夢と魔法の王国という場所(1)

 マキちゃんの部屋に戻って最初に思ったのは、寒い、ということだった。

 反射的にくしゃみをするわたしと、無言でエアコンを入れるマキちゃんを見て、ティンクがぱたぱたと飛び回る。


「はやく、はやくなにか」

「……まぁ落ち着いて」


 ゴオオオオ、という激しい音を立てるエアコンの下に立って、マキちゃんが濡れた頭をくしゃっとかき上げる。


「時間の流れは、あっちとこっちで少々ずれてるっぽいところあるから、そんなに急がなくても多分大丈夫よ」

「でも」

「まずは落ち着くこと。こっちにわざわざ来たのだって、それも目的のひとつでしょ、平澤?」

「えっと、まぁ、そうです」


 クレーム対処のひとつとしてわたしたちが教わっているものがあって、『三つ変える』というのがある。場所を変える、人を変える、時間を置く。道端で立って怒っているひとなら、まずは少し座っていただいたりする。それが場所を変える。時間を置く、は、ひととおり話を聞いた後、下がるなりなんなりして、頭を冷やす時間を与える、ということ。人を変える、はそのまま、対処する人を変えること。それだけで、怒っていても人は少し落ち着ける。


 今回はそれをちょっと使っただけだ。自分に対して、だけど。


 頭に血が上っているのは自覚していたから。


「とりあえず平澤、アナタ、シャワーしてきなさい」

「は?」

「風邪ひくでしょうが。タオルもドライヤーもあるから好きに使って」

「いやいやいやいや、待って待って」

「廊下出て左。ほら早く行く」

「いやだから!」


 強引すぎるー! 半ば強制的に背中を押されて進んでいるけど、さすがにどうなのよこれは。


「着替えもないですし!」

「買ってくるわよ。いいから入る」


 脱衣所に放り込まれ、タオルを出して渡される。もう一枚取り出したタオルで自分の頭をわっしゃわっしゃと拭きながら、マキちゃんがはぁと息を吐いた。


「いま熱出して寝込んでたら何にもなんないでしょうが。言うこと聞きなさい、すぐ戻るから」

「でもだったらマキちゃんだって」

「帰ってきてあんたが出たら入るわよ。じゃーね」


 バタンッと扉を閉められた。ご、強引にもほどがある。

 とはいえ、身体が冷え切っていて辛いのも確かだ。ここは諦めて温まらせていただくことにする。


 熱めのシャワーを浴びていると、冷え切っていた指先に熱が通ってじんわりと痛んでいく。ドクン、ドクン、と痛いほどの血液の流れを感じて、ああ、そうか、ものすごく怖かったんだ、と初めて気が付いた。浴室の中でうっかりしゃがみ込んでしまう。


 いかん。頭痛してきた。血流とともにガンガンと痛む。そらそうだ。ナイフとか向けられたんだもん。訳の分からない穴に落ちかけたんだもん。あの世界にいるともろもろマヒしちゃうけど、怖いわ。あたりまえだわ。


 それでも無理やり体をだまして、シャワーを終えると、脱衣所の隅に、袋に入った新しい服が置いてあった。下着はさすがにないが、まぁそれはそうだろう。中身は極シンプルな白のブイネックニットとピンコッタカラーのパンツ。身に着けて出ると、マキちゃんがほっとしたように笑っていた。


「ああ、良かった。サイズあってたわね」

「すいません。あとでレシートください」

「おごるわよ、それくらい。安いやつだし」

「ヤですよ。ちゃんと払います」

「はいはい」


 呆れたようにマキちゃんは手を振って、入れ替わりで脱衣所へと消えていく。見送って、部屋の中心を見る。ちいさなテーブルの真ん中に、ちょこん、とティンカー・ベルは座っていた。


「ごめんね、ティンク」

「え?」

「すぐ動きたいよね。ノロノロしててごめん」

「ううん。落ち着くのも大事、きっと大丈夫って、マキちゃん言ってたから」

「そっか」


 わたしが浴室でぐったりしている間にちゃんと話してくれたらしい。


「ティンク」

「なぁに?」

「挨拶、出来てなかったよね。わたし、平澤ありす。よろしくね」


 ティンカー・ベルは大きな目をぱちくりと瞬いて、ニコ、と笑ってくれた。


「ワタシ、ティンカー・ベル。よろしくね」



 ティンクが語ったのは、ずっと前のネバーランドのお話、だった。

 そしてそれは、わたしたちがよく知るネバーランドのお話そのものだった。

 すなわち、ウェンディという女の子がネバーランドへやってきて、そして帰っていった物語。


「ウェンディは大人になることを選んじゃった」

「うん」

「それからなんどか、いろんな子が外からネバーランドに来たよ。でも、みんな帰っていっちゃって。ピーターはね、ずっとずっと、ひとりぼっちのままなの」


 膝を抱えて、ティンカー・ベルはぽつり、ぽつりと悲しそうに語る。


「……でも、ロストボーイズはいる、でしょ? タイガー・リリーや人魚たちも」

「うん。でも、でもね。外から来た子たちが、ここは素敵っていってたのにしばらくしてからやっぱりダメって、そう言って帰っていくの。それってすっごく、つらいんだよ」


 自分が全部、否定されたみたいになるの。

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、ティンカー・ベルはささやく。


 どういえばいいのか口ごもった時、部屋の扉が開いた。マキちゃんだ。


 マキちゃんはテーブルの中央で膝を抱えるティンクを見て、それからわたしに目配せをしてくる。曖昧に頷くしか出来なかったけれど、それでよかったらしい。静かにやってきたマキちゃんはわたしの横に座って、人差し指でそっとティンクの頭を撫でた。


「――うん、だいじょうぶだよ」


 頭を撫でられて、少し照れ臭そうにティンクは顔を上げる。それから、きゅっと顎を引いて真面目な顔をした。


「ネバーランドがおかしくなったのは、少し前。最後の子が、帰っていった後なの」

「おかしく……って、穴のこと?」

「うん。もともとはあんな穴が開くことなんてなかったの。あの子が帰っていってから……ピーターが、どんどんおかしくなって、そしたら、あんなふうになっちゃった」

「そっか」

「ねぇ、ティンク?」


 マキちゃんが静かに問いかける。


「貴女、いろいろ知ってるのね?」

「うん。フックの手紙、見てるから」


 手紙――というなら、あれだろう。フックが見せてくれた『彼』からのメッセージが出てくるという謎アイテム。


「あら。それはえーと、忍び込んでってことかしら?」

「うん。最初はね。そしたらフックに見つかって、でもね、いろいろ教えてくれたの」


 なるほど。今や何も知らないのはピーターばかり、ってことだろう。

 それはそれで、彼にはつらいはずだけれど。


「それは、ネバーランドのこととかを含めて、ね?」

「うん。ピーターの世界なんだって。ピーターが夢を見て、楽しいことを感じて、それで成り立つ世界だから……その世界を否定されて、ピーターは今、すぐにイライラしちゃって、だからあの世界はああなっちゃってる」

「夢ね」

「うん。あのね、あのね、ワタシ、ピーターのためなら何でもするよって、フックに言ったの。それで」


 あー。分かった。

 マキちゃんも分かったんだろう。額を抑えて苦い顔をしている。


「だったら死ね、とか言われたりした?」

「うん」


 あの海賊め……さすがにそれは、なしだわ……。いやまぁ、意図は分かったけど、それにしたって、無しだわ。


 何よりそういうの、わたしもマキちゃんも白雪姫の時で懲りてる。もういい。ああいう気分はもういらない。


「つまり夢を……夢の世界を信じることを、ピーター自身が肯定できるようになればいい、ってことよね」


 マキちゃんの言葉にティンクが頷く。

 マキちゃんは腕を組んでふうと長く息を吐いた。


「――ありすちゃん」

「はい」

「今までであなたが一番、夢を感じたのってなに? 何が、夢のようだな、って感じた?」


 問われて――すぐに、ひとつの光景が脳裏によみがえる。


 ついこの間、焼き肉を食べながら花ちゃんと剛くんにも語ったものだ。ただそれは少し気恥ずかしいもので、すぐに口に出すことが出来なかった。わたしが戸惑うのを感じ取ったのか、マキちゃんがくすりと笑った。


「アタシから話そうか。アタシはね、ふふ、夜パレ」


 ――夜パレ?

 思わずぽかんと口を開けてしまっていた。


 夜パレ――つまり、うちの職場の夜のパレードのことだ。たくさんのフロートが、鮮やかな光に包まれて、軽やかな音楽とともにパークを一周する夜のパレード。幻想的で、とても人気はあるけれど。


 それが、夢?


「大昔の話ね。子どものころ一度だけ、家族で来たことがあるのよ。パークに。アタシ、父のこと大嫌いでね。怖くて、いっつも顔色伺ってビクビクしてた。パークに来た時だってほっとんど無表情で、正直何しに来たんだこの人、って思ってたの」


 懐かしそうに、楽しそうに、でも少しだけ寂しそうに――マキちゃんは続ける。


「でもね、その日が終わるとき、最後にパレードを見たの。キラキラしてまぶしくて……ふと隣を見たらね、父が笑ってたの。おい、すごいな源、綺麗だな、って」


 くすぐったそうに笑って、マキちゃんは目を細めた。


「ああ、夢みたいだ。すごい魔法だ、って。アタシはその時、ホンキでそう思っちゃったのよ」

「マキちゃん」


 聞いていいんだろうか。こんなプライベートな話、してもらっていい立場なんだろうか。少しだけそう思って、ああ、違うんだ、と思い直した。


 だって、マキちゃんは話してくれている。わたしに向かって正面切って。だったら、そこまではわたしが入ってきていい距離だとマキちゃんが判断したということだ。逃げなくてもいいし、悪いなんて思わなくてもいい。


「マキちゃんは、それでキャストになったんですか?」

「そう……なるのかしら。もともとは実家で少しだけ美容師やってたの。わりと速攻で父と派手に対立してやめちゃって、で、なんとなくこっちにきちゃった感じ」

「対立……お父さんも美容師なんですか?」


 フックと話していた時は『母の仕事場』と言っていた気がするけれど。


「あー、いや、同業ではあるけどあっちはメイクアップアーティスト。ちょいちょい店に顔と口だけ出してって、ねぇ」


 やぁねぇ、と笑いながらマキちゃんがパタパタと手を振る。


 その姿を見ながら、わたしはぎゅっと拳を握りこんだ。たぶんいまだ、と思った。いま、聞くタイミングだ。訊いていいのかどうなのかずっと分からなくって躊躇っていたけれど、でも、わたしはたぶん、訊いていい。


 それくらいの距離にはいるって、うぬぼれてもいいはずだ。


「マキちゃん」

「ん?」

「どうして、キャスト辞めようと思ったんですか?」


 すうっと、マキちゃんの顔から表情が一瞬消えて、すぐにまた、今度は自虐的な笑みが浮かんでくる。


「今の話聞いていても、ううん、聞いたらなおさら分かんないんです。夢、って考えたときにパレードのことが出てくる程度には、パークのこと、好きなんですよね? でも、お父さんとは仲が悪くて。じゃあどうして、わざわざご実家に戻る選択をしたんですか?」

「真っ直ぐ訊いてくるのねぇ」

「……答えてくれるって、思ったから」

「うん。正解。そしてそういうところよ、それが、答えね」


 そういうところ?

 意味が分からなくて答えられなかったわたしの額を、マキちゃんは軽く指でつついた。


「アタシ、アナタに嫉妬しているの」

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