどに想いを深めて来たのだが、アヤとは今日が初対面。
緊張しないわけはなかった。
「ねえねえ」
不意にアヤが僕の左そでを引っ張る。
「ん?」
「見ててね」そう言うと、アヤは口元をもごもごさせた。「出っ歯!」
「は?」
うっすら開けられたアヤの口元を見ると、歯が見えないようにうっすらと開けられた口の真ん中に、二粒のフリスクが縦に並べられていた。
僕は今度はしっかり吹き出してしまった。
「なんだそれー」
確かに出っ歯に見えないことも無いが、急にそんなことをしだしたアヤに笑えたのだった。
「何かね、コウジが元気ないように見えて…。笑ってもらおうとしたんだよ?」アヤはフリスクを飲みこんだ。「アヤのこと、期待はずれだったのかな、って不安になっちゃって」
そう言ってアヤは俯く。
「違うよ」僕は慌てて否定した。「その…緊張してたんだ。ごめん、不安にさせちゃって」
「アヤだって緊張してるよ」
「そうなの?そうは見えないけど」
「必死で緊張を隠してるだけだもん」アヤは少し拗ねて見せた。「ドキドキしちゃって、心臓痛いんだからー」
「あはは、僕もおんなじ。アヤにとって僕が期待はずれだったらどうしようかと思った」
「そんなことないよ、思った通りの人だった」
「でも僕にとってアヤは違ったな」
「え?」アヤは慌てて顔を向ける。「期待通りじゃなかったってこと?」
「そうだね」僕はアヤに悪戯っぽく笑って見せた。「思ってたより、ずっと可愛かった」
瞬間、アヤの呼吸が止まる。
「コウジのおバカ。一瞬泣いちゃいそうになったじゃんか」
期待通り。
期待はずれ。
キミにそんなこと思うもんか。
だって僕たちは、初めからその姿も、顔も、温もりも知らないで惹かれあったんだろう?いまさら見ためでがっかりしたりするわけないよ。
でもまあ、正直に言うと、キミの可愛らしい顔と雰囲気にもっともっと惹かれちゃったんだけれど。
5
道央自動車道は途中で釧路方面に向かう道東自動車道に接続する。
その道東自動車道はまだ建設途中で、前述の通り途中で途切れている。まずは夕張で道東自動車道は一度終わり、その後一般道を通ることになるのだ。
現在時刻は夜中の10時。
この時間になると、道央方面から道東へと向かう車は極端に少なかった。
僕とアヤを乗せた車は、雪深い森林地帯をヘッドライトの一筋の明かりを頼りに走り続けた。
互いに多少の緊張がとけた今、僕たちは離れていた距離と時間を埋めるように多くのことを話した。他愛のないことからそれぞれの住む地方の話題、配偶者の愚痴、二人のこれまでなど、話題は尽きることを知らなかった。
道東自動車道は再び占冠村から再び開通している。
「ちょっと休憩して行こうか」僕はとなりのアヤに話しかけた。「また道東自動車道に乗ったらしばらくトイレないからね」
「うん、トイレ行っときたいな」
「オッケー」
僕は車を占冠の道の駅トイレに横付けした。
エンジンを止め、アヤを外へと誘う。
「うわっ、さむーい」
アヤはそそくさとトイレに駆け込んだ。
それを見送った僕は、煙草に火をつけ夜空を見上げた。
冬の夜空の空気は凛として、遠く澄み切っていた。吐き出す煙草の煙と、僕の吐く白い息が静かに宙をたなびく。
占冠の街明かりは暗く、瞬く星々の輝きを邪魔するものは何もなかった。
今日もオリオン座が大きく両手を広げてその姿を誇らしげに僕に見せつける。
その時、アヤがトイレから戻ってきた。
「何見てるの?」
「ああ」僕はアヤの方を見ずに言った。「オリオン座」
「え?」アヤも僕にならって夜空を見上げる。「ホントだ」
「前に電話では一緒に見たことあったよね」
「うん、まるでコウジが隣にいてくれてるようだった」
「それが、今ではホントに隣にいるんだな…」
「そうだね…今までホントに長かったなぁ。どれだけこの日を待ってたことか」
僕は隣のアヤを見つめた。アヤは相変わらず夜空を見上げている。
遠く焦がれたアヤが今隣にいることを改めて実感した僕は、急に彼女のことを抱きしめたい衝動にかられた。
僕よりも低く、小さなアヤの肩に手を伸ばす。
しかし。
「さっむーいっ!早く車に戻ろう?」
そう言って車の助手席に駆けていくアヤ。僕の左手はつい今までアヤがいた空間をむなしくかすめる。
おそらく僕の心の衝動にも、行動にもアヤは気づいていなかったのだろう。
僕は思わず一人で笑っていた。
危なかったよ。キミがあの時車に戻ってなかったら、僕は少し先走りすぎてたかもしれないね。
かつては遠く離れた地で共に見たオリオン座。
二人で探したオリオン座。
いつまでも僕たちを見守ってくれないか。
6
道東自動車道は最終的には釧路まで延伸する予定ではあるようだが、まだそこまで建設は進んでいない。
僕は途中の帯広市で道東自動車道を降りて、一般道を走る道を選んだ。
帯広から釧路まではおよそ120キロの道のりである。時間にしておよそ2時間。普段より帯広に遊びに行くことの多い僕にとっては通いなれた道だった。
それにしても、日付はそろそろ替わるような時間になってしまった。
僕は釧路まであと1時間ほど、という地点でアヤに再度の休憩を提案した。
「さすがに疲れたよね。いいよ、のんびり行こう」彼女は初め優しく承諾したのだが、次の瞬間には少しその笑顔が陰る。「それに…」
「それに?」
「寝る前には旦那さんに一度連絡しなくちゃ」
「ああ…そっか」
どれだけ僕たちが互いを想っていたとしても、アヤは「妻」であり、僕は「夫」なのだ。
仕事を持っていて、「出張」などの理由付けが比較的簡単な僕に比べると、アヤが今ここにいるためにはそれなりの理由が必要だった。
彼女が今回のために用意した理由とは、「一人旅」だった。
一人であるが故、定時連絡はアヤには欠かせない。
「わかった、じゃあちょっと車止めるよ」
そう言って、僕は十勝川にかかる豊頃大橋の近くにある駐車スペースに車を止めた。
「外で待ってるから、終わったら教えて」
「え?」アヤは驚いたような顔をして僕を見つめる。「隣にいればいいのに。寒いよ?」
「寒いことより、アヤが旦那さんと話してるのを聞いている方が辛いからね」
「…ごめんね」
「いや、仕方ないことだよ。でも、辛いから」
「わかった、すぐに終わらせるからね」
「うん」
僕は車から降りた。
思ったよりも夜風は冷たく、僕は身ぶるいをひとつして首をすくめた。
振り返ると、アヤが携帯を耳にあてて話し始めている様子がうかがえる。
僕は見ていられずに、少しだけ歩くことにした。
「どこに行ったかと思ったよー」思っていたよりも早く、電話を切り上げたアヤが駆け寄ってきた。「探しちゃったじゃんか」
僕は笑ってアヤを迎える。
「ごめんごめん」
「何してたの?」
「ああ」僕は夜空を見上げた。「星をながめてた」
「ホントに好きだね」アヤも僕にならう。「ホントにロマンチスト」
「なあ」僕はアヤの方を向かずに続けた。「僕と…、付き合ってくれないか?」
僕は腕時計を見た。
日付が変わるまで残り5分だった。
「ぎりぎりだね」アヤがぽつりとつぶやく。「今日中」
「うん」僕は気恥かしくて頭をかきながら言った。「今日を記念日にしよう、って言ったろ」
「覚えててくれたんだ」
「忘れるもんか。で、返事は…」
「…これからよろしくね、コウジ」
アヤはえへへと笑いながら僕を見上げた。
こうして僕らは「恋人同士」になったんだ。
でも、人前では手もつなげない。愛を語り合うこともできない。
僕らは今後、どうなるんだろう。
でもね、僕はキミとならどこにでも行ける。どんな茨の道であろうと、この先にどんな泥沼が待っていようとも。
キミを守って見せる。
そこにわずかな光があるのなら。
決してこの灯を消しはしない。
7
国道38号線をひたすら東に下ると、通称「釧路新道」に差し掛かる。この道自体も国道38号線の一部なのだが、数年前に架け替えが行われて以来そう呼ばれている。
釧路の街明かりが近付いてくるにつれて、アヤの口数が減っていった。
「アヤ、眠い?」
「う…ううん」アヤはかぶりをふった。「なんで?」
「いや、何か急におとなしくなったからさ」
「まだ緊張してるんだよー」
アヤは努めて明るい口調で言っているようだったが、かすかな違和感を感じる。
嘘、ではないだろうが他にも隠している感情があるようだった。
「それだけじゃないでしょ?」
「う…」アヤはばつの悪そうな表情で小さくうなだれた。「わかっちゃうか、やっぱり」
「アヤはわかりやすいからな。電話でもそうだったし、実際に会ってみて余計にそう思う」
僕はアヤの横顔をちらりと横目で見てみた。
国道を照らす水銀灯のオレンジの光が彼女の頬を次々に撫でていった。
「んとね、こんなこと言うのは変かもしれないけど…」
「いいよ、言ってごらん」
「…この同じ釧路の空の下にコウジの奥さんがいるのかと思うと、ちょっと複雑」
「ああ…」僕は苦笑いするしかなかった。「そういうことか」
「…でも!」アヤは僕に向き直る。「楽しみにしてたんだよ、コウジが普段生活してる街が見れるの。ただ、ちょっぴり複雑な気持ちになっちゃっただけだから」
国道38号線はやがて釧路市街へと僕たちをいざなう。
道東最大の都市を自負するわりには、深夜1時にしてひっそりと静まり返った街。
交差点では向こう側の歩行者信号が明滅する音すら聞こえてきそうだ。
「コウジの家」アヤがぽつりと言う。「どこ?」
「え…?」
僕はアヤの真意がつかめきれずにいた。
一体どういうつもりで聞いたのだろうという疑問と、隠すことでもないという一種の開き直りが頭の中でぐるぐる回る。
「えっと、この近所だよ」
「連れてって」
「…嫁さんいるけど」
僕が恐る恐るアヤの顔を覗き込むと、アヤは吹き出して笑った。
「あはは、誰も乗り込むなんて言ってないよ。車の中から宣戦布告してやろーかな、って思って。もちろん、コウジの住んでるところを外からでも見てみたいってのもあるけど」
「なんだ、そういうことか」
僕はホッと胸をなでおろした。
ところが、僕の安堵を鋭く見抜いたアヤは顔を膨らませて言う。
「あ、何だかその態度、むー!」
「ええ?」
「助かった、って思ったでしょ」アヤがじろりと僕を見る。「ホントにピンポン押しにいってやろーかな」
「じゃあ…行くかい?」
「うそうそ、冗談」アヤは手を叩いて笑った。「でも、ちょっと外から見るくらいいいでしょ」
「わかった」
僕はコンビニのある小さな交差点を左折し、ひときわ閑静な住宅街へと車を進めた。すると100メートルも進まないうちの僕のアパートが見えてくる。
二階建てのそれは、時間が時間だからであろうか、僕の部屋をはじめどの部屋にも明かりは点っていなかった。
「ほら、あれが僕のアパート」
僕は左手と視線で示した。
「へー、これが」
アヤは助手席の窓からまじまじとそれを眺めている。
いつかは僕も彼女の街を訪ねることになるだろう。毎回来てもらっていてはアヤが怪しまれるし、金銭的にも辛い。
その時は僕は一体何を考えるのだろう。何を感じるのだろう。
アヤが今感じている思いと同じ思いを抱くのだろうか。
そんなことを考えていると、アヤが言う。
「ありがと、もういいよ。そろそろホテルに向かわなきゃ」
キミは気づいていただろうか。
釧路の市街地に入ってから僕は何度も助手席のキミを見ていたんだよ。
僕の街にキミがいることが不思議で、嬉しくて。
8
僕が釧路に住みはじめて、もうすぐ十年目になろうとしている。
およそ十年前に釧路市の国立大学に入学したのがきっかけだった。以来、大学を卒業し、就職後もずっとこの釧路の地に住み続けている。
実の所、僕にとって同じ地に住み続けている期間はこの釧路が一番長い。
父親がいわゆる転勤族だった僕の家族は、およそ四年周期で引っ越しをしてきた。僕が中学生になったころから父親は単身赴任を選択したので、今の実家がある所には八年間住んでいた。つまり、今年度の四月に九年目に入ったので一番長く住んでいることになる。
「飲み屋街にあるんだね、このホテル」
アヤが窓から街を見下ろしながら言う。
「ここが一番安かったんだよ」僕は二人分のトランクを置きながら答えた。「今回は合計四泊しなくちゃならないからね」
「そだね、安さ第一で!」
僕が釧路の夜をアヤと過ごすために用意したホテルは、釧路一の歓楽街の入口にあった。
歓楽街と言っても、東京の歌舞伎町のような華やかな街ではなくこじんまりとしたスナックなどが軒を並べているような街だ。
ここは大学からも近いので、お酒を覚えた学生時代にはよく飲みに来たものだった。
「じゃあさっそくだけど、お風呂もらおうかな」そう言ってアヤはそわそわしだした。「のぞかないでよー」
「のぞくか!」僕は慌てて言った。「長旅で疲れただろうから、しっかり疲れ落してきな」
浴室からアヤが服を脱ぐ衣擦れの音が聞こえ、やがてシャワーの流れる音に変わる。
僕はベッドに腰掛けながら窓から町並みを見降ろし、煙草に火を点けた。
煙草を吸わないアヤのために窓を開ける。
途端に思わず身震いしてしまうような冷たい空気が僕の頬に刺さった。
眼下には見なれた飲み屋街の風景。
大学生であろうか、数人の若者のグループが千鳥足で騒ぎながら家路につく姿が見える。女の子たちは男の子達に比べてしっかりとした足取りだが、それでもここからでもわかるほどに顔を赤くして上機嫌だ。
思わず僕は自分自身の学生時代を彼らに重ねた。
あの頃は大して難しいことなど考えずに済み、悩みと言えば出席日数が不足せずに単位が取れているのかどうか、就職が思うように行くかどうか、といったくらいであった。
あとは適当に遊び、適当に学び、それなりに恋愛を楽しめば良かった。
そんな懐古的な感傷に浸っていると、アヤが今、この釧路にいることが嬉しいのだが不思議で仕方ないような気分になってくる。
僕が夢を追いかけて、おそらく今までの短い人生の中でもっとも中身の濃い四年間を過ごしたこの街にアヤが存在するなんてことは想像もしていなかった。
ここから遠く離れた地で彼女なりの人生を歩んできたアヤ。
ここで自分なりの人生を歩んできた僕。
ここから遠く離れた地で彼女なりに人を愛してきたアヤ。
ここで自分なりに人を愛してきた僕。
そんな、通常では決して交わることのなさそうな平行線が今、この釧路で交差している。
否、僕たちはそもそも平行線ではなかったのかもしれない。平行だと思っていた二つの直線は、ほんのわずかな角度をもって交わるようになっていたのだろう。
人と人の出会いなんてそんなものだ。
絶対などない。
キミは僕が大学時代の話をすることを嫌がるね。
でもあの四年間の「直線の人生が」なければ、キミにきっと出会えなかったんだと思うんだ。直線がまっすぐ一本につながっていなければ、キミとの交差はなかっただろう。
でも、キミが嫌だと言うことは僕はしない。
いつの日か、キミと過ごす日々が四年間をこえたとき、もしかしたらふたりで「バカなことしたねー」って笑いあえる時が来るかもしれない。
その時まで僕はキミと「今」を生きよう。
9
「えー、まさか寝てるの?」
僕はそんなアヤの非難の声で目を覚ました。いつの間にかベッドの上で寝てしまったらしい。
「あ、ああ、ごめん」
「運転疲れたもんね、お疲れ様」
僕は重たい瞼をこすりながらアヤを見上げた。彼女はホテルに用意してあったバスローブに身を包んでいた。
「似合うよ、それ」
「何それー」アヤは可愛らしく笑う。「嫌味?」
「違うよ、なんだか可愛い」
「もー、ほめ上手なんだから!早くコウジもお風呂入っておいで」
「ねえねえ、これ見て」
アヤが布団から左手を抜き、僕に示した。
僕とアヤは今同じ布団に入っている。直に彼女の温もりが伝わってくるようで、年甲斐も無く胸が高鳴っていた。
「どれ?」
「これだよ、これー」
アヤは空いた右手で、左手の人差指の付け根あたりを指した。
そこには小さく、ささやかなほくろがあった。
「これが…どうかした?」
どこからどう見ても普通のほくろである。何も変わった点は見当たらない。
するとアヤは何かを企んでいるような表情で、それでいて悪戯を思いついた子どものように口元をもごもごさせながら、にっと笑う。
「これね、こうすると…」言いながらアヤは僕の目の前で人差し指を除く左手の指を軽く握った。「ほくろがゾウさんのおめめに見えるの!」
僕は思わず噴き出した。
確かにそれはゾウに見えなくもない。
しかしそれ以上に、それを今あたかもすごいことのように胸を張って自慢するアヤが可笑しかった。
僕はこの状況で果たして眠れるかどうかが問題であったのに。
「すごいでしょ」
「ああ、ほくろ自体もすごいけど、それを発見したアヤもすごいね」
「でしょ!」
アヤはえへへと笑う。
その照れたような笑顔が、僕の胸をぎゅっと締めつけた。
たまらなく愛おしい。
そう思った。
アヤの全てが愛おしくて、全てが欲しい。
そう思った。
気づけば僕はアヤの左手を握っていた。
「…どうしたの?」アヤが優しいまなざしで僕を見つめる。「突然だね」
「やっと、やっと手の届くところに来てくれたな、って思って」
「ホントだね」アヤも僕の右手をそっと握り返す。「ここまで長かったね。嬉しい?」
そう言って、アヤは僕の右手を自分の胸に抱き寄せ、体を僕に預けた。
僕もそれに応えてアヤをそっと、そして強く抱きしめた。
「嬉しいよ。すごく嬉しい」
「勇気出して会いに来て良かった…」
そして自然と重なる二つの唇。
どちらからともなく、吐息が漏れた。
初めてキミを抱きしめた時、僕は体が震えるほどに嬉しかったんだ。
キミの温もりが、キミの柔らかさが、キミの吐息がそばにあることが嬉しくて。
眠りに落ちたキミが、寝ぼけて僕を引き寄せるように抱きしめてくれた時、思わずキミにもう一度キスをしたんだよ。
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